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カランカラン、と左右に揺れる鈴の声。それは紛れもない入店の合図だった。
魔石の採集から少し経ち、バー「エンジェルズシェア」のオーナー、ディルックの表情は心做しか暗い。微々たる変化だが、されど変わった。よく見れば浮かない顔をしている。
人は誰しも過去に一つ二つ、時にはそれ以上の苦痛を味わっている。それはトラウマとして脳裏に刻まれ、自身の根幹に傷跡を残した。
ただ、彼の場合それが余りにも大きいもので、辛いもので、悲しい事で耐え難い。今でもたまにふっと思い出し、その日は必ず機嫌が悪い。今回はダンジョンでのちょっとした邂逅に面影を感じ、きっかけがあってしまった。
唯一特徴的な耳の形をしていないのが何よりの救い。
「あら、暗い顔してどうしたのかしら」
「……フン。君には関係ない」
ドアに括り付けられたベルは客の来訪を知らせるが、どうやら余計なものまで引っ張って来てしまうらしい。このような女神と夜を過ごすのは遠慮したいが、仮にも客であるため仕方がない。
合う酒を適当に見繕い、手早く混ぜ合わせカクテルを作る。まだ入っていない注文を勘で捌きだいたいこの辺だと予測する。失礼極まる接客と、本来ならば有り得ない態度をとるディルックだが、相手が相手。手っ取り早く済ませお帰り願いたい、という気持ちで一杯一杯だった。
「嬉しいわ。私の好み覚えていてくれたのね」
「偶然だ」
一挙手一投足が癇に障る女だ。彼は静かに溜息を吐く。
生粋の淫売である彼女のそれを詰るつもりは無いが、大なり小なり抵抗の反応を示すのも誰であろうと仕方がない。それに、素面の彼女はそれすらも胡散臭い。
彼女の神性からの賜物と言うなら許容しなくもないのだが、散々誰かの嘘に触れてきた彼は隠し事が有ると断定した。どのようなものかは知らないが、彼女の事だからきっと碌なものじゃない。
やはり神はろくでなしが多い。彼が人生で信頼できる神はただ一人。
「ほら、乾杯しましょう」
「生憎と酒の類は苦手なんだ」
「え……貴方、下戸なの?」
「そうだが」
初耳だと驚愕し端正な顔を思いっきり歪めた彼女は、すぐさま元の表情を保つのに努めたが狼狽を隠しきれてはいない。一方ディルックは、彼女の余裕を崩したことは清々しいが、何故か嘲笑われている気がしてならず素直に喜べない状況だった。
そんな気持ちを有耶無耶にしようと、彼女はカクテルを、彼はぶどうジュースを飲む。
「おかわりをくれるかしら」
「……分かった」
一杯入れた後は加速度的に飲むペースも上がってくる。嫌な予兆だ。彼女は酒癖が悪い癖に異常に良く飲む。度数の高いカクテルさえ「まだまだチェイサーよ」等と、顔を赤く染め呂律の回らない舌で宣う。
彼のように下戸では無く決して潰れない上戸なのだが、ただ只管に饒舌になって絡むのを止めない、面倒な一面がある。
酒の前ではこの女神すら、建前も虚構も本音全てさらけ出してしまう。酔いとは怖いものだ。
「だーかーらー、ベル・クラネルが可愛すぎるのよ……ってちょっと聞いてるのかしら」
「ああ、聞いていない」
「聞きなさい。私が話しているのよ」
「そう言って、君は何度同じ話をした」
「ああ〜、愛おしいわ……でもあの処女神が独占しているのはいただけないわね。それにロキファミリアの剣姫も……」
「相変わらずだな、君は」
一度語り出せば、もうしばらくは止まらずに誰かへのラブコールが続く。この女神は何時もそうだ。気に入った人間がいれば自分のものにしようと、ありとあらゆる策略を練りその智見をもって陥れる。そして自分の懐へと美の女神とは思えない狡猾さで掠め取る。
何より一番気に食わないのは、決まってその際のエピソードや愚痴を状況から心情まで、こと細やかに語って来ることだった。
しかし彼も全面的に拒否は出来ない身。甘んじて受け入れる他に選択肢はない。元より不器用で嘘など付けない質だ。
全てはこの女神の裁量次第となっている。
「けれど、今は見てる事しか出来ないわね」
「……君らしくないな。取りに行かないのか」
「出来ない訳じゃないけれど、今はしてはいけないの」
「ベル・クラネルというのはどんな人物なんだ」
「教えてあげるわ! 先ずは───」
円滑に会話を運んでいたのが見事に仇となった。当たり障りのない返答を心掛けていたが、どうにも疑問が口を突いて漏れ出してしまった。
最悪だ、とディルックは頭を抱えた。暗い顔とは一転して純粋無垢な笑顔で想い人を語り出す女神はどこか若々しい。どんな女性も恋に焦がれ、乙女になれば可愛く見えるのが不思議だ。耳障りな事に変わりはしないが。
それにしても引っ掛かる。また既視感に苛まれている。近頃、彼女が語った特徴と何か似たようなものを耳にした気がする。彼女はヒューマンだと言うがそんな知り合いは存在しない。その正体を看破する為、ディルックはぶどうジュースを片手に直近の記憶を掘り起こした。
「……そういえば、ベル・クラネルは先日のミノタウロスの騒動に巻き込まれていたな」
「あら、知っているの」
「直接は知らないさ。ただ、あの時剣姫が探していた少年だったというだけだ」
「剣姫……。彼女も役に立ってくれればいいわね」
「…………ッ」
ダンジョンでの一件を思い出し、芋ずる式にそのまた昔の記憶まで掘り起こしてしまう。
一瞬、一瞬と血みどろの光景がフラッシュバックして消えない。まざまざと見せつけられる度に、心の最奥から煮え滾る赫怒が湧き上がるのを感じる。思わず手に力が入り、思い切り握りしめる。
「落ち着きなさい」
一切の酔いを感じさせない、はっきりとした声にディルック目が覚める。まるで不意に冷水を掛けられた様な強い覚醒だった。透き通り、突き抜ける様な一声はほんの僅かに神威を内含し、されど人の心を揺れ動かすには十分足りえた。
「まだ、囚われているのね。もう一人はとっくに前へ進んでいるのに」
「僕は……」
「いえ、進んでいない訳じゃない。引き摺りながら進んでいる」
「……余計なお世話だ」
さっきの明るい雰囲気など見る影もなく、お通夜のようなムードへと再び戻ってしまった。しかしこの静寂が幸いしてディルックの頭を冷やし、心を落ち着かせる良い間にもなった。
彼とて分かっている。このままで良い筈がないと解っている。だからこそ、その未練も何もかもを断ち切る為に闇を彷徨い続ける。ただ微かにだけ残った、錆びれた遺志だけを持って。
「近いうちに開催される
「ガネーシャの催し、か。だが何故?」
「貴方にとっても私にとっても、きっと面白いものが見れるわ。この私が保証する」
「面白いものだと?」
「ええ。そ・れ・に、ベル・クラネルとも接触出来るかもしれないわ!」
その隠すつもりも無い彼女の本音には、猜疑的に光っていたディルックの目も途端に呆れたものに。何時ものこの女神を見る目に戻った。
思わず笑みが溢れる。普段ならサラッと受け流しては躱しているが、なんだか今日はおかしい。また通常運転になり騒がしくなっただけだと言うのに、彼の心は騒がしい。
どうやら今日は、目の前の女神に釣られ酔ってしまったらしい。
だから、この言葉もきっと譫言に過ぎない。
「ありがとう」
「あら、珍しいわね。ぶどうジュースで酔ったのかしら」
「ああ……どうやらそうらしい」
どれほど腐り果て、醜く自己中であろうときっと、彼女は何処までも女神だ。誰であろうとただ只管に我が子を愛し、慈しみ、温かく抱擁する。そんな女神なのだろう。
だからと言って彼がこの女神を見る目は、良い方向へと微動だにしない。変わらず呆れ、時には謗る目で見るだろう。彼女との距離はこのくらいが良い塩梅だ。
「感謝しているのなら、私に極上の酒を奢りなさい」
「調子に乗るな」
誰が貴様に奢るか。そんな勢いで彼は切り返す。
普段の意趣返しとして、今度看板に嫌がらせでもしておこうか。それならばこう書き置いておこう。
美の女神 フレイヤも酔わせる、と。