メインに据えないと執筆しない事もあってなかなか進まない。
私には、目標が二つある。
一つは、弟弟子とプロの舞台で戦う事。
師匠への弟子入りは私の方が早くて、その頃は私の方が強かった。でもあっという間に私を追いぬいて、私より先に奨励会に入って、私が入品する頃にはプロになったあいつ。史上四人目の中学生棋士になったあいつは、私に『置いてかないよ』って言った事も忘れ、私を置いて一足飛びに強くなっていった。
史上最年少で竜王になって、初の防衛戦では神と呼ばれた棋士と戦って勝ち、史上最年少で九段昇段。
あいつの才能は、今までの棋士の中でも五指に入るだろう。最初から、私なんかとは将棋に対して見えているものが違う。圧倒的なまでに輝く才能は、得た称号の通りに『竜』と言って良いものだ。
巨大な翼を広げ、将棋という無限に広がる世界を我が物顔で羽ばたき、その爪で獲物を……敵を狩る。
そんなあいつの圧倒的な才能に気付いた時、私は誰もいない部屋で一人で泣いた。追いつけないと思ったから。置いていかないと言った彼が来てくれると、そう思ったから。
でもそんな事は無くて、私はどうしたらいいかわからなくなって、ふらりと師匠の家から出た。
『こんな時間にどうしました?』
そんな私を見つけたのは、カナ姉さんだった。
あいつじゃなかった事に少しだけ失望した私を、姉さんは『仕方ないですね』と言いながら自宅に引っ張っていった。お風呂に入れてくれて、その間に師匠と桂香さんに連絡を入れて、その日は姉さんがずっとついてくれた。
『置いていかれるのは、悔しいですね』
私の心を見透かしたように、姉さんが話しかけてきたのは眠る前だ。同じ布団に入って、反応しない私に苦笑しながら姉さんは話し続けた。
『銀子は何故、八一に置いていかれるのが嫌なんですか?』
『……おいてかないよって、いった』
『なるほど?』
今思えば、何とも要領を得ない話をしていたと思う。でもそんな私の話を、姉さんは真剣に根気強く聞いてくれていた。
『銀子は、八一の事が大好きなんですね』
姉さんの結論を、私は真っ赤になって否定した。でも姉さんは私の稚拙な反論を一個一個丁寧に潰してきて、結局私は私の心と向き合うしかなくなった。否が応にも自覚させられて、恨みがましい視線を姉さんに向ければ、姉さんはニコニコと笑顔を向けてくる。
『そうやって自覚する事は、強くなる事への第一歩ですよ』
『自覚が、強くなる第一歩……?』
『将棋界では、勝たねば強くなる切欠は掴めません。勝つ人間が、より強い相手と戦える。強い人間から研究会なども誘ってもらえる。ただ、負けなければ、自分を一切省みる事はありません』
『……どういうこと?』
『感想戦なんかで、負けた原因を探すでしょう? でも、何故勝ったか。勝った原因を探る事は少ない……何故でしょう?』
それは、姉さんの構築し始めた持論だった。
勝たないと強くなれない。それは事実であって、間違いじゃない。でも、闇雲に勝つだけでは意味がない。それはただ、土台のしっかりしていないまま高く積み上げられた塔のようなもの。もし負ければ、全て崩れ去ってしまうかもしれない危うい強さ。
強くなることに直結する事は少ないけれど、大事なのは自分を省みる事。負けた時に初めて、人は己を省みる。棋士で言えばその対局で何が悪かったのか、何処に悪手があったのか……それを検討するのは、負けた時だけだ。勝った時の棋譜を並べて、何故勝てたかを考える棋士はほとんどいない。
『自覚とは、自らを
『……姉さんは、何を自覚したの?』
この時の姉さんは、三段リーグの三期目。開幕で二連敗を喫した後で、連勝を積み重ねている途中だった。それはまるで、一足飛びで強くなっていく八一のように……明らかに進化したと表現する他ない、姉さんが『将棋星人』の領域に至ったと言う事の証明だった。
『私はあの時、以前の自分と今の自分がどのように変わったかを自覚しました。寝ても覚めても頭の中から消えない脳内将棋盤があって、明らかに読める範囲が広がって、深くなった……何故そうなったか、今もずっと考えています』
『……私も、そこまで行ける?』
『銀子の才能は私以上ですから、必ず行けます。そうですね……今期の三段リーグが終わる頃までに私も、自分の何故をある程度解消して、こうなった原因を突き止めておきます。拙いやり方でも良ければ、一緒に鍛えてみましょう』
そう笑いかけて、姉さんは私の頭を撫でてくれた。
その後姉さんは三段リーグで十六連勝を記録。三度目の正直と言わんばかりの成績一位で、史上初の女性棋士となった。取材も殺到したけど、時間を作って私や八一、桂香さんの将棋を見てくれた。その中で色々と変わった事もやった。
今思えば、それは脳開発的な何かだとは思う。姉さんも詳しい理屈はわかっていない……何せ被験者が自分だけであり、機械なんかで正確に測ったデータも無く、感覚だけを頼りにした手探りの実験。それでも私は姉さんと一緒にその変わった特訓をやった。
ある時、今まで読めなかった先を読めるようになった。たった一手だけ、今までよりも先が読めるようになって、また世界が変わっていく。
ぼやけた輪郭の脳内将棋盤が鮮明に
姉さんの薫陶が、私の将棋を大きく広げてくれたのは間違いない。本当なら誰にも言わず黙っているか、本にでもして大々的に広めるような、女性に対しての将棋の上達方法。史上初の女性棋士だからこそ構築する事が出来たそれを、姉さんは私に最初に教えた。実験のつもりだから気にしなくていいとは言うけれど、それが無ければ私はどこかに無理を抱えながらこの道を走っていたはずだ。
『私の方で引き取る事にした、祭神雷です。最初は引き取るだけでしたが……弟子にする事にしました』
そうして二年ほど経った頃、姉さんが祭神雷を連れてきた。女性棋士最初の弟子となったあいつの最初の印象は、あまり良くない。その第一印象は姉さん以外には一切心を許さない、野生の中に居た手負いの獣。
次に感じたのは、私以上の将棋の才能。明らかに
『――…気に入らない』
『――…気に入らねぇ』
それがお互いに気に入らないという見解の一致を見せて、初めての邂逅は終わる。
この時に私とあいつの関係性は確定した。ライバルでは決してない……お互いがお互いを敵と見做した。これから続くであろう将棋人生の中で何度でも潰し合う相手との因縁がこの時結ばれた、と言ってもいい。
顔を合わせれば、十秒将棋か脳内将棋かの違いはあれどだいたいVS。諸事情で姉さんと奴が師匠の家に住んでいた頃は、それが日常だった。八一とも指していたけど、あいつは『なるほどなァ』と返して大人しく指すだけ。
才能がある棋士は、他の才能がある棋士に敏感だ。この場合はあいつの才能が八一の才能に反応したのだろう。だから八一とばかり指すのかと思えば、私と指す方が圧倒的に多かった。
『何でよ』
『なぁに、さっさと白黒つけた方がお互いの為だろうが』
『それもそうね……潰す』
『こっちの台詞だよ馬鹿が』
どちらが上かをハッキリさせるため……それが、私とあいつの対局数が多い理由だ。
この戦いは、奨励会以外の対局の空気を経験する意味で出た女子オープンにも飛び火し、挑戦者決定戦では私が勝って、その後の女王挑戦は失礼な言い方になるが私にとっては消化試合だった。
次にあいつとやったのは女流玉座戦。その前にあった女流玉将戦は、奨励会員であって女流棋士ではない私は、たとえタイトルホルダーでも当時は出場は出来なかったから無視。こっちは予選であいつと当たって負けた。
それでそのままあいつが女流玉座になって、翌年から女性奨励会員であってもタイトルホルダーなら出場可能になった女流玉将戦も含めた三つの女流棋戦で、私とあいつは鎬を削り続けた。
女王と女流玉座、互いが獲ったタイトルの番勝負は取りこぼさなかったが、女流玉将については勝ったり負けたり。私が二冠の時があれば、あいつが二冠の時もある。戦績が本当に五分と五分で、だからこそ絶対に負けたくない相手となった。
私のもう一つの目標。
それは祭神雷と、プロの舞台で雌雄を決する事。
ひょっとしたら、あいつは八一とは違う意味で私の運命の相手かも知れない。
将棋で生きる人間……棋士として在る限り、絶対に負けられないと思うのはあいつだけなのだから。
◇
水鏡金美。史上初の女性棋士にして、女性名人。
私を含めた女流棋士にとって、常に比較され続ける存在。言い方を変えれば、女流棋士にとってのラスボス。
空銀子と、祭神雷。
この二人は女流棋戦においてはお互い以外には負けなし……祭神雷は私が一度だけ千日手をもぎ取ったが、その後は人が変わったように戦法が変わって負けた……この二人であっても、水鏡金美の方が遥かに格上だと思われている。
その事について思う所が無いわけじゃないけど、そうなる事は納得せざるを得ない。理由は単純で、全く反論の余地のない実績があるから。プロ相手に勝つ可能性のある女流棋士は居ないわけじゃないけれど、勝ち越せる女流棋士は居ないだろう。
ひょっとしたら可能な人もいるかもしれないけれど、現役タイトルホルダーを含んだA級順位戦を全勝して、名人に勝てる女流棋士は居ないと断言できる。それを成し遂げた女性棋士と比較すれば、たとえ女流棋士相手に無双した実績があった所で意味が無い。
そんな棋士とは、姉妹弟子と一緒に空銀子と祭神雷と戦う予行演習として指した。
何とも贅沢な話ではあったが、その二人を超える女性という条件を満たす棋士は水鏡金美しか存在しない。『暇になったから』と言っていたけれど、指導対局を受けようと思えば何カ月待たされるかわかったものじゃないほど、水鏡金美は人気のある棋士だ。
始まった指導対局で本気のトッププロが持つ威圧感というか、オーラのようなものを容赦なく叩きつけられて、私もあいもその時点で勝てるビジョンが思い浮かばなかった。
呑まれていたと言ってもいい。研修会の試験で空銀子には全然立ち向かえたのに、盤を挟んで礼をして顔を上げた瞬間に、私は負けた。
駒を取った後でも、何を何処に指しても勝てる気がしなかった。深い森……迷い込んだら出られないと言われている樹海に迷い込んでしまったような、そんな絶望感。そんなものを抱えてしまったら、どう読んでも悪いものしか浮かばない。
『それが、女性の中では間違いなく最強の棋士が持つ格だ。二人にとっては次元が違うように感じたかもしれないけれど、近づこうと必死に努力しているのが姉弟子と祭神で……あの二人は、水鏡さんを前にしてもちゃんと戦う事が出来る』
短手数で終わってしまった予行演習の後、感想戦で師匠がそんな事を言った。『それと勝敗は別だけどな』とも言っていたけれど、それはあの二人でも水鏡金美には勝てないと言う事。それくらいに強い棋士と比べて……私たちの師匠で、現竜王である九頭竜八一とどちらが強いのか、ほんの少しの好奇心を持って聞いた。
『わからない。師匠に弟子入りしてからずっとお世話になってきた人だし、普段は頭が上がらないけど……負けると思って戦う棋士は居ない。それは水鏡さんにも、姉弟子にも祭神にも言える』
だから、始めから負けると思ったお前達はまだ、棋士にもなれていないひよっこだ。
そう言われても怒りは無かった。あったのは悔しさだけで、それは覆しようのない事実を理解してしまったから。あいも私と同じだったのか、悔しそうに俯くだけで何も言えない。
お父様が呼んでくれて指した時とは何もかも違う、『勝負師』としての棋士・水鏡金美。
今の私たちじゃ、その強さの片鱗に触れる事すら出来なかったけれど、私たちが今立っている位置を教えてもらった。それは、私たちが挑もうとしている空銀子と祭神雷が居る位置も間接的に教えてくれた。
この対局で強くなったわけでは決してないけど、強くなるために必要なものを貰ったように、今となっては思う。
その時は悔しすぎて気付かなかった。
でも、その圧を受けていなければ、私は女子オープンの挑決で祭神雷相手に千日手を掴む事すら出来なかっただろう。それに、千日手を掴む切欠になったのがその時の棋譜だ。
水鏡金美の将棋は、何のこだわりも無い変幻自在のもの。押し寄せる津波のように攻撃的になる事もあれば、恐ろしく硬い城壁のように守備的になる事もある。縦横無尽に相手を崩し、時には人間には理解しづらい方向からの奇襲すらやってのける。
定跡を知りながら、定跡に縛られない。それは将棋が強くなるほどに難しい……定跡とは、長い年月をかけて培われた最善手だ。それを崩す事は『相手の研究を崩す』というメリット以上に、『自分の研究すら無に帰す可能性がある』というデメリットを抱えている。
そんな常識を、水鏡金美はあの名人との対局で打ち破った。
私が記録係になったのは第四局。あいは第二局で記録係だったけれど、感想を聞けば『凄かった』としか言えてなかった。もっとちゃんと言えとその時は思ったけれど、あれを間近で見たらそうとしか言えない。
例えばその熱量。お互いが将棋盤を凝視して、盤面に現れる世界に潜っていく時に放たれるそれは、私が感じた事も無いくらいに熱かった。自分が指しているわけでもないのに、目が離せなくなる。
でもそれ以上に、対局をしている二人は楽しそうだった。後手番一手損角換わりを繰り出した水鏡金美は悪戯が成功した少女のように、それを受けた名人は『こなくそ』と少年のように笑っていた。何処までも真剣に……殺し合いをしながら笑っていた。
その関係を表す言葉を、私は一つしか知らない。
『
あの名人を相手にしてそう呼べる領域に……神の位階に、水鏡金美は達している。
女性が、今まで有り得なかった事を覆し続けた存在が、現将棋界の頂の前へと登り詰めている。
そこまで考えて、気が付いた。
強くなるために、そういう存在は絶対必要だ。『こいつだけには負けたくない』と思える相手がいるといないとでは、成長の速度が大きく変わってくる。
では、水鏡金美がそう思っている相手は、誰だ。
この問いには多分、本人以外誰も答えられないと思う。でも、そういう因縁が結ばれる事はよくあって、最終的にそういう相手がライバルだのと呼ばれる事がある。
九頭竜八一には、神鍋歩夢。
空銀子には、祭神雷。
私……夜叉神天衣には、雛鶴あい。
水鏡金美に、そう言った因縁の相手はいない。
史上初の女性棋士――…同性に並ぶ者無し。かつて、プロ棋士にすら勝利していた釈迦堂女流名跡も、彼女に十分を少し超える時間を使わせる事で精いっぱいだった。
男性しかいないプロ棋士の中に入った、ただ一人の女性である水鏡金美は本当の意味で同等の相手に巡り合わないままにここまで来た。それはどれだけの苦行だったのだろうか――…私には想像すらできない。
対する名人には、かつてライバルは居ただろう。しかし、強くなり過ぎた事によって今は一人になって……でも、こうして目の前に現れた。性別の違い、将棋に対するスタンスの違いなどがあっても、この名人戦において二人は同等になった。
指す手が読めない。何を意図しているのか、狙いは何処にあるのか、第一局と比べてもそれを理解する難易度は上がっている。この二人の対局が、将棋というものの時間を大きく進めていく。
今この時に現れた、神の位階に至った棋士二人によって、ソフトよりも早く進化していく。どちらが優勢なのか、ソフトですら読めないのは三局までに証明されている。二人が潜っている深さ、もしくは飛んでいる高さはそれほどのものだ。
そんな場所で紡がれる将棋は、凄く綺麗だった。
お父様とお母様と私を繋ぐ絆である将棋が、こんなにも綺麗なものを生み出す事を初めて知った。記録係としての仕事をほとんど無意識に行いながら、私は神域の将棋に魅せられていた。
私が最善と思った手が悉く盤面で否定され、何故と考えて答えを探れば、数手先ではそれが悪手どころか死路であったことを思い知らされる。凡百の対局に勝る経験をこの時に積んでいると実感できる。
でもそれは、この七番勝負の記録係を務めた全員に言える事かもしれなかった。少なくともあいは、元々あった終盤力の高さに磨きがかかっている。その終盤力を最大限に発揮する、追い詰められた時の大逆転……相手の一瞬の隙を突いてのカウンター型の将棋。
水鏡金美が名人を相手にやってみせたカウンターが、あいの将棋に明確なイメージを持たせた。位階を引き上げられた、と言っても良いかも知れない。それほどまでに濃密な経験が目の前で展開されていた……これで引き上げられない奴には才能が無いと断言できるほどの光景。
「――…あぁ、そうか」
世界が広がって行く。
導かれるように私が指した一手に、対面に居る
新たに創設された女流タイトル戦。女流棋士にとっての順位戦である『金烏戦』。このタイトル戦に女流棋界は活気づいたと言えるだろう。単純に最低対局数がほぼ倍になるから、俗な面で言えば
普段当たる機会の少ない相手とも戦える機会が増えるかもしれない……そう言うのは、己の成長にとってプラスだ。ただ、それよりも私が思うのは、ここではライバルが見つけやすいと言う事。強ければ、さっさと上に行く。弱ければ下のまま……でもその中で負けたくない相手を見つければ、それが上に行く為の原動力になり得る。
今までの女流棋戦では、そんな相手が見つけ難かったと思う。女流棋士でライバル関係と言われている月夜見坂燎と供御飯万智の出会いは小学生名人戦で、女流棋戦とは何の関係も無い。あの二人が女流棋士上位の実力を持っている事に疑いはないが、その理由の一つとしてはライバルに出会えた事があるだろうと私は思う。
だから私は、今目の前にいる
ただ将棋に関しては、これから順風満帆に行くとは思わない。この初代金烏を決める為の第一段階であるリーグ戦では歯牙にもかけなかった相手がライバルを見つけて、実力を伸ばしてくるかもしれない。
普段当たらないはずの相手と戦った女流棋士が、私があの対局の記録係になって今道が啓けたように、覚醒して進化するかもしれない。
「天、ちゃん……」
「あんたも、あれから強くなった」
でも今この時に進化したのは私であり、先に進化したであろう
「でも、先に上で待ってるのは、私」
「……うん。絶対、追い抜くから」
小学生女流棋士同士の初の公式戦。勝ったのは私、夜叉神天衣。紙一重どころじゃないくらいにギリギリの勝利だったけれど、このリーグ戦では何よりも貴重な初戦の勝利をもぎ取れた。
◇
関西と関東の将棋会館の棋士室にはバレンタインデーになると必ず大量に、様々な種類のチョコ菓子が並ぶ。これは金美がプロになってからやってる事であり、ぶっちゃけて言えば『チョコください』攻勢を躱すための策である。
将棋界は基本的に男社会である為、女性の数は少ない。プロならば女流棋士との結婚が多いのではないかと思うが、他業種の女性との結婚も当然ある。後は囲碁棋士には女性も割といるので、そちらの縁で結婚すると言う事もあるらしい。
まぁそんな将棋棋士の中で、長らく唯一の女性という立場だった金美は、イベント事の贈り物というものには割と気を使う。バレンタインに限らず、手作りのものを贈るのは極力避けるのは当然として、そこまで高価なものも贈らない。TPOは弁えるが、相手にとって特別にならないという点では一貫していたりする。
「故に
「対局並みにマジな顔して聞いてくるの止めない?」
関東で対局が入っていた八一は、訪れた将棋会館で早速親友でありライバルの歩夢に絡まれる。この時期はいつもこうだよ……と思っても顔に出さない程度には、八一もこの彼には慣れた。
「貰ってないから。水鏡さんは今年も東西の棋士室に送っただけだから。ついでにお前にって預かってもいないから」
「そうか……」
詰め寄った時の鬼気迫る表情から、一気に消沈したものに歩夢の顔が切り替わる。そういう機微に疎い八一ですらわかる親友の心情に、彼としては苦笑するしかない。
歩夢がこうなったのは、八一の記憶にある最も古いものであれば八一が奨励会に入って一年経ったくらいからだ。奨励会時代に二人はネットでほぼ毎日VSや研究会を行っており、それに気分を急降下させる銀子を宥める為に桂香が八一をパソコンから引っぺがし、代わりに指していたのが当時三段リーグを戦っていた金美であった。
そんな事が何度かあって、何時の頃からか『……今日は、女神はいないのか?』と聞いてくるようになれば、今振り返ればそうだったなとわかるのだ。当時の八一は普通に返事をしていて、一切気が付いていなかったが。
「毎年よくやるなぁお前……連盟に来るチョコの数、お前宛がかなり多いって聞いたぞ?」
「それは聞いているが……贈られて来たという報告だけで、我の元に物は来ない。というより、何が入っているか判らぬ故に一律で処分されると聞いたぞ」
「あぁ、髪の毛やら爪やら入ってたって話か……で、実際は誰から貰ったんだ?」
「マスターと、《
「イモータル、イズ、誰?」
「岳滅鬼四段だ」
「あぁ、確か釈迦堂さんの門下だったな」
その繋がりかと聞けば、歩夢は肯定する。ちなみに八一は銀子を始めとして、弟子二人とJS研の三人、万智と燎からも貰っている。金美と桂香については『皆でどうぞ』と、高級チョコの詰め合わせが清滝家の茶の間に置かれるのが毎年の事だ。
金美については、プロになる前はそれこそ手作りの菓子を作ってくれた事もある。親友二人の合作チョコケーキは今思い出しても美味しかった……銀子が無言で二切れ目を要求して自分と揉めたんだったと、懐かしい思い出もある。
「というか歩夢。お前、わざわざそれを聞きに来たのか?」
「我は今日オフだからな。それも予定の一つではある」
「これを予定と言って良いのか……」
予定が済んだにしては歩夢が帰らない為、八一は視線で続きを促す。
「何、マスターの女流順位戦だ」
「あぁ、今日は第一期のリーグ戦もやってるんだったな……どうなんだ? 釈迦堂さんの調子は」
「リーグ戦については、入ったリーグがマスターと同格が居ないものだった為にほぼ問題ない。心配するならばこちらより……」
「あいと天衣……もっと言えば桂香さんもなぁ」
十一月から始まった、第一期女流順位戦。A~Hに分けられたリーグの人数は各リーグ八名だが、あいと天衣は同じリーグに入ってしまった。釈迦堂はまた別のリーグであり、最も過酷なのは桂香が入ったリーグだろう。
「選りにも選って、
「《
「言っちゃ悪いけど……そこらの女流棋士とはモノが違うからな」
プロでありながら女流棋士の資格も持つ岳滅鬼翼。その実力は当然と言っては何だが、他の女流棋士とは一線を画している。今の銀子と雷の二人であっても、全力で戦って勝敗の分からない相手というだけでそのレベルは推して知るべしだろう。
現女流棋士で可能性があるとすれば、雷相手に千日手を決めた天衣か、八一が『プロでも食える』と判断した終盤力を持つあい、そして彼女の師でもある釈迦堂くらいしかいない。その三人であっても、可能性はそこまで高くはないだろう。
「だからと言って、勝てぬと決めつける者を我は好かんがな。諦めなかった極地にこそ、我が女神が居るのだから」
「女流棋士全員に水鏡さん級の諦めない心を要求するのはヤバいぞ……」
「同じ事をしろ、同じ場所を目指せ、というわけではない。女神は男性棋士と比較しても、才能があると言わざるを得ん。順位戦をノンストップで駆けあがり、二十代で名人獲得は並のプロ棋士でも比較にならんからな……しかし」
「それはあの人が諦めなかったからこそ、か」
確かにそうだろうとは思うが、八一はそんな姉弟子が泣いている姿を一度だけ見た事がある。自分達に決して見せる事のない、水鏡金美という棋士の中にある闇を見た事がある。
三段リーグの二期目を逃し、三期目の始めに二連敗した。
清滝家に帰ってきた彼女は八一達の手前気丈に振る舞っていたが、自宅に戻る際に心配になって桂香と銀子と一緒に後を付けた。普段であれば金美はそれに気付けただろうが、その時ばかりはまったく気付く事なく自宅まで辿り着き……その姿を見た。
祖父母を祀る仏壇の前で、祖父と将棋を指した盤を抱きかかえ、金美は泣いていた。
『爺ちゃん、婆ちゃん』と漏らしながら、殺しきれぬ声を嗚咽に変えて泣いていた。
その姿を見て、声を掛けようとした銀子と八一を止めたのは桂香だ。親友であるからこそ、彼女は踏み込むべきラインというものを弁えている。そして、棋士の父親が勝った時、負けた時の心構えを常日頃から金美にも桂香にも説いていたから、彼女は二人を止めてそのまま家へと連れて戻った。
『負けて帰ってきた勝負師に対する優しさは、傷口に塗り込む塩みたいなもんや』
事実、師匠である清滝も負けて帰ってきた金美を特に叱責する事も、優しく慰める事もしなかった。負けた対局の棋譜を並べ、その時の自分と向き合わせて、『何故』を突き付けていくだけだったが、それが清滝の考える負けた勝負師……弟子への接し方。
弟子が目指して、生きようとする世界はそういうものなのだと、不器用な師匠から弟子へのメッセージ。
それを正しく受け止めたからこそ、金美は誰も居ない自宅で泣く事を選んだ。そんな親友の選択を桂香は尊重した……彼女が二人と一緒だったのは、夜に出歩く事にした二人を心配した以外の何物でもない。
まぁその翌日に、『頭の中から将棋盤が消えない』だの『オートで指してる』だのを言い出したので違う意味で心配したのも良い思い出だ。
「それが女神を含めた女性棋士と、大半の女流棋士との大きな違いだと我は考える。諦めないという心の強さは誰もが最初は持っているものではあるが、それを持ち続けられる者は多くない」
「プロになる為に奨励会を戦う中で、誰も彼も何かの壁に突き当たる。姉弟子や祭神は比較的壁は少なかった部類だけど……身近に壁が居るようなもの、とも言えるか」
「で、あろうな。白雪姫の三段リーグ全勝は我も度肝を抜かれたが、『史上初の女性名人の妹弟子』というプレッシャーは、我ら男では想像がつかぬものであろうよ」
「それを言えば祭神は水鏡さんの愛弟子だしな……『プロになって当然』と思われてもおかしくない」
「おかしくないと言うより、その期待が大勢を占めていただろう。弟子に対してもそうだが、それを指導する師匠に対しても、な」
その期待を自分に置き換えて考えただけで、八一は吐き気が込み上げて胃が痛くなりそうだった。考えてみれば史上初の女性棋士の弟子……しかも同性だ。八一だって『プロになるのかな?』と漠然と考える程度に、そういう目で見ていた。
当然ながら、男性のプロ棋士の弟子であってもプロになれる保証など無い。弟子の大半が奨励会を去った棋士だっているはずで、あいと天衣だってプロではなく女流棋士になった。八一は師匠として二人の先を考えてはいるが、それだって今はまだしっかりとした形になっていない。
なのに金美と、その弟子である雷に対しては『女性棋士の弟子だから女性棋士になるのだろう』と見ていたのだ。
師弟であり母娘である二人が、そんな周囲の期待を知らなかったはずはない。向けられている本人なのだから。
特に金美にとって、その期待は棋士になってから常に付いて回っていたものだ。史上初の女性棋士になった……ならば次は何を目指すのか。
順位戦を勝ち上がっての昇段はした。女流棋士との違いは見せた。なら次は本人のタイトルか、次の女性棋士の育成――…そんな風に考える者は実際に居た。それを知っていたからこそ金美は最初、雷を弟子に取る事を躊躇したのだ。
「結果として女神は名人になり、弟子の雷帝は棋士になった。最初の女性棋士として最高の結果を出し、全部黙らせたと言えるだろう」
「改めて聞くと凄いよなぁ……」
「あぁ。偉業と言えるであろうが、だからこそ今後現れる棋士達にとっても高い壁となった。特に女流棋士にとってはな」
「女流棋士にとって?」
「女性棋士が増えれば、女流棋士制度の存在自体が疑問視されるであろう?」
歩夢の言葉は疑問形でありながら、確信の響きを帯びている。
八一だって考えなかったわけでは無い。女流棋士制度は女性への将棋普及を目的として設立された制度であり、女流棋士以外にそれを担える存在……女性棋士が増えればその存在意義を失ってしまう。
女流棋士と交友はあるがそこまで詳しくない八一と違って、歩夢は女流棋士会の会長を師匠に持っている。事情やら何やらに精通していてもおかしくないし、危機感というものも持っているだろう。何せ、師匠がその肩書を無くしてしまう可能性がある話だから。
「ただ、今すぐってわけじゃないだろ。今の女性棋士は四人。奨励会でも女子は増えたみたいだけど、今の所関西じゃ段位持ちはいなかったし」
「関東では一人、先日二段になった者が居る。うちの愚妹も駆けあがってくるかもしれんが、これはまだ先だろう」
「あぁ、あの子な……」
神鍋歩夢の妹、神鍋
その雷がキレ気味に歩夢に電話をしてきて所業が発覚し、更に八一に連絡して清滝家に叩き込み、銀子の耳にも入って一悶着あったが、幸い怪我人が出る事無く彼女は兄に連れられて東京へと
「でも、奨励会に入ってるって事は師匠が見つかったんだろ?」
「マスターが引き受けてくださったが、その前に女神の手を煩わせることになった……」
色々とお叱りを受けた馬莉愛だが、それでもへこたれないので釈迦堂が仕方なく金美に連絡を取ったと、歩夢は溜息を吐いた。何を言ったか八一も気になる所であるが、弟子取りに関しては妥協も忖度もしないであろう女性名人である。抉り込むような言葉を言ったのは、八一の想像に難くない。
「もしかして泣かせたか?」
「二日ほど部屋から出てこなかった」
斜め上に吹っ飛んでたー!? と内心で驚愕した八一であるが、努めて口にも顔にも出さない。
「……不必要に厳しい事を言う人じゃないのは確かだし、その子の事もちゃんと気遣っての言葉だと気付いてくれればいいけどな」
「その辺りはマスターが抜かりなく話してくれた。今は日々鍛錬に励んでいる……ひょっとしたら、我らの想像を超えてくるかもしれんと思うくらいにはな」
そう言う歩夢の表情は穏やかなものであり、愚妹と言いながらもその実力は認めていると雄弁に物語っていた。
「何処まで行ける?」
八一がそう問えば、歩夢は口の端を歪めて笑った。
「何処までも。諦めなければ、それこそ名人にでも届くだろう」
「俺やお前、水鏡さんが相手でもか?」
「……それを言ってはおしまいだろう」
と言うかこれ書くと、タイトル決定まで書く必要があるのではないだろうかと思う。
自分で自分の墓穴掘ってるじゃねーか!?