『金』の棋譜   作:Fiery

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フィクションだからという名の身勝手の極意。


(現実を)全て……振り切るぜ……!

 

 

 

 大阪府にある金美の自宅は、自身の祖父から相続した古い、割と大きめの一軒家だ。それを稼いだ対局料などで改修し、和モダン住宅にした。部屋数は雷との二人暮らしなら多いくらいで、何なら住んではいないはずの銀子用の部屋もある。

 祖父と住んでいた時には問題なかったし、金美一人ならそのまま住み続けていただろうが、雷を家に呼ぶにあたって改修は必須だなと一念発起。リフォーム完了までの間は清滝家に住まわしてもらうという荒業を行使して完成した家は、中々に評判がいい。基本は女二人で、下手すれば雷が一人で居る事もあるのでセキュリティも万全だからか、未成年組の親にも安心して預けられると言われた時は、金美はたまり場になる未来しか見えなかったが。

 

 そんな家に来客を知らせるインターホンが鳴り、手が離せない金美の代わりに雷がモニタを見る。映っているのは八一で、その横には銀子の姿もある。よく見る二人ではあるが、どちらも少し深刻そうな表情を浮かべていて、それが少し嫌な予感がする。

 

「先生、八一と白髪が来たんですけど」

「とりあえず入れてあげてください」

 

 金美は台所で昼食の片づけ中だ。祖父と暮らしていた時も家事は大体が金美の仕事であった。桂香を手伝う事もあったし、家事スキルは人並みにあると彼女は語る。その辺りも含めて雷に色々教えているのだから、雷にとって金美は師匠であり母親にも近い。

 

 『開けんぞー』とロック操作して玄関ドアの鍵を開ける。『お邪魔します』と、勝手知ったる様子で二人が入ってくる。『座ってちょっと待ってろ』と居間で待たせ、ついでにお茶を淹れて茶菓子も出せば八一は驚いた顔を見せた。

 

「ンだよ」

「いや……意外とちゃんとしてるんだなと」

「意外は余計だっての。先生は将棋以外もこう言う事は厳しいんだよ」

 

 まったく、とぶつくさ言いながら雷はその場を離れた。聞かれたくないのだろうと察しているのだ。そんな彼女の背に向かって頭を下げ、出されたお茶に口をつける。

 意外と美味い……そんな事を呟けば銀子に脇腹を肘で突かれ、台所の方に消えたはずの雷が凄い目で見てきている。今度は違う意味で頭を下げる事になった八一はやはり、女性の扱いが壊滅的にド下手であった。

 

「お待たせしました」

「いえ、突然来てすみませんでした」

 

 金美が居間に現れれば、八一と銀子は立ち上がって礼をする。その動作は完全に夫婦の息の合い方だったが、表情を見て茶化せる雰囲気ではないと着席を促し、金美自身は二人の対面のソファに座った。

 

「そのような顔でうちに来る辺り、直接聞きたい事があるようですね」

「はい、水鏡さんに直接聞きたい事が……」

「名人の事でしょう?」

 

 家族の悩み事について妙に鋭く、それでいて核心を突くのが昔から巧い姉弟子は、この時も寸分違わずに言い当てた。それに驚きながらも、思った以上に言い当てられた事への衝撃は少ない。『この姉弟子なら仕方ない』と長い付き合いの中で悟っているのも大きいだろう。

 金美の方も、この間の竜王戦挑戦者決定戦の結果は把握している。神鍋歩夢六段と名人の対決は、名人に軍配が上がった。故に、彼が持つ記録であるタイトル通算100期と史上初の永世七冠を賭けたタイトル戦が、八一が保持する竜王に決まったのだ。だからこそ、この時期に金美に聞いてくる事はわかりきっている。

 

 清滝一門の中で最も現名人と戦った経験が豊富なのが金美だ。玉座戦を皮切りに、その後もトーナメントなどで何度も相対している。彼女の対名人戦の勝率は高いとは言えないが、棋帝戦の解説で名人の手をあっさりと読み切った実績が彼女にはある。八一にとって、名人の事を知るのに最善の相手である事は間違いなかった。

 

「お昼は食べてきましたか?」

「……やっぱり指すんですね」

「その方が私達にとっては手っ取り早いですし、あの感覚は言葉では伝わりませんよ」

「昼食は済ませてます。早速お願いできますか」

 

 八一への答えの代わりに、金美は二人を隣の和室に案内する。そこには既に駒が並べられた将棋盤が置いてあり、すぐにでも指せるようになっていた。

 

「今日は私も休みですし、久しぶりに丸一日と行きましょうか……雷」

「はい」

「夕食はいつもの時間に。出前を取るならそれで結構ですし、私達の分もお任せします。お金についてはいつもの場所においてますから」

「私も……私と、白髪も見学していいですか?」

「えぇ、存分に。貴女達にとっても、良い経験になるでしょうから」

 

 金美の許可を得て、雷は自分と銀子の分の座椅子を用意する。銀子は自分達に出されたお茶を運び、追加で金美と雷の分のお茶を淹れ始めるのを横目に、金美と八一は盤を挟んで向かい合った。

 

「最初に言っておきますが、これから示すのはあくまでも私が感じた名人である事を覚えておいてください。防衛戦で貴方が名人に対して抱く印象とは違うかもしれません」

「それは、どういう……」

「戦法に関しては、対策するだけ無駄です。名人は攻守ともに優れた居飛車党ですが、振り飛車も高いレベルで指せます。そして急戦と持久戦どちらも隙は無い。ただ一つだけ、私の勝手な想像ではありますが、名人が重視しているものがあります」

「……持ち時間の長い将棋では、盤上真理を追究しようとするという話ですか?」

「それよりも一歩踏み込んだ話です。一人だけでは、盤上真理は追究できません。棋力等しい相手か、何か一点でも自分を上回る相手。もしくは自分に無い要素を持つ相手が必要になります」

 

 話しながら、金美は指し始める。姉弟子の意図が掴めないままだが、八一もそれに倣って自陣にて陣形を形作る。

 

「そう言う相手と対話しながら、盤上に現れるであろう真理を追究していく。棋士にとっての勝敗と同等に名人が重視しているのはそれだと、私は考えています」

「対話……ですか?」

 

 八一の疑問に、金美が答える事を止めた。途端に現れるのは、A級棋士・水鏡金美……()()()()

 

「……うそ、だろ」

 

 驚愕する。流石にその光景は、付き合いの長い八一であっても予想など出来るものではない。いや、それを予想できる者など、誰も存在しないだろうと断言できる。

 

「ここからは指して語りましょう。ちゃんと付いてきなさい、()()()()()

 

 姉弟子の姿に、防衛戦で戦うはずの《神》が、ダブって見えた。

 

 

 

 

 

 

『私が伝えられるのはここまでです。後は貴方が掴みなさい』

 

 あの後丸一日、寝る間も惜しんで語ってくれた姉弟子の最後の言葉を、八一は思い出していた。

 

「……なるほど。彼女が君を推した理由が分かったよ」

 

 九頭竜八一は初防衛と史上最年少の九段昇段を。名人は前人未到の大記録を賭けた竜王戦の第一局。その対局の中で、八一は姉弟子が自分に本当に伝えたかった()()に、辿り着いていた。

 

「彼女というのは、姉さんですか?」

「君の姉弟子の、水鏡金美八段だね。ここまで辿り着いたのは彼女が初めてだった」

 

 何もない白い空間に、将棋盤と駒だけがある世界。真理を追究する、名人らしい世界。そこにある盤を挟んで、名人と八一が相対している。

 名人が欲しているのは対話だと、彼女は言った。それは、確かにそうだ。しかし、その言葉にはさらに先がある事を、八一は現在進行形で思い知り、理解し、納得した。

 

『棋は対話なり』

 

 将棋界ではそんな言葉がある。将棋を指していれば、相手の指した意図が分かり、それに対して自分がどう答えるのか。言葉にせずとも意図を汲みあい、対話すると言う事がある。それは対局全てに通じる基礎であり、極めるには果てしない奥義。

 

『闇の中では光を探しなさい。その光とは、貴方に今まで将棋を通じて色々な物を与えてくれた人たち。そこには師匠も居ます。私も、桂香も、当然銀子も。貴方の弟子になった雛鶴さんも夜叉神さんも、きっと居るでしょう』

 

 名人との対話は、特段の才能を持つ八一であっても恐怖だった。名人の読みがあまりにも深すぎて、最初にあるのは毒としか思えない闇の中。それを、遠くに見える僅かな光を見失わないように読み、歩いていく綱渡り。その先にある光を掴んでも、相対しているはずの名人は顔のない化物のようにしか見えなかった。

 

『名人も人です。ミスをするとかそう言う事ではなく、どう足掻こうが人でしかない。誰よりも真理を追究し、誰よりも先を歩いているから見えないだけ』

 

 自分の方に向かって指しているはずの化け物の向こうへと、八一は道を読みながら歩いていく。その途端に現れたのがこの世界で、将棋盤の前に座っている等身大の名人の姿を見つけた。

 

「あの玉座戦は、不謹慎だけど楽しかった。勝敗など関係なく、僕に無い彼女の……これは差別と取られてしまうのかもしれないけど、女性としての感性を持って指す将棋。棋力にしても、覚醒したかのようにあの二連敗で追いついてきて、三局目の千日手でここまで辿り着いた」

「そんな事になってたんですか」

 

 話をしながら、二人は互いに指していく。史上初の女性棋士であるというだけでも規格外だと思っていたが、プロになって六年ほどで、しかも初タイトル戦で、相手が名人であり、そこで覚醒までしたとか姉弟子も十分化け物ではないかと、八一は苦笑する。

 

『そこから先は、名人だけの世界です。私の物とも、八一の物とも違う世界です。どんな世界かは、貴方が実際に感じてください』

 

「……名人は、やっぱり将棋が好きなんですね」

「そうだね。将棋は楽しいものだ。だから、もっと指していたくなる」

 

 八一が辿り着いた場所で感じるのは、将棋への愛と感謝だ。名人は将棋が好きで好きで、どうしようもなく好きで、この場所に居る。初めて将棋を教えてくれた人にも、通った道場の座主にも……自分の将棋人生を支えてくれた全てに感謝している。

 ただそれは、八一も同じだ。自分を師匠の内弟子として送り出してくれた両親に。憧れの背中を見せてくれた師匠に。厳しくもちゃんと見守ってくれた金美に。親元を離れて寂しくしていた自分に優しくしてくれた桂香に。こんな自分と一緒に歩いてくれる銀子に。切磋琢磨し、高め合って来た歩夢に。昔の自分のように、自分に憧れてくれた弟子達に。自分と正面から向き合って指してくれた全ての棋士達に、感謝している。

 

『貴方と名人は、とても相性が良いと思いますよ』

 

「はい……俺も、もっと貴方と指していたいです」

 

 喉が渇いても、頭が痛くても、全身に汗をかき、呼吸が苦しくなったとしても、もっとこの世界で指していたい。せっかく辿り着いた世界で、こんなにも将棋を愛している名人と。自分もこんなに将棋が好きなんだと言って。

 

「さぁ、続けようか」

「よろしくお願いします!」

 

 二人は今、存分に語り合う。第一局、第二局、第三局……最終局まで、この時が終わるなと思いながら。

 

 

 

「もしもし、せっかくの最終局に順位戦で行けなくてすみません。速報の通知も切ってたので、結果は知りませんよ。先に私ですか? 今のところ全勝ですよ、三月まで順位戦は負けるつもりはありませんし。それで? ――…そうですか、存分に楽しんできたようですね。八一」

 

 

 

 竜王戦。全七局の平均対局時間、約()()()()()

 

 

 

「防衛おめでとう。九段昇段は先越されたなぁ」

 

 

 

 九頭竜八一、四勝三敗で竜王初防衛に成功。史上最年少で九段への昇段を果たした弟に、姉は笑いながら称賛を贈った。

 

 

 

 

 

 

 竜王戦が終われば、新年を迎える。

 関西将棋会館で行われる指し初め式を終えて、新年の挨拶回りに新年会。関西のそれが終われば関東の方にも行かねばならないのは、東西合わせて唯一の女性棋士であるが故だ。毎年交互に東西の指し初め式に出るが、新年会と挨拶回りは毎年どちらも出るという、割と地獄のスケジュールである。正月とは一体なんだったのか、プロになってから毎年疑問に思っているが答えは出ない。

 

「ど、どうも……水鏡先生……」

「ネットで毎週研究会してて緊張するの止めませんか? 岳滅鬼さん」

 

 そんな関東での新年会を終え、金美は東京の和菓子を出すカフェで、女性で唯一三段リーグを戦っている岳滅鬼に会っていた。そもそも関東の新年会に出る事が、岳滅鬼と会う為のついで扱いだ。奨励会を駆け上がる妹弟子と愛弟子を除けば、水鏡金美は岳滅鬼翼に最も目を掛けていると言って良い。

 二人が出会ったのは、金美がプロになってから。関東の奨励会で『第二の水鏡金美』と騒がれている少女の噂を聞いて、少しだけ興味を持ったから。そしてその将棋を見て、()()()()()()と思って声を掛けてからの付き合いだ。

 

「そそ、そういうわけには……色々お世話になりっぱなしですし」

「それは、プロになって棋界に返してください。調子も良いようですから」

 

 遠慮がちな彼女に対して、金美は笑みをこぼす。雷を弟子に取ってからも、関東に来る機会があれば相談に乗ったり、何ならネットでの研究会用にパソコンを買ったりしている()()だ。環境を整える事で強くなるならそうすべきだし、弟子ではないにしても目を掛けた相手が潰れるのは、金美としても望む所ではない。

 そんな話を岳滅鬼は本人から聞いたし、感謝もしている。しかし当時最新のノートパソコンを『ポン』と買い与えられた衝撃は、何年経っても中々抜けない。なお、妹弟子や愛弟子に対して、ノートパソコンより高いタイトル戦用の着物を買い与えたプロ棋士がいるらしい。

 

 そんな岳滅鬼翼の三段リーグでの成績は、前期成績四位。次点を逃してしまったが、現在の三段リーグでの成績は好調……勝ち進めれば、プロに届くかもしれないと考えられる実力を彼女は持っている。

 

「調子がいいのは、水鏡先生もですよね……A級順位戦、全勝ですし」

「弟弟子が名人相手に勝ちましたからね。姉である私が情けない所は見せられません」

「……清滝一門は、今や凄い事になってますね。水鏡先生がプロになったのを皮切りに、女流棋士も出して、私に続いて奨励会の段位を得た女流タイトルホルダーに、最後は名人にも勝った竜王まで……」

「そう言われると、どこか違う一門の話に思えてくるのが不思議ですね」

 

 大福を二口で放り込みながらどこか他人事のように金美は言うが、彼女の顔に笑みが浮かんでいる事を岳滅鬼は指摘しない。数年来の付き合いともなれば、相手の為人(ひととなり)くらいは理解できる。

 水鏡金美は一門の人間を家族として愛している。自分が得た知見を余すことなく教え込めるくらいには、入れ込んでいると言って良い。本人としては『自分の知見が本当に通用するのかどうかの実験』と言っているし、岳滅鬼に対しても多少はそのフィードバックがある。

 そのおかげで、というのは何だか認めたくないと岳滅鬼は思っているが、限界が見えていたはずの自分の将棋が広がり、こうしてプロを目前とした場所まで来ているのだ。三段リーグは地獄の戦場で、今女性は岳滅鬼しかいないが、一人ではないと信じられる。

 

 その道をたった一人で切り拓いた女性棋士が、こうして機会があれば声を掛けてくれるのだから。

 

「……水鏡先生には、釈迦堂先生もよろしくと言ってました」

「気が向けば店にも顔を出しておきますが、モデルは絶対にしないと伝えておいてください」

「……似合ってましたよ?」

「似合っていようが着た私が羞恥心で耐えきれないんですよ。だから絶対着ません。仕事で依頼されても断ります」

 

 岳滅鬼は釈迦堂女流名跡の門下だ。彼女の弟子には八一の親友でありライバルの神鍋歩夢六段が居るが、彼も女性でここまで上がってきた岳滅鬼に対して多少は気を使っている。自身の研究会に招いて、色々と言い回しは独特だが分かりやすい指導をしているらしい。

 その中で岳滅鬼も、釈迦堂のブランドのモデルにされたようだが、普段の髪を無造作に伸ばした根暗な外見から驚くべき変化で、一端のモデルのようになったらしい。岳滅鬼がその写真を見せてくれないので金美は知らないが、釈迦堂が言っていた。写真を見たら自分もやらされる気がして見ていないと言うのもある。

 

「……水鏡先生。私は空二段と、祭神二段と比べて、どうですか?」

 

 岳滅鬼はコーヒーの入ったカップを両手で持ちながら、対面に座っている金美を見る。研究会では、岳滅鬼も銀子や雷と指す事はある。直接会って指した事は少ないが、ネット上でなら割と指している。

 ただ、それだと正確に実力を測れない。ネットの方が強いのか、実際に指す方が強いのか――…同性の、競い合う相手だからこそ、気になって仕方ない。

 

「そうですね。ちょっと読めません」

「読めない……?」

「その三人の中でなら、才能は雷。総合力は銀子。執念は貴女です。どれも馬鹿に出来ませんし、ぶつかり合った時にどうなるのかはまったくわかりません」

 

 だからこそ、と金美は言葉を挟んで続ける。

 

「私は三人ともを、プロの世界で待っています。地獄を超えてきた貴女達と指す事を、楽しみにしていますよ」

 

 

 

 この邂逅の二カ月後、あるニュースが日本中を駆け巡った。

 

 

 

 水鏡金美がA級順位戦を全勝し、名人に挑むというニュースが。

 

 

 

 

 

 

 将棋界のタイトル戦の中で最も長い歴史を持つものが、名人戦である。そのタイトル戦に史上初の女性棋士が挑むというニュースは、瞬く間に日本中を駆け巡った。将棋界も上から下に大激震が走り、マスコミ各社からの問い合わせを捌くのはいつもの事ではあるがその数が尋常ではない。

 

「ここまでとは……久々に堪えたわ」

 

 そうしたものの連日の対応を経て迎えた、名人戦第一局の前夜。清滝はそれが行われるホテルで弟子と会った後、同じホテルのラウンジで誰ともなく呟いた。

 

「隣り、よろしいですか?」

 

 感慨に耽っていた所に、知っている声が聞こえた。その方に彼が向けばやはりというか、そこにいるのは知っている人物だ。

 

「月光さん。まぁわしだけの席ではないですから」

「では遠慮なく」

 

 秘書の男鹿を伴った月光会長が、清滝の隣の席に座る。それから男鹿に外すように言えば、彼女は会話は聞こえないが目の届く範囲の席に移動していった。

 

「どうでしたか。彼女は」

「タイトル戦も初めてやないですし、緊張も楽しんどるようでした。ただ、マスコミの対応に少し疲れとりましたけど」

「なるほど」

「そう言う話を、聞きに来たわけやないでしょう?」

「バレますか」

「そりゃ、月光さんの弟弟子ですから」

 

 自分で言っててむず痒い言葉だが、清滝はそれでいいと思った。自分と違って才能に恵まれた月光に対する感情は色々と複雑なものがあったが、自分の弟子(子供)達を見ている内に整理がついた。

 そんな彼の言葉に少しだけ意外そうな顔をする兄弟子を見れたから、清滝は笑う。つられて月光も笑った所で、本題を切り出した。

 

「あの子がここまでくると、私は思っていなかった。それどころか、プロになるとも」

「……そう、ですな。わしもプロになるとは夢にも思いませんでした。娘のように思っとったあの子が、せめて将棋が嫌いにならんようにと思っとったくらいです」

 

 弟子入りした時の二人の予想を、水鏡金美は覆し続けていった。当時女子が極端に少ない奨励会に入り、女流棋戦に出る事もなく、たった一人で戦い抜いていった。級を、段位を上げる度に『もしかしたら』と言う思いはあったが、三段リーグを二期抜けられなかった時、『やっぱり無理か』とも思った。

 それを超え、三期目にして四段昇段を成してプロになった。女性で初めて初段を獲得しただけでも驚愕だったのに、史上初の女性棋士になった。

 

「貴方が私の所に『弟子に稽古をつけてほしい』と願い出てきた時は驚きました。そこまでする才能に、私には映らなかった」

「同じ関西の生石(おいし)玉将にも言われましたわ。『行っても一級じゃねーんですかね』と……女子でそこまで行ければ破格だと、思っとった」

 

 その頃はそう思っていた。弟子の才能を、師匠が信じていなかった。彼女にとってそれがどう映っていただろうか、清滝には想像する事が出来ない。それは月光も同じであり、『女性だから』とどこか偏見を持っていた事は否定できなかった。自分の『月光流』を嬉々として学び、自分なりに飲み下して昇華していく彼女を知っても、だ。

 

「それがさっき、『ありがとう、お父さん』って言いよるんです……娘の事を信じてやれなかった、こんなダメな親父に……ありがとうと……!」

 

 信じてなかった師を、弟子はそれでも見放さなかった。彼女はかつて『名人を獲る事が恩返し』だと言ったが、清滝にとっては違う。

 恩を返してもらうほどに、自分は出来た師匠ではなかった。違うのだ――…自分が、弟子に恩を貰っていたのだと、清滝は声を殺して涙を流す。そんな出来た、自慢の娘が、将棋界の最高峰に挑む。なら、今度は彼女が打ち勝ち、名人になる事を信じる。そうでなければ、年の離れた友であった彼女の祖父にも、彼女本人にも顔向けが出来そうにない。

 

「何を泣いているのだ。清滝九段」

「これは……釈迦堂女流名跡」

 

 そんな二人の所にやってきたのは、女流棋士の重鎮。弟子である神鍋歩夢を伴っての登場だが、彼女は清滝を挟んで月光の反対側の椅子に座り、彼に離れるように言った。歩夢は仰々しく礼をして、男鹿が居る方に歩いていく……どうやら会話が聞こえずとも視線が届くポイントはそこしかないらしい。

 

「明日の大盤解説はお願いします」

「弟子共々、任されよう。それで、関西棋士二人が並んで座っている理由は?」

「少し、明日の主役の片割れの事で昔話を」

「なるほど。だから清滝九段は泣いておるわけか」

 

 月光の説明で、釈迦堂は色々と納得した。関東に拠点を置く釈迦堂と、関西に拠点を置く月光はそこまで親しいわけでは無いが、仕事上付き合いは長い。その中で女性で初めて段位に上がった金美の情報も得ていたが、三段リーグで関東に来るまで接触する機会が無かった。

 

「にしても、水鏡八段が三段リーグに居る内に、プロになれば女流棋士にもなれる話を付けておくべきだった」

「彼女はそれでも、なりそうにはありませんよ?」

「何なら、名人になった時には名誉女流名人でも作るか」

「貴女を超える段位を作ったとして、受け取りそうにも無いですがね」

 

 両腕を交差させて大きく×をつくる彼女がありありと想像できて、釈迦堂は苦笑した。下手に女流棋士の資格を与えたら、嫌がらせで六大タイトルを永世位まで独占されそうだなと思ったのもある。

 

「……釈迦堂女流名跡は、彼女が勝つと信じているのですね」

「いや、名人も彼女も既に、余が量れる領域を超えておる。信じる信じない……そんな次元ではもう無い」

「そうですか……ではこの名人戦、どうなって欲しいと思っていますか?」

「水鏡金美に勝ってほしいと思っている。名人のタイトル通算100期も大記録ではあるが……あの戦女神がどこまで行けるか、余が死ぬまで見届けたいな」

「――…ふむ」

 

 釈迦堂の言葉を聞いた月光が、ふと何かを考えこんだ。その様子に釈迦堂は疑問符を浮かべ、清滝は相変わらず泣いている。

 

「どうした?」

「いえ、彼女が名人戦に勝ったのなら、それに相応しい呼び名が無いかと思いまして。貴女の『戦女神』という単語を聞いて少し」

「なるほど、そう言う事であれば余も知恵を絞ってみようか」

 

 どこぞの愉悦部のような笑みを二人は浮かべた。

 

「……流石に、変な名前は付けんでくださいよ?」

 

 泣いて顔の状態が酷い清滝に言われ、二人は顔を背けた。

 

 

 

 

 

 

 白一色の世界で、再び名人と金美は対峙した。

 

『お久しぶりです』

『楽しみにしていたよ。さぁ、張り切って指そうか』

 

 パチリ、と駒を指す音が響く。

 

『弟はどうでしたか?』

『十七であれは凄い。将来が楽しみだよ』

『気が合ったようですね』

 

 ただただ、駒を指す音だけが響き、対話は続いていく。

 

『君の将棋は、月光さんの光に生石君の捌き、清滝さんの執念……色んな物を背負っている』

『色んな人に貰いましたから。それがあって今の私があります』

『将棋を楽しいと思って、それに付随する責任などもちゃんと背負う覚悟をしている。それは何故だい?』

『覚悟というかまぁ……自分が歩んだ道を歩いてくる後輩に、下手な姿は見せられないって言う見栄ですかね』

 

 白一色だった場所が変わっていく。

 辺りは闇に覆われ、遠くに星が瞬く。全方位が星空になった場所は、金美が今まで見た輝くモノをちりばめた世界。その星空に架かる、金色に光る道の上に将棋盤が置かれ、名人と金美は将棋を指している。

 

『……これが、君の棋譜(人生)か』

『はい。将棋と共にあった、水鏡金美の棋譜(人生)です』

 

 和やかな対話とは裏腹に、盤面の状況は熾烈を極めていく。どちらが勝っているのか、最早読めるのは対局している二人にしかわからない。

 

『将棋は好きかい?』

 

 名人が飛車を指す。

 

『全人類で一番好きじゃないですか?』

 

 金美が金将を指す。それが唐突に輝き、盤上に一瞬だけ道を示した。

 

『ははっ、大きく出たね』

『それくらいは見栄を張りませんと』

 

 その光を見た名人は満足そうに微笑み、姿勢を正す。

 

『負けました』

『有難うございました』

『次は私の方が将棋を好きになって、君に挑もう』

『お待ちしております。誰かがここに来るまで、負けるつもりはありませんけど』

 

 

 

 対局室を出る。第一局から、今回の最終局まで、一局一局に全身全霊を賭けた名人戦が今、全て終わった。

 立って対局室を出れたのが奇跡で、戸を閉めてすぐの廊下で倒れる。精も根も尽き果てた身体は、すぐに動いてくれそうにないと金美は苦笑する。

 

「……よぉやったな、金美」

 

 そんな体に、涙声と共に自身の師が肩を貸してくれた。肩を借りて立ち上がれば、集まってくれた家族が勢ぞろいで自分を見ている事にようやく気付けた。

 

「……私、やったよ。お父さん。みんな」

 

 そう言って笑えば、皆が金美に抱きついてきた。師匠(父親)は号泣して顔を摺り寄せてくる。ヒゲが痛い。親友も、父親と反対側に顔を摺り寄せてくる。腕に豊満な胸が当たってちょっとイラっとする。

 妹と愛弟子が腰に抱きつき、弟が背中から、その弟の弟子はどうしたらいいかわかっていないが、両足に抱きついてきた。

 

 そんな風にもみくちゃにされながら、金美は笑った。

 

 

 

 

 

 

 名人戦。弟弟子の竜王戦と同じようにフルセットを戦い、四勝三敗で水鏡金美の勝利。

 

 

 

 

 

 

 史上初の、女性名人がここに誕生した。

 

 

 

 




短編なので次で完結。

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