ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
ドバイは暑い。とにかく暑い。夏季には気温が50℃を超えるので、ドバイのトゥインクル・シリーズは冬季である11月頃から3月頃にかけて行われている。そんなレースシーズンの終わりに行われるのがドバイミーティングだ。
そしてメイダンの第3レースとして、いよいよG2・ドバイゴールドカップが行われようとしていた。
関係者用の通路を通って、パドックへと向かう。体操服の裾を整えて、ゼッケンを摘んで皺を伸ばす。全世界への中継が行われる以上、隙のない私を演じていたい。何より日本から送り出してくれたライバルのためにも、恥を晒すわけにはいかないのだ。
闘気を練り上げ、湯気が出そうな程に身体を熱く燃やしていく。隣を歩くトレーナーの袖を掴み、何度も深呼吸を繰り返す。久々の緊張。走り慣れた日本とは違って、観客も芝もライバルも何もかもが違う。年度代表ウマ娘として背負う覚悟も
「アポロ、大丈夫?」
「……いや、あんまり良くない。ここに来てガチガチにアガっちゃってるし、上手く歩けない」
早くも脚が
今まで死力を削って戦ってきたライバル達の価値が、私の走りによって決定してしまうのだ。たった1度のレースで。下手をすれば、世界中から私のライバル達の実力が低く見られてしまうかもしれない。そんなの絶対に嫌だ。ライバル達の恐ろしさが身に染みて分かっているからこそ、ここで失敗して評価を下げたくはない。
「レース前だからかな、変にナイーブになっちゃってる」
「緊張してるんだ」
「慣れるもんじゃないよ」
無意識にだらんとしていればいいのに、私の肩は上がっている。筋肉が強ばって、不必要な力を早くも消費しようとしているのだ。そんなガチガチになった私を見て、とみおは「緊張は良いスパイスになるけど、今のアポロは
緊張は諸刃の剣だ。適度な緊張感があれば良いパフォーマンスを期待できるが、あまりにも過剰だと逆に動きの妨げになる。
なればこそ、ここはトレーナーを頼るべきだ。私には頼れる相棒がいる。誰よりも私のことを知っていて、私自身よりも私の欲しい言葉を理解しているパートナー。
私は焦燥感に駆られ、とみおの腕を引いて立ち止まらせる。彼がこちらを向く。何が起きているか、そしてこれから私が何を言うか――全て分かってくれているはずだ。
「……とみお」
「分かってる」
「緊張を溶かしてくれるような、甘い言葉が欲しいの。私のトレーナーなら、上手く口説いてみせて」
「注文、難しくない?」
「それは……ごめん」
「……まぁ、そうだな。ここは担当ウマ娘のために一肌脱ぐとしよう」
我ながら無茶難題だと思う。でも、彼は優しいから――彼の腕を摘んだ私の手をそっと手に取り、大きな手のひらでそっと包み込んでくれた。
「……俺は、我武者羅に走るアポロが大好きだ。少し危なっかしいけれど、君の走りは世界をも魅了すると――俺はそう思ってる」
「……うん」
「走って、逃げて、そのまま先頭でゴールを駆け抜けて。アポロレインボウというウマ娘が日本にいるってことを、ドバイのファンに見せつけてやろう!」
「――うんっ」
真っ直ぐな双眸。黒い瞳。私の何もかもを見透かすような、どこか艶かしい虹彩。時々私の耳や尻尾に釘付けになる悪い視線。
彼の声。少し低くて、落ち着きのある声。
柔らかい表情。私のことが大切なんだなって痛いくらいに分かる、その慈悲の表れ。
全てが私の中に流れ込んできて、ぐつぐつと煮立った闘争心が暴れ狂い始める。緊張感が引っ込み、その代わりに狂いそうなほどの激情が私を支配した。
少し角張った彼の両手に頬擦りし、
――ウマ娘は人々の
「――ありがと。もう
「大変結構」
「じゃ、そろそろ」
「うん」
「――行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
するり、と。彼の手を解いて、私は光の中へと駆け出す。
いよいよドバイゴールドカップの始まりだ。
ドバイのメイダンレース場は、スタンドとレースコースの間に楕円状のパドックがあり、日本のレース場と違ってスタンド席を離れる必要がない親切設計である。
つまり、レースコースとパドックが同じ方向にあるので、シームレスに観戦に移行できるというわけだ。混みまくってパドックとスタンド席を行き来できない日本にも取り入れて欲しいスタイルである。
関係者用通路から姿を現した私に微かなざわめきが生まれたかと思うと、ホームストレッチ前の巨大ターフビジョンに映像が映る。とうとうパドックのお披露目が始まろうとしていた。
早くもスタンドからは歓声が上がり、一気にボルテージが最高潮に達しようとする。ファンが一気に観戦モードに移り、会場の熱狂度がぐんぐん上昇しているのだ。巨大なターフビジョンの紹介も雰囲気作りにひと役買っている。
『1番、ドリルイザベル。5番人気です』
『アメリカ出身で、アメリカやヨーロッパを中心に活躍をしているウマ娘です。序盤からパワフルに駆け抜ける先行スタイルがメイダンでも炸裂するでしょうか? 注目のウマ娘ですよ』
楕円のパドックに集ったのは、世界中から参戦した長距離巧者16人。基本はヨーロッパを拠点として活躍するウマ娘が多く、中団付近のペースメイキングがどうなるかは始まってみないと分からない。
1番のドリルイザベルさんは、集団内で実質的なペースメイクを行うウマ娘になるだろう。大逃げを打った私に対し、他のウマ娘がついてこなければの話だが。
そして、次は私のお披露目の番だ。ターフビジョンに過去のレース映像が映し出され、その大逃げの模様にスタンドのざわめきが大きくなる。
自滅かと思ってしまうような大逃げを打ち、そのまま逃げ切ってしまうという
『――2番、アポロレインボウ。2番人気です』
日本以外のファンやウマ娘からしてみれば、アポロレインボウというウマ娘は得てして『未知』という言葉が似合うだろう。極東の島国で圧勝を重ねる可憐なウマ娘。
カイフタラさんが戦っていたヨーロッパと違って、日本はどちらかと言えばマイナー寄りの地だ。だからこその2番人気。芝やペースメイクのことを考えれば、私が1番人気でもおかしくはなかったけど――やはりメジャーな舞台でどうなるかは分からない、地力はあるが不安要素もあるということで2番人気になったのだろう。
『日本で年度代表ウマ娘を獲得したスーパースターです。超長距離でもとにかく大逃げする空前絶後のスタイルでG1を3勝し、日本のアイドルウマ娘ともいえる人気を獲得していますよ。その未知数ながら爆発力のある走りがメイダンでも見られるでしょうか? 期待しましょう!』
私は上着を脱ぎ捨て、完璧な仕上がりを披露した。輝く肢体、艶やかな芦毛。耳はぐりんぐりんと元気に動き回り、尻尾はばさばさと揺れている。どこからどう見ても絶好調。言い訳はできない。
私は観客達に手を振りながら、付近で見守るトレーナーやエルちゃん達に視線を送る。とみおは深く頷いて、エルちゃんやミークちゃんは無言で親指を立てていた。グリ子はよく聞こえないけど恐らく「頑張れ」と言ってくれているし、スズカさんも静かに見守ってくれている。トレーナー陣も神妙かつ期待の面持ちでこちらを見ていた。
絶対勝つから、見ててね。心の中でそう告げて、私は脱ぎ捨てた上着を回収した。
パドックでの紹介が進み、名前が何だか似ているヴィンテージレインボウさんの紹介が終わった次の次。大本命ウマ娘の登場にメイダンが沸き立った。
『13番、カイフタラ。1番人気です』
『来ましたねぇ、昨年のヨーロッパ最優秀賞ステイヤーです。追込にはもってこいの外枠になりましたから、恐らくこのレースは追込の作戦を取るでしょう。“笑わぬ天才ステイヤー”との異名を持つ彼女に、果たして勝利の女神は微笑むのか? ヨーロッパを代表する王道の走りには注目ですよ』
身長170センチを超えるカイフタラが衆目のもとに現れ、
されど、どれだけの歓声を浴びても彼女の表情は変わらない。不機嫌そうな仏頂面。後ろにきゅっと絞られた両耳。切れ長の瞳は閉じられており、ファンサービスをしようという素振りは一切見られない。そういうタイプの人なのだろうか。
「…………」
パドックでの紹介が終わると、待ちに待った本馬場入場が始まる。楕円状のパドックから解放されたウマ娘達が一斉に走り出し、メイダンのターフへと足を踏み入れていく。
準備運動がてら軽く走って慣らそうかと思っていると、目の前をカイフタラさんが通ったので反射的に彼女を呼び止めた。カイフタラさんはゆっくりとこちらを向くと、明らかに
「初めましてカイフタラさん、アポロレインボウです! 今日はよろしくお願いします!」
「……お前か。ルモスがやけに推してきたウマ娘っつうのは」
「多分そうです!」
ホームストレッチの外側、私達は向かい合う。友好的な接触を試みたつもりだったが、カイフタラさんの双眸は明らかな敵意を孕んでおり、今にも爆発しそうな激情がひしひしと伝わってきた。
何か失礼なことでもやってしまっただろうか。初会話でここまで印象が悪いと嫌な汗が噴き出してくるぞ。
あわあわしながら会話の種を探っていると、カイフタラさんが口元をほんの僅かに綻ばせながら質問してくる。しかし、その微かな笑顔の質は邪悪そのもので――
「おい、お前さ。ヨーロッパに憧れてるんだって?」
「あ、はい!」
「向こうに目的でもあんの? キングジョージ? それとも凱旋門賞?」
「いえ、私の夢は凱旋門賞じゃなくて……ゴールドカップやカドラン賞に勝って最強ステイヤーになることです!」
「……ふーん。最強ステイヤー、ね」
「はい! ステイヤーズミリオンも勝つつもりでいます!」
「――フッ」
一瞬、何事かと思った。笑われた? 吹き出した? カイフタラさんが? それを理解した途端、笑わぬ天才ステイヤーとは何だったのか――という疑問に襲われたが、彼女の黄金の瞳は全くもって笑っていなかった。
「ハハハッ! アハハハハッ!」
しかして、彼女は嗤う。私が次々に夢や目標を語ったことに耐えられなかったのか、カイフタラさんは思いっ切り吹き出した。呆気に取られて、私は言葉を発することができない。その金色の瞳は深く濁り、何を考えているのか一片たりとも分からない。
「聞いてた通りのマヌケだぜ、
「――――」
「オレな、お前みたいなヤツがいっちばん嫌いなんだ。実現不可能な夢を掲げやがって。何が最強ステイヤーだ」
「な――」
かっ――と、頭に血が上る感覚がした。ぐつぐつと沸き立った闘争心の一部が
わざわざ煽るような言動をした上、考えたとしても言わなくていいことまでベラベラと――。カイフタラさんがこんな人だとは思わなかった。私の夢は
視界の端でとみおが怪訝そうな顔をして私を見ていた。この痛烈な侮辱を完璧に凌げるほど私は強いウマ娘ではない。ギリギリと歯を食いしばり、犬歯を剥き出しにして彼女に食ってかかる。あくまで言葉だけだが。
「――じゃ、カイフタラさんには夢が無いんですか?」
「夢? あるぜ。小金持ちになって何にも縛られない生活をすることだ」
「そうじゃないですよ。ターフを駆けるウマ娘としての夢です」
詰め寄られても彼女は動じない。それどころか、さらに私をバカにしたような、せせら笑うような態度を崩さない。その表情の中には哀れみさえ混じっているようで――これでは、真っ直ぐに夢を目指す私が間違っているみたいではないか。
私の夢は最強のステイヤーになること。菊花賞、ステイヤーズステークス、有馬記念を勝って、日本の長距離界に敵がいないことを証明した。では、その次の舞台として世界が待っているのは至極当然のことではないのか。日本最強の次は世界最強を欲するのは当たり前だろう。この飽くなき追及こそが、
だが、カイフタラさんは私の夢をバカにした。あろうことか初対面のレース直前に――ふざけている。正直、ここがメイダンレース場のターフでなければ、このウマ娘をぶっ飛ばしていたかもしれない。私がそれを堪えたのは、世界中のみんなが見ていたから。それに、私が怒ったところで何のメリットもないからだ。
カイフタラさんにしてみれば、1番のライバルを怒りで錯乱させて勝利を攫おうという作戦かもしれないし……怒りに身を任せるのは得策ではない。どちらにせよ、このウマ娘は私が憧れていたようなウマ娘じゃないことは確かである。
「何か勘違いしているみたいだが、トゥインクル・シリーズに希望なんてねぇよ。……少なくとも、ヨーロッパの長距離界に関してはな。あそこは金を稼ぐためのつまんねぇ場所でしかなくなっちまった。ステイヤーズミリオンにはお前の期待するような栄光なんてない。――何もかもありゃしないのさ」
「そんなはずはっ」
「フッ……そろそろ時間だぜ。いやいや、お前のことが分かって良かったよ、
「――っ、バカにするのもいい加減にしてっ!」
「おぉ、怖い怖い。おっとポニーちゃん、オレを殴るのはやめておけよ。ウマ娘が戦うことを許されたのはターフの上だけだからな」
「…………」
「……そんなに不快なら、このドバイゴールドカップでオレを負けさせてみることだね」
「言われなくても、そのつもりです」
「ま、ステイヤーズミリオンは渡さねェよ。完全制覇すれば結構な金になるからな」
「私だって譲るつもりはありませんから」
「でも、
「……は?」
「お前は日本で夢を追って、オレはヨーロッパを中心に金を稼ぐ。それならお互い戦うライバルが減ってwin-winじゃね?」
「……あなたに言われて諦められるほど、安い夢じゃないので」
「ふーん? 日本に閉じこもってても、最強ステイヤーになれないことはないと思うけどな」
カイフタラさんはそう言って、私を置いてメイダンのターフを走り始めた。好き勝手に言うだけ言って、挙句の果てに言いっ放しで逃げてしまった。
さぞ快感だっただろう。私のようなウマ娘を
「――え?」
――あまりにも小さく縮んだ彼女の背中が見えた。身長173センチの身体だぞ。目の錯覚か。気のせいかと思って何度も瞬きするが、明らかにしょぼくれたような、哀愁さえ漂う擦り切れた背中は全く変わらない。
嘲笑うかのような下卑た雰囲気はどこかに吹き飛んでいた。彼女の耳が萎れるように倒れたかと思うと、左右バラバラに動いて不安げに倒れる。パッと見では堂々としているが、間違いなくその心は萎え切っている。
「カイフタラ、さん……?」
私は先程まで感じていた怒りさえ忘れて、呆然とその場に立ち尽くす。何なんだ、あの小さな小さな身体は。少なくとも強いウマ娘のそれではない。
ホープフルステークスのキングちゃん、皐月賞のセイちゃん、日本ダービーのスペちゃん、有馬記念のグラスちゃん――みんなみんな、大きかった。体躯が数メートルあるんじゃないかと見紛うほどに、溢れ出す闘志とオーラで敵を威圧していた。でも、今のカイフタラさんは――あまりにも矮小だ。身体の仕上がりこそ完璧だが、気持ちの面で欠けているモノが多すぎやしないか。
メイダンを走るカイフタラさん。背中に浴びせられる歓声に対し、彼女は向正面へと逃げるように走り去っていく。全くもってウマ娘の本能に反した人だ。
覇気はなく、志もない。だが、それらが無くともこの場の誰よりも強い。卑屈で、無礼で、どれだけひねくれていても――ヨーロッパ代表と言われるほどに強い。私が知る『強いウマ娘像』の真逆を行くような異質な存在。
――ウマ娘は人々の
ふと、URA賞授与式でルモスさんと交わした言葉が脳裏をよぎる。
『単刀直入に言おう。カイフタラはかなりひねくれた嫌なウマ娘だ』
『きっと日本から来たキミのことを雑に煽るだろうし、キミを傷つけることも言うだろう――それでも。キミにはカイフタラの心を救ってほしいんだ』
ずきん――と。こめかみが鋭く痛んだ。
志も夢もなく、疲れ切ってしまったカイフタラさんの心を救済する。それがきっと、ルモスさんが望んだことなんだ。
そして、
「…………」
しかし、初めて会った時のダブルトリガーさんといい、ルモスさんの含みある感じといい、今のカイフタラさんの歪みといい――……一体、ヨーロッパのトゥインクル・シリーズで何が起こっているのだろう。
偉大なステイヤー達に大きな歪みを与えてしまうほどに、欧州の長距離界が衰退しているというのか。衰退しているという事実自体は知っていたが、欧州ステイヤーのトップが
実情を知らない私には何とも言えないが――これじゃあまるで、カイフタラさんが言ったように――
「……ヨーロッパで夢を追うこと自体が、間違ってるみたいじゃん」
――さぁ、ドバイゴールドカップが始まる。