ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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94話: 邂逅!ドバイミーティング!その3

 時刻は夕食前、暮れの空が少しだけオレンジに色付いてくる頃。ようやっとドバイゴールドカップが開催される運びとなった。

 G2・ドバイゴールドカップは3200メートルの長丁場。スタンド前の直線からスタートし、左回りにコースを一周してゴール板を迎えるコース。高低差は全くと言っていいほど無い。名物となる坂などはなく、ただひたすらに平坦な道が続く。したがって、パワーの無いウマ娘でも十分に大穴を空けられるようなコースとなっている。

 

 日本での予行練習をした通り、日本勢から見ても走りやすいコースだ。芝の適性も問題ない。いつも通りに走れる。懸念があるとすれば最終直線の長さ。カイフタラさんの追撃を()()()()()()()算段は立っているが、かなり頑張らないと苦しいのは間違いない。

 それ以上に、カイフタラさんがあんな様子で戦えるのかという懸念の方が大きいけれど……この大舞台で敵の心配をしている暇はない。ここで勝たなきゃステイヤーズミリオン完全制覇は絶望的なのだから。

 

 ウォームアップが終わっても、海外レースにファンファーレはない。次々にウマ娘がゲートインしていき、パドックからスタートまでは流れ作業のようにあっという間だ。

 

『内枠のアポロレインボウ、颯爽とゲートイン。静かな様子で周りを窺います』

『流石に落ち着いていますね。長距離界の日本代表として、優勝という最高の結果を飾ることができるのでしょうか?』

 

 各ウマ娘が続々とゲートに収まり、カイフタラさんもすんなりとゲートに入った。彼女は間違いなく気性難ではあるけれど、ゲートインに関しては無問題らしい。

 

『外枠のカイフタラ、憮然とした表情でスタートの時を待ちます』

『彼女もまた素晴らしい落ち着きようです。欧州最強ステイヤーとしての意地を見せられるでしょうか?』

『全てのウマ娘のゲートインが終了し、準備が整いました。いよいよ発走です』

 

 大外枠のシアトルチャーミングさんが鋼鉄のゲートに進み出ると、16人のウマ娘達がバラバラに重心を沈め始める。観客が静まり返ることはない。ザワザワとした喧騒の中に、今か今かと期待するような期待が混じる。

 16人のウマ娘は黙ったまま。獰猛な息遣いが微かに響いて、ゲート内の空気がぴんと張り詰める。その中でも全く変わらぬ呼吸をするカイフタラさんが嫌に不気味だった。

 

 何もかも、読めないウマ娘。そんな印象を抱くと同時、開放の予感が背筋を貫く。瞬間、鋼鉄のゲートが勢いよく開かれた。

 

『――アポロレインボウ素晴らしいスタート! カイフタラもポンと飛び出して3、4番手を追走する! 16番人気のデュピティアンドロイヤルは大きく出遅れた! このスタートが明暗を分けるのか!? ドバイゴールドカップがスタートです!』

 

 視界を遮るゲートが取り払われ、私は地面を蹴る。3ヶ月ぶりの実戦レースだが、鈍りはない。最高のスタートダッシュからぐんぐん加速して、開始5秒で2身の差を開ける。

 私の大逃げはロケットスタートが無いと始まらない。スタート直後に1身の差をつけ、更なる加速でもう1身をつけて、やっと磐石と言える走りなのだ。瞬発力に劣る上、先頭(ハナ)を奪えないと思うような走りができないのだから、スタートで勝負が決まると言っても過言ではない。

 

『アポロレインボウ、スタートの勢いのままに先頭に躍り出た! 早くも2、3身の差を作ってアメリカ勢を置き去りにした! 対するカイフタラは中団後方、10番手付近に控えます!』

『大逃げの彼女がペースメイカーとしての役割を全うできるのか、甚だ疑問ですね。何せ彼女は芝3000メートルを2分台で走り切る化け物なんですから――早めに掴まえないと後ろのウマ娘はとにかく苦しいですよ』

 

 スタート直後から第1コーナーまで続く長い長い直線。その全長、何と1000メートル以上。速度が乗り切った上、位置取り争いがある程度落ち着いた頃に第1コーナーがやってくるわけだ。

 第1コーナーまでの距離は相当に長い。コーナーが得意な私にとって、コースを1周しか回れないのは向かい風である。

 

 斜め前と斜め後ろを撮影用の車が走り始め、慣れない視界の中、付近のターフが蹄鉄により震え上がったのが分かった。

 

(う――アメリカの人達、想像以上に攻めてくる――!)

 

 メイダンのターフが揺れ、力強い足音が私の後ろで蠢く。際立って大きな足音は2つ。かなり近い。スタートで差をつけたはずだったのに、もう直後にまで迫ってきているではないか。

 その足音の主は、アメリカ出身のドリルイザベルとシアトルチャーミング。ドリルイザベルは先行、シアトルチャーミングは逃げ。どちらも大逃げに準ずるレベルの速さで立ち向かってくる。

 

 アメリカのレースは起伏が少なく、小回りコースから短い直線が待っている。そのためにアメリカでは逃げや先行が目立ち、レースそのものがハイペースになりやすい。

 もっとも、こんなにガツガツ飛ばしてくるのは想定外だったが――始まってしまったものは仕方がない。元々私の逃げは集団を支配できるような逃げじゃないんだから。私のはどちらかと言うと、付き合わせざるを得ない状況を作ってハイペースの有利展開に持ち込む作戦。この2人にハナを取られるのは好ましくない。()()ペースを強制しなければダメなんだ。

 

『スタートから400メートルが経過して、先頭集団で争っているのは3人! アポロレインボウ、ドリルイザベル、シアトルチャーミングがそれぞれ密着して激しく競り合っている!』

 

 視界が激しく揺れ、ぞわぞわとした威圧感に襲われる。シアトルチャーミングは逃げ。私の斜め後ろまで位置取りを押し上げてきて、横に並びかけている。大きな足音、私よりもがっしりとした身体。純粋な競り合いになったら迫力で押し負ける。横に並ばれたら私の負けだ!

 顎を思いっきり引いて、更に加速。既に最高速度に達しつつあったが、先頭の景色だけは譲れない。日本代表としてのプライドもあるが、ハナを奪わなければ皐月賞のようになりかねないから、とにかく是が非でもシアトルチャーミングをねじ伏せなければ。

 

 最内を走りながら、スタンド前の直線に入っていく。視界の端にトレーナー達の姿が一瞬よぎる。瞬く間に彼らの姿は後ろに流れていって、一面の緑が支配するターフが視界を覆う。

 無理に競ってくるシアトルチャーミングと追い比べの形。黒鹿毛のウマ娘が闘志を剥き出しにして、私の尻尾を文字通り掴んできそうな勢いで迫ってくる。

 

 ウマ娘という生き物は見た目こそ可憐であるものの、中身を覗けば獰猛な動物そのものだ。貪欲に勝利を求め、競争相手(ライバル)を打ち倒すため死力を尽くして土を蹴る。おおよそ現代社会には不要と思えるほど肉体を鍛え上げ、時には身体をぶつけ合ってでも生物の限界速度へ挑戦するその姿は、ある意味狂人のそれだ。

 でも、勝ちたいんだからしょうがない。勝利のためならどれだけの対価を支払っても良いと感じてしまうんだから――どうしようもなく、仕方がない。

 

 ドリルイザベルは3番手に控え、ペースを多少落とした。てんで譲らない私とシアトルチャーミングは後続を引き離して意地の張り合いを始める。

 

『ドリルイザベルは3番手に控えた! 3番手と4番手は2身の差があり――3番手と2番手・シアトルチャーミングとの差は3身。かなり縦長の展開となっています! 対して10番手になったカイフタラ、前に出たアポロレインボウとは7身以上の差があるぞ!?』

『開始600メートル時点で、先頭から最後方まで15身と縦長の展開ですね。ここまで距離が開くと、後ろの子達が届くのか早くも心配になってしまいます』

 

 レース開幕から600メートルを通過した。長いスタンドの中間を展望し、やっとカーブが見えてくる。しかし、シアトルチャーミングは600メートルもの間食らいついてくるのだ。息を整える暇もない。ほとんど無呼吸の状態で先頭にしがみつき、口の端から涎を垂れ流しながら首を伸ばしてハナを譲らない。

 無論、相手も同じくらい苦しいはずだ。過去の映像を見たところ、彼女は私のような大逃げタイプではなく、レース中盤で少しだけペースを緩める傾向にある。もう少しでエネルギーが切れるはずだ。

 

 ――が、向こうも同じようなことを考えていたのか、アタマ差で競り合うシアトルチャーミングと目が合う。800メートルを通過。お互いにまだ譲らない。いい加減にしないと、この異常すぎる体力消費によって共倒れだ。このペースで走り抜けたら、第3コーナー付近で大失速は免れない。

 

(――これ以上競り合ったら共倒れだ!! そんなことは分かっているはずでしょ!?)

(分かってるから譲れないんだっつの! アポロレインボウお前、ほっといたらあっさり逃げ切っちまうだろうが!!)

(そっちだってそうでしょう!? いい加減しつこいっての――)

 

 シアトルチャーミングも私と同じように、ハナを奪ってでしかベストを尽くせない性質のウマ娘。私は彼女の気持ちが痛いくらい分かるし、彼女もまた私の気持ちが分かるはず。故に譲れない。

 今起きているのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――地獄が地獄を呼ぶ、破滅への道程だ。本当の破滅がやって来るまで譲り合わない、最低最悪の不毛な意地の張り合いでしかない。

 

 スターティングゲートから900メートルが経過し、スタンドと直線の終わりがすぐそこに見えてくる。既に歓声はざわめきに変わっており、予想外のレース模様にメイダンの空が黄昏を帯び始める。

 

『だ、第1コーナー直前にして……レースは早くも波乱に陥っています。何と、1、2番手を争うアポロレインボウとシアトルチャーミングが超ハイペースを演出!! そのタイムは何と――1000メートル通過時点で、いっ、1分を記録しています!!』

『2番手と3番手の差は既に5身……それでも3番手以下の集団は超ハイペースの2人に引っ張られているわけですから、後方待機しているカイフタラ達は終盤に足を残せるのでしょうか? おや、そのカイフタラは大きく位置取りを下げて16番手に控えました。何かトラブルでもあったんでしょうか』

 

 第1コーナーを曲がり始める。大体のコースは内側に向けて傾斜がついているため、遠心力を殺して走りやすい。それと同時に、外側からのプレッシャーを躱しやすくなる。――普通なら。

 

 シアトルチャーミングは渾身のコーナリングを発揮し、私の真横に並びかけてきた。コーナーの外側という距離的な不利があるにも関わらず、だ。

 並大抵のウマ娘じゃない。15番人気という数字では測れない恐ろしさがある。もちろん、15番人気という数字の意味は実力が15番目というわけではなく――15番目に期待されているということで。ドバイの祭典たるレースに集まるウマ娘は、どの子も珠玉の如き実力を持っているのだ。

 

 内ラチギリギリに身体を倒しながら、コーナーを利用して加速する。食らいついてくるシアトルチャーミング。もうスタートから1200メートルを通過している。私の予想では、もし競りかかってくるウマ娘がいても、第1コーナー前に諦めてくれると思っていたのに。

 勝利にかける激情(想い)が並大抵じゃない。私も、この人も。

 

 アタマ差をつけて第1コーナーを曲がり切って、第2コーナーに突入する。まだ差は開かない。ハナを奪いたいという意地ひとつで張り付いてくるシアトルチャーミング。セイウンスカイとも違う、ダブルトリガーとも違う、そして恐らくサイレンススズカとも違う――とてつもない逃げと根性。こんなヤバいウマ娘が注目されてないって、何かの冗談じゃないのか。

 

 吐き気を抑えながら、第2コーナーの終盤に差しかかる。もう既に1300メートルはラストスパート並の速度で走っている。1分近く、無呼吸同然で競り合う逃げウマが2人。冷静になれば呆れて当然の意地の張り合いを、私達は世界中が見守る大舞台でぶちかましている。

 とてつもない暴挙にして、勝利への最善策。どちらが折れるかの我慢比べはまだ終わりそうにない。

 

『第2コーナーを曲がって、僅かの差でアポロレインボウが先頭! 外側にシアトルチャーミング! 7身の差が空いて、3番手のドリルイザベル! カイフタラは先頭から12身も離れて最下位を悠然と走っている!! これは相当の早仕掛けをしないと届きませんよ!!』

『どうなんでしょうか……恐らく彼女は、先頭の2人が最終直線で潰れると見てペースを落としたんでしょう。逆に、3番手から15番手は先頭の2人を捕まえようという意識がある分、ハイペースになってスタミナを消費させられている気がしますね。これが大逃げの嫌なところです』

 

 死の足音さえ聞こえてきそうな極限状態の中、向正面に入る。滝のような大汗を掻くシアトルチャーミングの横顔が見えた。彼女とて全力全開で走ってきて、体力の限界は近いのだろう。だから譲れと言ったのに。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 青い顔をしたシアトルチャーミングと目が合う。明らかな酸欠状態。もはや勝利は望めないような惨状ではないか。だが、その目に宿る闘志は未だに衰えず――鋭い眼光が私の横顔を穿ち、「さっさとどけ」と言わんばかりに肩を寄せられる。外側から追い抜きの体勢。その距離、数センチ。あまりにも近い。

 

(――っ、ぶつかるっ!)

(このドバイの地で――大穴を空けてやるんだッ!)

 

 外側からぐいぐいと圧されて、シュレッダーの如く流れていく内ラチ付近に追いやられる。とてつもないパワー。1分半近くを全力で走り、力尽きようとしているウマ娘の出力ではない。速度を緩めるという選択肢は無いため、当然内側に向かって追い立てられる。

 致命的なラインまでは攻め立ててこないが、柵に足を取られて転倒すれば目も当てられない大事故に繋がるだろう。内柵がすれ違っていく轟音が肉薄して聞こえる。これ以上は内に寄れない。

 

 反発するようにシアトルチャーミングを押し返そうと外に進路を進めた瞬間――ガツン、と接触した。撫でられただけかと思ったが、彼女の腕が脇腹にぶつかり、鋭い痛みが走る。

 

「あうッ――!」

 

 反射的に身を捩ってしまい、速度が減衰する。肺から酸素が吐き出され、大きく口を開いてしまう。極限のバランスで酸素のやり繰りをしていただけに、その一撃はあまりにも致命的だった。さすがに故意ではないが――私の減速を好機と捉えて懸命の加速をするシアトルチャーミング。さすがに加速は鈍いが、ハナを奪うという目標は達成されてしまうだろう。

 スタンドが揺れたような気がした。日本では審議のランプが灯るような接触だ。しかし、彼女からすればラフプレーの自覚すらないだろう。単純な事実を見落としていたことに気付く。

 

 欧米はポジション争いが熾烈で、この程度の()()()()()()など日常茶飯事なのだ。しかも、私は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 最も海外志向の強いエルコンドルパサーや、既にアメリカに赴いていたサイレンススズカとの併走は行ったが――やはり彼女達は日本式のレースに慣れていた。本物の海外レースを味わったことが無かったのは、ここに来て生まれた思わぬ落とし穴だ――!

 

 海外のウマ娘は何故身体が大きい子が多いのだろうと思ったことがある。でも、今なら分かる。身体がデカくなきゃ、そもそもやっていけないってことなんだろう。筋骨隆々な子が多いのも、激しい位置取り争いを体感した今なら頷ける。

 

 脇腹を刺す鈍い痛みに唇を噛み締めながら、遂に真横に並び立ったシアトルチャーミングを睨めつける。速度差は歴然。相手が速い。抜き去られ、安全な距離を取った上で()()()前を塞がれてしまう。ハナを奪われてしまう。

 ここでハナを譲ったら――今までの1600メートルが――有記念からの数ヶ月が――私の憧れが――全て遠のいてしまう。1番手を譲ることは、それ即ち敗北を意味する。私の理想が現実に敗北することを意味する。それだけは絶対に嫌だ。

 

 先頭を死守するこの矜恃(プライド)は、私の生き様でもあるんだ。譲れない、譲らない、そんな意地と根性だけで戦ってきた私を舐めるな。

 体格で負けるなら――気迫で圧し返す!!

 

「っ、ああぁぁああああああああああッッ!!」

 

 一瞬の速度で勝ったシアトルチャーミングが、斜め前方に進路を変更する。その差は1/4身程。彼女が前、私がやや後方。私の進路を塞ぐことを匂わせつつ、審議のランプが灯らないギリギリのラインを攻めて強引にハナを取るつもりだ。

 ――させるか。私は歯を食いしばり、激痛に(かお)(しか)めながら足の裏を大地に叩きつける。強引なスパート。一度失った速度エネルギーを取り戻すため、莫大な体力消費をもって最高速度を取り戻す。

 

「何ィ!?」

 

 そして、体躯の小ささと前傾姿勢も相まってか――柵と彼女の身体を掻い潜って、ハナを奪い返すことに成功した。審議による降着だけは避けたかったのだろう、柵と相手の間に隙間自体はあった。飛び込むのに速度と勇気が必要だっただけで。

 一瞬、安心感と達成感で目の前が暗くなりかけたが、脇腹の痛みで現実に帰ってくる。怪我の功名と言うやつだ。私は口の端を吊り上げて、内側に進路を取っていたシアトルチャーミングの真正面に遂に躍り出た。

 

 先頭の景色を取り戻した瞬間、ぶわっ、と目の下に汗が滲む。頭頂部の毛穴から発生した嫌な肌寒さが、背筋を通って全身に浸透していく。ねっとりとした脂汗が全身を流れていくのが分かった。本気でまずい時の汗のかき方だ。体力消費量が異常すぎる。痛みのせいもあるか。

 でも、あの接触があったおかげで、シアトルチャーミングを黙らせることができた。やっと諦めてくれたのか、シアトルチャーミングは2番手の位置に控えてくれている。

 

 ただ、相手を黙らせるまでに費やした距離は1600メートル以上。レースの半分を全力疾走してしまった。このスタミナ消費はあまりにも重い代償としてレース後半にのしかかってくるだろう。

 

 言い訳をするなら――未来のリスクを考える暇なんてなかった。全身の酸素を全力疾走に費やしている状況で、思考に無駄なリソースを割く暇などあるわけがないだろう。人間は必死になっている時ほど思考が単調で狭くなってしまうものだ。

 

 今この瞬間を全力投球でやっていかなくちゃ、理想の未来さえ望めなくなってしまう。先頭のままレース後半に突入し、カイフタラの追撃を凌ぎ切るという――理想のレース運びさえままならなくなってしまうだろう。理想のレース運びをするために、理想型を崩さねばならない。それがレースの恐ろしいところだ。

 どれだけ万全な準備をしても、予想外のことばかり起きる。ベストを尽くせたレースなんてほとんどない。型にハマったレース運び以上に、転々と変化する状況に対応する柔軟性が必要とされるトゥインクル・シリーズという舞台。そうあってこそ燃えるし、勝利の価値が高まるというものだが。

 

『レースの半分を通過して、やっと先頭が決まった!! アポロレインボウがハナを掴み取ったようです!! シアトルチャーミングがズルズルと後退し、群に呑まれていく!! 1番手のアポロレインボウと2番手のドリルイザベルとの差は10身!! 菊花賞(セントレジャー)で見せたような会心の走りの再現となるか!?』

『おや、カイフタラが動き始めましたよ。レース後半になると同時にロングスパートの構えを取ったようです』

 

 ――シアトルチャーミングを競り落とした後は、最大の敵たるカイフタラに注視しなければならない。彼女は集団の最後方につけ、無駄な体力消費はほとんどない。代名詞のロングスパートに加えて、最終直線で炸裂する爆発的な末脚をぶちかます気満々だろう。そして私はカイフタラの末脚を防ぐ手立てがない。このまま普通に戦っていたのでは間違いなく負ける。

 

(どうする――どうする!? このままじゃ追込のカイフタラに捕まえられる! 想定外に対応できなかった私の落ち度だ。でも、カイフタラは想定外を想定して襲いかかってくるはず! 考えろ、考えろ――!)

 

 思考を高速回転させる。無駄な酸素を消費しているのだろうか。分からない。無茶苦茶な結論に辿り着くかもしれない。でも、考えないで負けるよりは必死にもがいて負ける方がよっぽどマシだ。

 

 そうして酸素不足の脳が行き着く先は、横暴にして暴論とも言える最高の結論だった。私の理想を追求し、勝利を手にするには――3()2()0()0()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。これが勝利への唯一の手立てにして、私がやるしかないギャンブルだった。

 3分間の無呼吸疾走。果たして耐えられるだろうか。いや、やるしかない。3200メートルのラストスパート、耐え切るしかない……!

 

「わた、しが――……勝ぁつっ!!!」

 

 競り落としたシアトルチャーミングを尻目に、私は残りの1600メートルも()()()()()()()()()()()()()決意を固めた。これは絶叫ではない。勝利のための鼓舞だ。自らを奮い立たせるため、限界寸前の身体を突き動かすための気合いだ。

 視界が白黒に明滅する。四隅にぱちぱちと電流が流れ、脳髄がスパークする。吐き気が収まらない。気持ち悪すぎて、気持ちいい。胃の中を(めく)り返されるような不快感の中にいるはずなのに、気分が高揚する。

 

 ――これでいい。このど根性だけで私は走ってきた。

 頑張る私、もっと頑張れ。

 私の夢のために。

 

『おっと――アポロレインボウ更に加速!? 第3コーナーに入ったアポロレインボウ、またもや加速したぁ!! 彼女の身体に流れているのはガソリンでしょうか!?』

『う、ウソでしょう! あんな死にそうな顔をして――まだ走れるというんですか……!?』

『スタンドからは悲鳴の如き大歓声が上がる!! カイフタラは現在13番手!! じりじりと追い上げるロングスパートでアポロレインボウを射程圏内に捉えたのか!? 憮然とした無表情は自信の表れなのか!? しかし――しかし――まだその差は15身――いや、20身はくだらないように見える!!』

 

 前後不覚寸前に陥りながら、苦しみの極限を味わう。吐き気が止まらない。吐いているかも。口の端が濡れている。いや、風で乾いているのか? 喉も干上がって痛い。粘膜が渇き切って激痛が刺している。

 視界が自然と上を向きそうになる。意識が飛びそうなのだ。斜め前方のカメラがバッチリ見ているから、白目だけは剥いちゃダメだぞ、アポロレインボウ。

 

 脚が震えている。腕が上がらない。脇腹を内側から締め上げられている。体操服が肌にベッタリと纏わりついて、あまりにも重い。四肢の先の感覚がない。足の指先でターフを()()()、もっと加速しなきゃいけないのに。

 カイフタラは()()5()()()。容赦のない加速とオーバーテイクによって、第3コーナーから早くも最高速度に達しようとしているではないか。

 

 ――ほうら、追いつかれそうになってる。化け物め。何故、最初から最後までラストスパートしようとする私に食らいついてこれるのだ。意味がわからない。

 第4コーナーに入って、ギリギリいっぱいのままゴール板を睨むが……白黒で全然何も見えなかった。視界が霞んでいるのだろう、200メートル先は真っ白な光に包まれている。

 

『だっ、第4コーナーを曲がっていくアポロレインボウは現在10身の差をつけて圧倒的リードを保っている!! だが、1番人気のカイフタラ!! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()っっ!! 遂に2番手に躍り出たカイフタラ!! 絶対王者が狙いを定めたのは芦毛の妖精だぁっ!!』

 

 逃げは群の先頭を突き進み、レースを引っ張る。対する追込は群の最後方に位置し、最後半に末脚を爆発させて勝利を奪い去る。

 仮に同等の実力を持った逃げと追込のウマ娘がいたとしよう。コースや枠番の有利不利こそあるものの、一般的にお互いがベストを尽くしたなら――逃げが勝つ、と言われている。

 

 逃げの理想形は、最初から最後までトップスピードで走り切ること。その理想形を体現するウマ娘がいたなら、誰も追いつくことはできないだろう。

 常にトップスピードを出力させるだけのスタミナと、絶対的なスピードこそ必要ではあるものの――理論上では決して負けることはない。

 

 ――なんて、空想の話だ。少なくとも長距離レースに限っては。

 無理なのだ。あまりにも儚い絵空事。短距離ならともかく、長距離でそんなレース運びをできるわけがないだろう。そんなことをしたら死んでしまう。

 

 私は吐き捨てるように脚を動かし続ける。残り600メートルを切って、私の体力は完全に尽きようとしている。少なくとも、レース最序盤のような圧倒的な速度はない。心臓が破裂してしまう。それでも、十分な速さでもって走っている。平均的なラストスパートに匹敵する程度の速さで走れているはずなのだ。

 対するカイフタラは、一点の隙もなく襲いかかってくる。そんなの、おかしいじゃないか。今の今までは間違いなくラストスパート並の速度で走っていた。ここまでの2600メートルは最高速度で走り抜けていたはずなのだ。なのに、カイフタラは私との差を詰めてきている。これが空想でなくて何だ。

 

 菊花賞以上のバカげた走りをしているのに、カイフタラは表情ひとつ変えずに食らいついてきている。レース中盤で25身はあったカイフタラとの距離が、今は10身もない。()()()()()()()()()()()()()()()()()。化け物だ。純粋なステイヤーとして彼女以上のウマ娘はいないだろう。

 

 第4コーナーを曲がって、最終直線に向く。メイダンの直線は長い。その全長は450メートル。ダービーの舞台となった東京レース場よりは少し短いが、それでもカイフタラの追込が決まるには十分すぎる長さ。

 カイフタラとの差は7身。ヤツめ、速すぎる。もっと速く駆け抜けなければ。たとえ、この脚が粉々に砕けても――

 

「――、……――――!!!」

 

 私は声にならない声で咆哮した。勝ちたい。負けたくない。カイフタラに負けたくない。絶対に勝つ、と。

 砂漠の風が吹き抜ける。顔の全面に叩きつけられる。砂混じりの青臭い風。目が痛い。まつ毛が吹き飛んで、瞼が裏返りそうだ。時々目の中に砂の粒子が入ってとてつもなく痛い。でも、擦ってはいけない。目の粘膜を傷つけて失明の恐れがある。だから、一生懸命瞬きをして、砂を涙で洗い流しながら走るしかないのだ。

 ダートを走っていたみんなは、瞬きひとつしていなかった。前レースの話だが。今もそうじゃないのか。それくらいの気概でやってやるんだ。私だって、負けるものか。勝つのだ。

 

 力尽きそうな身体で走る私に、力が宿る。空っぽになったスタミナではなく、その競走寿命から速さを前借りするように――『未知の領域(ゾーン)』が翼を広げる。

 

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】

 

 砂漠の果てのターフに、淡い銀雪が降り注ぐ。異形の一本桜が現れ、敵を待ち構える。最初から最後までトップスピードで駆け抜けたいという願いを叶えるように、想いの力が背中を押す。身体の至る所が悲鳴を上げていた。

 刺すような脇腹の痛みと、限界を訴える脳回路。脳髄が焼き切れ、狂い出す。何度も気絶しそうになって、脇腹の痛みに助けられる。もう身体の中に酸素はない。二酸化炭素がエネルギーになってくれないだろうか。

 

『ア、アポロレインボウまた加速!! とてつもないスタミナ!! こんなレースは見たことがない!!』

『で、ですが!! 後ろからカイフタラが――!!』

 

 完璧なレース運び。限界を超える圧倒的な大逃げ。そして、カイフタラに魅せつけた超絶的な熱量の『未知の領域(ゾーン)』。

 そうして生命(いのち)を削りながら走る私に、呆れたような声が遥か後方から木霊する。

 

「何がお前を突き動かす」

 

 カイフタラの声だ。ぞわりと背筋が凍るような感覚に襲われ、カイフタラの気配が迫る。

 

「オレには分からないよ」

 

 ――来る。『領域(ゾーン)』――……いや、『未知の領域(ゾーン)』。

 残り350メートル、その差は5身。

 

 暗い闇の中から、死神がやってくる。ひとり、またひとり追い抜いて、首を狩り落としていく。既に私以外の14人は斬り捨てられた。これだけ完璧に逃げても、抗えないのか。

 目の前の光景が歪み始め、カイフタラの全身から生み出された黒い瘴気が私の四肢を呑み込み始める。途方もなく強いチカラ――激しい想いが私を侵食してくる。

 

 深い闇の中から一条の光が差し込み、黒い瘴気を通して激情が流れ込んでくる。見せられる。魅せられる。カイフタラが練り上げた心象風景――『未知の領域(ゾーン)』。

 刹那、異空間が現れる。深い闇だけが広がる虚無。その中にぽつんと佇む孤独な少女。まるで死神だ。いや、少女は立っているだけ。環境が彼女を死神にしてしまったのだ。

 

 ――オレはこの世界が嫌いだ

 

 ――……本当は、好きだったんだけどな

 

 (おぞ)ましい。そして、どこか寂しい彼女の『未知の領域(ゾーン)』が発現した。

 

 ――【Turn of a Century】

 

 カイフタラの末脚が爆発し、それと同時に欧州の王者が進軍を開始する。王者の走りとは何たるか、それを体現するような直線一気。鬼神の如き超加速により、残り200メートル時点で2身まで詰め寄られてしまう。

 ありえない、異常な加速。大股の1歩が踏み込まれる度に、1身、また1身と差を詰め寄られてしまう。絶対不可能な大差を覆す天才ステイヤーの末脚。前走のアイルランドセントレジャーからは考えられないレベルの成長だ。信じられない、信じたくない現実がそこにあった。

 

『残り200メートルを通過して、猛然と追い込んでくるカイフタラ!! レコードペースで博打逃げを打ったアポロレインボウが()()()()()()()!! カイフタラ伸びる!! アポロレインボウは止まっている!! アポロレインボウは頑張れるか!?』

 

 異形の一本桜が暗黒に呑まれ、容赦なく薙ぎ倒されていく。深い闇が星空を覆い隠していく。

 残り100メートル。カイフタラが真横に並ぶ。最後の勝負根性を発揮して懸命に差し返しを図るが、叶わない。カイフタラは無表情だった。瞬きひとつせず、ただただゴールだけを見て走っていた。

 

『カイフタラ、アポロレインボウに――並ばないっ!? 何と並びませんっ!! 残り100メートルを通過して、恐ろしい末脚でカイフタラがアポロレインボウを抜き去ってしまった!! アポロレインボウ懸命に追い縋る!! しかし――』

 

 残り50メートル。

 カイフタラの背中が、私の夢が、遥か彼方に遠のいていく。

 

 負けたくない、勝ちたい、そう願っても身体は動かない。もはや精根尽き果てて、残りの数歩を歩むだけ。

 レース前半で競り合いすぎた。脇腹に受けた打撃と、そのリカバリーが響いた? いや、多分()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あの接触がなければ、彼女は余った力を振り絞っていただけなのだ。ベストは尽くした。これ以上のレースなど出来ようはずがない。言い訳のように言葉を並び立てても、カイフタラは笑わない。残酷な結果だけが近づいてくる。

 

 先頭の景色が、崩れていく――……

 

『――“笑わない天才ステイヤー”カイフタラ!! 勇猛果敢に逃げ続けた芦毛の妖精を、見事にゴール寸前で躱し切ったっ!! 3分15秒0の大レコードで、王者が王者である所以を証明しましたあっっ!! ()()()()()()()()()()()()()()()()っっ!!』

 

 ――1身差の2着。

 それが黄昏のメイダンで見た景色だった。

 

 


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