ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
検査の結果は“特に異常なし”。脇腹の打撲痕に湿布を貼っておけば、内出血が治るらしい。もし痛みが引かないようなら、また病院に行けとのことだった。
大したことがなかったのでメイダンレース場に戻ると、ドバイゴールドカップの次の次のレース……グリ子の出走するアルクオーツスプリントが始まる所だった。
芝1200メートルのスプリント戦。日本では珍しい直線限定戦である。みんなに心配されながらスタンド席に帰ってきた私は、早速グリ子の応援を始めた。
「アポロちゃん、惜しかったデス」
「……ナイスファイト」
「2人とも、ありがとね」
ミークちゃんやエルちゃんが背中を叩いて励ましてくれる。レースに負けた後も普段通りの接し方をしてくれるのはありがたい。
エルちゃんが「あ、背中叩いたら痛かったですか?」と大真面目に聞いてきたので笑いそうになる。ぶつけたのは脇腹だし、何なら全然痛まないから大丈夫だよと言っておいた。くすくす笑いながら視線をターフに戻すと、パドックの方向からワッと声が上がる。いよいよお披露目の開始である。
病院に行っている間にすっかり夜へ染まったメイダンは、異様な盛り上がりに包まれていた。その理由は多分……いや確実にグリ子のせいだろう。ぶっちぎりの1番人気。しかもファンサービス旺盛で、顔がとてつもなく良いと来る。メイダンに押しかけたファンも喜ばないわけがない。
美しい鹿毛の髪が煌めいて、実況がその名を呼ぶ。
『7番グリーンティターン、1番人気です』
短距離王者に相応しい真紅の勝負服を纏ったグリ子は、マントをたなびかせながら気丈に微笑んで観客にアピールしている。視線が向けられる度にスタンド席の女性客が気絶し、グリ子が白い歯を見せるだけであちこちのファンが昇天していく。
今日も絶好調みたいだ。心配は要らないだろう。
食い入るようにパドックを見つめるみんなを尻目に、私は先程から視線を送ってくるウマ娘に目を向けた。
「……ルモスさん、さっきから私のこと見すぎですって」
「あれ、バレてた?」
振り向いた先にいたのは、可憐な栗毛のウマ娘こと歴史的ステイヤーのルモスさんだった。ファン感謝祭に会った時以来である。今日の彼女は栗毛を三つ編みにしており、ラグジュアリーな格好も相まって優美な印象を与えてくる。
彼女の後ろには帽子を被ったダブルトリガーさんとイェーツちゃんがいて、お洒落するとみんな綺麗だなぁなんて他人事のように思う。
「ダブルトリガーさんも、お久しぶりです」
「あぁ、3ヶ月ぶり以上の再会だな。嬉しいよ」
ダブルトリガーさんは軽くハグしてきてから、私のお腹の辺りに視線を移す。じろじろと不躾な目線を送ってきたかと思うと――私の服に手をかけ、そのまま服を捲り上げようとしてきたので、私は軽く悲鳴を上げながらダブルトリガーさんの手から逃れた。
「そんなに動けるなら脇腹は平気そうだね」
「もっとまともな確かめ方は無かったんですか!」
「いやいや、アポロの反応が可愛らしいから……ついつい
ダブルトリガーさんは鹿毛を妖艶に揺らしながら、くすくすと笑う。前会った時と比べると大分明るくなったというか、雰囲気が柔らかくなったような感じがする。ルモスさんと一緒にいるからだろう。
「ドバイゴールドカップは惜しかったね。カイフタラは強かっただろう?」
「強すぎて嫌になりますよ」
「……分からんでもない。私が戦った時は本格化前だったが、それでも十分すぎるほど強かった。とはいえ、お前に勝てるとは思っていなかったんだがな……カイフタラのやつ、この冬でひと皮もふた皮も剥けたらしい。レコードを叩き出すとは思わなかった」
ダブルトリガーさんは首を振って、どこか遠くを見つめた。かつて戦ったライバルに対して色々と思うところがあるらしい。「敗北を引きずっていなさそうで安心した。もし身体に違和感があったらトミオにすぐ言うんだぞ」と、やけにとみおのことを強調する台詞を言った後、彼女は近くにいたエルちゃんの肩を叩いた。
「……ケ!? あなたはダブルトリガーさん!?」
「初めまして、エルコンドルパサー。凱旋門賞を目指しているらしいじゃないか。少し話をしたいんだが、いいかな?」
ヨーロッパ遠征について、エルちゃんに色々と教え込む予定なのだろうか。ダブルトリガーさんってば優しいんだなぁ。ルモスさんはルモスさんで、私達の後ろにいる東条トレーナーと何か話し込んでるし……ふと視線を下げると、手持ち無沙汰になっているイェーツちゃんが目に入る。
配信サービスが充実している今の世の中でドバイに直接やって来るのは熱心と言う他ない。そもそも日本のファン感謝祭に来た理由がドバイのついでだったっけ。
私は膝を折ってその場にしゃがみこむと、イェーツちゃんと目線を合わせる。そこには彼女の大きな瞳が爛々と輝いており、思わず気分が晴れやかになるのを感じた。
「イェーツちゃん、久しぶりだね」
「あ、はい! えっと、その……ドバイゴールドカップお疲れ様でした!」
「うん、ありがと。今回は負けちゃったけど、次は絶対に勝つから見ててね」
「はい! 応援してます!」
「どう? ドバイは楽しい?」
「とっても楽しいです! お昼には飛行機がびゅーんって飛んでたり、大道芸をしている人がいて、とにかく他にも色んな催しがあって! さっきだって、見たことがないくらい沢山の花火が上がったりしてて! ――あ、見てくださいこれ! ダブルトリガーさんに買ってもらったんです! 似合いますか!?」
矢継ぎ早にまくし立てたイェーツちゃんはその場で優雅にターンする。多分ダブルトリガーさんが購入したのは彼女が被っている帽子なんだろうけど、素人目にも高級そうに見える。イェーツちゃんの可憐さと相まって、まるで妖精さんみたいだ。
そんな彼女が潤んだ目で感想を求めてくるので、感情が爆発しそうになった私は思わず保護者のような慈愛の笑みを浮かべてイェーツちゃんを撫でまくった。
「イェーツちゃん……これからどれだけの男を勘違いさせるんだろう。罪な女だよ」
「え、えぇ? それ、褒めてるんですか?」
「褒めてるよ。めちゃくちゃ可愛いし似合ってる」
私の言葉にぴこぴこと耳を跳ねさせるイェーツちゃん。尻尾も大型犬みたいにぶん回していて、嬉しがっているのがバレバレではないか。何なんだこの可愛い生き物は。ダブルトリガーさん達が甘やかしたくなるのも分かる。
……ところで。今思い出したのだが、イェーツと言ったらアレだ。欧州の歴史的名馬にして
人懐っこい小さなウマ娘だから気づかなかったけど、鹿毛と額の流星も記憶の中の競走馬イェーツと一致している。これ、成長したらとんでもないウマ娘になるんじゃ……。
「お〜いアポロ、キミもこっちに来なよ!」
ルモスさんに呼ばれたので、イェーツちゃんの手を引いて駆けつける。こうして見ると壮観だ。日本のG1ウマ娘達と欧州の歴史的ステイヤー達が顔を合わせる場面なんてそうそうないだろう。サイレンススズカ、エルコンドルパサー、ハッピーミーク、パドックにいるグリ子と――英国長距離三冠ウマ娘が2人。それと、ゴールドカップを4連覇する予定の小さな化け物が1人。
ついでに私も加えると、ここにいる8人だけでG1勝利数が軽く20を超えてしまう。どういうことなの? ドリームチームを組んでみたいんだが。
しかし、ウマ娘が集まった時に生まれる会話なんてひとつしかない。そう、レースについての話だ。他人行儀な挨拶から始まって、私達の間には濃厚なウマ娘トークの領域が展開されつつあった。
「サイレンススズカ。お前の名前と走りは海を越えて轟いているよ。同じ逃げウマ娘として通じ合うところもあるだろう……そこでひとつ、お前もヨーロッパに来ないか? 4000メートルは楽しいぞ。呼吸器官が壊れそうになる」
「スズカさん、ダブルトリガーさんが『お前も長距離で大逃げしてみないか? 長距離なら長い時間先頭の景色を独占できるぞ』ですって!」
「ウソでしょ……」
ダブルトリガーさんがスズカさんをナンパしたり。
「ハッピーミーク……キミ、短距離から長距離、ダートから芝までを走れるみたいじゃないか。キミのレース映像を見たところ、十分なスタミナもある。どうかな? アポロと一緒にステイヤーズミリオンに挑戦してみない?」
「ミークちゃん、ルモスさんが『ステイヤーズミリオンに挑戦してみないか?』って!」
「……今のところはアメリカのダート路線を予定中」
ルモスさんがミークちゃんをナンパしたり、エルちゃんがダブルトリガーさんルモスさんにヨーロッパのことを聞いたり、イェーツちゃんがミークちゃんに懐いたり……色々なことが起きた。
すっかり話し込んでいると、いよいよパドックのお披露目が終わって返しウマが始まる。盛り上がる観客の熱気に釣られて自然と談笑は終わり、皆の視線がターフに向いた。
絶好調のグリ子が華麗な返しウマを披露する中、ルモスさんがやけに真剣な雰囲気で私の肩を叩く。
「……さて。結局のところ、アポロはヨーロッパのステイヤーズミリオンに挑戦するということで良いんだよね?」
彼女の後ろでは、ダブルトリガーさんが凄みのある視線をたたえて佇んでいた。ルモスさんは比較的優しいが、ことダブルトリガーさんに関しては私の覚悟を問うような鋭い眼光である。
だが、私は怯まずに答える。「私の夢は最強ステイヤー……それは変わりありません。ステイヤーズミリオンを完全制覇して、それを証明したいんです」私がそう答えると、ダブルトリガーさんとルモスさんは静かに視線を交わす。そして、ルモスさんは上を向き、ダブルトリガーさんは静かに瞳を閉じた。
「……そっか。私達も覚悟を決めないとね、ダブルトリガー」
「そうですね。……アポロ、私達はお前の意見を尊重する。そしてアポロの夢が実現するよう全力でサポートすることを誓おう」
「どういうことですか?」
「あ〜、まぁ、こっちの話。アポロは目の前のレースに全力で挑んでくれればいいよ」
「私とルモスさんで、ヨーロッパの長距離レースに関して色々と整備しておかなければならないんだ。アポロほどのステイヤーがヨーロッパに来てくれるなら、こちらとしても長距離界復権のまたとないチャンスだからな。長距離がかつての隆盛を取り戻すまでには多少時間がかかるだろうが……私達は全力でやるまでさ」
視線の先で、G1・アルクオーツスプリントが開幕する。刹那の電撃6ハロン戦。熱狂が渦巻き、誰もが灼熱の中に巻き込まれていく。
「今の欧州長距離路線に足りないのは、この熱狂と歓声だ。それを私達が用意する。だが、カイフタラを救えるのは私達じゃない。他でもないキミだ。コインの表と裏のようなキミ達だからこそ分かり合えるし、お互いの夢を更にかけがえのないものに昇華してくれるだろう」
「……ルモスさんは大袈裟に言うが、いつものお前らしく全力で挑めば大丈夫さ。いつだって夢を叶えるのは全力のヤツなんだぜ」
あっという間に16人のウマ娘がゴール板前に突っ込んできて、接戦模様が巨大なターフビジョンに映し出される。
競って、争って、限界のその先。興奮が臨界点に達したその瞬間、覇者が決定する。
勝者は――グリーンティターン。
アジアのスプリント王が見事に世界のスプリント王へと昇華し、メイダンの夜は歓喜に包まれたのであった。
☆
ドバイミーティングの熱狂が終わりかけた夜のこと。ダブルトリガーとルモスは喧騒から遮断された関係者用席で静かに会話していた。彼女達が話している内容は今年のヨーロッパについての真剣な話であり、もっと言うならステイヤーズミリオンの価値と客入りについての腹を割った話の最中であった。
「カイフタラ、エンゼリー、アポロレインボウ……これだけの個性派が揃っても、長距離路線が復権するかは分からないってのが辛いところだね……」
「アポロに大見得を切ったのはルモスさんじゃないですか。泣き言はやめてくださいよ」
ルモスが寂しげに言うと、ダブルトリガーが鋭くツッコミを入れる。そんなルモスの視線はメイダンのターフに送られているが、その目はターフビジョンでも勝負服姿のウマ娘でもなく、ガラスに反射した自分自身を見ているようだった。
――ルモスが2年連続で英国長距離三冠を成し遂げたのは、レースの高速化が始まる前。つまり、『長距離を走れること』が最も重要視されていた時代のことだ。
その当時、日本においては東京大賞典がダートの3000メートルで行われていたし、天皇賞・秋も3200メートルで施行されていた。南米においてはダートの3500メートルといった破格のGI競走が最高栄誉とされていたし、ルモスが制した当時のグッドウッドカップも4200メートルという超長距離での開催だった。
しかし現在は東京大賞典が2000メートル、天皇賞・秋も2000メートルに短縮され、グッドウッドカップも3200メートルまで短くなった。レースの距離短縮が囁かれるようなことはあっても、距離延長が打診されることはほぼ確実にない……そんな世界になってしまったのだ。レースの高速化によって長距離路線が軽視されるようになり、今や長距離とそれ以外の価値は見事に逆転したと言えるだろう。
ヨーロッパのトゥインクル・シリーズを去って10年も立たないうちにステイヤーの権威が失墜し、かつての興隆した長距離界を目指してやって来たダブルトリガーやカイフタラのようなウマ娘が苦しんでいるのを見てきたルモス。
引退後、レースの高速化を察知した時から、ルモスは長きに渡ってステイヤーの復権に奔走してきた。テレビ番組や雑誌への交渉、配信サービスを利用した長距離重賞の放送並びにウイニングライブの配信、そしてステイヤー達のグッズ販売の強化の打診。日本のスタイルを見習って、ファン感謝祭などのイベント開催も提案した。
……だが、どの行動にもいまいち効果が現れることはなく。既に出来上がっていた流れは止めようがなかった。彼女なりにベストは尽くしたが、大きな流れには逆らいようがない。レースと同じだ。かつて短距離路線が軽んじて扱われたように、長距離路線が軽んじられるようになったのだ。距離の価値観の逆転が起こった以上、この風潮には逆らえない。引退したウマ娘ひとりではこの流れに抗えないのである。
長距離レースが衰退した理由は、強いステイヤーが生まれなくなってしまったこと。レースが高速化し、長い距離が嫌われるようになると、長距離戦の人気は下がる。人気が下がれば、有力ウマ娘が集まらなくなるのは当然のことである。
ダブルトリガーは優秀だったが、彼女ひとりではこの流れを覆すまでには至らなかった。強いウマ娘がいるだけではダメ。ルモスの考えでは――長距離路線に活気を取り戻すためには、
そしてルモスが狙うのは、三強対決による強者同士のぶつかり合いだ。今のヨーロッパは距離ごとの使い分け、多数存在する重賞のために有力ウマ娘同士が激突することは少なくなってしまった。そんな刺激の足りないトゥインクル・シリーズで、どうやって人気を獲得しようというのか。三強対決のような、分かり易すぎるくらいの起爆剤が必要なのだ。
三強対決は特に日本で持て囃されることの多いフレーズで、実際そのような対決となった重賞は名勝負となって語られることが非常に多い。客入りや売上も爆発することがほとんどなため、ルモスやダブルトリガーはそれに目をつけたわけである。
考えてもみろ。トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス――オグリキャップ、スーパークリーク、イナリワン――ビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケット――マヤノトップガン、マーベラスサンデー、サクラローレル――彼女達が火花を散らして激突する勝負を見たくないというファンが存在するだろうか?
答えはノーだ。ファンならば絶対に見たいと答えるだろう。そしてオグリキャップに至っては、レースに興味のない一般層までも巻き込んで、日本のトゥインクル・シリーズの基盤を作り変えるレベルまで人気を押し上げてしまった。
……理想を語るなら、今の長距離界がオグリキャップ出現後の日本のような変遷を辿っていけば良いとルモスは思っている。
カイフタラ、アポロレインボウ、エンゼリー。この奇跡的に揃ったタレント達は、ルモス達が未来の長距離三強に仕立てあげようとしているウマ娘である。
ヨーロッパ長距離路線の価値を死守し続けているカイフタラ。追込一気の強烈な勝ち方と、仏頂面でピクリとも反応しない俺様スタイルが人気を博し始めている。このドバイゴールドカップで恐らく人気は右肩上がりであろう。性格に難こそあるものの、それを差し置いてもオールドファンからの人気は根強い。
彼女はどれだけの強者がやって来ようと、レース予定を変更することは無い。そういう意味でも期待できるウマ娘だ。
ヨーロッパ出身だが、オーストラリアの裏街道で連勝中のウマ娘、新星エンゼリー。逃げ先行のスタイルで競り合いを軽くいなし、そのまま直線で抜け出して勝利をもぎ取る王道のスタイルだ。軽薄な喋り口と掴みどころのない性格がキャラ立ちしており、連勝中なことも相まって彼女の注目度はぐんぐん上昇している。
大目標はステイヤーズミリオン完全制覇と公言しており、こちらもレース予定を変更する恐れは限りなく低い。
そして……海外からやってきた芦毛の大逃げウマ娘アポロレインボウ。その名はヨーロッパの長距離界にも轟いており、予想がつかないだけに、期待度だけで言えばカイフタラやエンゼリーを軽く上回る。
欧州には存在しなかった大逃げ旋風を巻き起こし、最強ステイヤーの証明であるステイヤーズミリオン完全制覇を成し遂げられるのか――その動向には注目が集まっている。
性格も脚質も何もかも違う個性が3人。大逃げが1人、逃げ先行が1人。そして追込が1人。見事にバラけている。ここまでの個性がヨーロッパの長距離路線に集うことは珍しい――いや、二度とないかもしれない。
だからこそ、裏方であるルモス達は失敗できない。彼女達が気持ちよく走れる土壌作りをしなければ、古き良き時代は帰ってこないのだ。
「……役者は揃っています。後は私達の手腕によって歴史が変わると言っても差し支えないでしょう」
昨年のカドラン賞を制した古豪のチーフズグライダーもいる。何なら、暴走爆逃げウマ娘のシアトルチャーミングもいるのだ。間違いなく役者は揃っている。奇跡的と言えるまでに、粒揃いの年だ。
……計画に問題が無いわけではないが、頑張れば何とかなる範囲だ。メディアへの手回ししかり、広告しかり。どちらかと言うと、いちばん怖いのは、誰かが怪我で長期離脱したり、対象のウマ娘達に何かが起きてしまうことだろう。特に――アポロレインボウについて。
「問題があるとすれば、アポロレインボウのことです。ステイヤーズミリオン制覇のため、恐らく5月末のヨークシャーカップに出走してくるでしょうが――
「……あぁ、そうだね。私もそれだけが怖いよ」
ヨーロッパのG2以下の盛り上がりは、日本と比べ物にならないほど低調なものだ。賞金は低いし、出走するウマ娘は少ないし……何より、広いヨーロッパの中で重賞が毎日のように行われているため、見る価値がほとんどないとされているのである。
ここに関してはむしろ、メンバーさえ集まればG1並に盛り上がる日本がおかしいのだが――
アポロレインボウが経験した日本のG2として、ステイヤーズステークスがある。ドバイゴールドカップと違って、同日にG1レースがあるわけではない。それでも英国長距離三冠ウマ娘・ダブルトリガーが来日するとなって、中山レース場は異様な盛り上がりを見せた。
ダブルトリガーが危惧しているのは、最低でもステイヤーズステークス並には盛り上がるだろうという心持ちでアポロレインボウがやってくること。
ステイヤーズミリオンに挑もうとするなら、少なくとも1度は欧州の重賞というものに触れなければならないのだ。それに、ルモス達が三強対決の始まりとして予定しているのは――英国長距離三冠の一冠目、G1・ゴールドカップ。
「仮にヨークシャーカップで最悪が噛み合ったとしたら、アポロの心は持ちますかね?」
ダブルトリガーの言う通りだった。例えば大雨が降ったとしよう。そうなれば客入りは少なくなるし、日本出身のアポロレインボウは苦しいレースになる可能性が高い。もし大敗を喫し、欧州のレースに失望感を抱いてしまったら。
「……そこで折れたら、彼女も我々もそこまでだったということだ」
「その時は――」
「――その時なんて来させない。そうでしょ?」
ルモスはそんな恐れを打ち払った。
ダブルトリガーはルモスの言葉に頷いた。彼女もまた、負の連鎖を断ち切るべく決意を胸に抱いた。
「ええ……そうですね。アポロ、カイフタラ、エンゼリー……あの子達のためにも、必ず復権を成功させましょう」
「あぁ。レースだろうが何だろうが、成功はつかみ取るものだからね」
ドバイミーティングは、かくして大盛況の中幕を閉じた。
アポロレインボウの挑戦は始まったばかりだ。