ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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102話:激闘!天皇賞・春!その2

 

 光の中に飛び込むと、際限なく広がっていく青と緑の景色。今日の京都レース場は絶好の晴れによる良場で、芝も全く荒れていない。蹄鉄が芝のひと束ひと束を踏みしめる度、適度なグリップ感とターフの弾力を感じられるほどだ。

 ウマ娘達が続々と本場入場を行う中、私は颯爽と返しウマを行い始めた。想像を絶する観客の数に圧倒されつつ、ゆっくりとした疾走で身体のギアを押し上げていく。ここで全力疾走して感情を解放してしまえば、とみおの調整がオシャカになってしまう。あくまで準備運動ということを忘れてはならない。

 

 天皇賞・春で予想されるのは真っ向勝負。トリックや()()を使わないわけではないが、有記念の凶悪な消耗戦でも私の体力(スタミナ)を削りきれなかったとあって、純粋な力比べに持ち込もうとしてくるウマ娘が多いという予想が私達の間で立てられていた。

 足を引っ張って勝つのではなく、純粋な実力勝負で勝ちに来る。ひと皮もふた皮も剥けたライバル達と対峙するのだと思うと、どうにも落ち着かなかった。

 

『アポロレインボウ今日も控えめに走っているぞ! 大歓声のスタンド前を横切って、向正面にランニングしていきます! 調子は良さそうですね!』

『あの全力疾走の返しウマが恋しいですが、3200メートルの超長距離戦ですから……さすがにそこまでの余裕はないということでしょう』

 

 返しウマが終わると、京都レース場のゲートに18人が集結する。京都芝3200mのスタート地点は、スタンド正面から見て向正面の中間点よりやや左に位置している。現在は天皇賞・春でしか使われないコースとなっており、菊花賞の時と同じく淀の坂を2度も越えなければならない。3000メートルの菊花賞にプラス200メートルされるのだから、長く苦しい戦いになるだろう。

 

 私は自分のゲート番号の前にやって来て、軽く深呼吸して息を整えた。外枠の方を見ると、ジャラジャラ、メジロブライト、セイウンスカイが。内枠の方を見ると、スペシャルウィーク、マチカネフクキタルが悠然と佇んでいる。

 目を合わせようとはしなかった。スペシャルウィークとセイウンスカイから溢れ出す『領域(ゾーン)』に呑み込まれないように、己の心象風景を高めていく。スペシャルウィーク(【シューティングスター】)セイウンスカイ(【アングリング×スキーミング】)が表層に現れ、私の領域と激しく火花を散らす。

 

 彼女達の全身から醸し出される青い焔のような生命力の光。ウマ娘じゃないみたいだった。同じウマ娘とは思えない覇気がゲート前に(わだかま)って、遠くで鳴り響くファンファーレをすっかりと掻き消してしまう。

 圧倒的だった。うなじから尻尾の付け根にかけて、びりびりとした電流のような感覚が走る。本能的な卑小感。強大なものに出会った野生動物が無条件に抱いてしまう、逃走への欲求のような――。ただ、この追い立てられるような圧迫感は、そのまま大逃げへの活力として利用させてもらおう。

 

『京都レース場に高々とファンファーレが鳴り響いて、各ウマ娘がゲートインしていきます』

『気温が上がり続けていますから、熱中症には気をつけてほしいですね』

 

 鼓膜を破りそうな大歓声を聞いて現実に戻ってくると、私は鋼鉄のゲートに向かって一歩踏み出した。スタッフによって背後の扉が閉められ、一時的な閉鎖空間に押し込められる。

 

『3枠5番のアポロレインボウ、ただ今ゲートイン』

『気合い十分! 良い顔してますね!』

 

 視界がぎゅっと狭まると共に、私は五指をひとつひとつ折り畳んで拳を握り締めた。固めた拳を胸の前に持ってきて、深く深呼吸する。開幕は一瞬。スタートの優劣でレース展開の全てが決定づけられるのだ。

 次々とライバル達がゲート入りし、背後の扉の開閉を行っていたスタッフ達が引き上げていく。私は何度か頬を叩いて気合を入れ、腰を落としてスタンディング・スタートの構えを取った。

 

『全てのウマ娘がゲートイン完了。日本の長距離王者を決める戦いが今スタートします!』

 

 ゲート付近――いや、レース場全体の空気が張り詰める。針で突けば破裂してしまいそうな雰囲気の中、ゲート付近の空気が一瞬だけ緩む。

 ――ここだ。ゲート・オープンを予感して踏み出す(からだ)。同時に動いた気配は3つ。セイウンスカイ、ジャラジャラ、そして――スペシャルウィーク。前に飛び出した肉体が風を切り、開幕50メートルを通過するまでに超加速を刻み始めた。

 

『――スタートしました! 好スタートを決めたのはアポロレインボウ、セイウンスカイ、ジャラジャラ! スペシャルウィークもすいすいと前に出て経済コースを確保するか!』

『やはりレース序盤は逃げウマ娘達が争う展開になりますね』

 

 茹だるような熱気と歓声の中、天皇賞・春が開幕した。ロケットスタートでぶっちぎり、最序盤で1身の差を空ける。2番手はセイウンスカイとジャラジャラ。ジャラジャラは内に切り込みながら、早くも全力疾走。私を捕まえようと加速を続けている。

 

 上り坂の道中でスタートする3000メートルの菊花賞とは違い、3200メートルの天皇賞・春のスタートは平坦だ。向正面のスタート地点から第3コーナーまではおよそ400メートル。高低差4.3メートルに及ぶ淀の坂を越えるまで位置取り争いは続く。逆に言えば、スタートから400メートルまでにハナを奪っていなければ、私達のような逃げウマは厳しいと言わざるを得ない。

 つまり――ジャラジャラは最初の400メートルを死ぬ気で食らいついてくる。1番手アポロレインボウ、2番手ジャラジャラ、3番手セイウンスカイ、4番手スペシャルウィーク――この隊列を作りながら、レース序盤の100メートルを通過した。

 

 スタートでつけた優位を保って、短距離レースの如く加速し続ける――私が目指した究極のレースメイクはこれだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。生半可なスタミナでは私に並ぶことさえ許されない。競りかけてきたら、()()()()()。完璧なレースだ。隙などない理想の作戦と言える。

 ――だが、それでも。この作戦の脆さが露呈するとしたら、レース最序盤なのだろう。ジャラジャラとの差は1と1/2身。突き放し切れない。それは何故か。()()()()()()()()()()()()()()()()だ。私の全速力とジャラジャラの全速力、両者の間に決定的な差がつくのはもう少し後なんだ。それこそ、残り百メートルもしないうちに最高速度の差が決定づけられるだろう。

 

『スタートから100メートルを経過して、前に行くのはアポロレインボウとジャラジャラ! アポロレインボウが一歩リードして、ジャラジャラが必死に追い縋っている形! 先頭争いが激しいですね!』

『しかし、ジャラジャラは苦しいですね。あのアポロレインボウの走りを崩せたウマ娘はほとんどいません。今のステイヤーにとって、彼女の大逃げ対策をすることは必須級のミッションと言えるでしょう。このまま走るだけでは敵いませんよ』

 

 こうしてジャラジャラと競り合うのはメイクデビュー以来だ。懐かしい景色と記憶が脳裏に流れていく。加速と衝動に身を任せながら、広い視界の端でジャラジャラの横顔を捉えた。

 あの時もこうだった。レース最序盤は私が前を取って、終盤にかけてハナ争いが起きて、そのまま激しくぶつかり合って……それからは知っての通りだ。

 

 今はどうだろう。ジャラジャラとの差は2身。ジャラジャラとセイウンスカイの差は1身。それ以下はぎゅっと詰まった集団になっていて、ハナ争いはジャラジャラと私のタイマン勝負になったみたいだ。

 ジャラジャラが加速して私の尻尾を掴もうと影を伸ばしてくる。私は振り向かずに、彼女の影から逃げるように蹄鉄を叩きつけた。ステイヤーの最高速度から、ミドルディスタンス・ランナーの最高速度へ。バネのように唸った脚が、私の身体を前へ前へと運んでいく。

 

 勝つことが当たり前などありえない。だから、命を削る覚悟で勝ちを取る。そのスタンスは今も変わらない。魂を擦り減らしながらも究極の走りを繰り出せるのは、私が狂気的なまでに強い意志を持っているからだ。

 ――ジャラジャラ。お前に私が真似できるか? 10000メートルを全速力で駆け抜けることができるのか? 超長距離においてこのスピードを維持することができるのか? できないなら、どうか競りかけてくるな。これ以上の競り合いは無意味だ。お前の脚が壊れてしまう。

 

 レーススタートから150メートル、ジャラジャラとの差は2と1/2身。彼女が異常に気づき始める。何故アポロレインボウとの差が詰まらないのか、と。彼女の最高速度はメイクデビューの頃から見ても著しく成長している。並の逃げウマ娘ならぶっちぎってハナを奪えるであろう彼女のスピードが、私を前にして霞んでしまっていた。

 無論、私が知ったことではない。私は前に進むだけ。突き進み、栄光を勝ち取るだけ。無尽蔵のスタミナを過剰に燃焼して、足先の爆発力に変えていく。

 

 ミドルディスタンス・ランナーの最高速度から、マイラーの最高速度へ。風が歪み、大地が弾む。スリップストリームに入っていたジャラジャラがぎょっと目を剥き、僅かに気勢が削がれたのが分かった。それでもジャラジャラはウマ娘。決して勝負を諦めるようなことはしない。負けじと速度を上げて、私との差を一瞬だけ縮めた後――(たま)らなくなって、顎を大きく上げて酸素を取り込んだ。

 ――ジャラジャラの走りが僅かばかり乱れ、体勢を立て直すために速度が落ちる。

 

(――ジャラジャラちゃん)

 

 ハナ争いの決着はついた。ゲートから171メートルが経過して、私は最終段階に至るためにギアを引き上げる。

 スタミナを燃焼した後は、激情(おもい)に火を灯す。全力で走りたくて苛立っていた気持ちを解放して、最高速度の壁を打ち破る。私を支えてくれた友人や先輩への感謝。『未知の領域(ゾーン)』の中で見守るダブルトリガー、ルモスの栄光、そして海の向こうで待つカイフタラへの憧憬。最後に桃沢とみおへの熱い恋心を爆発させて、マイラーの最高速度から、スプリンターの最高速度へ至る。

 

 薄蒼の焔が胸に宿り、舐めるように私の表皮を伝っていく。眼球が焼けるように熱い。私の激情が宿っているんだ。やがて緑のターフに延焼した焔は、蹄鉄の形を()()くように淀の芝を抉り取った。焼印のように足跡が刻みつけられ、芝を焦がし、後方に蹴り飛ばしていく。

 大地が軋んでいるのが分かった。風が踊り、うねって、私と一緒に奔っている。焔と雪の結晶を撒き散らして、高鳴る心臓のままに駆け抜ける。ジャラジャラとの差は4身。スタートから250メートルを経過した瞬間のことだった。

 

『おっと、ジャラジャラ苦しくなって顔を上げた! どんどん速度が落ちて――いや、アポロレインボウが加速しているのか!? 一足先に淀の坂越えに挑むアポロレインボウですが、加速が止まらない! 菊花賞の再現となってしまうのか!?』

 

 スタートから約150メートル経過したあたりから、高低差4.3メートルの淀の坂が待ち受けている。後続のウマ娘が日本屈指の傾斜に挑む中、私は一足先に坂を登り切って第3コーナーを曲がり始めた。

 位置取り争いが確定し、2番手がジャラジャラ、3番手にセイウンスカイ――そして、4番手に先行の作戦を取ったスペシャルウィークが控えているのが明らかになった。私達が予想した通り。セイウンスカイはこの展開を予想していたのか、さほど驚いた様子はない。ジャラジャラは予想外だったようだけど。

 

『第3コーナーを曲がって、淀の坂を下り始めます! 1番手アポロレインボウ、2番手ジャラジャラ、3番手セイウンスカイ、4番手スペシャルウィーク、それ以下は混戦模様となっています!』

『スペシャルウィークは先行策ですか。内枠スタートを活かした良い作戦だと思いますよ』

『しかし問題なのは、菊花賞以上のハイペース! アポロレインボウの大逃げを食い止めなければ勝ち目はないぞ!! スペシャルウィークはどうするんだ!?』

 

 下り坂に差し掛かり、ブレーキとは無縁の無謀な走りに身を任せる。普通のウマ娘であれば、スピードを出してスタミナを消耗することを避ける淀の下り坂。でも、私にとっては更に加速できる地形でしかない。スタミナの残量を気にせず一心不乱に走れるのだから、利用しない手はなかった。

 熱気と冷気を振り撒きながら、スプリンターの如き超速で3、4コーナーを駆け下りる。後方に潜むライバル達に急かされるように、早くも第4コーナーへと差し掛かった。

 

 私は6身以上の差をつけられた後続を少し気にして、最高速度を保ち続ける。慌てているジャラジャラはともかく、やけに落ち着いて静観を貫くセイウンスカイやスペシャルウィークが気になって仕方がなかった。追い詰められているのは向こうのはず。()()()()()()()()()()()()()()()()。私を放置して勝てる算段でもあるというのか。

 ……有り得ない。スプリンターが3200メートルを走っているのと同じ状況なんだぞ。それこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――

 

 ――まさか。()()()()()()()()()()()()()()()()()

 この暴走を差し切ることができるからこそ、ある程度の余裕を持って静観できているということなのか。

 

 背筋に怖気が走る。そんなバカな。だが、そうとしか考えられない。そうだ。有記念でトリックや()()が効かなかったから、この天皇賞は単純な実力勝負で来る――自分でそう予想していたではないか。それが現実になっただけのこと。しかし、その決定的な成長があまりにも早すぎる。これが日本屈指の優駿。嫌になるくらい強大な敵の成長力というわけか。

 『領域(ゾーン)』が『未知の領域(ゾーン)』へと変化し、彼女達を更なる怪物に育て上げてしまったのだろう。セイウンスカイの前走である日経賞、スペシャルウィークの前走である大阪杯でそんな兆候が見られなかったのは……()()()()()から? それとも、天皇賞・春の前に開眼したから? それは分からないが、警戒を怠ったら負ける。

 

 逃げろ。もっと速く。スプリンター以上の加速を得るんだ。驀進(バクシン)のもっと先へ。

 私はコーナーのギリギリを抉るようなコーナリングで、遠心力を強引に殺して加速した。自慢のスタミナを更に燃費悪く消費し、懸命に腕を振り、脚を回転させ、全身を巡る血流が沸騰するのを感じながら、第4コーナーを曲がり切る。2番手との差は8身。

 

 ダメだ。もっと速く逃げろ。ヤツらは牙を隠している。背中を見せて逃げる私に噛み付き、息の根を止めることのできる鋭い武器を隠し持っている。

 ここに来て、ライバル達の顔が直接視認できないことを恐ろしく思った。何を考えているか分からない。無策で私を放置するほどバカな相手じゃないのは分かりきっている。それが怖い。恐ろしい。自由に走れてしまっている事実が恐怖を引き立てる。逃げろ。もっと逃げなければ差し切られるぞ。

 

『第4コーナーを曲がって、1周目のホームストレッチに差し掛かります!! 湧き上がる拍手喝采!! 声援に圧されたか、アポロレインボウが歯を食い縛って更にペースを上げたか!! 2番手との差は8、9身と圧倒的です!! 2番手のジャラジャラは自分のペースでレースメイクを始めていますが、それでも2番手以下はハイペースと言えるでしょう!!』

『3番手のセイウンスカイはジャラジャラのスリップストリームに入り、4番手のスペシャルウィークも同じようにセイウンスカイの背中に隠れて負担を軽減しています。最後のスパートに全てを賭けるつもりなのでしょう』

 

 スタートから1000メートルが経過して、ホームストレッチと大歓声が私を迎える。そのまま向正面をひた走る。この天皇賞に挑むにあたって油断は無かったはずだ。でも、全力でぶつかれば私が勝つはずだと思っていた。だって、ある日のトレーニングで、8割の力で挑んだ3200メートルのタイムが3分08秒2。日本レコードを余裕で更新する大記録を叩き出して――負けるビジョンが見えるはずなどない。

 ――逆だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。涙が出てしまいそうなほど怖い。完璧な調整と肉体強化を行って臨んだというのに、この不穏な空気は何だ。むしろ、おかしいのは奴らなんだ。スペシャルウィーク、セイウンスカイの方なんだ。

 

 混乱の高まりと共に、2人の心象風景が膨らんでいくのが分かった。予感が確信に変わり、絶対的な恐怖が頭を(もた)げる。ターフを掠める風のように、敗北の恐ろしさが突然心を支配した。喉奥から変な悲鳴が漏れそうになって、叫びそうになって、引き潮のように絶望が消えていったかと思うと、それからまた押し寄せてくる。

 心臓の鼓動に合わせて、発汗が抑えられなくなる。後方のウマ娘から与えられるプレッシャーと折り重なって、無限にも思えたスタミナの底が僅かに覗く。まだ大丈夫だ。落ち着け。()()()()()()()()()()()()。そうじゃないのか。

 

 2番手との差が14身を数えた所で、第1コーナーを迎える。精神的に追い詰められているのは何故か私の方で、セイウンスカイもスペシャルウィークも消耗が少ない。

 いつ進出してくるつもりなのだ。1、2コーナーの中間点か。それとも向正面か。さすがにこれ以上の差が開けば、向こうにも焦りが出てくるはずではないのか。どちらにせよ、私は逃げることしかできない。私はライバルを手のひらで転がしてるのか、転がされているのか、全く分からなかった。

 

『第1コーナーを曲がって縦に長い隊列が更に伸びていきます!! 先頭のアポロレインボウはさすがに苦しそうな表情!! ジャラジャラもペースメーカーとしての役割を果たせているとは言えません!! 1番手から最後尾までは何と25身もの差が開いている!! 後ろの子はここから仕掛けて間に合うのか!?』

『ジャラジャラは2番手でのレースは苦手ですからね。目の前にウマ娘がいると集中力が乱れ、どうにも自分のレースを作れなくなってしまうようです』

 

 第1コーナーを曲がって第2コーナーに差し掛かる。2番手との差は18身。レースは1600メートルを経過して、ここからは折り返しとなる。もう十分な差はついた。でも私は失速しない。更に加速できる脚を残している。であれば、この差を覆せるはずがない。

 一旦落ち着くんだ、私。堂々と胸を張れ。フォームを乱すな。冷静になって考えるんだ。今の私に追いつこうとするなら、それこそ命を燃やして常軌を逸した走りをしなければならない。火事場のバカ(ぢから)のコントロールは私の方が上手いんだ。命を燃やしての走りは辛い。苦しくて堪らない。恐怖すらある。その領域に踏み込めるのは私の専売特許だ。その意味でも譲る気はない。

 

 思考回路は滅茶苦茶だった。叩き込んだフォームに一切の崩れはないが、冷静さを失っていると言って差し支えない。

 そうして再び向正面に差し掛かろうかという時――25身の遥か後方。芦毛のトリックスターの身体から、絶望の光が煌めいた。

 

 脂汗に濡れた全身を舐めるように、剥き出しの冷たい刃が表皮をなぞった。それは威圧感であり、世界を揺るがす末脚の前兆。『領域(ゾーン)』の――いや、『未知の領域(ゾーン)』の煌めきだった。

 レースを支配していた私の空気が、セイウンスカイに塗り替えられる。噴出させていた焔と雪の結晶が掻き消され、一面の大海原と快晴の空が上書きされた。

 

 ――やはり、新たな力に覚醒していたか。『未知の領域(ゾーン)』に。遥か後方のセイウンスカイと一瞬だけ視線が交錯する。

 怖かった。恐ろしかった。でも、心のどこかで望んでいた。あの皐月賞のような激闘の再来を欲していた。目の前にある栄光(勝利)絶望(敗北)が天秤に掛けられ、全てが運命に委ねられる。

 

(――勝利を掴み取るのは)

(――1着になるのは)

 

「「――私だっっ!!!」」

 

 


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