ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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103話:激闘!天皇賞・春!その3

 

 セイウンスカイの身体から黒い瘴気が噴出した。絶望の予感が脳髄を貫く。抗いようのない絶対的な豪脚が来る、と。刹那、彼女と私の間の空間が歪み始め、捻れ、壊れていく。硝子(ガラス)が剥がれ落ちるように変異していく風景。

 彼女の全身から生み出されたどす黒い瘴気が私の四肢を呑み込み、侵食し始める。途方もなく強くて、美しくて、激しい想い。やがて、闇の中から差し込んだ眩い光を通じて、私の中に彼女の激情が流れ込んでくる。

 

 見せられる。魅せられる。セイウンスカイの心象風景。一面の大海原と雲ひとつない青空が瞼の裏に映り、現実を彷徨う意識と混濁する。いかだの上で大物を釣り上げんと釣竿を握るセイウンスカイは、どこか神秘的な輝きを帯びていた。

 その場にいる全員の意表を突き、胸をすかすような大勝利を掴みたいというセイウンスカイの強い意志が、私の瞼の裏に焼き付けられる。早熟の予感から来る圧倒的な不安、大舞台で勝ちきれない絶望。『祖父』との深い絆。全ての事象、全ての激情が複雑に絡み合い、セイウンスカイの力となる。

 

 ――【アングリング×スキーミング】。

 

 誰よりも勝利を欲する少女の末脚が爆発した。あまりにも眩い光が京都レース場の一角で輝く。セイウンスカイが前傾姿勢になり、ジャラジャラのスリップストリームから脱出する。1600メートルを通過し、向正面を走りながらのラストスパート。徹底的にスタミナ消費を抑えてきたのは、残りの1600メートルに全てを賭けるためだったんだ。

 

 だが、心象風景を魅せたのは私も同じ。出し惜しみなどしていられない。彼女が迫ると同時に『未知の領域(ゾーン)』を発現させ、大海原に真っ向から立ち向かう。

 

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】

 

 遥かなる雪原に(そび)え立つ異形の一本桜。黒い瘴気の向こう側に咲き誇った虹色の桜は、月虹と共に爛々と輝きを増す。雪の結晶と焔の欠片が舞い、セイウンスカイの心象風景と激突した。吹き荒ぶ猛吹雪と海水の飛沫。決して揺るがない芦毛のトリックスターと、狂気の大逃げウマ娘。互いの『未知の領域(ゾーン)』が軋み、悲鳴を上げる。

 

『おっと――セイウンスカイがここで上がってきた!? 恐ろしい勢いでアポロレインボウを猛追する!! 25身の差があった距離を瞬く間に縮めていくっ!!』

『遂にレースが動き出しましたね……!』

 

 向正面に差し掛かって、驚異的な追い上げでセイウンスカイが2番手に躍り出る。スプリンターの走りを凌駕する加速。しかし、その走りには極限の苦痛という代償が付き纏う。セイウンスカイの表情はあまりにも苦しげに歪んでいた。

 

(――どうして、そこまでっ!)

 

 ランナーズ・ハイに満たされながら、心の中で疑問を投げかける。だけど、セイウンスカイがここまでして勝ちたい理由を知らないほど、私もバカではなかった。最高のライバルが集うレースで、最高の結果を出したい。()()()()()()()()()。単純な目標であるが故に、それは強い光を纏う。不可能を可能にする『未知の領域(ゾーン)』を生み出してしまうほどに。

 

 向正面の中間、つまり1周目のスタート地点を通過して、25身ものリードは呆気なく消え去ろうとしていた。スプリンター並のスパートと『未知の領域(ゾーン)』の超加速がありながら、魂を燃やして追随してくるセイウンスカイに差を詰められている。その差は18身。ゴール地点まで持つはずがない驚異的な追い上げ。

 あまりにも無謀なセイウンスカイの行動に、ふと疑問が生じる。思考回路が高速回転して、彼女の無茶ぶりの結末を導き出した。

 

 ――セイウンスカイの末脚は、いくら持続させようと()()()()()()()()()()()()()。もちろん、私に追いつかないまま力尽きてしまうかもしれない。兎にも角にも、スタミナ切れが容易に想像できてしまうのだ。絶好調の私に追いつくのはあまりにも過酷だったのか。

 私の予想では――スタートから2800メートル。つまり最終直線に差し掛かるまでにセイウンスカイは力尽きるだろう。

 

 それでもなお、彼女は勝算があるかのような薄ら笑いを浮かべて、全速力で追い上げてくる。その不気味さと言ったらない。彼女はハッタリだけで無茶を通すウマ娘ではないのだ。何かしらの勝算があって走っている。もっと逃げないと。

 

 第1コーナーを展望して、その差は15身。セイウンスカイの常軌を逸した超高速の早仕掛けによって差は縮まったが、明らかに彼女はスタミナを燃やしすぎている。リスクとリターンが釣り合っていない。

 彼女がここまでの無茶を通せるのは、天皇賞にかける想いの強さが故なのだろうと思った。私の()()よりも強烈な意志に後押しされて、セイウンスカイは走っているのだ。

 

 ならば、もっと力が要る。セイウンスカイに勝つために、限界を超える想いの力が――!

 必死に答えを追い求める。セイウンスカイにあって私にない想いの力を欲して、心の奥に手を伸ばした。

 

 ――ダブルトリガーは答えない。()()()()()()()()と言っていた。ふざけるな。レース中の極限状態で、そこまでの思考ができるわけないだろう。喘ぐように酸素を取り込むと、呆れたような、愛おしく思っているようなダブルトリガーの声が脳裏に木霊した。

 

 ――簡単なことさ。セイウンスカイ本人に聞けばいい。彼女もお前と話したがっているよ。

 

 ――どういうことだ?

 

 ――時に、レースはチーム戦になることもある、ということさ。

 

 ダブルトリガーの幻影が消える。彼女から受け継いだ光による加速は起きなかった。()()()()()()()、という微かな声がした。セイウンスカイとの差は12身。淀の坂を迎える寸前、彼女の息遣いの間合いに差し掛かる。つまり、声が届く距離であるということ。

 意を決して、セイウンスカイの心象風景に意識を集中させ、極限状態での交流を試みる。すると、私とセイウンスカイの間の空間が輝いて、視界が暖かな白に包まれた。

 

 ――目を覚ますと、そこは大海原に浮かぶ小舟(いかだ)の上だった。いつの間にか直立していた私は、その小さないかだの上でセイウンスカイと向き合っていた。

 

「――ねぇ、アポロちゃん。全力で戦うって、楽しいね」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実に、私は焦りと危機感を覚えていた。私の想いよりセイウンスカイの想いの方が強いという事実に他ならないからだ。

 両手を後頭部の後ろに重ね、眠そうな顔をするセイウンスカイ。私は息を荒くしながら彼女と正対する。その青く澄んだ瞳は爛々と燃え盛っていた。私はおずおずとセイウンスカイに声をかける。

 

「……セイちゃん。このままじゃセイちゃんは、3200メートルを迎える前に力尽きる。それなのに何故私に食らいついてくるの?」

「いきなりそれを聞いちゃいますか。いやはや、せっかちですなぁ」

 

 セイウンスカイは大きな欠伸をした後、意地悪そうにこう言った。

 

「……天皇賞・春じゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()……かな」

「!」

「そういうタイプじゃないんだけどさ。日本ダービーも菊花賞も有記念もアポロちゃんに負けちゃったから、今度こそ勝ちたいなって思ってさ」

「――でもっ! それは()()()()()()()で仕掛けることの答えにはなってないよね……?」

「にゃはは、果たしてそうなのかな〜?」

「……!?」

 

 意識外に()()()()()()()()()()()()()()が思い浮かぶ。私が淀の坂に到達する寸前、怒涛の勢いで彼女が位置取りを押し上げてきていた。

 

「――そういうこと。()()()()()()?」

「…………」

「ということで、ひとつお願いしたいことがあるんだけど〜。……私の想い、あげるからさ。――アポロちゃんの想いも、少しだけ分けてくれない?」

 

 スペシャルウィークの追撃が脳裏を彷徨う中で、セイウンスカイがとんでもない取引を仕掛けてきた。

 詰まるところ――私がダブルトリガーの想いを受け取ったように――『未知の領域(ゾーン)』の力をお互いに分け合おうということなのだろう。無論、即答できるほど簡単な問いかけではない。警戒心を明らかにしながら、私はセイウンスカイに食ってかかった。

 

「……セイちゃんはゴール前で力尽きる。でも、私は力尽きない。私がその誘いに乗る必要なんてないよ」

「――ううん。アポロちゃん。分かってるでしょ? スペちゃんの追い上げは明らかに異常だよ。私はもちろん、アポロちゃんだって抜かされる勢いだし。()()()()()()()1()()()()()()()()()()? それでもこの()()()を無視しちゃうの? しくしく、セイちゃん悲しいです……」

 

 確かに、スペシャルウィークの追い上げは常軌を逸していた。明らかに『領域(ゾーン)』を超えた『未知の領域(ゾーン)』の力。覚醒したスペシャルウィークの超ロングスパートを前にして、スローモーションで進む現実のアポロレインボウとセイウンスカイはまさに風前の灯だ。私に【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】を使わせ、最終盤の末脚を封じたのは交渉を有利に進ませる狙いがあったのか。

 ごくりと生唾を呑み下す。苛立ちと畏敬の念が頭の中を回っていた。これは、お願いなんて可愛いものじゃない。脅迫だ。私が新たな走りの本質を必死に秘匿していたにも関わらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、私をこの場所に導いた。これが芦毛のトリックスター・セイウンスカイの底力――私は首を縦に振るしかなかった。私はスペシャルウィークに勝つために、セイウンスカイに手を貸さなければならないのだ。

 

「――にゃはは、それじゃあ交渉成立ってことで!」

「勘違いしないでね。確かにこのレースも勝ちたいけど、私はこのレースの先も見据えてる。あなたの力を借りないと勝てないレースがきっとあるから、今は協力してあげる。それだけだから」

「素直じゃないですなぁ」

 

 こうして私達は、奇妙な友情とライバル関係が紡ぐ『想いの継承』を始めた。

 静かな波に揺れるいかだの上で両手を重ね合わせ、瞳を閉じる。額を伝って光が交換され、心の底の風景に互いの存在が優しく灯る。セイウンスカイの大海原には、晴れ模様にも関わらず微かな雪が。私の心象風景の一本桜は、大地を通してその幹にセイウンスカイの光を宿した。心が温かくなり、セイウンスカイの激情が流れ込んでくる。

 

 異形の一本桜が()()()()()()()()()()()。私が雪の大地から得たのは、セイウンスカイが苦悩の中で練り上げた心象風景の欠片。それは彼女が積み重ねてきた激情の一部に過ぎなかったが、一本桜に確かな変化を与えた。

 激しい雪に痩せ細っていた一本桜の幹に不思議な力が宿り、セイウンスカイの魂の支えによって幹に生命力が湧き上がる。因縁深いライバルの友情と腐れ縁が、歪な桜を真っ直ぐに成長させていく。

 

 私達は至近距離で見つめ合いながら、そっと手を離した。2人が立ついかだの上に新雪が積もり始め、セイウンスカイは妖精のように舞う牡丹雪を手のひらに乗せた。

 

「……不思議だね。倒さなきゃいけない相手から力を貰うなんてさ」

「ま、そういうこともあるでしょ」

「……だね。そろそろ……スペちゃんが来るよ」

「……うん」

「それじゃ。……アポロちゃん、ありがとう」

「ううん。きっと、お互いに必要な事だったんだよ」

「……かもね」

 

 戦いの中で語り合い、限界を超えた勝利を掴み取るため、私達は胸に宿る光を分け合った。そこには超越的な不可視の絆があった。互いに絶対に負けたくない相手だと知っているのに、だからこそ高め合いたいという願いがあって――

 ダブルトリガーの光が宿った根の上――幹の部分にセイウンスカイの光が宿る。再び光に包まれたかと思うと、意識がいかだの上から解き放たれ、現実に戻ってきた。

 咄嗟に背後へ意識を向ける。淀の坂を登る寸前、残り1000メートルを切ったその瞬間。スペシャルウィークが遥か後方から、鬼神の如き覇気を纏ってラストスパートをかけていた。

 

「――っ!!」

 

 セイウンスカイの言った通り、スペシャルウィークはとてつもないペースで追い上げてきている。ダブルトリガーに加えて、セイウンスカイの想いを継承していなければ、間違いなくぶち抜かれてしまうような加速。

 咄嗟に私の力を得たセイウンスカイを睨むと、彼女は凄みのある笑いを浮かべながらすぐそこまで迫ってきていた。セイウンスカイとの差は10身、スペシャルウィークとの差は20身。

 極限状態のまま、私達は2度目の淀の坂を迎える――

 

『さぁ、アポロレインボウが一足先に淀の坂越えに挑む!! その表情が大きく歪んでいるが、果たして大丈夫なのか!? 大差をつけられているものの、2番手のセイウンスカイと3番手のスペシャルウィークが怒涛の追い上げを見せている!! 最後は同世代のクラシックウマ娘達の争いになるのか!!』

 

 スペシャルウィークの『未知の領域(ゾーン)』が展開された。私とセイウンスカイの心象風景を呑み込んで、京都レース場を夜の世界に誘う。私の一本桜と雪景色を覆い隠し、セイウンスカイの展開した青空と大海原を闇に葬り去るスペシャルウィークの流星。

 途方もない密度で練り上げられた『未知の領域(ゾーン)』が叩きつけられ、スペシャルウィークの強烈な想いが私の身体を焼き焦がす。深い闇に覆われる視界。溢れる黒い瘴気と、突然輝いた彼女の心象風景に、私達は激しく動揺した。見せられる。魅せられる。スペシャルウィークの完成した『世界』。

 

 何処か分からない丘の上で、満天の星を見上げるスペシャルウィーク。そんな彼女の前で瞬いた流星が、スペシャルウィークの勝負服となって力を与えていく。

 眩いばかりの真っ直ぐな想い。夢への憧憬と母への想いが彼女を突き動かすのだ。彼女の憧れは誰にも止められない。

 

 ――【シューティングスター】

 

 爆発した感情に任せて、スペシャルウィークの身体が躍動する。先頭争いから程遠い位置にいた彼女が、驚愕の追い込みで私とセイウンスカイを射程圏内に捉えた。

 私とセイウンスカイもまた、己の夢への衝動に身を任せて疾走する。スペシャルウィーク、セイウンスカイ、そして私。命を燃やした魂の削り合いが始まろうとしていた。

 

『アポロレインボウ先頭!! 8身遅れてセイウンスカイが2番手、更に5身の差が開いてスペシャルウィークが3番手!! 4番手以下は遥か彼方に沈んだ!! 最後は3人だけの世界だ!!』

 

 第3コーナーに到達して、淀の坂を登り切った私達。いよいよ下り坂に向かう。それぞれの想いを抱いて、なけなしの体力(スタミナ)を振り絞って末脚を爆発させる。

 下り坂を利用した再度の加速。しかしセイウンスカイもスペシャルウィークも無理な早仕掛けと速すぎるスピードが祟ったか、その顔は真っ青に変色してしまっている。きっと私もそうだ。狂気的な加速で距離を詰めてくる2人のウマ娘に追い立てられて、酸素不足に陥っている。

 

 スプリンターの最高速度をずっと保ってきた。動揺することこそあったが、私の走りはずっとバクシン的ステイヤーそのものだ。そんな走りを続けていた上、本番特有の予想外に晒されたせいか、全身の末端の感覚が消失していた。頭の中に鉛が詰められたかのようにぼんやりして、顎が重すぎて開口してしまう。

 全力投球の運動を数分間続けていたせいで、茹だるような灼熱に包まれている感覚だった。ハロン棒が何重にも分裂して、距離感覚が段々と覚束なくなっている。乾燥しきった喉奥から、鼻をつんと刺激するような味がせり上がってきた。

 

 軽くえずきながら、セイウンスカイとスペシャルウィークを睨む。スプリンターの最高速度を超える走りをしなければならないとあって、2人もさぞかし辛いだろう。だけど、私だって辛い。笑えてくる。一体誰が望んで、こんな辛い戦いをしようとしてしまったんだろうか。全くもって、嫌になる。でも、これが私の思い描いた夢の景色に違いない。

 極限の消耗戦の中で紡がれる激闘。絶望さえ感じてしまう体力消費の中に見える僅かな光明と、勝利への希望。最高だ。こんな戦い、きっと二度と味わえるものではない。

 

 狂乱に似た悦びに打ち震え、酸素不足と疲労のせいで正気さえ失いそうになる。精神はとっくの昔に狂い、まともな思考を回すことができない。セイウンスカイやスペシャルウィークも瞳孔を開いており、彼女達も同じくまともな状態とは思えない。

 そんな中、セイウンスカイが最後の力を振り絞って大きく加速した。背後の競り合いもまた過熱している。スペシャルウィークが驚いたような表情になって、大口を開けて咆哮していた。

 

「――……――――ッッ!!!」

 

 第4コーナーを曲がりながら、消耗戦の終わりが微かに見えてくる。霞んだ光の向こうにゴール板が見えた。地鳴りのような大歓声を受けながら、私だけが最終コーナーを曲がって最終直線に差し掛かった。

 

『最終コーナー曲がってアポロレインボウが最終直線に入る!! 2番手セイウンスカイと3番手スペシャルウィークは僅差の争い!! およそ6身の差を保ってセイウンスカイとスペシャルウィークが追い縋っているぞ!!』

 

 25身あった差は既に6身まで縮まった。常識外れの超高速で走っていたはずが、それ以上の速度を叩き出した化け物が2人。

 だが、2人のスタミナはもはや風前の灯。究極のスピードに身を任せた代償は、早すぎる体力切れという形で現れようとしている。私は何とか持ちそうだが、スペシャルウィークとセイウンスカイはゴール前に力尽きてしまいそうだ。それでも、歳頃の少女がやってはいけないような苦悶の表情を晒しながら、力強い足取りで一直線に向かってくる。

 

 ゴールまで残り400メートル。激痛を訴える脇腹と、酸欠による混乱で前後不覚になりそうな思考回路を抱えたまま、私は泥人形のように走り続けた。最終コーナーの終盤で大海原(セイウンスカイ)の力を借り、2弾ロケットの末脚で再び突き放す。汗と涙と涎を撒き散らし、2人の優駿に追い立てられながらも、ギリギリのところで先頭を死守し続ける。

 気を抜けば間違いなく気絶してしまうだろう。2番手との距離は分からない。今この瞬間世界を満たしているのは、己の呼吸音と心臓の音だけだった。魂から絞り出した体力さえ底を尽きて、根性と惰性だけで栄光を目指している状態。

 

 そんな中、白黒の視界にトレーナーの姿が映った――気がした。客席の最前列で拳を振り上げるスペシャルウィークのトレーナー。祈るようにレースを見守るセイウンスカイのトレーナー。そして、大声を張り上げて私を応援する桃沢とみお。

 

「スペえぇぇぇっ!! 全部出し切れぇぇぇっっ!!!」

「アポロおぉぉっ!! 頑張れえええぇぇぇっっ!!!」

「スカイっ、信じてるぞぉぉっっ!!!」

 

 聞こえない声のはずだった。聞こえるはずがなかった。でも、確かにその声は私達の鼓膜を震わせて――燃え尽きた身体に再び焔を点した。

 三者三様、最も信頼するパートナーの声を受けて、私達は再び限界を超える。極限のデッドヒート。スタンドに押しかけたファンのボルテージが最高潮に達し、京都レース場が揺れる。

 

 ――【シューティングスター】

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】

 ――【アングリング×スキーミング】

 

 2度目の『未知の領域(ゾーン)』発現。心臓を食い破るような感覚が迸り、限界の壁をぶち破った。ダブルトリガーの加護が肉体を保護し、世界に月虹を振り撒きながら最終直線を駆け抜ける。

 5身後ろには、青空と流星が追い縋っている。瞬きするごとに空の色を変えながら、3人の心が火花を散らして激突していた。

 

『残り200メートルを通過して、先頭はアポロレインボウ!! 少し後ろにはセイウンスカイとスペシャルウィーク!! スペシャルウィーク僅かに抜け出して、セイウンスカイが咆哮する!! そのままスペシャルウィークが2番手に――いや、セイウンスカイが驚異的な根性で差し返したっ!? スペシャルウィークとセイウンスカイが並んだまま、アポロレインボウを追い詰める!! その差は5身!!』

 

 残り200メートルを通過して、微かな冷気が鼻を突いた。私の心象風景から発現した牡丹雪が見える。セイウンスカイから、微かな雪の香りがした。私から継承した光を使って加速したらしい。ただ、2度目の『未知の領域(ゾーン)』発動で最終直線は複雑怪奇な様相を呈している。流星と、牡丹雪と、潮の香りに満ちた水飛沫が舞い踊って、誰が優勢なのか全く分からなかった。

 後ろを気にする余裕はない。たた我武者羅に、ひたすらに、一歩一歩を刻んでいく。それを繰り返し、最速を求めて突き詰めるのだ。

 

『残り100メートルを通過して!! アポロレインボウとの距離が縮まらない!! スペシャルウィークが叫んでいる!! セイウンスカイが懸命に腕を振る!! それでも――それでも5身の決定的な差は埋まらない!! 最初から最後までアポロレインボウがハナを死守したまま終わってしまうのか!!』

 

 右足。関節を柔らかく保ち、地面と衝突する瞬間に力を込める。そのまま足裏で掻き込んで、地面を抉る勢いで()()()()。左足もその繰り返し。

 両手は脱力して、綱を引くように腕を振る。肘から先をスピーディに()()ように後ろに引いて、その繰り返し。

 

 理想のフォームなんて、機械的でいい。ただ()()()()をひたすらに繰り返して、突き詰めれば良いのだ。

 痛みも苦しみも超えて、精神は悠久の静寂を迎えていた。穏やかで、波立つこともなく、緩やかな絶頂だけが支配している。心象風景が瞼の裏に染み渡り、世界が拡がって見えるほど。

 

 まるで全知全能だった。スプリンターの最高速度とか、領域による再加速とか、それがどうでも良くなるほどの全能感だった。

 突然、全身の感覚が鋭敏になって、一瞬で世界が拡がるような衝動に襲われる。ランナーズ・ハイの中で突如現れた全能。地面に植えられた青い芝が踏みつけられ、蹄鉄で吹き飛ばされていくのが何故か()()()()見えている。指先の感触が戻り、自分の髪の一本一本が風に揺れる光景さえ目の当たりにした。

 絶対に()()できないはずの世界。スペシャルウィークを差し返したところで限界を迎えたセイウンスカイも、私を目指して体勢を崩しながら加速するスペシャルウィークさえ()()できてしまう。ずっと前を向いているはずなのに、真後ろまで全て感知できるのだ。

 

 違和感は無かった。幻視とも思わなかった。

 『未知の領域(ゾーン)』のその向こう――追い詰められ、狂気にさえ堕ちた私の目が見た、新たな領域なのだと思った。

 

 残り100メートル。せめぎ合っていた空の色が銀の月光に満ち、暖かな雪が降り注いだ。残り5身まで迫ったスペシャルウィークとセイウンスカイは、それ以上の差を詰められない。

 2度目の『未知の領域(ゾーン)』発動を超え、精魂付き果てたその先の景色で私は走っていた。

 

 これだ。スプリンターの最高速度さえ超えるこの走り。掴みどころのない、中途半端にも見える完璧な疾走。

 その走りは、ステイヤーともスプリンターとも取れるような、奇妙な走りに思えた。フォームを変えたわけではない。突然、フォームではない何かが変わってしまったのだ。

 

 興奮はしなかった。ただ、そこにあるものを再び発見しただけのような。極々ありふれたものを見つけただけのように感じた。

 でも、私の心の中に生まれた()()はキラキラと輝いていて――決定的な答えを掴もうと手を伸ばした途端、私がその全貌を知ることの無いまま、光は虚空へと消えた。

 

『残り50メートルを通過して、アポロレインボウだ!! スペシャルウィークもセイウンスカイも届かないっ!!』

 

 ゴール板まであと少し。天皇賞・春の栄光まであと少し。残り50メートルもない。スペシャルウィークもセイウンスカイも、なんにも来ない。私だけの景色。私だけの、栄光――

 私は最後の力を振り絞って、胸をいっぱいに反らして、3200メートルを告げる最後の一歩を踏み締めた。その瞬間緩み切った身体は、更なる一歩を踏み出すことさえ許してくれなかった。

 

『アポロレインボウだ!! アポロレインボウが2番手に7身もの差を見せつけてゴールインッッ!! 2着にスペシャルウィーク、3着にセイウンスカイ!! そして――アポロレインボウは3分06秒1の世界レコードを更新!! 新たな大逃げ伝説が日本の古都に刻み付けられましたっ!!』

 

 ターフに倒れ込み、空を見上げる。雲ひとつない空の向こうには、薄い三日月がこちらを覗いていた。

 


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