ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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105話:それじゃあ、たくさん褒めてね

 

『アポロレインボウ1着!! シンボリルドルフ以来となる長距離G1三連勝を達成し、しかも日本レコードまで記録!! もはや国内の長距離路線に敵なし!! 無尽蔵のスタミナでライバル達を圧倒しましたっ!!』

 

 ターフに大の字に倒れ込んで、晴天に浮かぶ三日月を見つめる。ゆっくりと上下する胸に手を当てながら、私は観客席に視線を移した。見渡す限りの人集り。私の名前を呼ぶ声があちこちから上がっている。

 丸めた雑誌や拳が一定のリズムで振り翳され、上下すると共にアポロコールが巻き起こる。そんな視界の端で、スペシャルウィークの頬から透明な雫が零れたのが見えた。

 

 声をかけようかと思ったが、やめておいた。柵にもたれかかりながら何とか立ち上がり、観客席に向かってフラフラと歩き出す。そのまま歓声に応えるように、大きく手を振ってから深々と一礼した。

 勝者は堂々としなければならない。勝者然として振る舞わなければ、敗者の立場が無くなってしまうからだ。

 

 照れるな。敗者に対して申し訳ないと思うな。堂々と振る舞え。それが勝者の責務である。自分の夢を叶えるということは、誰かの夢を犠牲にするということなのだから。

 ウイニングランをする体力がなかったので、早々にウィナーズサークルでのインタビューを切り上げて地下通路に引っ込む。どんな言葉で受け答えしたのかは覚えていなかったが、観客の反応からして失言はしていないようだった。

 

 ふらふらと地下通路を歩いて、控え室に向かって進む。コンクリートの壁を手で伝いながら、俯いて肩を上下させて、息を整える。体力が本当に空っぽだ。いよいよ限界が近くなってきた。

 そんな中、私の聞き慣れた足音が地下通路に響く。普段よりも早いテンポで近づいてきた気配が私の目の前で立ち止まると、崩れ落ちそうな身体をしっかりと抱き留めてくれた。

 

「あ、危ない危ない……アポロ、おかえり」

「……んん、ただいま」

「相当疲れてるね。大丈夫? 歩けそうもない感じ?」

 

 彼の匂いと温もりをいっぱいに感じていると、尽きた精神力とスタミナが回復するような感覚に襲われた。もちろん実際に回復したわけじゃないけど、好きな人が出迎えてくれるのは想像以上の多幸感に包まれてしまうものだ。

 しかし、とみおの声を聞いて安心したせいか、今度こそ脚が動かなくなってしまった。

 

「……ごめん無理かも。あとめっちゃ眠くてこれ以上動けない」

「分かった。控え室までおぶっていくよ。このまま俺に掴まれる?」

「……お願いします」

 

 とみおは私の目前で背中を向けると、手で籠の形を作りながら膝を折った。電池切れ同然で一刻も早く目を閉じたかった私は、彼の大きな背中に倒れ込みながら全身の力を抜く。汗の臭いとか、勝負服の汚れとか、そんなことがどうでも良くなるくらい疲れていた。

 とみおの身体に体重を預けると、太ももの裏側に差し込まれた手に力が込められる。最初のうちは不安定だったが、とみおの手がしっかりとホールドされると、彼の身体は心地よい揺りかごへと変貌した。

 

「……ん」

「ウイニングライブまで時間があるから、それまではゆっくりお休み」

「……うん、ありがとう」

 

 遂に身動きが取れなくなって、私はとみおの温もりに抱かれながら意識を闇に落としていく。全てを出し切って、もはや悔いはない。意識が途切れる寸前、私は燃焼させた恋心を思い出しながら目を閉じた。

 

「とみお、大好きだよ……」

「…………」

 

 ……あれ? この気持ち、声に出ちゃってない? ガッツリ聞かれてない? でも眠過ぎてよく分かんないや……。

 こうして失言の程は真偽不明のまま、天皇賞・春は終わった。私達は休息を取りつつ、ヨーロッパ遠征に向けた本格的な準備を始めるのだった。

 

 

 

 天皇賞・春から数日が経ったトレーナー室にて。私はレースを振り返りながらトロフィーの置かれた棚を見つめていた。

 トレーナー室の一角には、日本ダービーのトロフィー、菊花賞のトロフィー、ステイヤーズステークスのトロフィー、有記念のトロフィー、天皇賞・春の盾が飾られている。ここにはないが、各重賞の優勝レイも保管されている。

 その中でも――天皇賞・春の盾。厳重かつ丁重に保管されているそれは、とびきりの威圧感と重厚感を放ちながら沈黙していた。

 

 私が欲しくて堪らなかった春の盾。トロフィーも素敵だと思うけど、やっぱり『盾』という響きと佇まいは格別に甘美なものだ。

 天皇賞の盾は、正式名称『御紋付楯』と言い、縦56センチ横49.5センチの木材(ラワン材)で作られた板に、鋳物で金メッキされた菊の紋章が当てこまれている。この盾を受け取る際は、敬意を表して白手袋をして受け取ることになったのを覚えている。勝負服の手袋に重ねて手袋をする羽目になったので、ややシュールであったが……そういう予想外の出来事も良い思い出である。

 

 トロフィーや盾を見ていると、その時の思い出がありありと浮かんでくる。私が走ってきた軌跡の証明と言ってもいい。

 写真と共に並び立つトロフィー達に愛おしい視線を送ってから、私はトレーナー室のソファに戻って新聞を眺めた。

 

 今、世間には様々なニュースが飛び交っている。セイウンスカイが香港やオーストラリアを中心とした海外挑戦を表明したり、天皇賞・春で5着になったジャラジャラがヨーロッパ挑戦を続けると発表したり、その他にも色々と。

 中でもピックアップされがちなのは私のニュースだ。メンバーの集まった芝3200メートルのG1を、これまでのレコードを8秒近く縮める3分06秒1で制したのだから、逆に話題になってもらわないと困る。

 

 天皇賞・春は、終わってみれば7身のレコード勝ちと圧勝。まだ不安定な面もあったが、その不安定さ故に新たなステージへと足を踏み入れることができた。

 『未知の領域(ゾーン)』を超えた『何か』。()()()も疲れもない、興奮も絶望もない、絶対的な速度だけが存在する可能性の極致――言わば、『神の領域(ゾーン)』。あれさえ手に出来れば、カイフタラさんを完封することも夢ではない。むしろ、その片鱗を掴んだだけでも、あのレースは実りあるものになったと言って良いと思っている。

 

 逆に良くなかったのは、今まで以上の消耗があったことだろうか。慣れないスタミナ燃焼法と、熱狂のG1という舞台、更にライバル達への警戒が重なって、結局かかりまくったのも良くなかった。とみおは「アポロのかかり癖は大逃げの代償みたいなもの」「その臆病さも良いところだと思うよ」なんて言っていたけど……よりスタミナ管理が重要になってくるヨーロッパでは、このかかり癖がどう転ぶかは分からない。

 ただ、『神の領域(ゾーン)』に触れた時、一瞬だけ攻略の糸口が見えた……ような気がしたから、あの感覚を思い出してかかり癖を黙らせる他ない。そういう意味でも、私はまだまだ成長過程にあるようだ。

 

 ……さて、5月1週の天皇賞・春が終わっても私達は忙しい。すぐにでもヨーロッパに発たないといけないし、3週間後の5月4週に控えたG2・ヨークシャーカップに向けてトレーニングを積まなければならないからだ。

 ドバイ遠征前から動いてはいたものの、本格的に動き始めるのは今からだ。既にヨーロッパ留学をしているエルちゃんの助けも得て、フランスのシャンティイにあるトレセン学園が私の留学先。現地のスタッフさんを含めてかなり多くの人が動いてくれているようで、生半可な結果で終わるわけには行かない――と気が引き締まる気持ちだ。

 

 というわけで、私達は天皇賞・春のインタビューや取材を少数に絞り、ヨーロッパ遠征の準備に没頭していた。大手の月刊トゥインクルが私のインタビュー記事をほぼ独占しているため、他メディアから不満が出ているようだが……まあ、私には直接的な関係のないことだ。そこら辺は大人が上手くやってくれるだろう。

 

 大体やれることはやった。お父さんお母さんに電話して、ヨーロッパに行ってくるねと伝えた。お正月に帰省した時に既に言っていたから、再度通告しただけだが……2人から「行ってらっしゃい、気をつけてね」と優しく言われ、目頭が熱くなったのを覚えている。

 スペちゃん達や先輩方にはしばらくのお別れを告げた。スペちゃんには「有記念で待ってる。負けないから」と闘志の漲る目で言われた。グラスちゃんには「エルといいアポロちゃんといい、寂しくなりますね」と言われ、最後に「ヨーロッパでは負けないでくださいね」なんて無茶ぶりをされてしまった。顔が割とマジだったから本気のお願いなのかもしれない。

 セイちゃんは「海外遠征中どこかで会うかもね〜」、キングちゃんは「貴女の活躍、見届けさせてもらうわ」、ルドルフ会長は「怪我には気をつけるんだぞ」、マルゼンさんは「思いっ切り楽しんでくるのよ!」、ヘリオス先輩&パーマー先輩は「困ったことがあったらいつでもウチらに相談してね!」、タキオンさんは「心配はしてないよ」、バクシンオーさんは「海外でも模範的バクシンステイヤーとして最高の結果を残してくださいね!」……これに関してはちょっとよく分からない所があったけど……とにかく、色んな言葉を貰った。

 

 もちろん、とみおもヨーロッパ遠征に同行する。準備に関しては彼が一番忙しかったに違いない。現地でのツテは、シャンティイのトレセン学園や東条トレーナー(タイキシャトルさんとフランス遠征に行ったことがある)を頼ったとか。

 

 ……なんて、ここまで大変なことばかり挙げてみたけど、私達はヨーロッパ遠征をめちゃくちゃ楽しみにしている。何せ、2人にとっては文字通り憧れの舞台だからね。

 

 トレーナー室でスポーツ新聞を読みながら何度か唸った後、私はソファの背もたれに寄りかかって唇を結んだ。

 

「……遂に、エンゼリーちゃんが動き始めたか……」

 

 私が読んでいた記事の片隅にあったのは、今年のステイヤーズミリオンで好走が期待されるエンゼリーちゃんの次走発表であった。

 

 カイフタラさんは直接6月4週のゴールドカップに、私は5月4週のG2・ヨークシャーカップに、そしてエンゼリーちゃんは6月1週のG3・ヘンリー2世ステークスが予定として据えられている。そしてこのヘンリー2世ステークスは、日本からジャラジャラちゃんが参戦する予定のレースだった。

 

 エンゼリー。私と同じくシニア級1年目にして、中距離〜超長距離への適性を持つウマ娘。その姿を直接見たことはないが、私と結構反りが合いそうだと勝手に思い込んでいる。

 そのエンゼリーちゃんはヨーロッパ出身ながら、燻っていた時期に遠征したオーストラリアで活路を見出し、G1含めた重賞を連勝中のウマ娘だ。彼女は4月初旬の「ザチャンピオンシップ」――2週間で8つのG1を行うオーストラリアの祭典――の対象レースである3200メートルG1・シドニーカップに勝利し、今年の大目標をステイヤーズミリオンと発表した。ヘンリー2世ステークスはステイヤーズミリオンの対象レースだ。そこで勝利して、挑戦権を得ようという魂胆らしい。

 

 私、カイフタラさん、エンゼリーちゃん、ジャラジャラちゃん……恐らく他にも有力なウマ娘が潜んでいるはず。私は背もたれから滑り落ち、ソファに溶けながら天井を見上げた。

 ワクワクするし、ドキドキするし、ヒリヒリする。勝てたらいいな。負けたらどうしよう。芝が致命的に合わなかったら? でも、ドバイではそこそこの結果を残せた。重場はともかく洋芝適性はあるはず。それでも怖い。未知に挑む不安と興奮が止まらない。

 

 そのまましばらくボーッとしていると、天井の照明を遮るようにトレーナーの顔が現れた。逆光の中でこちらを見つめる顔に、頬が染まるのを間違いなく感じてしまう。私は彼の視線を遮るように、手首で口元を隠して目を逸らした。

 

「ぐったりしちゃって。どうしたの?」

「ヨーロッパのこと、色々と考えてた」

「これから大変になるな」

「……うん」

 

 ……天皇賞の後、朦朧とする意識の中零してしまった「大好きだよ」という言葉。とみおがそれを聞いたかどうかの真偽は不明だ。もちろん「とみお、私の告白聞いてた?」などと直接聞けるわけもなく……あの件は無かったことにされている。

 でも、おんぶされてたんだよ? 目の前にとみおの後頭部があって、ということは耳もあった。地下道はそこまでうるさくなかったし、私の囁きを聞き逃すわけもないと思うんだけどなぁ。普段の言動がもう“好き好きオーラ”全開になっちゃってる以上、余程の朴念仁じゃなければ私の気持ちに気づいているはずなのだ。

 

 そもそも、私は忘れてないからね。『アポロは俺の永遠だよ〜』って言ったこと。何なの、アレ。私のことが大好きってことなんじゃないの? めちゃくちゃ大胆発言しておいて、後日あの一件に触れることもなく、私はず〜っと生殺し状態だ。

 ……もしかして。アポロちゃんみたいな可愛い可愛いウマ娘でも、とみおにしてみれば所謂『キープ』の女の子ってこと?

 

「うぅ〜」

「え、どうしたどうした」

「……なんでもない」

 

 実際、有り得ない話じゃない。優しくて誠実で頼りがいがあって顔面は私の好みで、仕事は忙しいけどその分お金も稼いでて。スペックだけ見ても、彼は選ばれる側じゃなくて選ぶ側だ。内面を知っている私だから、尚更そう思ってしまう。

 でも、もうちょっとさぁ。……私のこの気持ちに反応してくれてもいいんじゃない? 大人としての責任があるのは分かるけど、燃え盛る恋心が冷静さを奪っている。どうして一緒に燃えてくれないのか、と。

 

 ……「俺」からすれば、桃沢とみおは()()()()()()を全うしているだけだと思うんだが、「私」にはそれがまだ分からないらしい。とみおは良くやってると思うけど、2人でひとつの人格になった影響なのか、激情(恋心)を共有するせいでまともな判断がつかなくなりそうだ。

 

 視線を天井に戻すと、とみおの顔は無くなっていた。デスクワークに没頭しており、エンゼリーちゃんやカイフタラさんのデータを眺めているようだった。かと思えばウインドウを変えて、国内外の新たなインタビュー要請のメールを捌いていたり、とにかく大変そうである。

 ……この調子じゃ、忘れちゃったんだろうなぁ。いっぱい抱き締めて、たくさん褒めてくれるって約束したこと。たとえ忘れていなくても、あの調子じゃパソコンの前から離れたくないだろうし。私から切り出すのも仕事の邪魔だろうし、申し訳なさが勝ってしまう。

 

 まぁ、使い切った精神力と体力は時間が経てば回復するんだ。次走までの3週間は回復に徹していれば良い。こと精神力に関しては彼の助けが必要なのだけど、イメージで恋心(精神力)を回復させるしかないだろう。本当は頼りたいけど。

 

 そう思って瞳を閉じていると、とみおが愛用するチェアから立ち上がった音が聞こえた。床が僅かに軋み、こちらに接近する気配。

 片目を開けて疑問を投げかけると、彼は「仕事終わらせたから、隣に座っていい?」と答えた。うんしょと言って私が身体を起こすと、とみおは握り拳ほどの隙間を開けて隣に腰掛けてきた。2人分の体重がかかり、ソファが沈み込む。彼との距離が少し近くなった。

 

「私に何か用?」

「用も何も、君のお願いを叶えに来たんだよ」

「?」

「天皇賞が終わったら……いっぱい抱き締めて、たくさん褒めて欲しいんだったよね?」

「え? ……えっ?」

「ほら、どうぞ。約束だからね」

 

 とみおが少年のように悪戯っぽく笑い、至近距離で両手を広げて待ち構える。私は両手を口に当てて硬直するしかなかった。

 いや、待て。確かにそんな発言はした。いっぱい抱き締めて褒めて欲しいって。しかし、いざ本当にやってくれるとなると、こう……逆に拒否感が生まれてしまう。嬉しすぎて逆に無理というか、幸せで死んじゃうかもしれないというか。

 

 私は片手を伸ばして、とみおの胸板の辺りまで持っていこうとして――何度も逡巡した。心臓が胸の内側を叩き、喉から飛び出しそうになる。

 ハグってどうやるんだっけ。本当にいいの? 良かったとして、どこまで近づいていいのかな。腕って首の後ろに回すんだっけ。それとも脇の下? はたまた、腰に手を回す? 分からない。分かんないよ。こんな私にどうしろと言うんだ、桃沢とみお。

 

 私は顔を上げてとみおに助けを求める。彼は首を傾げて、さぁ来いと言わんばかりに準備を完了していた。別に大したことじゃない、という雰囲気さえ感じてしまう。

 私は上目遣いになって、彼に何度も許可を求めつつ肉薄する。太ももを彼の脚と触れ合わせ、彼の顔を下から覗き込む。

 

「……いいの? ほんとにいいんだよね?」

「そう言ってるじゃないか」

「あ、あの……力の加減ミスって骨折っちゃったらごめんね?」

「……それは勘弁して欲しいな」

 

 私達がハグをするのは初めてじゃない。レース後に抱きしめ合ったこともある。手を繋いだこともある。褒めてもらったことだって、もちろんある。

 改めてそれを体験するだけじゃないか。どうしてヘタレになってしまうんだ。ヘタレレインボウ。バカ野郎。

 

 私は意を決して、生唾を嚥下する。そのまま小さな声で、決意を口にした。

 

「そ、それじゃ……行きます」

「お、おお……」

 

 私はお尻を移動させ、とみおと太もも同士を密着させる。おずおずと彼の胸に手を当て、耳を倒してそのまま彼の鎖骨の辺りに頬を落とした。それを確認したのか、とみおが私の背中に腕を回す。そのまま優しく包み込まれ、彼の温もりに抱かれてしまった。

 瞬間、脳髄から多幸感が噴出した。彼の匂い、心臓の音、温もり、息遣い――その全てに囲まれて、呼吸困難を起こしてしまいそうだった。そんな状態にあるのに、意中の人に耳元で「頑張ったね」と囁かれるのだから、どうしようもなく堪らない。私は全身に力を込めて激情の波に耐え忍んだ。

 

「アポロは本当に偉いよ」

「っ……」

「ずっと頑張ってきたのは誰よりも俺が知ってる。本当におめでとう」

「っ……う、ん……」

 

 そんな中、胸の高鳴りと着恥ずかしさに混じって――瞳の奥から別の感情がせり上がってくるのが分かった。

 それは涙だった。喉が痙攣して、嗚咽のような声が漏れてしまうのだ。私の涙に気づいたとみおは、私を抱き締めていた手の片方を頭の上に乗せ、何度も何度も梳くように髪を撫でてくれた。

 

「……これからも頑張らないといけないことが沢山あるけど、先に言っとくね。アポロ、俺の担当になってくれて本当にありがとう」

「も、もう……やめて……ひっく、十分、分かったから……」

「ご、ごめん。もうやめる。でも、言わなきゃ分からないこともあると思って」

「っく、うぅ……もう、ほんと、バカっ……」

 

 今溢れている涙は恋愛感情から来るものではない。『誰かに認められた』『私の頑張りを褒めてくれた』という、ごく単純な嬉しさとくすぐったさから来る涙だった。

 ずっとずっと血の滲むような過酷なトレーニングを続けてきた。結果が出るか分からない、少しのミスでトレーニングに明け暮れた期間が無駄になるかもしれない、そんな緊張感と不安の中で、希望と夢に縋り付くように必死にもがいてきた。それが今、最も信頼するパートナーに認められて、とてつもない安心感と開放感、認められた喜びと気の緩みにぎゅっと抱き締められていた。

 

 私達は親元を離れてこのトレセン学園にいる。それは思春期の人間にとって、保護者の庇護下から離れるという一大事でもある。全寮制という形態を取り、トゥインクル・シリーズというスポーツの祭典に身を投じる以上、トレーナーは保護者としての役割も担わなければならない。私にとって桃沢とみおというトレーナーは、パートナーであり、保護者であり、大好きな異性でもあるという、やや属性過多な存在なのだ。

 そして今この瞬間。私は、めいいっぱいの祝福と抱擁を、両親に変わってトレーナーにしてもらっていたのである。

 

 私は滂沱として涙を流していた。感情がぐしゃぐしゃに混じり合っていた。

 恋慕、親愛、尊敬、感謝、謙遜、羞恥、開放感、安心感、こそばゆさ――ありとあらゆる感情が溢れ出して、異性に向けるような恋心が振り切れて、或いは親に向けるような親愛が双眸から零れ落ちて、雫となった激情のうねりが彼のシャツにシミを作り出していく。私は顔を上げることができなかった。

 彼から感じるのは、親から子に向けるような偉大な愛。苦楽を共にしたパートナーとして、私の活躍を祝福する気持ち。それと、僅かばかりの――……。

 

「……ありがとう、ありがとう……」

 

 私は涙で震える声で彼に感謝し続けた。多分、何を言っているのか伝わっていなかったと思う。それでも彼は、同じように私の存在に何度も感謝すると共に、私を抱擁する腕に更なる力を込めるのだった。

 


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