ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

126 / 151
112話:突き放せ!ヨークシャーカップ②

 

 長方形のパドックでお披露目が終わると、返しウマが行われる。ヨークレース場には返しウマ専用のスペースが設けられているため、13人のウマ娘達は細道のような場所で軽くランニングを行っていた。

 その場所は観客席とコースの間にある柵に囲まれた空間で、横幅はウマ娘ひとり分程度しか存在せず非常に狭い。チーフズグライダーはその細道を走った後、向正面にあるゲートの前で立ち止まった。

 

 広大な敷地面積を誇るレース場。喧騒は遥か彼方。微かに聞こえてくる実況・解説の声を聴きながら、彼女は一面の緑に囲まれて闘争心を高めていた。

 

『さあ、返しウマが終わって13人のウマ娘が向正面の引き込み線に集結しました。各々準備を進めながらゲートインの時間を待っています』

『針の穴に糸を通す時のように、もどかしい時間が長く続きますね。緊張でアガる子が出ないと良いのですが』

 

 チーフズグライダーは前掻きして芝を蹴りつけ、苛立ちを露わにする。そんな彼女の元に、チーフズグライダーのチームメイトにして()()()()役であるブラッシングチャームがやってきた。

 

「緊張してるんですか?」

「……いや。()()が気になって落ち着かないだけだよ」

「それを緊張と言うんですが」

「…………」

「…………」

「……少し緊張が解けたよ。ありがとう」

「いえ、構いません」

 

 言いながら、2人はアポロレインボウから離れた位置で軽い会話を始めた。彼女とは言わずもがなアポロレインボウのこと。チーフズグライダー陣営にとってはヨークシャーカップ最大の障壁であり、対策必須のウマ娘である。

 今回のレースにラビット役のブラッシングチャームを出走させたのは、ゴールドカップの予行練習としてヨークシャーカップを選んだからだ。長い現役生活中のチーフズグライダーはともかく、デビューの遅かったブラッシングチャームはまだトゥインクル・シリーズに所属してから日が浅い。つまるところ、陣営にはラビット役のウマ娘(ブラッシングチャーム)に場数を踏ませたいという狙いがあった。

 

「大丈夫ですよ。敵はこちらのコースに慣れていませんし、ラビットとも初対決ですから」

「……こら、チャーム。彼女を侮ってはならないぞ。相手はドバイゴールドカップで2着……つまり私よりも着順が上だった。あのカイフタラに食らいつける実力も持っているし、それに――」

「はぁ。分かってますよ、そんなこと。でもチーフ先輩の方が絶対強いです。アポロレインボウなんかには負けませんから」

「……それは今から分かることだ。チャーム……磐石の勝利を収めるためにも、お前の働きには期待しているぞ」

「はい! ペースメイクは任せてください!」

 

 また、このレースは陣営が練り上げてきた『大逃げ対策』が有効かどうかを見定める場でもあり、ここで全く歯が立たなければゴールドカップやグッドウッドカップなどのG1で勝てるかどうかも怪しくなってしまう。

 アポロレインボウはアポロレインボウで、ヨークシャーカップからゴールドカップの間にレースを入れるのは不可能。レース間隔的にも疲労的にも、ここで勝たねばステイヤーズミリオン完全制覇は有り得ないのだ。

 

 両者共々負けられない――本番レースまで牙を隠しておきたいが、出し惜しみをすれば負ける。お互いの本気が激突する前哨戦。アポロレインボウはゲートを睨んで硬直しており、闘志というよりは怒気が噴出していた。

 果たして何に苛立っているのか。詳しいことは分からないが、チーフズグライダー陣営にはひとつ心当たりがあった。ブラッシングチャームとチーフズグライダーは目を見合せ、軽く頷き合う。

 

「……極東の島国からやってきたウマ娘、アポロレインボウですか。順風満帆のように見えて意外と()()()()面があるんですよね。……我々のトレーナーの言う通り、色々と複雑そうな感じです」

「うむ……細かいことは不明だが、私生活の面で迷いがあるとか無いとか……。肉体も精神も絶好調ではあるが、小骨が引っかかって本当の力を出し切れないような状態と見て良いだろう」

「……ミーティング通り()()()()()?」

「当然。勝負の世界において精神攻撃は基本だからね」

 

 ――()()()。勝負事において、勝利のために相手の弱点を攻め立てるのはごくごく当然のことである。つまり、彼女達はアポロレインボウに対して精神的揺さぶりを掛けようとしていた。その揺さぶりの内容とは――()()()()()()()()()()()()()()()()()。言い換えるなら、『トレーナーと担当ウマ娘』以上に進展しない2人の距離間について突っ込んでみようと考えていた。

 

 当然ながら、アポロレインボウの迷いはそんなことではない。彼女の内心はもっと複雑だし、夢の根幹と恋愛は全くの別問題である。

 では何故チーフズグライダー陣営は間違った考察に確信を得ているのか。その理由は、例のドキュメンタリーや普段の態度から推測した結果、考察の着地点をものの見事に見誤ってしまったからである。

 

 とんでもない誤算に気付かぬまま、チーフズグライダーとブラッシングチャームの2人は、ゲート前で集中を高める芦毛の少女に声をかけた。そしてレース前に交わした一連の会話が、陣営にとってある種の悲劇を生み出すことになる。

 

「ヘイ、アポロ」

「……? あ、チーフさんにチャームちゃん。今日はよろしくね! 負けないから!」

「……我々は挨拶をしに来たのではない。君に宣戦布告しに来たんだ」

「えっ?」

 

 チーフズグライダー陣営の誤解は致命的な領域に及び、アポロレインボウのブチ切れラインを反復横跳びする。そして次の瞬間、芦毛の少女の精神を逆撫でする言葉がチーフズグライダーの口から飛び出した。

 

「このレースに勝ったら、君のトレーナーとデートする予定なんだ」

「……はい?」

「積極性が足りないからトレーナーに振り向いて貰えないんだ。このレースが終われば……君は全てを思い知ることになるだろうね」

「は? は? はあああああああ?? ちょっ、それはどういう――」

 

 もちろん全て嘘である。チーフズグライダーは桃沢とみおのことをあまり知らないし、過度な興味も持ち合わせていない。当然桃沢トレーナーをデートに誘う予定もないし、一連の口撃は芦毛の少女を動揺させるためだけの言葉であった。

 耳を後ろに絞りながらチーフズグライダーに詰め寄ろうとするアポロレインボウだったが、ゲートインの開始を知らせる係員によって行動を遮られる。彼女は明らかに動揺した様子であったが、ゲート前に立って数度深呼吸を行うと次第に顔つきが冷めていき、()()()()ような双眸に変わっていった。

 

(お、効いてる効いてる。やはりトレーナーに対する思いは人一倍強いみたいですね)

(あれは効いていると言うよりも……何だろう。思っていた反応と何か違う気がする)

(そうですか?)

(気のせいかな。我々は余計なことをしてしまったのかも……)

(そんなはずは。アポロレインボウは間違いなく動揺していますよ)

 

 彼女達にとって更に予想外だったのは、アポロレインボウがトレーナーのことに対しては案外冷静で、しかも騙されたことに対する怒りを闘志に変えられることだった。芦毛の少女の恋心の重さは確かに驚異的な粘度を誇る。しかし、「ライバル陣営はとみおのことを引き出しにして私を動揺させようとしている」という思惑を理解した上で、ありのままの怒りを精神力に変える賢さもまた持ち合わせていたのだ。

 ある意味ライバルの精神攻撃には成功したものの、チーフズグライダー達はアポロレインボウの闘争心を激化させただけで作戦は逆効果に終わったと言っていいだろう。怒りを力に変え、少女の闘気は更なる熱量を含んでいく。

 

『2番人気のチーフズグライダー、ただ今ゲートイン』

『落ち着いていますね。対アポロレインボウに自信があるとのことでしたから……この冷静さは対策の強固さの裏返しでしょう。チームメイトのブラッシングチャームと共に、彼女がアポロレインボウの大逃げにどのように立ち向かっていくのか。期待しましょう』

 

 芦毛の少女は、夢の根幹が霞むほどの激情を自らに覚えていた。彼女の想いの源はレースに対する熱意と淡い恋心。普段のレースでは、その2つに火を焚べて己の力に変えていた。しかし、レース寸前に噴出した強烈な怒りが新たな源として彼女に力を与えていた。

 作戦とはいえ、パートナーとの結びつきをバカにされた怒りを確かに感じる。ゲートインと同時にここまで黒い感情を感じるのは初めての経験だ。アポロレインボウが積み上げてきた桃沢とみおに対する恋慕の情、夢の根幹による混乱と焦燥、口撃に対する予想外の怒り――全ての感情がぐしゃぐしゃに溶け合い、少女の思考回路をショート寸前まで追い込んでいく。

 

『1番人気のアポロレインボウ、外枠の12番に今ゲートイン』

『……おや? 少し様子がおかしくありませんか? 耳を後ろに絞っているのに、妙に落ち着き過ぎているような……表情も虚ろに見えます』

『……そうですかね? レース前の普通のウマ娘に見えますが』

『気のせいでしたか……失礼しました』

 

 そして芦毛の少女がゲートインした瞬間、激情を溜め込みすぎて、彼女の処理能力は()()()()()しまった。極度の集中状態による視野狭窄と、突如与えられた憤怒による思考暴走。そこにトレーナーへの恋慕が掛け合わさり、彼女は激情のその先――無我の境地に至った。

 彼女に必要だったのは、積み上げてきた必然と、ほんの僅かな偶然だったのである。

 

 ほんの一瞬の光明。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。或いは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。電撃のような閃きと、忘れていた記憶の衝撃に打ちひしがれたまま――いよいよG2・ヨークシャーカップが幕を開ける。

 

『歴史と伝統あるヨークレース場。天候は快晴、場の発表は良。2800メートルの左回りという条件で行われるG2・ヨークシャーカップは、G1・ゴールドカップやG1・グッドウッドカップの重要な前哨戦とされてきました。カップ戦並びにステイヤーズミリオンに続く栄光の道を切り開くのは誰となるのか!? 全てのウマ娘がゲートインを完了し、いよいよレースの開幕です!』

 

 ゲートが開くか否かの瀬戸際、チーフズグライダーは様子のおかしなアポロレインボウをただ独り気にかけていた。五月晴れの爽やかな風の中、ただひとり茫然と立ち尽くす芦毛の少女。極度の集中状態にあるのか、それとも口撃が成功して動揺しているのか。敵に塩を送った気がしてならない。

 もどかしい静寂の中、鋼鉄のゲートが軋む。13人のウマ娘は動きを止め、開放の時を待ちわびる。そんな中、予知能力でも発動したかのように芦毛の少女の体躯が跳ねた。ゲート内の僅かな空間を有効利用し、少しでも有利なスタートを切るため――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……は?」

 

 素っ頓狂な声は、誰のものだったのだろうか。

 次の瞬間、ゲートが音を立てて開放される。アポロレインボウの鼻先が衝突する寸前のことだった。

 

『スタートしました! アポロレインボウとブラッシングチャームがすいすいっと前に出る! やはり両名の先頭争いになりそうですが、1歩リードするのは日本から来た芦毛の妖精・アポロレインボウ! 3番手を行くのは内枠のオフィスピクシー、欧州の妖精も黙ってはいません。様子を窺っています』

 

 ヨークシャーカップがスタートした。長い直線が主となるこのレースでハナを制したのはアポロレインボウ。2番手のブラッシングチャームとの差は1身。アポロレインボウの後先考えない破滅逃げと、チームメイトを勝たせるために捨て身の逃げを敢行するブラッシングチャーム。早くも2人のデッドヒートが展開されると、後ろ脚質のウマ娘は「ついて行ったら自滅する」と考え、スタミナを温存するために後ろに控えていった。先行のウマ娘はアポロレインボウにプレッシャーを与えるため、ブラッシングチャームに引っ張られるように位置取りを押し上げていく。

 

 こうして前方集団と後方集団に分かたれる寸前、横並びになったブラッシングチャームとチーフズグライダーは視線を交わす。

 ――手筈通りに頼んだぞ。

 ――お任せを。最終直線でぶっちぎっちゃってください。

 対アポロレインボウ戦において、無駄な酸素は1ミリグラムとて消費できない。2人は視線だけで会話を済ませると、互いの作戦通りの動きに集中し始めた。

 

 チーフズグライダー陣営の口撃は大逃げ対策の本命ではない。その対策の主となるのは、ブラッシングチャームによる執拗なマーク。アポロレインボウの弱点を徹底的に攻め続け、根負けせることを目的としている。

 

(アポロレインボウは競りかけられれば必ず()()()! ドバイでも天皇賞でも、その弱点は消えていなかった! 私達が執拗にマークしてヤツのペースを乱す以外に勝ち目はない!!)

 

 アポロレインボウはうわ言のように「Bakushin…」と呟きながら、スタート直後から加速し続けている。まるでスプリンターのラストスパート。スピードだけには自信のあったブラッシングチャームでさえ食らいつくのがやっと。彼女の後ろにいる重賞ウマ娘のオフィスピクシー、キャッシュマウス、エクセラーマニアも何とかついて来ているが、いくら何でも今日のアポロレインボウは速すぎた。どんどん引き離されていく。

 しかし、彼女達はアポロレインボウが()()()()()()弱点を持っていると知っている。知っているからこそ何とか追い縋っていける。弱点のないウマ娘なんていない。そう信じているから、勝利の希望を見ていられるのだ。前方の4人はアポロレインボウを追うため、速度を上げ続けた。

 

 スタートから400メートルが経過して、チーフズグライダー陣営にとって予想外の事態が起こる。

 ――アポロレインボウが落ち着きすぎていた。狂気的なトップスピードに乗り、スプリンター同然の疾走を続ける芦毛のウマ娘。斜め後ろにブラッシングチャームが、真後ろに3人のウマ娘が張り付いているというのに、背後を気にかける素振りすら見せない。

 

(何故()()()()()、アポロレインボウ――っ!?)

(アイツ、どんどん前に行ってて()()()()!)

(まさか――唯一の弱点だった()()()さえ克服したのか!)

(んなアホな!! こっちのトレセン学園で走ってた時、そんな兆候は見られんかったはずやろ!! かかっとったはずや!!)

 

 目の前のアポロレインボウの背中を追いながら、敵同士だったはずの4人は視線を交わした。ブラッシングチャーム、オフィスピクシー、キャッシュマウス、エクセラーマニア達が苛烈なプレッシャーを与えるが、その背中は着実に遠ざかっていく。

 アポロレインボウはトリックや引っ掛けをあまり使わないウマ娘だ。()()()()分かりやすく動揺するし、純粋な能力勝負には強いものの搦手(からめて)には弱い。そういう不器用なウマ娘だったはずなのに――

 

『スタートから600メートルを通過して、先頭は変わらずアポロレインボウ。ハイペースのまま突き進んでいます』

『2〜5番手は大接戦――いえ、アポロレインボウを執拗にマークしていますね』

『しかしアポロレインボウ全く動じない! 今までのレースぶりが嘘のように不動!! 4人から与えられる全てのプレッシャーを跳ね返し、ハナを走り続けています!!』

 

 敵を競り落とすために加速するのと、恐怖や焦りから加速するのでは、体力の消費量が決定的に違う。精神的な余裕にも天と地の差が出る。不安定さがあってなお最凶クラスの戦法を誇っていたのに、アポロレインボウはその弱点すら克服してしまったのだ。

 短所が無くなり、残るは長所だけ。長所の殴り合いになればアポロレインボウに勝てるウマ娘はほとんどいないだろう。抜群のスタートダッシュ、10000メートルを全力疾走し続けられる底なしのスタミナ、生半可な末脚であれば差し返してしまう勝負根性、序盤から終盤までスプリンターの如き瞬足で駆け抜けられる敏捷性、レース終盤に隠された二の脚――

 

 アポロレインボウに勝つための()()が崩れてしまった。序盤で果敢に攻め立て、中盤の余裕を崩し、終盤で何とか差し切るというプランなど夢のまた夢だ。そもそも序盤の()()が効かないのだ。そうなれば、最序盤にハナを奪うことはもちろん、ステイヤーズステークスのように終盤で失速させるレベルでスタミナを削っておくことも不可能になる。

 ブラッシングチャームを含めた4人のウマ娘は激しく動揺し、目前を走る小さな背中に絶望を覚えた。それでも彼女達は一縷(いちる)の望みに掛けて、必死の抵抗を試みる。

 

(っ……ウソだ! 何で効かないの!? お前は競りかけられたら()()()はずだろ!? これまでのレースで何度も何度もかかってきたのに、どうして今――!!)

 

 ――が、効かない。少女の背中は不気味なほどの静寂を醸し出している。ブラッシングチャームの強烈な威圧感に少しも反応しないばかりか、呼吸ひとつ乱さない。これまでのアポロレインボウであれば、間違いなくペースを乱して()()()()いただろうが。

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。4人の呼吸が浅く不安定に乱れていくのとは反対に、アポロレインボウの呼吸は深く安定していた。

 

 まるで巨大な壁を相手取るかのように、不動。押しても引いても変わらない。変えられない。レース直前に感じていた僅かな希望が毟り取られ、絶望に変わっていく。

 前方4人がアポロレインボウに対して感じた動揺は、背後に控えていたチーフズグライダーにも伝わった。8番手を追走していた彼女は、前方で様子のおかしい4人を見て嫌な予感を感じてしまう。

 

(……何だ? アポロレインボウに何かが起こったのか? それとも……効いていないのか? かかり癖を克服してしまったのだとしたら相当マズイぞ……)

 

 先頭集団が浅い角度の第1コーナーを迎えると、アポロレインボウの高速コーナーリングによってキャッシュマウスが()()()()()()()。足元が滑ったのだろうか。いずれにしても致命的なミスだ。そのまま後方集団に合流した彼女は、滝のような汗を流しながら減速していく。

 キャッシュマウスは前脚質を得意とする中長距離ランナーだ。そんな彼女が()()()()()()()()()()()()()()()()6()0()0()()()()()()()()()()()()()()()()後続集団に合流してしまうという異常事態。チーフズグライダーは己の敗北を予感するより、むしろ大逃げに付き合うことによる怪我の危険すら考え始めた。

 

 キャッシュマウスが最後方に下がると同時、レースに出走する全てのウマ娘が妙な寒気を覚え始める。このままアポロレインボウを野放しにして勝てるのか――と。

 奴にベストなレース運びをさせてしまえばどうなるか。彼女はかかったとしてもレコードペースで長距離を走り抜き、勝ち負けできる地力を持っている。今までの2500メートル以上の競走成績は5戦4勝、うち2着1回。そして累計レコード勝ちは5回。強い弱いの話ではない。どうやって勝つか、そもそも勝てるのかという話。彼女以外のウマ娘で徒党を組んで考えなければいけないレベルだ。

 

 かかったレースの典型としては、ステイヤーズステークスやドバイゴールドカップ、そして天皇賞・春。ペースを乱しても確実に連対を決めてきた上、負けた相手も最強の末脚を持つステイヤー・カイフタラだけ。しかし今は、()()()()()()()()()()()()

 持ちうる全ての力を解放したレースと言えば――破滅的なレコードで圧勝した菊花賞。25身の大差勝ちが12人の脳裏に過ぎり、今度こそ彼女達の背筋を悪寒が支配する。呪縛から解放された彼女が自由に走れば、後ろ脚質の末脚と同等以上の豪脚でぶっちぎられるだろう。焦りが産まれると、知らず知らずのうちに12人の速度が上がり――ヨーロッパに似つかわしくない超ハイペースの消耗戦が展開されていく。

 

『緩やかな第1コーナーを曲がって向正面の後半、レースの4分の1程が経過しました。アポロレインボウが先頭、5身後ろを走るのはブラッシングチャーム。じりじりと引き離されているか?』

『先程大きく位置取りを下げたキャッシュマウスも気になりますが、何よりアポロレインボウを()()()()自由に行かせてしまって良いのでしょうか? カイフタラのような末脚があれば話は別ですが、逆に言えば彼女程の末脚があって初めて勝てる相手なのです。チーフズグライダーにそこまで絶対的な末脚はありません。これからどうするつもりなのでしょうか』

 

 1000メートルを経過して、アポロレインボウが速度のギアを1段階引き上げる。緩やかなコーナーで得た遠心力をそのまま加速力に転換するような、明らかに異常な挙動。小さな体躯が地を這い、芝を巻き上げながら彼方へ奔っていく。

 必死に距離を縮めようとしていたブラッシングチャーム、オフィスピクシー、エクセラーマニアら3人だが、そのうちのひとり――オフィスピクシーの()()()()()。全速力で追わされていたはずが楽に引き離され、しかも焦りによってペース配分が狂い切ってしまった。もはや勝てる見込みはない――と、レースの半分を通過する前に諦めてしまったのだ。彼女の顔面は蒼白で、酸欠の症状を呈していた。

 

 ()()()()()()()()()2()()()()()()2()4()()()()()

 彼女を捕まえようとしてなお、この差を開けられてしまったのだ。たった1000メートルで生まれた10身もの差をまざまざと見せつけられ、しかも2人の実質的な脱落者が出たことにより、10人は決定的な絶望感を味わうことになった。

 

(……っ、諦め、られるか……!!)

 

 ブラッシングチャームは、諦めてしまったウマ娘の気持ちが痛いほど分かった。チーフズグライダーのチームメイトという立場でなければ、間違いなく自分もそちら側だったとさえ思ってしまった。

 だが、偉大な先輩のチームメイトであるからこそ、諦められない。背負う思いも夢も、2人分。どれだけ絶望的な差を開けられようとも、己の背中にもうひとつの夢と期待が掛けられている。自分自身の存在で完結しないレースだからこそ、普通以上の力を出せるのだ。

 

 ブラッシングチャームは10身――いや、11身の差を必死に詰めようと藻掻き苦しむ。だが、じりじりと引き離されていく。時速70キロという高速で走っているというのに、ゆっくりと引き剥がされていく恐怖といったらない。

 勝つための作戦(大逃げ)とラビットという違いがありながら、着実に差が開いていくという恐怖は――走ることが本能と結びついたウマ娘からしてみれば、形容しがたい絶望そのものでしかないだろう。

 

 レースは早くもアポロレインボウが独走状態。他のウマ娘は動けない。捕まえたくても捕まえられないのだ。唯一のラビット役たるブラッシングチャームの歯が全く立たないこと、既に2人の実質的な脱落者が出てしまったこと、そしてアポロレインボウ以外のライバルに塩を送ることを嫌ってしまったために動けない。

 強烈な心理的抑制。最初から最後まで高速で逃げ続ける芦毛の少女に食らいつくためには、それ以上の脚で追いつき、追い越し、どうにかして潰さなければならない。その()()()()が通用するか怪しい上、大逃げを止めに行って第三者に勝ちを拾われるなど誰もが御免蒙りたいと思ってしまうのだ。しかも先程、力の差を思い知った2人の()()()()()が急激な失速をしてしまった。前半1000メートル時点で酸欠、またはその速度に振り落とされて、である。

 

 こうなれば、誰だって動けない。こうも絶望と恐怖に彩られたレースになれば、誰もが積極性を失って消極的になるだろう。しかし、動かなければ勝てない。だが、やはり動けない。

 ドバイでカイフタラが勝利したせいか、レース前はどこか「やれるんじゃないか」という空気感があった。ただ、一旦化けの皮を剥いてしまえば脆いもので、少女達の心はもはや勝負に挑む者のそれではなかった。圧倒的に不利な二者択一を迫られ、心理的に追い詰められていき、知らぬ間にペースが乱れ、芦毛の妖精(悪魔)にとって有利な展開が形作られていく。

 

 まるで蟻地獄。一度ハナを奪われてしまえば、どっちに転んでも最悪の二択を迫られる。大逃げの極致にして、最強のスタミナを持つからこそ許される最低最悪の暴力。

 これが本当のアポロレインボウ真の姿。やっと辿り着いた月虹の果て。

 しかも、彼女は第2第3の豪脚を隠している。

 

 ――【アングリング×スキーミング(セイウンスカイ。)

 ――【無名(ダブルトリガー。)

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ(そして、自分自身。)

 

 世界中のライバルから受け継いだ果てなき豪脚。

 世界最強のステイヤーになるために練り上げた激情の欠片。

 ()()()()()()()()()()()()()。この事実が12人にとってどれほどのことか、もはや推し量ることすら難しい。

 

『1400メートル地点の第2コーナーに差し掛かり――おっと、エクセラーマニア失速!! 2番手争いから脱落し、後方集団に合流していきます!! これは恐ろしい消耗戦だ!! 早くも前脚質の3人が勝利を手放してしまった!!』

『こ、こんなレースは見たことがありません……』

 

 1400メートル地点を通過し、第2コーナーに差し掛かる頃。遂にエクセラーマニアも脱落し、アポロレインボウに何とかついていけるウマ娘はブラッシングチャームだけになった。もはやラビット役としてのペースメイクとか、プレッシャーを付与してアポロレインボウを崩すとか、そういう作戦遂行は不可能と言っていい状態だった。それでも彼女が大逃げに食らいつけるのは、ラビット役としての矜恃の成せる技。チームメイトに1着を()()ことを生き様としたウマ娘の、ある種の抵抗であった。

 

 群団は超縦長の展開。アポロレインボウから2番手のブラッシングチャームまでは15身、2番手から3番手までは更に8身、3番手から最後尾のウマ娘までは13身という状態の中、2番人気のチーフズグライダーは5番手追走の形。早くもペースを上げ――上げさせられ――位置取りを押し上げている最中であった。

 そんな中、アポロレインボウは第2コーナーを曲がりながら容赦のない加速を見せる。その姿を見たブラッシングチャームの舌根に胃液の味が広がり、いよいよ限界が近くなってくる。

 

(何が妖精だ……どこまでも悪魔のようなヤツめ!)

 

 15身の差は埋まらない。持てるスタミナ・スピードの全てを注ぎ込んでも追いつけないと分かってしまう。じわりじわりと掛け離れて生まれた敵との距離は、まざまざと己の限界を見せつけられるようで、肉体的よりむしろ精神的にごりごりと削られていくようだった。

 ヒトで例えるなら、1500メートルの持久走。自分は限界ギリギリのペースで走っているはずなのに、他の奴らはお構い無しにぶっちぎっていき、絶対に挽回不可能な差が開いてしまうあの感覚。スタートラインは一緒だったはずなのに、どうしてここまで差がついたのかという言葉にしがたい虚無感。それの何倍も強い感情がブラッシングチャームを襲っていた。

 

 レースに敗北したわけでもないのに精神的に打ちのめされてしまったのは、ブラッシングチャームだけではない。チーフズグライダー以外の11人は、もはや走ることよりも思考することに脳のリソースを割いていた。

 アポロレインボウは垂れる。垂れなきゃおかしい。垂れろ。お願いします。垂れてください。そして沈め。大逃げは自分の勝利を飾るための演出で、自分が負けることなんて有り得ない。奴の勝利の片隅で、記録を引き立たせるためだけの()()になんかなってたまるものか。

 

(そうだ、()()()()()()()()()()())

(アポロレインボウは沈むぞ!)

(みんな、耐え忍び続ければ勝てるぞ! あいつは沈む! 絶対に沈む! そうじゃなきゃおかしいよ!)

 

 疑念と不安が混ざり合って、現実から目を背けるために各々が結論を導き出していく。苛烈な消耗戦が生み出したある種の集団パニック。酸欠による幻覚すら見てしまうウマ娘もいた。芦毛の少女の過去の勝ちレースやその内容を顧みず、()()()()()()()()()()()()()()という強烈な願いと思い込みだけが11人の心の拠り所であった。

 そして――そんな地獄絵図の中でも正気を保つ者がひとり。チーフズグライダーである。

 

(……パニックに陥っているウマ娘の速度が落ち始めた。知らず知らずのうちに威圧感を振り撒かれた上、ナチュラルなトリックまで仕掛けてきたのだ。4000メートルを問題なく走れるウマ娘でなければ、()()なってもおかしくはない――が)

 

 それにしても、今のアポロレインボウは凶悪すぎる。妖精という呼び名は似つかわしくない。奴は悪魔だ。ファンにしてみれば大逃げの体現者という夢の存在だろうが、同じレースに出るウマ娘にしてみれば悪夢そのものである。

 

『さあ最終コーナーに差し掛かって、レースは残り1200メートル程!! 一人旅を続けるアポロレインボウに、ヨークレース場に集ったファンは早くも大歓声を上げている!! 誰も追いつけない! 誰も止められない! これが芦毛の妖精!! 日本からやってきた英雄の姿です!!』

 

 第3コーナーに差し掛かって、レースは残り1200メートル。ここが最後のコーナー。いち早く抜け出していたアポロレインボウは、最終コーナーを使って更なる加速を披露し――全てのウマ娘を絶望のどん底に叩き落とす『未知の領域(ゾーン)』の光を叩き付けた。

 

「――あぁ」

「アポロ、レインボウ――」

 

 ブラッシングチャームとチーフズグライダーの喉から、掠れた声が漏れる。しかし、諦めの声ではない。()()()()()()()()()()()()()()()、という力の抜けた声だった。チーフズグライダーは鋭く息を吐き、3番手にのし上がると同時に超ロングスパートの姿勢に入った。

 見せられる。魅せられる。アポロレインボウの心象風景。いや――()()()()()()()()()()()()。間近で光を受けたブラッシングチャームの目の前の光景が歪み始め、アポロレインボウの全身から生み出された黒い瘴気が彼女の四肢を呑み込み始める。途方もなく激しい想いがブラッシングチャームを侵食し、喰らい尽くす。

 

 やがて闇の中から爽やかな光が差し込み、異常な密度を誇る心象風景が12人の瞼の裏側に映し出された。これは――ヨーロッパのウマ娘にとっては見知らぬウマ娘(セイウンスカイ)の心象風景。しかし、極東の島国で(いのち)を削りながら戦ってきた戦士の欠片だ。

 穏やかな波が立つ深い青緑の大海に、ぽつんと孤独に浮かぶ小舟。その上で瞳を閉じ、釣竿をしかと握るセイウンスカイとアポロレインボウ。一瞬のうちに(たわ)んだ釣竿を巻き上げた2人は、ハイタッチを交わしながら大物を天に掲げてみせた。

 

 煌めく2人の笑顔。ライバルとして、友達として、持ちうる全てを発揮して高め合ってきた2人が生み出す新たな『未知の領域(ゾーン)』。

 

 ――【アンクリング×スキーミング】

 

 突如として、アポロレインボウの身体が超前傾姿勢になる。そして、()()()()()()()()()()()()()()()。湧き上がる大歓声。裏腹に、底なしの絶望を叩きつけられる12人のウマ娘。誰にも止められない。

 

『おおっと!? アポロレインボウ早くもラストスパート!! まだ加速を残していたのかアポロレインボウ!! 何とも恐ろしい、可憐な見た目にそぐわないレースぶりを見せてくれます!!』

 

 そして――一瞬の間も開けず、次なる『未知の領域(ゾーン)』の光が世界を貫いた。稲光のような閃光が12人のウマ娘の心臓を破壊し、心をぐしゃぐしゃにへし折っていく。アポロレインボウ自身の心象風景が開花し、全てを呑み込んでいった。

 アポロレインボウの周囲の空間が歪み始め、硝子(ガラス)細工のように壊れ落ちていく。黒い瘴気と光の向こうには、遥かなる雪原と異形の一本桜が沈黙していた。月虹の光を受けて輝きを増す虹色の桜。

 

 根にはダブルトリガーの光が、幹にはセイウンスカイの光が灯っており、少女に常軌を逸した速度を与えていく。雪の結晶を撒き散らしながら、先頭を走る少女の背中に幻想の翼が宿る。

 そんな絶望的状況の中、アポロレインボウの心象風景に押し入る不届き者がいた。その者の名はチーフズグライダー。猛吹雪に打たれながら、彼女は背中を見せ続ける芦毛の少女に向かって叫んだ。

 

「アポロレインボウ――()()()()の貴様に奪われてたまるか!! 私から夢を奪っていくなっ!! これ以上、私達から――!!」

 

 猛吹雪の中で佇む一本桜に向かって、チーフズグライダーは咆哮していた。夢に至る道程を妨げる者は、誰であろうと退ける。チームメイトのブラッシングチャームや、彼女の前にラビット役を務めてくれたウマ娘のためにも――そして何より己の矜恃のためにも、このレースは絶対に負けられないのだ。

 

 ――チーフズグライダーが本格的に長距離路線を歩み始めた頃、ダブルトリガーが最大の敵として立ち塞がった。彼女が衰えを見せ、やっと台頭できる頃合かと思えば――次なる怪物カイフタラが現れた。昨年のカドラン賞はカイフタラが回避したため初のG1タイトルを勝ち取れたが、ダブルトリガーやカイフタラに先着できたことは1度たりともない。今まで本当の意味で栄光を勝ち取れたことはなかった。

 しかも、今年になってエンゼリーとアポロレインボウという怪物2人がやって来てしまった。ゴールドカップではその3人を相手取らなければならない。ここで自分が気を吐かねば、自分達がアポロレインボウに通用することを証明しなければ、最強ステイヤーになるという夢を叶えることなど不可能なのだ。

 

 チーフズグライダーにとって、最強ステイヤーの夢はひとりで成し遂げられるものではない。チームメイトとして支えてくれるブラッシングチャーム達の尽力があって初めて達成できるのだ。チーフズグライダーはチームメイトの夢さえも背負っている。

 

 彼女が折れなかった理由は他にもある。

 

 この世界で一番努力してきたから。

 この世界で一番長く戦ってきたから。

 この世界で一番長距離レースが好きだから。

 

 誰よりも勝ちたいから、折れるわけにはいかないのだ。

 

 絶対に負けたくない。その激情がチーフズグライダーに『領域(ゾーン)』の光を紡ぎ出す。不完全な『未知の領域(ゾーン)』にして、一瞬限りの超越。

 チーフズグライダーは魂を削りながら、芦毛の少女の背中に手を伸ばす。どこまでも遠い。その差は24身。冷静に考えたくない。負ける未来を考えたくない。刹那の熱に全てを委ね、燃え尽きるのだ。強烈な追い上げの中、チーフズグライダーはカーブの向こう側から()()()()()ブラッシングチャームと視線を交わした。

 

(チャーム――後は私に任せろ!!)

 

「せん、ぱ――」

 

(――行くぞ、アポロレインボウッッ!! 私達が相手だ!!)

 

 ブラッシングチャームにとっての英雄が現れ、颯爽と彼女を抜き去っていく。英雄の後ろ姿はあまりにも頼りないが、絶望のターフに差し込む一条の光であることには変わりない。

 

「せん、ぱい……わたしの、ゆめを……」

 

 ――頼みましたよ。そう言い残すことさえ叶わず、ブラッシングチャームは己が誤魔化していた限界の訪れを自覚した。肉体が運動に対する拒絶反応を起こし、痙攣に近い何かを引き起こす。上体が持ち上がり、空っぽになった胃の中から酸っぱいものが這い上がってくる。大口を開き、白目を剥きそうになりながら酸素を取り込む。上手く取り込めているのか? 全く楽にならない。乾燥のあまり酸っぱく刺々しい感触を孕んだ喉を抑えながら、早歩き程度の速度まで減速したブラッシングチャーム。彼女の目に映ったチーフズグライダーの姿は、悪魔に立ち向かう英雄のように見えた。

 

 ――それでも。レースを観戦するファンの目から見れば、チーフズグライダーは異国からやってきた英雄(アポロレインボウ)を脅かす悪魔のように見えているかもしれないけれど。

 そこでブラッシングチャームの意識は途切れ、全てはチーフズグライダーに委ねられた。

 

『最終コーナーを曲がって最後の直線!! 長い長い1000メートルの直線!! いち早く抜け出していたアポロレインボウ更に加速!! 23身後ろのチーフズグライダーだけが!! チーフズグライダーだけが彼女に食らいついています!! 極東から来た超新星が勝利を奪うか!! 欧州の古豪が意地を見せるか!! 芦毛の妖精が圧倒的優位を保っていますが、レースは終わってみるまで分かりませんっ!!』

 

 チーフズグライダー以外のウマ娘は、アポロレインボウが噴出していた威圧感によって精神も体力も削り切られて脱落した。ヨークシャーカップの最終直線は、20身程も離れた2人のマッチレースとなっていた。

 残り1000メートルは、起伏のない平坦な直線。純粋な力と力が激突する最高の舞台。チーフズグライダーの目に映るアポロレインボウの背中は途方もなく遠い。

 

 脚はとうの昔に限界を迎えていた。呼吸は覚束無いまま、惰性と意地だけで大逃げに食らいついている。対する芦毛の少女の背中は穏やかだ。緩やかで、波立つこともなく、絶対的な『未知の領域(ゾーン)』だけが世界を支配している。

 チーフズグライダーは、不意に“神”という言葉が脳裏に過ぎった。今この瞬間、アポロレインボウは全能に至っていると確信した。不完全であるとはいえ、『未知の領域(ゾーン)』に覚醒した自分の歯が全く立たないのであれば、それはもう『神域(ゾーン)』に片脚を突っ込んでいるとしか思えない。

 

 彼女には聞いたことがあった。伝説に名を残したウマ娘がその生涯で()()()()()だけ発揮するという、神の豪脚――『神域(ゾーン)』。ダンシングブレーヴの凱旋門賞のように、神が憑いていたとしか思えない末脚を持つ者が現れたのだ。

 恐らく()()()()は、その片鱗だ。絶対的な能力を持った上で、勝利の女神に見初められた者だけが至る絶対的な末脚。

 

 ――だが、それがどうしたというのだ。

 神であろうと何だろうと、夢を妨げる者は排除する。

 今この瞬間を、全力で勝ちに行く。

 

「――それが、()()()()()()っ!!」

 

 ブラッシングチャームが見守る中、チーフズグライダーの末脚が爆発した。己を支える者全ての夢を乗せ、欧州の古豪が持ちうる全ての力をターフに叩きつける。

 伝わってくるのは、膝の軟骨が潰れ、生々しく磨り減っていく感覚。酷使してきた肉体が悲鳴を上げる。それでも彼女の矜恃は光り輝いていた。太陽の光を受けて、彼女の毛並みが眩い輝きを帯びる。

 

『お――っと!? チーフズグライダーが猛追!! 20身はあったその差を15身まで縮めている!! これは凄まじい切れ味だ!! ステイヤーズミリオンのためにアポロレインボウは負けられませんが、彼女もまた負けられません!! 意地と意地のぶつかり合いだ!!』

 

 残り600メートル。チーフズグライダーはランナーズ・ハイに陥っていた。全ての酸素を使い切り、苦しみの極限に至っているはずが、絶頂の中にあった。持ちうる全ての技術とフィジカルを注ぎ込み、トレーニングの記憶と共に加速していく。

 

 ファンの待つスタンドが近づいてくるが、彼女達の耳には何の音も聞こえない。そんな中、ルモスやダブルトリガー、イェーツ達は我を忘れて熱狂の渦中で叫んでおり、桃沢とみおはアポロレインボウの背中を押すべく声を張り上げて応援を続けていた。

 新星の誕生に期待する大歓声と、古豪を応援する怒号のような声援。そして彼女達を迎え入れる拍手喝采。興奮がとぐろを巻き、熱気に包まれるヨークレース場。自らが何をしているのか分からなくなる程の轟々とした地響きの中、少女達はひた走る。

 

 しかし、そんな熱狂の中にあっても、アポロレインボウは呼吸ひとつ乱さない。チーフズグライダーは今にも倒れてしまいそうだ。そんな2人は対照的に映るが、追い上げて来ているのはチーフズグライダーの方だ。

 いける。勝てる。そう思って彼女が更なるギアを引き上げようとした瞬間――芦毛の少女の背中が、三度目の煌めきを見せた。その光には見覚えがあった。何年間もあの光に苦しめられてきたことを、身体が覚えていた。

 

「――な……、――ダブル、トリガー……?」

 

 ――【無名】

 

 その光の正体は、ダブルトリガーから受け継いだ『未知の領域(ゾーン)』の光だった。

 

「お前はまた、私から奪っていくのか――!!」

 

 振り切れた激情の中、チーフズグライダーは喉を枯らして叫んだ。まるでロケットのように吹き飛んでいくアポロレインボウ。理不尽な2回目の加速。僅かに詰めたはずの距離を虚しくも突き放され、再び20身もの差を開かれてしまう。

 チーフズグライダーに為す術などなかった。

 

『残り400メートルを通過して――先頭は変わらずアポロレインボウ!! 早い速い、これが本当のアポロレインボウだ!! 2番手のチーフズグライダーは力尽きた!! これはもう決定的っ!!』

 

 芦毛の少女は突き放す。

 芦毛の少女は奪い去る。

 勝利も夢も、何もかも。

 

 涙ながらにチーフズグライダーが叫ぶ。

 

「――アポロレインボウッ!! 貴様は奪っていくのか!? 私達の夢も希望も!! 何もかも!!」

 

 残り200メートル。

 涙に濡れる視界の中、アポロレインボウは背中を見せ続ける。

 

「私達の夢っ……希望っ……努力っ……全部全部、無慈悲にっ……! 私が一番っ、長距離レースが好きなのに――好きだから、絶対に負けたくないのにっ……貴様は、貴様は――!!」

 

 無力な者の悲痛な叫びは届かない。

 スポットライトが当てられるのは、勝者だけ。

 

 ――しかし、幻覚だろうか。

 遥か前方、彼女がゴール板を通過する寸前。

 芦毛の少女が、穏やかな表情でこちらに振り向いた。

 

 

「……奪うよ。あなたの夢も、希望も、何もかも。私の夢のために」

 

「……――っ!!」

 

「最強ステイヤーの座を渡すつもりはない。だからもし――私が最強ステイヤーなんだって胸を張れる結果を残した時。その時は、チーフさんが奪い返しに来てよ」

 

「え――」

 

「夢を賭ける。夢を賭けて、戦う。それが私達ウマ娘でしょ?」

 

 

 ――あぁ。

 ……そうか。

 

 

 ――――……澄み渡っていく。

 心も、身体も、何もかも……。

 

 

 

 

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】

 

 

『――た、たった今、この瞬間――G2・ヨークシャーカップの決着が着きました!!』

 

 チーフズグライダーはゆっくりと減速し、既に通過していたゴール板を睨む。そこには何十秒も遅れてゴールしてきたブラッシングチャーム達の姿があった。

 そして、彼女の前方には――観客席に向かって拳を突き上げ、勝鬨を上げる芦毛の少女の姿が。晴れやかな笑顔と煌めく汗が、アポロレインボウのヨークシャーカップの全てを物語っていた。

 

「……最強ステイヤーになる者、アポロレインボウ……か。だが()()()()()()……待っていろ」

 

 チーフズグライダーは、清々しい表情で晴天の空を見上げた。

 

『1着はアポロレインボウッ!! 日本からやってきた芦毛の妖精が25身もの差を付けてレコード勝ちっ!! そのタイム――2分47秒7!! 夢を追いかけて欧州にやってきたウマ娘が、その第一歩を踏み出しましたあっ!!』

 

 彼女の頬を伝った透明な雫は、爽やかな風が吹き抜けるヨークレース場に消えていった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。