ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
――6月1週、イギリスのサンダウンパークレース場。ジャラジャラちゃんとカイフタラさんが激突するG3・ヘンリー2世ステークスは、曇り空の下いよいよ開催される運びとなった。
サンダウンパークレース場またはサンダウンレース場は、イギリス南東部のサリー州イーシャーにある。先進的かつ高い水準でレースが行われるようになったのは、サンダウンパークレース場がきっかけだったとされるほど歴史も深い。
このレース場を代表するレースは、唯一の平地G1であるエクリプスステークス。7月2週に行われるこのレースは、イギリスの中距離路線において、初めてシニア級とクラシック級のウマ娘が入り乱れて戦う舞台として注目を集めている。
純粋なG1数であれば障害レースの方が盛んに開催されており、その数は5つ。……新しく長距離G1が創設されたら嬉しいけど、新レースの創設なんてそう簡単にいくはずもないか。
ヨーロッパのレース場らしく、ダートコースはなくターフは芝のみ。平地コースは1周2600メートルのコースがある他、その内馬場を横断する形で直線1000メートル戦専用のコースがある。
高低差はヨーロッパのレース場では平均的で、スタートからゴールまで約15メートルの高低差が存在する。ゴール板が丘の上に設置されており、周回コースのホームストレッチは勾配のきつい上り坂の先にある。最終コーナーからゴールまでに14メートルの高さを登る必要があり、ヨーロッパのウマ娘達にしてみれば頓着されることの少ない要素なのだが、日本のウマ娘にとっては未知の坂と言ってもいい。何せ、日本で最も高低差のあるレース場が中山の5.3メートルなのだから……地域差とはいえ、これはもう別競技と言われても仕方ないだろう。
その他の特徴としては、34コーナーに急なカーブが続くことだろうか。具体的な数値で言っても分かりにくいが、カーブの半径100メートルに対しておよそ160度のターンがあるらしい。
この小回りのきつさは、中央・地方を含めた日本でも類を見ない小ささだ。1周1051メートルの地方・園田レース場と同程度らしい。
これらの情報を纏めると――サンダウンパークレース場は、最終直線は高低差がめっちゃきつくて、最終コーナーはとんでもない小回りのおかげで速度を落とさないといけないってコースになっている。
小回りは逃げウマ娘が有利になるらしいが、最終直線が約800メートルの長さを誇るため、坂のきつさも相まって後ろ脚質のウマ娘も十分に伸びてくるだろう。
今回のレースであるG3・ヘンリー2世ステークスは、シニア級限定の右回り・3300メートルという条件である。
レース発走数時間前、私はこっちのトレーナー室に昼食を持って押しかけた。既にサンダウンパークレース場からの配信及び中継は始まっており、食堂のテレビはレース一色だ。まぁ、今日は近場のシャンティイレース場でフランスダービーが行われているからか、ヘンリー2世ステークスの偏重は低めだけど……。
「失礼しま〜す! ねえねえとみお、ちゃんとレース録画してる? カイフタラさん達の対策に――」
食い気味にトレーナー室の扉を開くと、顔面に雑誌を置いたとみおが椅子の上で沈黙していた。初めて見る寝落ちの仕方に私は呆れてしまったが、あんまりボサッとしてる暇はない。
私はとみおの頬をつねって、彼が深い眠りについているのを確認した後、椅子に座ったとみおをお姫様抱っこしてソファに運んだ。常日頃から100キロダンベルを持ち上げているので、成人男性程度の重さならどうとでもなる。
「椅子で寝たら腰いわしちゃうよ〜」
とみおの身体をソファに横たえつつ、私の膝の上に彼の後頭部を置いて膝枕の形にする。早速トレーナー室のテレビをつけてヘンリー2世ステークスの中継に繋げると、曇り空のサンダウンパークレース場が映し出された。まだメインレースのパドックすら始まっておらず、ヘンリー2世ステークスの前に行われる条件戦の様子が放送されている。
私は猫の毛並みをなぞるように、とみおの髪の毛をわしわしと撫でて暇つぶしすることにした。丁度条件戦が終わって、勝利者インタビューの後のインターバルに入り始めたことだし……ゆっくり堪能できるかも。
私はとみおのつむじから額にかけて、ゆっくりと髪を梳いてあげた。私の優しい手の動きに合わせて、彼がくすぐったそうに身を捩るのが言いようもなく可愛く思えてしまう。
こうしてじっと見ると、とみおって割と可愛い顔してるんだよね。寝顔が可愛め。でも仕事してて真面目な時はカッコいいし、やば……うちのトレーナー完璧すぎない?
…………。
もっと色々してあげたいし、してほしいなぁ。
……あ〜〜、将来的には? そういうことも期待したりしなかったり……お、テレビ画面が切り替わった。そろそろ始まるのかな?
『今日のヨーロッパは
『えぇ。ジョッケクルブ賞では、ヨーロッパのクラシック級ナンバーワンと評されるモンジューが出走しますし、ヘンリー2世ステークスには欧州最強ステイヤーであるカイフタラが出走することになっています。どちらのウマ娘も世代を代表するウマ娘ですから、注目はうなぎ登りに高まっていますよね』
耳に入ってきた実況・解説の内容が強烈すぎて、私の意識はテレビ画面に向けられた。彼の頭を撫でるのは止めなかったけど。
この時期のヨーロッパにはカイフタラさんにモンジューちゃんがいるのか。相当メンツが揃ってるな。クラシックディスタンスには他にもデイラミ、タイガーヒル、クロコルージュ、ファンタスティックライトなどの激ヤバウマ娘がいるし、ステイヤー路線には言わずもがなエンゼリーちゃんだって控えている。そこに日本勢の私やエルちゃんが加わって――いくら何でも戦国時代すぎないか? アメリカに行ったミークちゃんやスズカさんもこっちに来ていたら、ほぼ間違いなくヨーロッパのファンは絶頂していただろう。それくらいヤバい。
世紀末。そう言って差し支えない修羅場なんだよなあ。色んな意味で。
『このチャンネルではヘンリー2世ステークスの様子を放送します』
『俄然1番人気はカイフタラですが、海外から挑戦してきたジャラジャラ、どこを走っても掲示板に突っ込んでくるゴールデンネダウィなど、メンバーは揃っていますよ』
トレーナーとの接着面積を増やしたいと思っているためか、私の尻尾が独りでに動いて彼の腕に絡みつく。まだ時間の余裕はあるけど、そろそろ起きてくれないと拗ねちゃうよ? 起きないなら起きないで好き勝手やっちゃうから、私的には全然いいんだけどね。
私はリモコンを操作して中継を録画しつつ、とみおの頭を撫でて「起きろ起きろ〜」と囁いてみる。この状況で彼が起きたら言い訳ができないので、本当のところは起きてほしくないのだが――そろそろヘンリー2世ステークスのことについて話したいので、彼に与える刺激を強めてみよう。
「はいはい起きて起きて、チューしちゃうぞ〜」
冗談めかしてそう呟きつつ、私は携帯デバイスのアラームを鳴らして爆音を発生させた。するとトレーナーは私の太ももの上から瞬時に起き上がって、目をぱちくりさせながら周囲を見回していた。
「おはよ〜」
「あ、ああ……おはよう。今何時だ……? ごめん、眠っちゃってた」
「ヘンリー2世ステークスが始まる前だよ〜」
「起こしてくれたのか、ありがとう」
「ううん、こっちこそ眠ってるところを起こしちゃってごめんね」
「いい陽気だったから、放置されてたら一日中眠ってたかも。助かったよ」
私はソファに座り直したとみおとの距離を詰め、右腕を尻尾で拘束した。彼は目を擦りながら掛け時計を確認して、ヘンリー2世ステークスが始まる前なのを理解して胸を撫で下ろしていた。ほっとしていたのが可愛かったので、彼の肩に寄りかかって頬を押し付けて、先程まで爆睡していた理由を尋ねてみることにした。
「お仕事してたの?」
「うん、トレーニングのスケジュールと取材撮影の予定を組んでた」
「あ〜……電話とかメールのやり取り、全部フランス語とか英語だった感じ?」
「そうなんだよ! 外国語を使えるとはいえ、普段よりちょっと時間がかかっちゃって……」
「あちゃ〜……」
「あちゃ〜」の後に「疲れてるならもう一回膝枕してあげよっか」とは訊けず、私達はテレビ中継を無言で眺め始める。とみおは机の上から引っ張ってきたノートパソコンを膝の上に置いて、指を滑らせ始めた。
画面をちょっと覗いてみると、丁度外国語でメールのやり取りをしているところだった。ダルそう。
「アポロ、尻尾……」
「ん?」
「画面が見えない……」
「あ、ごめん」
ウマ娘は尻尾の動きを完全に制御できるわけではない。人によってはあまり動かない人や、感情の起伏による尻尾の動きを抑えられる人もいるが――私の尻尾はかなり動く方だ。とみおと会話している時、視線が下に動いたら大体尻尾を見られている。つまりバレバレなのである。
しかし大抵のウマ娘は、びっくりしたら尻尾が真っ直ぐに伸びちゃうし、嬉しかったらばさばさと揺れる。背中付近に虫がいたら尻尾で叩き落とせるし、親愛度が高い人には身体と一緒に尻尾の距離が近づいてしまう。耳と並んでウマ娘の感情を表す部位であることは間違いない。
今回はまぁ、とみおと近づいていたくて尻尾が反応してしまったのだろう。いやでも、毛艶をアピールして絶好調なことを伝えたかったのもあるし? トレーナーが私の調子を知っておかないと困ると思っただけだし? 別に、シチー先輩に貰った香水をつけてることをアピールしたいわけじゃないもんね。
「ん」
「お?」
「もしかしてアポロ、香水つけてる?」
「え」
「気のせいかな。柑橘系の良い匂いがしたような」
このひと、私の匂いを嗅いだの!? 尻尾がパソコン画面を隠した時に――ってことは、私の尻尾の匂いを!? へ、変態……女の子の匂いを…………尻尾を彼の前に差し出したのは私だった。でも変態。
……まぁ、良い匂いって言ってくれたし……えへへ。許してあげよう。何か変な気分。
「そ、そうなの。シチー先輩に貰った香水つけててさ〜」
「うん、いいね」
「でしょ」
「素敵だと思うよ」
「も、もっ――」
「も?」
「もっともだね」
「はは、何だその返事の仕方」
……もっと嗅いでみる? と言えるはずもなく、軽く笑い合った私達はテレビの中に自然と視線を移す。
イギリス・サンダウンパークレース場の気温は23度。フランスのシャンティイは穏やかな晴れ模様だが、向こうは生憎の曇り空。ちょっと前までチラついていた小雨のせいか、ジャラジャラちゃんにとっては向かい風となる稍重でレースが始まりそうだ。
「カイフタラさんは重馬場が得意だから、今日の走りが一定の指標になりそうだね」
「あぁ……彼女は重馬場の鬼。アポロは欧州の重馬場が未知数だから、なるべく俺達のレースの時に雨は降ってほしくないが……」
――日本出身のウマ娘にとっては厳しい戦いになるだろうな。とみおは最後まで言い切らなかったけど、そう言いたいのは間違いなさそうだ。
サンダウンパークレース場の芝は欧州の中でも特に重い芝状態となっているため、稍重でも日本勢にはきつい舞台になると容易に予想できる。ただ、海外遠征で
洋芝が合うか、レーススタイルが合うか、気候が合うか、全て本番で確かめようとするのは無謀に近い。何らかの根拠か理由がないと直行は珍しいしね。
私はジョーダン先輩に貰ったネイルの具合を確かめつつ、代わり映えしないテレビ画面を視界の端に収めた。レース中継ということで、出走ウマ娘の情報やコメンテーター達の雑談でお茶が濁されているものの、その多くはトレーナーと私が集めた情報の後追いだ。というか、今年のステイヤーズミリオンを目指すウマ娘とトレーナーなら知っていて当然の情報ばかりだ。どうしても暇になる。
「前にジャラジャラのトレーナーと話す機会があったんだが」
手持ち無沙汰な私の雰囲気を察してか、とみおが口を開いた。
「――
「……トレーナーが担当ウマ娘を信じるのは普通じゃない?」
「いや。ジャラジャラのトレーナーは良くも悪くも現実的だ。
「つまり、ジャラジャラちゃんは――」
「……うん。相当カイフタラ対策を練ってきた上であそこにいるんだろうね。しかも、正直者のトレーナーが自信満々に
――バカな。ジャラジャラがカイフタラを打ち負かせるとでも? あのウマ娘の強さは私がよく知っている。世界レコードペースで逃げた私を躱し切る爆発力と、絶対的なスタミナを持ち合わせているんだぞ。しかもあの時は――
私はとみおの言葉を最後まで聞かず、耳を絞った。有り得ないという気持ちと、マジかよ期待しかないぜという嬉しさと、
――負けてしまえ。
カイフタラにぶっちぎられて、お前も絶望しろ――と。
「……っ」
……最悪だ。こんなこと考えるべきじゃない。こういう仄暗い気持ちで戦うことなんて望んじゃいないよ。だって私は、ライバル達と高め合ってその結果自分自身も成長するという――プラスな戦いを望んでいるから。
今の私はマイナスの戦いを望んでしまっている……のかもしれない。足を引っ張り合って、周囲のレベルが下がることによって自分自身が結果的に上位のレベルに位置するという――マイナスの戦い。カイフタラ、エンゼリー、私以外は堕ちていけば良いという気持ちになってしまっている。
……良くない、良くないぞ。
でも――あのカイフタラに勝つのは私であるべきなんだという気持ちもまた本物で。
誰もが勝ちたいという渇望の下に走っているのは知っている。ドバイでシアトルチャーミングに競りかけられ、結果的に私の敗因の一端を担ってしまったのは苦すぎる思い出だ。私はドバイで失敗した。あれはとことん
『ここでヘンリー2世ステークスの出走表を確認しておきましょう』
『逃げ脚質はジャラジャラひとりだけ。ペース配分を握るのは日本のチャレンジャーのみとなりました』
| 番 | 人気 | 名 | 脚質 | 近走戦績 | 主な勝ち鞍 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1 | 追込 | 3-0-0-1 | G1アイルランドセントレジャー G1ゴールドカップ G2ドバイゴールドカップ 他 | |
| 2 | 7 | 差し | 1-3-0-0 | OP条件戦 | |
| 3 | 8 | 差し | 0-0-1-3 | OP条件戦 | |
| 4 | 9 | 先行 | 0-2-1-1 | OP条件戦 | |
| 5 | 10 | 差し | 0-0-3-1 | OP条件戦 | |
| 6 | 2 | 逃げ | 3-0-0-1 | G2阪神大賞典 G3ダイヤモンドステークス 他 | |
| 7 | 11 | 先行 | 1-0-0-3 | 未勝利戦 | |
| 8 | 13 | 差し | 0-2-2-0 | 未勝利戦 | |
| 9 | 5 | 追込 | 1-1-1-1 | G3ロワイヨモン賞 | |
| 10 | 12 | 先行 | 1-1-0-2 | 未勝利戦 | |
| 11 | 6 | 先行 | 0-2-0-2 | G3ガゼルステークス | |
| 12 | 14 | 追込 | 0-0-0-4 | 未勝利戦 | |
| 13 | 4 | 差し | 1-0-1-2 | G3レッドシーターフハンデ | |
| 14 | 3 | 先行 | 0-4-0-0 | G3オーモンドステークス |
――逃げウマ娘はジャラジャラちゃんを除くと一人もいない。
結局私は、競技者として褒められたものじゃない感情を振り払うことができなかった。絶妙な後ろめたさと期待、不安と希望が入り交じったまま、いよいよパドックが始まった。
パドックのカイフタラさんは落ち着いているが、絶好調ではなさそう。好調か普通程度――ゴールドカップに向けて調子を上向きにしているところなのだろう。
対してジャラジャラちゃんは――こちらも絶好調ではなさそう。絶好調に肉薄した好調状態といった感じで、2人ともピークの照準をゴールドカップに合わせているようだった。調子の具合で言えばジャラジャラちゃんが若干優位か。
「アポロはどっちが勝つと思う? ……って、答えにくい質問だよな。カイフタラともジャラジャラとも仲が良いし……」
「……今回のレースで1番厳しいマークを受けるのは間違いなくカイフタラさんだよ。でも、カイフタラさんはマークの躱し方が上手いし……本当にジャラジャラちゃんの対策の練度にかかってる感じかな」
「おぉ、俺も同意見だ」
カイフタラさんはマークやプレッシャー回避が上手い。ドバイゴールドカップでは、プレッシャーを与えられた時に敢えて位置取りを下げて最後方に引き、他のウマ娘から離れた場所で悠々と走っていた。
カイフタラさんは常識では推し量ることのできない対対策をしてくる。ジャラジャラちゃんが敵をどれくらい理解しているかにかかっているだろう。
ヨーロッパにファンファーレは存在しないので、パドックお披露目の後は返しウマが行われ、その後にゲートインとなる。私達が予想を投げ合っているうちに、14人のウマ娘は返しウマを開始していた。次段階にシームレスに移っていくため、実況解説の声がないとライトなファンは取り残されてしまうかも。
14人のウマ娘達がゆっくりとゲート前に集まると、実況の声と共にゲートインが始まった。
『最内枠1番人気のカイフタラ、声援を受けながらゲートイン』
『前走のドバイゴールドカップから2ヶ月の休養を取って、このレースがヨーロッパでの始動となります。既にステイヤーズミリオン完全制覇への挑戦権を得ているため、このレースは
ゴール板手前からのスタートだからか、中継越しに聞こえる声援が大きい。ゴール板手前にスタンドがあるからか、カメラが声を受けて揺れていた。カイフタラさんはピクリとも反応せず、『無』のままだった。
……恐らく、現地にいても彼女から闘志らしい闘志を感じることは叶わないだろう。彼女のそんな不気味さもまた武器である。
『6番ゲート、2番人気のジャラジャラが今ゲートイン』
『我々からすれば彼女が最も未知数のウマ娘ですね。これまで制したレースはどれも3000メートル超の長距離レース、そのステイヤーとしての才能がヨーロッパでも開花するか? 注目しましょう』
少し離れて、6番のジャラジャラちゃんがゲートインする。こちらは一瞥しても分かる闘志に溢れていた。ライバルのカイフタラさんとは対照的に、彼女の武器は気持ちを全面に押し出した走法である。
全てのウマ娘がゲートインすると、スタンドにざわめきが広がる。今か今かと待ち侘びている。私ととみおも生唾を嚥下して、しんと静まり返ったトレーナー室で両手を握り締めた。そして――
『ヘンリー2世ステークスがスタートしました!』
ガタンという開放の音が鳴り響いて、ヘンリー2世ステークスが開幕した。重々しい蹄鉄の音がけたたましく轟き、牧歌的風景の中をウマ娘達が走り出す。
柵を隔てた内馬場に集まったファンのすぐ隣を駆けるウマ娘。こうして引きのアングルで見ると、日本と比べて内柵がぐにゃぐにゃに歪んで見える。レースに集中するべきなのに、変なところに着目してしまうのは中継の面白いところだ。
『先頭を行くのは2番人気のジャラジャラ、快速で飛ばしてレースを作ります! 2番手以下はギッチリと詰まった空間で競り合っており、1番人気のカイフタラと3番人気のゴールデンネダウィは後方で揉み合っているか?』
ポンと飛び出した14人の先頭を奪ったのは、予想通りジャラジャラだった。カイフタラは最内枠という好ゲートを取ったにも関わらず、プレッシャーやトリックを回避するために最後方に位置した。
出遅れたウマ娘がいないためか、ジャラジャラ以外が横一線に並んでいる。すいすいっと足を伸ばして先頭を決定付けたジャラジャラは、第1コーナーをゆったりとした速度でカーブし始めた。
『スタートからおよそ600メートルを通過して、ジャラジャラが13人を引き連れて第1コーナーを曲がっていきます。後続集団の位置取り争いは集結したのか、動きはあまり見られませんね』
『いえ、早速3番人気のゴールデンネダウィがやりにくそうにしています。1番人気のカイフタラは13番手から2馬身も離れた最下位でやり過ごしていますが、プレッシャーが与えられていることは間違いなさそうです』
「……とみお、ジャラジャラちゃんに動きはある? もう
「……俺もだ。今のところ、さっぱり分からん」
とみおはストップウォッチに視線を落として、「多少スローペースではあるが、サンダウンパークレース場はそもそも時計のかかるレース場だからな」と言ってテレビに視線を戻す。芝の重さがレースタイムに直結するため、ヨーロッパ内でも比較的芝の重いサンダウンパークは決着が遅い時計になりやすい。
あらゆる要素が絡んでいるため単純比較はできないが、3300メートルという距離のヘンリー2世ステークスにおいては、3分40秒前後の決着になることがほとんど。稍重となった今日のレースなら、更に時計がかかってもおかしくはない。
『第2コーナーを曲がり切って向正面に入りました。全体的にゆったりとしたペースです。3番人気のゴールデンネダウィはプレッシャーに参ってしまったようですが、自由に逃げている2番人気のジャラジャラと、最後方で展開を窺う1番人気のカイフタラは特に変化ナシですね』
『お互いに意識はしているでしょうが、大逃げがいる時のレースとは違って
上り坂を登った後の12コーナーを曲がると、そこからは下り坂になった向正面の直線を駆け下りることになる。ここまでの経路がおよそ1300メートル。レースの3分の1が経過したというのに、ジャラジャラのトレーナーが豪語したようなカイフタラ対策は見えてこない。全くもって普通のレース、つまりカイフタラの常勝パターンに持ち込まれているとしか思えない。
――ジャラジャラは負ける。いや、負けてしまえ。そのままでいい。お前はカイフタラ対策を満足に発揮できぬまま、私に痛快なリベンジの機会を与えてしまうのだ。そう思った瞬間、悪辣な感情が口端を持ち上げた。
そして、その笑みが起こるのと同時だった。
私の隣にいたトレーナーが、あっと大きな声を発したのは。
「――あ、ああっ!?」
酷い表情を盗み見られたのかと思って尻尾が跳ね上がったけど、彼の視線はストップウォッチに向いていた。
「い、いきなりどうしたの? 何かやらかしたとか?」
「ち、違う……アポロ、分かったぞ。ジャラジャラのカイフタラ対策が――」
『おっと!? ここでカイフタラの表情が歪みました! 怒っているのでしょうか? 首を振って前方を睨んでいる! まるで人垣の向こうを探すような仕草ですが――』
『……ジャラジャラを睨んでいるんでしょうか? いずれにしても、彼女にしては珍しい仕草ですね』
――
一体サンダウンパークで何が起こっているんだ。私はテレビ画面に齧り付く。慌てふためく実況とは反対に、冷静なとみおの声がその理由を淡々と説明し始めた。
「1200メートル通過時点のタイムがスローペースだった。このまま3300メートルを走れば4分をオーバーするくらいの。しかも、向正面の下り坂に入ってからは更に遅い……。ジャラジャラはカイフタラの癖を利用して、彼女を封じ込めるつもりなんだ」
「ど、どういうこと?」
「下り坂でスピードを出し過ぎると余分なスタミナを消費してしまう。だからみんなスピードを落としがちになるんだが――ジャラジャラはそれを利用して、必要以上のペースダウンを行っているんだよ。つまり、
「……み、みんな気付いてないよ。これってヤバくない? カイフタラさんだけ苛立ってる。多分、カイフタラさんはペースがおかしいことに気付いてるんだ」
「カイフタラは集団を避けることによってプレッシャーを回避している。周囲の状況がよく見えるからこそ気付けたんだろう。しかし、今の彼女は周囲のペースダウンに合わせて自分自身のペースも落とすしかない。
レースを走っているウマ娘達は気付かないのだ。コンマ数秒の遅れを重ねられて、気付けるはずもないのだ。しかし、繊細な感覚を持ち合わせるカイフタラはそれに気付いた。そして何より、あの怪物がジャラジャラの作り上げた展開を嫌がっている。その事実がどうしようもなく悔しかった。
私はまざまざと見せつけられている。私にはできないことを、これでもかと。スローペースの展開、後続集団の操作、無意識下の心理戦――
(――……っ、負けちまえ……)
上手くいかなかった過去の記憶と、全てが順調に進むライバルのレース。向正面の終盤に差し掛かると、ジャラジャラがチラッと後続を睨んだ。また何かやるつもりだと思ったのも束の間、彼女は最後の下り坂を利用してぐんぐんと加速していった。
ジャラジャラが次に何をしたいのかは明白だ。更なるペースダウンである。ペースダウン→ペースアップ→ペースダウンという工程を作ることによって、中間層のウマ娘達に「あいつはさっき速度を上げたのだから、あいつに追いついたら自分はオーバーペースになっている」と刷り込ませたいのだ。
実際、効果は覿面だった。ジャラジャラの作り出したスローペースこそ通常状態なのだと思い込んだ2番手以下のウマ娘は、決定的な差を開いていくジャラジャラを追いかけなかった。前方に進出していく彼女のペースは、通常よりも少し早い程度だったと言うのに。
逃げウマが存在せず、ペースメーカーに欠けていたのも追い風だった。先頭のジャラジャラと差をつけられた先行ウマ娘達は、
――第3コーナーに差し掛かった時、ジャラジャラと2番手についた差は7馬身。ジャラジャラとカイフタラの差は15馬身に及んでいた。
『残り1200メートルの標識を通過して、サンダウンパークレース場はちょっと異様な雰囲気! まさかまさか、ジャラジャラが圧倒的優位とスローペースを保ちながら最終コーナーを曲がっている!! 2番手以下のウマ娘はいよいよ末脚を発揮しようとしていますが、最終コーナーの急カーブによって速度を上手く上げられません!! ジャラジャラはここまで計算づくだったのでしょうか!? カイフタラは後方でもがいている!! やっとプレッシャーから解放されたものの、横広がりになって末脚を使おうとするウマ娘達が壁になっているっ!!』
――おい、おい。何をしているカイフタラ――何故ジャラジャラの思い通りに動いてしまうんだ! あなたほどの末脚があれば、この流れをぶっ壊して大外から全部ぶち抜けるだろう!? そんなに急カーブがきついのか、大外一気を嫌っているのか――とにかく、早く上がっていけよ! 私以外のウマ娘に負けたら許さない。絶対に許さないからな――
私は拳を握り固め、歯を食い縛った。言葉にしたくない黒い感情が脳内で渦巻いている。他人の失敗を願うような呪詛ばかりが出てくる。
日本のウマ娘には、海外で沢山勝ってほしい。しかも私の
私はどうすればいい? どちらの心に従えばいい?
テレビの中の熱狂と、液晶画面の外の苦悩が混沌とした渦を作っている。
最初コーナーまでに開いた差は7馬身。カイフタラとの差はやはり15馬身はある。残り800メートルと少し。このままじゃ、ジャラジャラは勝つ。勝ってしまう。それどころか、ぶっちぎってしまう。
――嫌だ。そんなの嘘だと言ってくれ。全盛期を迎えたカイフタラに初めて泥をつけるのは私だ。私以外有り得ない。勝てカイフタラ。沈めジャラジャラ。早く私を苦しみから解放してくれ。
性悪な願いを捧げながら、テレビ画面を穴が空くくらい睨めつける。
そこで私は見た。見てしまった。
――先頭を駆け抜けるジャラジャラが、極限の苦しみを味わいながら咆哮している姿を。
そして、私はサンダウンパークで駆ける彼女の声を聞いた。幻聴にしてはやかに生々しく、そして鮮烈な輝きをもって私の鼓膜を震わせた。
「負けたく、ないっ……!
そうして画面の中で必死に藻掻く彼女を見て。
どこか、重なった。
絶対に諦めたくないという、哀れなまでの真っ直ぐな意志。
絶対的な力を持つ敵と相対して、己の全てをぶつけて勝とうとする全力な姿。
――あれは、
己の非力を知り、
――くそったれ。
わかった、わかったよ。
本当はカイフタラに勝ってほしいけれど。
「あっ……が――頑張れ――」
そんなに辛そうな表情で全力疾走されたら、応援しないわけにはいかないじゃん。
「頑張れ、ジャラジャラ――」
私の口は勝手に動いていた。
血反吐を吐きそうになりながら己の夢に向かって走る彼女の姿を見て――みみっちくてしょうもない感情を超越した熱い
「頑張れえっ、ジャラジャラちゃんっ!! そのままぶっちぎっちゃえぇっっ!!」
「行ける、行けるぞっ!! 気合い入れろジャラジャラ!!」
私ととみおは、拳を固めて喉から声を絞り出した。2人きりのトレーナー室は、テレビを通じた熱狂の中に溶け込んでいた。サンダウンパークレース場の大歓声が間近に感じられる。ジャラジャラ会心の疾走によって、細かいことがどうでもよくなるくらいのめり込んでいる。
残り800メートル。完全に直線に入って、カイフタラが前を向いた。集団を縫うようにして上がってくる鹿毛のウマ娘が――遂に末脚を爆発させた。
『最終コーナーを曲がって最後の直線!! カイフタラがいよいよ進出してきたあっ!! 逃げるジャラジャラ、追い込むカイフタラ、その差は13馬身!! 800メートルでこの差は埋まるのか!?』
しかし――あのカイフタラが黙って逃げ切りを許すはずもなかった。華麗なフットワークで垂れウマを回避した彼女は、鬼神の如き超加速を見せる。テレビ中継だったから観測はできなかったが、恐らくアレはカイフタラの『
ドバイゴールドカップとは違い、完全なものとなった彼女の『
カイフタラが加速しただけではない。ジャラジャラのペースが落ちているのだ。言い換えれば、疲れている。加速するカイフタラと減速し始めたジャラジャラの差は未だ10馬身を数えるが――
「やばい、ジャラジャラちゃんのペースが――!!」
「最終直線の長い上り坂のせいで速度が落ちてるんだ!! 頑張れジャラジャラ、気合いで持ち直せえっ!!」
残り500メートルを経過すれば、サンダウンパークレース場は更に牙を剥く。残り800〜500メートルでは1.7%前後の傾斜勾配だった上り坂が、残り500メートルからは2.4%もの勾配を誇る上り坂となって立ちはだかるのだ。
これは日本最大の急坂を誇る中山レース場よりも高い値である。中山において、およそ90メートルの上り坂の最大勾配は2.2%。対するサンダウンパークレース場は、500メートルという長い区間で平均勾配2.4%もの急坂を登り続けなければならない。純粋な数字の比較だけでも過酷さがありありと分かるだろう。
だから日本とヨーロッパのレースは別物なのだ。コースを走る日本と、丘を走るヨーロッパ。丁寧に切り揃えられた日本の芝と、青々と生い茂り、走るウマ娘からスタミナをゆっくりと削っていく深い洋芝。
ジャラジャラは今、そのギャップに呑まれようとしている。
『残り400メートルを経過して、ジャラジャラが大きく息を吐いた!! これはもう限界――いやっ、まだだ!! まだ粘っている!! しかしカイフタラとの距離はもう4馬身もない――!!』
「ジャラジャラちゃん、粘れえっ!!」
「粘れ粘れ!! そのままヨーロッパに風穴を空けてやれ!!」
残り400メートル。中山の急坂の何倍も険しい坂が、ジャラジャラの体力と気力を容赦なく削っていく。その結果、最終直線の
でも、ジャラジャラの表情は諦めを感じさせない強い意志を持っている。追い詰められてこそいるが、それでも4馬身あるのだ――と、希望に満ちてさえいる。
そんな時だった。
意味不明な異常事態が起こったのは。
「えっ」
「は?」
『粘るジャラ――えっ?』
残り300メートル。
誰もが度肝を抜かれた。私やトレーナー、実況解説、そして画面の中のジャラジャラでさえ、何が起こったか分からないようだった。
あまりにも非現実的で、幻に見えたが――
覚醒した彼女の本当の豪脚――『
最終コーナー終わりに見せたあの加速は、スパートの開始に過ぎなかったんだ。あれは
「そんな、バカな――」
気の抜けたようなトレーナーの声がやけに印象的だった。
そして、その衝撃がサンダウンパークを揺るがしたまま――
『ゴォォールッッ!! 終わってみれば、圧倒的な勝利!! 王者の走りとは何たるか、それを体現するような直線一気でした!! 最強ステイヤー・カイフタラ、1番人気に応える7馬身の快勝!! ゴールドカップ2連覇の栄光は既に射程圏内!! アポロレインボウとエンゼリーを迎え撃つ準備はできているっ!!』
――G3・ヘンリー2世ステークスは、カイフタラの無敵を印象付ける形で終わりを告げた。