ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
模擬レース終了後、私はいつの間にか自室のベッドで横になっていた。
「……あれ?」
とみおと何を話したんだっけ。エンゼリーちゃんに何か言われたような気がする。カイフタラさんにも声をかけられたはずだ。
メッセージアプリを立ち上げてとみおとのチャットを開くと、そこには『明日はオフ、明後日からカイフタラ対策』という簡素なメモが呟かれていた。
「…………」
え~っと……とみおに何て言われたんだっけ。彼には「模擬レースだしそこまで落ち込むな」って言われた気がする。……いつもならあの人の言葉は胸の中にスッと浸透してくるのに、今は右から左に通り抜けてしまう。どうにも、フワフワしていた。
どうやったらカイフタラさんに勝てるのか。それを考えるあまり、私は思考のドツボに陥っているのかもしれない。
確かに油断はあった。その精神的な隙を突かれて最大の反撃を取られたのだ。彼女が『
だからこそ、あの5馬身の差が理解できない。僅かばかりの油断が作り出した差で、あれほどの決定的な違いが出るものなのか。分からない。もっと考えないと。あの人に負けた理由を。もっともっと、突き詰めておかないと。
「…………」
考えれば考えるほど答えが見つからなくて、自らの中に秘めていた闘争心が削れていく。何が正解なのか分からなくて、走る気持ちさえ萎んでいってしまう。得体の知れない何かが私を深く蝕んでいく感覚が私の胸の中をぐるぐると回っていた。
「アポロちゃん、そろそろ夜ご飯を食べに行きましょう! ……ケ? アポロちゃん元気ないですね、何かありましたか?」
「…………」
「アポロちゃん? お~い、トレーナーが大好きなアポロちゃ~ん」
「…………」
「う〜ん……これは重症デス。そろそろグリ子ちゃんがこっちに来るっていうのに、一体どうしたんですか」
ベッドの上で人形のように項垂れた私の頬を突っつくエルちゃん。心配してくれてるのはありがたいけれど、今は誰とも話したくない気分だ。ご飯もあんまり食べたくない。……いや、やっぱりご飯は食べたいかも。少しだけ。
私はゆっくりとベッドから這い出ると、エルちゃんを誘って食堂に向かうことにした。
「アポロちゃん、全然食べないし喋りませんね。やっぱり調子が悪いんじゃないですか……?」
「いや、全然大丈夫だから」
「そうは言っても……いつもならパスタやピザを山盛りにして食べているのに、今日はピザが3枚とサラダの山盛りと人参ハンバーグ2個だけじゃないですか! ほんとにおかしいデス!」
今日の私は少食だ。いつもならこのメニューの2倍3倍は食べているのに、今日はこれだけでいいや……なんて思ってしまう。模擬レースの直後だからだろうか。それにしても食べなさすぎだ。エルちゃんの言う通り、私は少しおかしい――と言うより、かなり落ち込んでしまっているのだろう。
食堂にカイフタラさんやエンゼリーちゃんがいなくてよかった、と思った。今の姿を見られるのは嫌だ。……具体的にどういうタイプの拒否感なのかは言葉にできないけど。
「あ、そういえば。アポロちゃんは今日、模擬レースをしたんですよね?」
「!」
ビクリ。模擬レースという単語を聞いただけで身体が震えた。エルちゃんはそれで何かを察したのか、「あ~……お水を持ってきます!」と言って席を立った。
友人に変な気を使わせてしまったことに気づいたのは、彼女が視界から消えてからだった。
「……はぁ」
――私は何に怯えているんだ。本番までにカイフタラさんの本気を知ることができて良かったではないか。それとも何だ? 完敗して意気消沈した私は、カイフタラさんの本気を知りたくなかったとか、そもそも戦うべきじゃなかったとか――そう思っているのか?
「あぁ、もうっ」
私は自分の頬を叩いて、苛立ちに任せて拳をどこかに叩きつけようとして――ギリギリで踏みとどまった。それだけはやっちゃいけないと脳が危険信号を発信したのだ。私に関わる全ての関係者や、私を応援してくれるファンのためにも、物に当たって怪我をする――なんてのは申し訳が立たないから。
しかしまずいな。今の私は未来に対する希望よりも、明確な敗北のビジョンが大きく膨れ上がってしまっている。負け方が良くなかった。5馬身という大差をつけられた上、精神力の差をどう埋めるかの具体的な解決策が見出せていないから、これまでに経験したことのない感情が湧き上がっている。
レースの組み立て方で負けていたとか、スタートダッシュを失敗したとか、どこでどれくらい負けていたという明確な敗因がない上、精神力の問題となるとトレーナーの協力を仰ぐこともできない。
つまり模擬レースの敗因は、とみおと一緒に――ではなく、私自身で解決する必要があるのだ。自分が答えを見つけ出し、このモヤモヤとした心の雲を取り払う必要がある。
自分にイライラした。いつものように闘争心が爆発して、なにくそと藻掻く元気すら出ない。何故か諦めようとしている自分がいる。情けないったらありゃしない。
そうして溜め息ばかり吐いていた私の前に、チーフズグライダーさんがやって来た。
「やぁ。模擬レース、見ていたよ」
「……チーフさん」
「…………?」
長い髪を揺らして、チーフさんが私の顔を軽く覗き込んでくる。何かを見極めるかのような冷徹な双眸に嫌なものを感じて、私は咄嗟に視線を逸らした。
会話はない。チーフさんが私をじろじろと見つめてきて、私は彼女の目から逃れようとするだけ。そんな攻防が数十秒続いた後、彼女は怒りを顕にしながらその場を立ち去った。
「え? あの……」
耳を絞りながら大股で歩いていくチーフさんと入れ替わる形で、紙コップを持ったエルちゃんが席に帰ってくる。エルちゃんは呆然とする私と怒りの滲み出ていたチーフさんを幾度か見比べた後、頭の上に疑問符を浮かべながら私の正面に座る。
「どうしたんですか? チーフズグライダー先輩と喧嘩でも?」
「……分かんない」
「分からないなんてことはないんじゃ……まぁ、いいでしょう」
エルちゃんは訝しげな表情をしながらも、黙々と食事を取り始めた。いつものように激辛ソースをかけて舌鼓を打つ彼女の姿を見て、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
そして、お風呂に入って布団を被れば悩みが吹き飛んでいるのではないか――なんて期待をしていた私は、翌日のオフでも模擬レースの結果に頭を悩まされることになる。
翌日。嫌な夢を見た私はベッドから跳ね起きた。
その夢の内容は単純明快。ゴールドカップ本番、アスコットレース場にて。カイフタラさんとエンゼリーちゃんが死力を尽くして1着争いをする中、私は大差をつけられて蚊帳の外で藻掻いており――そのまま3着以下に沈むという内容の夢だった。
悪夢を見る時、その人はストレスや不安を抱えているらしい。不安・ストレス・疲労を抱えていた私は、その例に漏れず嫌な夢を見てしまったわけだ。
すぐにでもトレーナーに会って不安を払拭してほしい気分だったが、今彼に会って何になる。ダメなものはダメだ。私自身で解決策を見つけなきゃならない。
「……散歩しよ」
時刻は早朝。エルちゃんが安らかな寝息を立てる中、私はジャージを着てシャンティイの森の遊歩道を歩くことにした。
薄い霧が漂う鬱屈とした森。鈍色の輝きを放つ大地の上を、あてもなく彷徨う。朝露を含んだ茂みに気を遣いながら、私は林間のギャップとなった小高い丘の上までやって来た。目的地のない散歩を一旦休憩にするため、ベンチ代わりの切り株を探していると、先客がいることに気づく。ウマ娘が2人。一体誰だろう。
ぼうっとしながら2人組に接近していくと、やけに聞き覚えのある声だった。というか……チーフさんとチャームちゃんだ。こんな所で何してるんだろう。
「それで、チーフさんはこの後休憩ですか? ――あっ。後ろ、アポロレインボウがいます」
「ん? ……本当だ。おはようアポロレインボウ、こんな早朝に偶然じゃないか」
「おはようございますチーフさん、チャームちゃん。2人は朝練中ですか?」
「まあそんなところか。しばらくレースに出ないからといって怠けるわけにはいかないからね」
あっけらかんと言うチーフさん。彼女はヨークシャーカップの後に足元の不安が発生したため、しばしの休養を取ることになっている。春から夏にかけては安静にすると発表しており、少なくともゴールドカップやグッドウッドカップには間に合わない。調子が戻らなければ年内を休養に充てて無理しない方針らしい。
しかし、彼女に引退の2文字はない。カイフタラさんやエンゼリーちゃんを倒し、カルティエ賞最優秀ステイヤー(欧州全体の最優秀ステイヤー)を取るまでは何がなんでも走り続けるとか。
チーフさんが昨日のように怒っている様子はない。むしろ昨日のアレは気のせいだったのかも。そう思いながら彼女に近づいていくと、チーフさんの顔色が一変した。
「あまり近づかないでくれるかな」
「えっ」
「今の君を見ていると反吐が出る」
私を侮蔑するかのような目の色をしていた。チャームちゃんはビックリしたように耳をピンと反らしており、私との間に挟まってオロオロし始める。無論、チーフさんを怒らせるようなことをした覚えはない。あまりにも一方的な嗔恚に、私の口からは刺々しい抗議の言葉が飛び出した。
「……私が何か悪いことでもしましたか? 理由を言っていただかないと納得できないのですけど」
「理由? 理由かぁ……そうだな。君が
チーフさんは挑発するように、何より視線で刺すように言い放つ。最も突かれたくない弱点を言及された私は、喉から飛び出しかけた言葉をすんでのところで呑み込む他なかった。
「ほら。今もそうだ。その話題になるだけで君らしくもない萎縮の仕方をしている。……
「――……」
たかが模擬レース。その言い方が癪に障る。でも言い返せない。本番レースに敗北した訳でもないのに精神的に追い込まれているのは、ある意味自滅に近しいバカげた行為だ。模擬レースなんていうのは、本番レースで勝つための布石でしかないのだから。
それでもそのバカげた行為を止めることができないのは、私の精神力が弱いからだ。追い込まれるといつもそう。外部からの刺激に圧倒的な脆弱性を見せるようになり、結果的に悪い結果を呼び寄せることになるのだ。
チーフさんが身を乗り出して、私の顔を下から覗き込んでくる。煽るように、蔑むように。
「それともハッキリ言ってあげようか? ――今の君は腑抜けている。日本代表として失格だ」
「ちょ、ちょっとチーフさん! いくら何でもそれは言い過ぎですよ!」
「口を挟むなチャーム。今彼女を放置してしまったら、私までダメになりそうで嫌なんだ。なあ、聞いていいかなアポロレインボウ。ドキュメンタリーで君が言っていたことは嘘だったのかな?」
「……嘘?」
予想外の一言に、私の感情は怒気よりもむしろ疑問を呈した。チーフさんはチャームさんの下から離れ、私に向かって1歩1歩近づいてくる。
「言っていただろう。私に勝ったヨークシャーカップでも。
「…………」
「あの発言は嘘だったのかな? あれだけの啖呵を切った君の夢は、
「――……ッ!! そんなわけっ、――ないでしょう!!?」
そして、チーフさんのその一言が私のラインを容易く踏み越えてきた。抑える間もなく激情が爆発し、やり場のない怒りを感情のままに発散した。
昨日からずっと感じ続けている、泣きたくても涙が出てこないようなもどかしさ、神経が張り裂けそうになるほどの憤怒、全身のどこが痒いのか分からぬほどの苛立ちを、あらん限りチーフズグライダーに向けて叩きつけた。
「そ、その程度の夢なわけないっ!! 最強ステイヤーになるって夢は、これまでの10年間ずっと私を突き動かしてくれた夢なんだもん!! 辛くて辛くて堪らないトレーニングも、夢のためなら頑張れた!! 心が折れそうになった時も、憧れが私の背中を押してくれた!!」
そうだ。その程度の夢なはずがない。分からないんだよ。私自身も。何をどうすれば勝てるか分からないんだ。だからこんなに苦しんでる。カイフタラ攻略のカギがトレーニングに打ち込むことと別ベクトルに存在しているから、一筋縄では行かなすぎるから、嫌になるくらい悩んでいるんだ。
模擬レースでつけられた5馬身の差は、精神力の差の現れ? それとも、お互いが抱いた夢が明確かどうかの差? いいや、それだけじゃない。精神が不安定だったドバイの時は1馬身、そしてお互いに成長した今が5馬身。明確な夢へのビションを持っていることは確かに大事だが、夢の明確性の差だけで5馬身の差が着くはずはないのだ。
私以外の15人のウマ娘全てが難敵となって立ち塞がり、苦渋の限りを味わいながら勝利したクラシック級の有馬記念。想いに貴賎をつけるわけではないが、15人の気持ちにカイフタラ1人の想いが勝るとも思えない。つまり、精神力の差は一因かもしれないけど、そこに答えはない。自分自身に原因があるのは確かだが、かといって昨日の私には肉体的にも精神的にも
攻略法なんて無いんだよ。
カイフタラには勝てない。勝てっこない。
無慈悲なまでに強い。攻略法なんて存在しない。
それが
「でも……カイフタラさんは強すぎる……強すぎたんだ……。か、勝てないよ……あの人には……。考えれば考えるほど、あの人に対しては攻略法なんて生半可なモノがないって分かった! 本当の最強はあの人で、私は弱いウマ娘だったんだ……!! 最強ステイヤーになるなんて夢は、叶いっこなかったんだよ……!!」
私はもう理解していた。戦う前から予感していた。模擬レースで惨敗に終わり、攻略の糸口も掴めない今、ゴールドカップでカイフタラやエンゼリーに挑んでも勝ち目はない――と。
私の夢は終わっていたんだ。知るのが早かっただけ。ゴールドカップの前か、後か。それだけの違いだった――
「――ざけんな」
「……え?」
「ざけんなって言ってんだろうが!!」
突然、脳内でガツンと鈍い音が響き渡った。頬骨の辺りに熱が走って、背中に衝撃を感じる。はっとして現実に戻ってくると、視界には曇天の空が映っていた。仰臥している。自然と上体を起こして元いたであろう位置を見つめると、そこには拳を振り抜いたような姿勢を取るチーフズグライダーの姿があった。隣のブラッシングチャームは両手を肩の上で硬直させ、わなわなと小刻みに震えている。
ああ、殴られたのだ――鈍い痛みを訴える頬を押さえながら、私はぼんやりと思った。唐突に私を殴ってきたチーフズグライダーに食ってかかろうとする気力が湧く前に、ぶるぶると震えていたブラッシングチャームがチーフズグライダーを止めにかかる。
「たった2回負けた程度で――なに甘っちょろいこと言ってんだ!!」
「たった、ですって――?」
「ちょ、チーフさん! それ以上はマジまずいですよ! 2発目はマジで!! さすがに止まってくださ――」
「――だったら!!」
「――
「――……」
その時、世界の時間が止まった。足元を薙いだ一陣の風が、ざあっ、とシャンティイの森を揺らす。チーフズグライダーの身体を拘束しようとしていたブラッシングチャームも、その言葉に心打たれていた。私もその場を動けなかった。心の奥深くを撃ち抜く言葉だった。チーフズグライダーの叫びは続く。
「私達が何年間負け続けてきたと思ってる!!? ダブルトリガーに!! カイフタラに!!
全身が震えていた。己の内側に湧き上がる感情を前にして、私は唖然と瞬きすることしかできない。身体中が熱くなり、その熱が首筋を伝って頬まで昇ってくる。鼻の奥に凝縮された熱の代わりに、冷たくなった全身から脂汗が滲み出てきた。
「自らの勝利を諦め、チームメイトの有利展開作りにレース人生を捧げるウマ娘もいる欧州で!! 日本の成功者として海外遠征してきた貴様が!! 本番レースを迎えるまでの過程で、ざっ――
鼻の奥がつんと痛み、目の縁から熱い液体が染み出る。幼子のように、情けないしゃっくりが出た。殴打された驚きと痛みのせいもあった。込み上げてくる涙と嗚咽を吞み込むかのように、喉奥がごくりと動く。胸腔の辺りに圧迫感を覚えて、更に苦しくなった。
チーフズグライダーの魂に響くかのような言葉が鼓膜を揺らす度、恥ずかしくて堪らなくなった。己の言動や思考を悔やみ切れないほど悔やんだ。
「戦う前から負けることを考えるだと――なら貴様の目の前にいるウマ娘は何なんだよ!!? 戦いたくても足元に不安があって戦えねぇウマ娘だ!! 自分自身の勝利ではなくチームメイトの勝利のために走るラビットのウマ娘だ!! 私達をバカにするのもいい加減にしろっ!! 私達は何度負け続けようと!! たとえライバルの攻略法が見つからなくても!!
そうだ。私は最悪なことをしようとしていた。勝とうと思ってゴールドカップに挑むつもりがなくて。負けるかもしれない――勝てないかもしれない――なんて
負けるかもしれない、という
「お前は日本の代表として
あぁ……私はこれまで戦ってきたライバルさえバカにしてしまったんだ。ゴールドカップまで続いてきた道は、ある意味ライバル達を踏み台にしてきたという証左でもある。だって、18人のウマ娘が同じレースに出たら、勝つのは1人で……残りの17人は涙を呑むことになるから。
勝者の1人は、残りの17人の無念を背負って次のステージに向かっていく。そのサバイバルを繰り返し生き残ったウマ娘だけが立てるG1という舞台。ゴールドカップに集う16名は、それぞれの背中にライバル達の想いを受け継いでいるのだ。
――私に足りなかったのは、己の夢への自覚の強さではない。
ライバル達を
私に足りなかったのは――いや、私が忘れていたのは。そんな単純明快な事実だったのだ。ドバイの敗北とゴールドカップに対する緊張感が思考を支配しすぎて、私の背中に宿った皆の想いを忘れていたんだ。
皆は、私の活躍を期待してくれている。ルモス・ダブルトリガー両名の期待。イェーツのまなざし。ギャル組との通話。ファンとの交流。とみおと積み上げてきた日常。全部、真っ直ぐ私を応援する気持ちに溢れていた。
何故忘れていたんだろう。こんなにあたたかくて、安らかで、大切なことを。
――そして、私はライバル達から何もかもを奪っていった。夢も、努力も、希望も、何もかも。
1着を取るとはそういうこと。残りのウマ娘は2着以下の敗北者と化す。つめたくて、厳しくて、残酷で。それでも勝者が受け止めなければならない大切なこと。忘れてはいけなかった。こんなの、カイフタラさんに負けて当然ではないか。
「アポロは自分の夢のために、私たちの夢も、希望も、何もかも奪っていったじゃないか。……わたしに、わだじに勝って、奪っていったじゃないかぁぁ……!」
チーフズグライダーの言葉はそこまで止まった。少女の双眸から大粒の涙が溢れて、頬を伝った。
「う、うぁ……ひっ、ぐ、ぅああ――バカ野郎……バカやろぉぉ……」
「……ごめん、なさい……ごめんなざい……! ごめんなざい、チーフざんっ……! ごめんなざい……!」
地面に崩れ落ちたチーフズグライダーの肩を抱いて、卑怯なことに、私は彼女と一緒になってあらん限りの涙を流した。しばらくして、ブラッシングチャームが肩を震わせながら私達の身体を抱き締めてきた。彼女もまた俯いて、その瞳から朝露に似た鈍色を流していた。
少女達の嗚咽は続いた。私は涙と共に己の悪しき部分を
3人の周囲に『
私が得たのは、勝者としての責任と矜恃。不完全に練り上げられた心象風景の欠片にして、敗者の生き様。それは少女達が積み重ねてきた激情の一部に過ぎなかったが、一本桜に確かな変化を与えていく。
チーフズグライダーの『
――【WE NEVER GIVE UP!!】
レース後半に差し掛かるとき、
嗚咽は啜り泣く声に変わっており、同じタイミングで顔を上げた私達は少しだけ笑い合った。3人それぞれが、涙と共に過去を洗い流したかのようだった。
「……アポロ。私の夢を奪った君はカイフタラと戦う責任がある」
「……はい」
「思い出せ。君が戦い抜いてきたレースを。その身体に背負った想いを。君の経験全てが糧になるはずだ。カイフタラの強さを知ってる私が保証する。君は強い。1度2度カイフタラに負けた程度でこの評価は変わらないよ。アポロレインボウはカイフタラと同等以上の強さを秘めている――だから自信を持て! それ以上ウジウジしてると、本当に君のトレーナーをデートに誘うからな!?」
「ええ!? それはダメです!」
レースととみおは別腹だ。どれだけお世話になろうと、あの人だけは絶対に渡さないよ。とみおは私の力の源でもあるんだからね。
……なんて心の中の声を盗み聞きしていたかのように、チーフさんは意地の悪い笑みを浮かべた。そして緩んだ雰囲気を引き締めるように咳払いすると、寄り添った私達は自然と肩を組んで円陣を組んでいた。
「カイフタラはアポロレインボウに期待している。ただ勝つためなら、手の内を見せびらかすようなことは絶対にしないからな。……あいつは
「――はいっ!! チーフさん、チャームちゃん、ありがとうございます!! 私、絶対に負けませんから!!」
「――良い返事だ!!」
チーフさんが返事すると同時、私達3人は円陣の中心に向かって1歩踏み出していた。足並みが揃うとはこのことで、3つの足音が綺麗に揃った。心の中に宿った光が震えて、心地よいリズムを紡ぎ出す。この2日間止まっていた心臓の拍動が復活し、全身に血流が巡り始めた。
自然と円陣が解かれた後は――お互いに涙の痕をそそくさと隠しながら――私は散歩に、2人は調整メニューに戻ることになった。
「おいチャーム、私達はそろそろ行くぞ。より早い復帰のために調整を続けなければならないからな。打倒カイフタラ・エンゼリー・アポロレインボウだ」
「はいっ!」
チャームちゃんとチーフさんは背中向きになって、丘の向こうを下っていく。せめて背中が見えなくなるまでは見送りたいと思っていた私は、うなじのあたりを掻きながら照れ臭そうに振り返ってきたチーフさんを見逃さなかった。
「――おい、アポロ。頑張れよ」
「はい! チーフさん、活を入れてくれて本当にありがとうございました!」
「……頬をぶん殴ったのは悪かった。さすがに暴力はなぁ……。これに関しては何らかの罰則を受けてしかるべきだと思っているから、君の方から生徒会に報告しておいてくれ。チーフズグライダーに暴力を振るわれたとね」
「それはダメです」
「えっ」
「……先輩からの指導の一環ですから」
「……ふ。下手な冗談だな、お人好しめ」
「どっちがですか」
「ま、君の勝手にしたまえよ」
最後に短いやり取りを交わして、私達は何事もなかったかのように別れた。
ふと空を見上げると、空を覆っていた分厚い雲が晴れて、天からは眩い陽光が降り注いでいた。
私は周りの誰かに貰ってばかりだ。
ゴールドカップに勝てば、恩返しになるのだろうか。
それは分からないけれど、ウマ娘の私にできることはひとつ。
ゴールドカップに勝つこと。夢を追い続けること。
そして――絶対に諦めないことだ。