ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
関係者用の通路を抜けて、屋外に出ようかという寸前の場所で立ち止まる。滝のような雨が降っており、屋根下と屋外では風景の見え方にハッキリとした違いが出ている。パドックの時よりも雨が酷い。さすがの私でも躊躇いが出てしまいそうな荒天である。
そうして少し立ち止まっていた私の後ろから、石同士をぶつけるかのような硬い足音が近づいてくる。その足音の主はカイフタラさんだった。私の隣に立って空を見上げると、カイフタラさんは「これは酷いな」と零す。彼女からしても相当の強さを誇る雨のようだ。
ふとスタート地点辺りに視線をやると、降りしきる雨が波のようなうねりを作っていた。私達は顔を見合わせて肩を竦め合う。少しだけ圧倒されていた。ここまで酷いものか、と。
アスコットレース場では平地のレースが行われる他、障害競走も盛んなため、平地競走用の周回コースの更に内側には障害競走用のコースが用意されている。平地用コースと障害用コースの間に陣取っている観客の姿も多く見られる。
外に出て近くで観戦したい観客は、用意されたテントの下でレースの始まりを今か今かと待ち受けている。数万人は外にいるだろうか。ほとんどの観客はスタンド内に腰を定めたが、予想外の集客によって溢れたファンも屋外での観戦を強いられているようだ。
カイフタラさんはそんなアスコットの状況を見て、「去年は寂しいもんだった」と呟く。私が彼女に目を向けると、カイフタラさんはぽつりぽつりと話し始めた。
「ロイヤルアスコットは元々社交界のイベントという側面が大きい。イギリス王室が関わっている以上、仕方の無いことではあるが……去年訪れた数万人の観客も、全てが純粋なレースファンかと言われれば疑問だった。彼らのことを悪く言うつもりはないが、オレにとってはどこか虚しいものだった」
去年のレース映像を見れば分かるが、レース後のウィナーズサークルや表彰に訪れる人は入場者数に比べるとかなり少なかった。元々レース後の表彰などは関係者用という側面が強いのだけど、ウマ娘目当てにレース場を訪れるならレース後のプログラムを見ても損はないはずだ。
そうする人が少なかったということは、ロイヤルアスコットが社交界のイベントの舞台であるという認識の方が大方だったのだろう。レース場に来たからにはもっとレースに熱中してほしい、
「……だが、今年はどうやら違うみたいだ。天候は最悪に近いが、それ以外の全てが最高になった。……お前のおかげさ。ありがとうアポロ、良いレースを」
「そんな。私は一生懸命走ってきただけで、何も」
「…………」
カイフタラさんは差し伸べた手を無言で突き出してくる。その表情は優しいが、瞳に宿る炎は燃え猛っている。私に対する態度は柔和になったものの、牙は抜けていないのだ。むしろ牙を隠す時間が増えたせいか、より鋭く研ぎ澄まされている。
白の手袋同士で強い握手をして、私達は視線を切った。もう会話は必要ない。そういう領域に達している。再度空を見上げて、私は意を決した。
『大雨の中のアスコットに次々とウマ娘が飛び込んでいきます! スタンドからスタート地点までの約1000メートルを走っていく15人ですが……天候のせいか調子の程度は分かりそうにないですね』
『15人全員が俯き加減のまま走っています。相当風雨が強いんでしょうね』
彼女に先立って雨の中に飛び込むと、早くも全身がずぶ濡れになる。頭頂の辺りに感じた不快な感覚が、額や側頭部、うなじを通って首以下の地肌に通っていく。水のせいで勝負服が地肌と接着し、四肢を動かすとあちこちで擦れてしまう。フォームに影響が出ないか心配だ。
勝負服はある程度の撥水加工が施されているものの、裏地はその限りではない。ふわふわの質感を保っていたスカートが萎れて、水を含んで重みを持つ。前を走るエンゼリーちゃんのコートや、他のウマ娘のマントなどが水を含んで
(……この状況で高速逃げなんて、無謀って言われるだろうな。でも皆に勝つためにはやるしかないよね)
長いまつ毛の上に水滴が乗って、瞬きする度に雨粒が目の中に落ちてくる。手首で擦って水を取り除こうとしても、次々に雨が叩きつけてくるので無駄だった。もし速度を出したら、まつ毛を隔てずに直接目の中に水が侵入してくるのだろうか。
それはちょっと怖い。視界というのはレース中最も多くの情報を仕入れる感覚器官だ。時速80キロを超える水滴の直撃を喰らえば、不快感もしくは痛みで
『15人のウマ娘がゲート前に到着して……おや、靴の中に溜まった泥水を掻き出してますね。返しウマだけで足元が泥だらけになったウマ娘も散見されます』
『発表は不良馬場ですが……不良中の不良ですね。ゴールドカップの最遅タイムは4分50秒台となっており、いずれも重馬場や不良馬場での記録となっています。この馬場状態なら5分台の決着となっても何らおかしくないですよ』
スタート地点に到着して、口を開いたゲートの前でゲートインを待つ。15人のウマ娘は誰に言われたわけでもなく、己の靴中に溜まった泥水をひっくり返して排水し始めた。軽いランニングだけで靴の中に雨水がごった返している。靴を履き直して数秒もすれば元通りだ。次第に諦めの方が勝ったのか、15人が再び靴を脱ぐことは無かった。
『雨に打たれながら、最内枠のカイフタラがゲートイン』
『重馬場に滅法強いと定評のウマ娘です。この不良馬場でも遺憾無くその能力を発揮してくれるでしょう』
次々とゲートインしていくウマ娘。雨を弾くかのような闘志を溢れさせて、冷えていく身体とは正反対に心を燃やしていく。
『12番のエンゼリーが今ゲートイン』
『昨年から続く連勝記録を伸ばすことができるか? 立ちはだかる壁は高く厚いですが、期待して見守りましょう』
様々な方向へ向けられた激情の矢印。それぞれが練り上げた想いを肌に感じながら、両の頬を手のひらで思いっ切り叩く。
飛び散る水滴。弾ける火花。純白の勝負服に背中を押されて、私は大外枠のゲートに収まった。
『大外枠のアポロレインボウがゲートインし、全てのウマ娘がゲート内に収まりました。発走準備が完了し、いよいよゴールドカップがスタートします』
『私イチオシのウマ娘です。初めての4000メートルという距離でも彼女は大逃げを見せてくれるんでしょうか』
『さぁ、至高の5分間――最強ステイヤー決定戦が今――』
鋼鉄のゲート内で腰を沈める。グリップの効かない地面に蹄鉄を押し付けて、地面が抉れるくらい力を込める。雨の音に混じった心臓の鼓動を聞きながら、何千回何万回と身体に叩き込んだスタートダッシュを思い描く。
逃げウマ娘はゲート・オープンの瞬間に命運が決まると言われている。出遅れた瞬間、勝利の未来はない。5分間のレースと言えども、コンマ1秒のズレさえ許されぬ。
両開きのゲートが軋む。ゲート開放係の手が動く。開始の予感。抑圧された感情を爆発させるように――夢への憧れを解放するように――今――
『――スタートしました!』
スタート直後、水を頭から被ったかのような衝撃が走った。まるで水の壁に突っ込んだかのような重さ。風と水量で頭から押し潰されそうになる。
躊躇わず、4インチの芝を蹴飛ばして身体を前に押し出した。下半身を動かせば勝手に前に出ていく軽い馬場と違って、欧州の不良馬場はスタミナとパワーを駆使して空気を切り裂いていかないとハナを奪うことは不可能だ。自分の走りに徹しながら、欧州の重馬場に合わせた力強さを全面に押し出していく。
『先頭に躍り出たのは15番のアポロレインボウ、1番人気です。続いていくのは12番のエンゼリー、3番のハニーハートビート、11番のジャラジャラの3人。大方の予想通りの展開です』
『アポロレインボウはこの馬場状態でも上手く先頭を奪うことができましたね。問題はどのくらいのペースを刻んで4014メートルを走るのかです。玉砕覚悟で突っ走るか、意表を突いてスローペースで抑え込むか、その中間で逃げおおせるか、それとも後方に控えるか』
『この不良馬場では彼女の強みは活かせないでしょう。ターフはまるで田圃のようですから』
私の後ろにエンゼリー、その横にハニーハートビートとジャラジャラが襲い来る。しかし、思ったより
思った通りの不良馬場だが、想像以上に状態は悪い。どれだけ悪いかと言うと――踏みしめる度に地面から水が滲み出てきて、
纏わりつく水は足元だけじゃない。顔や胴体に叩きつけてくる風雨は、前に出ようとすれば重さを増して私の身体を押さえつけてくる。あまりの勢いに気勢を削がれ、前傾姿勢を押し戻されそうなくらいだ。
早くも背筋に嫌な汗が浮かぶのを感じながら、後続の位置取りを確認する。私の1馬身後ろにエンゼリーとジャラジャラ。5番手からエンゼリー目掛けて上がってくるのはジェイジェイザジェットバイシクル。その巨体故にスタートダッシュは上手くないが、スピードに乗れば彼女を止められる者は誰もいない。7番手付近に4番人気のシーユーレイター。15番手の最後方で泥を被っているのはカイフタラ。凡そこの順番のままレースは進んでいくことだろう。
『おっと、アポロレインボウ加速していく! 苦しそうな表情を浮かべているが、手を緩める素振りは一切ないぞ!? 意地を張っているのか、それとも勝算があってのことか!?』
ペースを引き上げる。スタミナ消費量は日本の良馬場と比べて何倍になるのだろう。自慢にしてきたスタミナが頼りなく思えるほど道のりは険しい。
ただ、それは後続も同じこと。私がペースを上げれば上げるほど、絶対的なスタミナ量の劣る14人は体力切れを懸念しなければならない。特にエンゼリーやカイフタラ――スタミナ切れを心配しなくても良かった2人のようなウマ娘でさえ、そんな
……やるだけの価値は確実にある作戦なのだが――
(くっ――苦しい……! 高低差20メートルの坂を
アスコットレース場には20メートルに及ぶ高低差が存在する。私達はその高低差を登り、下り、そしてまた登らなければならないのだ。
まずスタート直後から1500メートルの間、20メートルの登坂が待ち受けている。まるで壁のような急坂。平均勾配は2%を数え、この数値は急坂で有名な中山とほとんど同値である。第1コーナーまでの約1500メートルを
更にレース中盤では急坂を駆け下りて、レース後半にはもう一度急坂を登り切らなければならない。ヨーロッパ出身のウマ娘でさえ、急坂を駆け下りた所から見える
スタートから400メートルを経過して坂を登っている途中だが、既に脚にガタが来そうだ。薄らとした絶望が心の底から沸き立ってきそうで、懸命に目を逸らして腕を振っている。心臓が嫌な音を立て始めている。私達が立てた高速逃げのプランが、やはり無謀なものだったのではないかと――雨で冷えた思考が現実を見せつけてこようとしている。
だって……不良馬場でウマ娘のタイムが落ちるのは、
エンゼリーやハニーハートビートが驚いたような表情でこちらを見ているのは、私が勝ちのセオリーを無視しているからだ。大人しくスピードを抑えて位置取り争いを制し、最終直線からの好位抜け出しに徹すれば勝てるのだと――そう思っているのだろう。
――ざけんな。セオリーなんて知ったことか。
ボロ負けするのは怖い。激走による苦痛は恐ろしい。襲いかかるプレッシャーに押し潰されそうな時もある。
でも――この不良馬場で大逃げをやり切れたら、
『スタートから600メートルを通過して、アポロレインボウが早くも後続に差をつけたぞ。その差は4馬身。そして常軌を逸したハイペース――これはつまり、
『レース中盤でペースを落とす可能性もありますが……今のところは
200メートルごとのラップタイムは、13.4-11.9-11.9――このままのペースを維持すればゴールドカップの4分切りレコードも夢ではない。ただ、不良馬場のせいで全然踏ん張りが効かないから、必要以上に足元へ注意を払わなければならない。滑って転倒すれば一巻の終わりとあって、精神力の削られ方も今までにないレベルだ。
シャンティイの森の中のコースは高低差40メートルを誇ったけど、あの時は不良馬場じゃなかったから踏ん張りが効いた。むしろ今の方が辛いくらいだ。
「はっ、はっ――」
私の後ろを走るエンゼリーとジャラジャラ。早くも私のことを諦めてくれたようだ。集団のペースを狂わせたり、位置取り争いによる細やかなトリックが飛び交っている。しかし、大雨と暴風のせいでそれらの技巧は空回り気味なようだ。器用な彼女達なら、あと数百メートルもすれば悪天候に合わせたトリックを発動するだろうか。
ジャラジャラは比較的自由に逃げているが、エンゼリーは真後ろのジェイジェイザジェットバイシクルのプレッシャーに苛立っている。何よりカイフタラが全くの不動であることが1番恐ろしい。何もかも見透かされているような寒気がする。
(アポロ……お前、正気か?)
(正気だろうが狂気だろうが――あなたに勝つにはこれしかないんだっ!!)
(…………)
跳ねた泥や打ち付ける雨粒に対して、カイフタラは瞬きひとつしない。私だけをずっとずっと睨みつけている。その金色の双眸が鷹の目のように思えた。
そして――
(何っ!?)
(
(あまりにも早すぎる……! アポロレインボウといいカイフタラといい、このゴールドカップで何が起きている!?)
「っ……」
まさか――バレた? この大逃げが
――そんな! 狙いに気付くのが早すぎる! それとも
1番嬉しい展開は、カイフタラが
でも残念だったね。このレース、私は垂れないんだ。
(ペースを落としたならその分私との差が開く! とみおは
悲観するな。これはレースではない。理不尽の押し付け合い。それぞれのウマ娘が持つ能力による詰将棋だ。4000メートル、20メートルの高低差、不良馬場、大雨と強風――この悪条件なら私の駒の方が有利。スタミナ量の絶対値が違う。
前を向けアポロレインボウ。一度目の坂越えはもう少しだ。
『スタートから1000メートルを通過して、アポロレインボウが7馬身の差をつけて先頭! ペースは良馬場だとしても異常なペース――当然不良馬場なら絶対に有り得ない破滅的ペースです!! 2番3番にエンゼリーとジャラジャラ、4番手にハニーハートビート、5番手にジェットバイシクル、中団後ろの方に4番人気のシーユーレイター、14番手から3馬身離れた最後方を走るのは2番人気のカイフタラ! 後続のウマ娘はいつ仕掛けるのか!? 既にレースの4分の1が経過しています!!』
『こ、この調子だと前代未聞の4分10秒未満のレコードが――いえ、それすら超えた3分台のレコードを叩き出してしまうかも……』
直線コースと周回コースの合流地点に到着して、歪な坂道が残り500メートルを数える。今思い出したのだが、このアスコットレース場は平地ゾーンが600メートル程度しかない。第1コーナー部分と下り坂の終わり際に束の間の平坦なコースがあるだけ。スタミナ消費量はヨークや日本のコースと比べるべくもない。
死ぬほど苦しむ羽目にはなっているが――天運は間違いなく私に向いている。消耗戦であるという一点において、これ程の有利に立てることは二度とないだろう。
「――っ、かっ、はっ! ああっ!! あああぁああっっ!!」
だが、眼球に直接打ち付けられる雨粒、身体の前面に押し付けられる風圧の壁、泥と水滴で足を取られる馬場で行うオーバーペース気味の全力疾走――これらの苦難が私の精神をごりごりと削っていた。
たった1000メートル走っただけで、もう肉体は限界に達しようとしていた。既に口端から垂れた涎を拭う余裕すらない。壁のような坂道を延々と走って、気が狂いそうになっている。
――レースというのは、想像以上の孤独に包まれている。騒がしいのはスタンド前を駆け抜ける時だけ。自由なコース取りをするヨーロッパのレース場では特にそうだ。スタンドは確かに巨大だが、その建物でも長大なレースコース全てをカバーすることはできない。このアスコットでも、スターティングゲートやコーナー、ゴール地点やスタンド以外で歓声を受けることはほとんど無い。
スタートした瞬間はたくさんの歓声に囲まれたものの、広大な草原を駆け抜けるうちに喧騒はどこかへ消えていた。辺り一面には柵で仕切られただけの原風景が広がっている。雨音と風切り音と心臓の音だけが聴覚を支配して、不思議な静寂があることで自然と自らの内面に視線が向いてしまう。苦痛から目を逸らすため、という理由もあるが、基本線はこのオーバーペースを保てるかどうか。つまり自分との戦い。もはやゴールドカップは自分の心の勝負になっている気がした。
全身から噴き出した汗が泥と雨水と混じって、身体を重く野暮ったくしていく。顎が重い。手首の角度が定まらず、手のひらが下を向く。舌が乾いて酸っぱい。強烈な風が舌根の渇きを更に促進してくる。雨水が不味い。泥水がジャリジャリして、もっと不味い。自分の顔は今、どうなっているだろう。多分覇気の欠片もない疲弊に満ちた顔になっているはずだ。
こころと身体の芯は死んでいないが、表情を初めとする身体の表面が死に始めている。後続のウマ娘は流石にここまで疲れていないだろう。もっと頑張らなければならない。
(そろそろ一度目のゴール板が見えてくる! そこからは一瞬平坦なコースを走ったあとに下り坂! 下り坂では少しだけ楽が出来るから――全然楽じゃないけどとにかく――せめてそこまでは気合いで持たせる!! 下り坂が終わった後にキツくなったら、またその時考えて気合いで乗り切るっ!!)
大逃げを出来ることと実際に
サイレンススズカや私が異端の部類に入るだけで、ほとんどのウマ娘は大逃げ以外の走りをした方が勝率は高い。その他に大逃げが希少な理由は、レースの最初から最後まで全力全開で走らなければならないからだ。つまり、単純に
そんな不器用な脚質でしか勝てないウマ娘が、不良の4014メートルをハナで駆け抜けるなんて――誰もが不可能と笑うだろう。今この瞬間だって、実況解説は私に向けて疑問の目を向けている。
私の大逃げを望んで1番人気にしてくれたファンは多いだろう。ただ、大逃げをして実際に勝ってくれると思っている人はそこまで多くないのではないだろうか。
(――でも私は!! そんな夢物語みたいな非現実を叶えたい!! みんなの夢と希望を現実にしたい!! 夢を賭けて戦ってきたライバルのためにも、大逃げの最強ステイヤーになるためにも!!)
雨音の中、真っ先にスタンド前を駆け抜けて――高低差22メートルの坂を登り切り、一度目のゴール板を通過する。即座に息を入れ、コンマ1秒の減速の後に再加速。2番手との差は10馬身。その差を見てか、それともウマ娘が付近を通って興奮したのか――スタンドや屋外観戦席から轟々とした大歓声が響き渡る。
客席に目を向けることはしない。そんな中、見知った人の声――とみおやルモスさん達――を聞いた気がして、私の持久力が僅かばかり回復する。やっぱり私は、みんなの声を受けたなら何処までも走っていけるのだ。回復したスタミナを燃焼し、私は周回コースの第1コーナーをカーブしていく。
『スタートから1500メートルを通過して、アポロレインボウが10馬身のリード! 大逃げのアポロレインボウはもちろんですが、2番手争いが苛烈さを増しています!! ジャラジャラとエンゼリーが激しい削り合い!! そしてジェイジェイザジェットバイシクルとシーユーレイターも至近距離で睨み合っている!!』
『ここに来て有力なウマ娘達が争い始めましたね。最初の1500メートルを走ったおかげで、残りの2500メートルの見通しが立ったというところでしょうか。最後方に隠れているカイフタラの判断、そしてアポロレインボウを放置した14人の共通意識がどう出るか……見物ですね』
2番手は集団支配型のジャラジャラとエンゼリーが争っていて、少しペースが早めか。エンゼリーがジェットバイシクルのプレッシャーを振り切って逆に後方に追い返し、尚且つジェットバイシクルがシーユーレイターと戦っているところを見ると、ジェットバイシクルはこのハイペースでこれ以上強気に出られないはずだ。エンゼリーは相変わらずのトリックとタフさでジャラジャラを責め立てている。それでもジャラジャラは譲らない。ひと枠分内側にいたおかげか、コーナーのカーブで僅差の有利に立てている。
深い蒼の勝負服を泥だらけにしてレースを俯瞰するのは、最後方のカイフタラ。私とは17馬身ほどの差がある。エンゼリーやジャラジャラは私のスタミナを持たないと踏んだらしいが、ヤツだけは違う。どこまでも冷静で思慮深く抜け目がない。顔面に跳ね上げられた泥水を避けることもせず、瞬きさえ必要ないと言うように、カイフタラは私を睨み続けていた。
(カイフタラめ――シーユーレイターやジェットバイシクルどころか、エンゼリーとジャラジャラすら歯牙にかける様子がない。完全に私に狙いを定めているんだ……!)
『さぁ第1コーナーを曲がると22メートルもの落差を誇る下り坂が待っている! 800メートルを走る間に22メートルを下る急峻な坂! むしろ上り坂よりも危険だと言えるでしょう!!』
『この下り坂で勢いをつけすぎると、急角度の第2コーナーで負担をかけながら減速する必要がありますからね。無理に減速するよりは、速度を抑え気味に走って上り坂に備える必要がある――そんなもどかしいゾーンとなっていますよ』
三角形の周回コースに突入して、残る道のりは2400メートル。ここからは1度盛り上がった地形を超えて、そこから冗談みたいな傾斜の下り坂を駆け下りる必要がある。
実況解説は
全身を泥まみれにしながら、盛り上がった地形を超えて下り坂に突入する。そこからは、
一瞬、転げ落ちてしまうのでは――という恐怖に狩られた。京都レース場の淀の坂が永遠に続いているかのような――そんな地形。既にレース場の下見はしていたが、酸欠による視野狭窄によって視界中央の下り坂が強調されて見えているのかもしれない。
そして、須臾の驚愕と恐怖で怯んだ隙に――
ひとつの影が雨風と共に迫り来る。
『おおっと、ジャラジャラだ!! ジャラジャラが掟破りの加速ッ!! 下り坂を利用してアポロレインボウを早々と捉えにかかったあっ!!』
「うおおぉぉおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
「――!?」
そのウマ娘は――何とジャラジャラだった。
コンマ数秒反応が遅れる。ジャラジャラは盛り上がった地形に差し掛かった途端、私の隙を突いて加速していたのだ。ポイントとなる地形の走り方に気を取られて――私としたことが気付けなかった。雨風で音が聞こえなかったせいもあるし、極限状態で注意散漫になっていたのもあるか。
まだ6馬身の差こそあるが、いち早く下り坂で加速していたジャラジャラとの距離はみるみるうちに縮まっていく。下り坂での加速に加え、『
『ジャラジャラが仕掛けて捉えたっ!! アポロレインボウ、気のせいか驚いたような仕草を見せて反応が遅れたか!? ジャラジャラとアポロレインボウが後続を引き離し、早くもデッドヒートを繰り広げているっ!!』
『ジャラジャラは
下り坂でのデットヒートは地獄だ。何故なら、1度始まったが最後――己の意志に関わらず止めることが不可能だからだ。
傾斜を蹴りつけて回転する両脚。重力と脚力によって加速していく肉体。互いに譲らないライバル。これらの条件が組み合わさると、
しかも、今はその条件が最悪中の最悪だ。恐らくハナを奪いたいであろうジャラジャラと、ハナを死守しなければ勝てない私が競り合うことになれば、どう考えても速度を緩めることはない。
即ち、
(ジャラジャラ――!!)
(アポロレインボウっ!! その背中、捕まえたぞっ!!)
ジャラジャラがこれまでの1600メートルを
22メートルの高低差を駆け下りながら、行った行ったの鍔迫り合いが幕を開けた。
ジャラジャラが減速のフェイントをかけた上で強引なオーバーテイクを試みる。それを読み切っていた私はジャラジャラの加速に合わせて速度を引き上げ、彼女が息を入れたタイミングで無理を承知で再度加速して突き放す。
(そこをどいてっ!!)
(嫌だ!! ここで譲ったら私の夢は叶わない!!)
(こっちだって譲れないんだから――いい加減ハナを渡せ!!)
下り坂の始めの400メートルもの間、私はほとんど無呼吸で走っていた。その間22.4秒。何度も眼球が真上を向きかけたものの、目に入った雨粒の痛みですかさず現実に帰ってきた。喉と胸の奥に激痛が
恐らくこの下り坂がジャラジャラにとってのターニングポイント。下り坂を駆け下りる間ジャラジャラの猛追を凌げば何とかなる。少なくとも彼女ひとりについては競り落とせるはずだ。
『ジャラジャラが踏み込もうとするが、アポロレインボウのガードが硬い!! ギリギリのところまで追い詰めても寸前で躱されてしまう!! これは万事休すか!?』
こうしてジャラジャラの猛攻を凌ぐこと800メートル。遂に下り坂を下りきった私は、平坦な第2コーナーを利用しつつやっとのことで息を入れた。ジャラジャラは3馬身の差をつけて2番手のままだ。
ほっとしながら3番手以下の様子を見る。16馬身の差をつけた3番手のエンゼリーが僅かに上昇の予感。6番手のジェイジェイザジェットバイシクルが反応したものの、着いていくスタミナは無さそうだ。シーユーレイターとカイフタラ以外のウマ娘は既に足色が鈍り始めている。
『
『そろそろアポロレインボウが垂れてくれないと後ろのウマ娘は困りますよ……何せ、良馬場のアスコットでも
三角形の周回コースの第2コーナーは、スウィンリーボトムと呼ばれるコース最低地点。そこから最高地点たるウイニングポストまでの高低差は22メートルに及んでいる。つまり、私はここから2度目の20メートル級の急坂登坂を行わなければならない。
400メートル程度の平坦な地形を走りながら、1200メートルに及ぶ上り坂への準備を進める。準備と言っても、全力疾走しながら精神的な覚悟を決めるだけだが――
(――っ!?)
唐突に、その覚悟を妨げる影が襲いかかってくる。
圧倒的な威圧感が背中に覆い被さった。ぞわりと全身が総毛立ち、尻尾を掴まれたかのような不快感に襲われる。
(バカなっ! エンゼリーが来た!? この僅かなコーナーの間に!? それともカイフタラ!? シーユーレイター!? いやっ、このウマ娘は
――ジャラジャラだ。今この状況で私の直後に控えられるウマ娘は、彼女しかいない。ジャラジャラは下り坂でハナを奪えなければ諦める。そう予感していたのに――
彼女も夢を追ってヨーロッパにやって来たのだ。易々と諦めてくれようはずもない。それこそ私のように命をかけて1着を取りに来るだろうに――
「――おおおおぉぉぉおおおおおおおっっ!!!」
「ぐッ――!」
ジャラジャラはまだ諦めていなかった。平坦な部分を過ぎて上り坂に差し掛かろうとしても、彼女は私に食らいついてきた。
そうなると精神的に辛いのは私の方だ。てっきり諦めてくれるものだと思い込んでいたぶんショックは大きい。酸素不足で判断が鈍ったか。何とか立て直そうとする間にジャラジャラの影が接近してくる。
しかし、既に限界を超えた疾駆によって身体は限界を迎えていた。思わぬ強襲による精神的動揺もあって、自分の芯がぐらつく。
もはや力尽きる寸前。へろへろのフォームになりかけて、ジャラジャラとの差が縮まっていく。そして坂道に一歩踏み込んだ瞬間、腹の底に鉛の塊のような重石がのしかかった。それは明らかな限界の現れだった。
(……苦しい――)
――苦しいだと? バカ野郎。できるだろ。もっと速く走れるだろ、アポロレインボウ。
死ぬほど苦しいのは分かる。でも、平坦な10000メートルの道なら全力疾走しても体力が持つって知ってるだろ。何度も何度もトレーニングして、ノープレッシャーならどんな条件の超長距離でも走れると知ってるだろ。
己を鼓舞して、次なる一歩を呼び込む。
高低差22メートルの急坂。太ももが上がらない。
(……もう、無理だ――)
お前は知っているんだ。どれだけ苦しかろうと、自分がもっとやれるってことを。
だから走れ。弱気になるなよ。高低差22メートルがどうしたって言うんだ。
(このまま走ってたら、マジで死ぬ――)
疲れてても分かるだろ!? 十数年と、4分間の違いだ! どっちが大切だ!? どっちが重い!? そんなの、これまで過ごしてきた十数年の人生に決まってる!! 10年の苦痛を一身に背負うより、この4分間を全力で駆け抜ける方が楽に決まってる!!
だから動け! 動けよアポロレインボウ――
(息が持たない……喉は痛いし……胸の奥も痛い。足が壊れそうだ……身体はもう動きそうにない……)
――ふざけんな!! 手の届くところにあるんだぞ!? 私の夢が!! 小さい頃からずっと憧れてきた夢が!! 憧れの景色でしか無かった最強ステイヤーの称号が、手に届くところにあるんだよ!! 何で頑張れないんだよ!!
(――――……)
己の激励を耳にして、みんなの顔が脳裏を過ぎる。
桃沢とみおに、私を応援してくれるファンや知人、先輩。シンボリルドルフに、マルゼンスキー。ダイタクヘリオス、メジロパーマー、トーセンジョーダン、ゴールドシチー、シリウスシンボリ、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ウオッカ、ダイワスカーレット、ゴールドシップ、サクラバクシンオー、アグネスタキオン……。
そして、現在進行形で戦っているライバル達。日本に残してきたウマ娘に、海外で出会ったウマ娘……。
みんなに誇れるウマ娘になると――最強のウマ娘になると誓ったではないか。
苦しさ以上に自分の夢が輝いているから、限界を超えて挑戦できる。
そんな言葉を思い出して、踏み出す一歩に力が篭もる。
シャンティイの森でブラッシングチャームとチーフズグライダーが流した涙。彼女達の想いの宿った光が、私の心象風景で沈黙する一本桜の枝部分から飛び出した。ジャラジャラの『
――ブラッシングチャームとチーフズグライダー。チームメイトを勝利させるための
私の胸に優しく宿った2人の想い。それは少女達が積み重ねてきた激情の一部に過ぎなかったが、私の両脚にレース序盤のような力強さを復活させた。
チーフズグライダーの『
――【WE NEVER GIVE UP!!】
――アポロ、思い出せ。君が戦い抜いてきたレースを。その身体に背負った想いを。君の経験全てが糧になるはずだ……
みんなの想いが背中を押し、急峻な坂道に負けない力強さで加速していく。
(私は絶対に夢を諦めたくない――諦めないことが私の強さ!! 絶対に諦めない――それがずっと変わらない私の走り方!! 私が最強のステイヤー、アポロレインボウだ!!)
「――う、あああぁぁぁああああああっっ!!!」
『おおっと!!? 残り1000メートル地点っ、アポロレインボウが今度こそジャラジャラを突き放したあっ!! ジャラジャラは厳しいか!! エンゼリーとカイフタラが進出していきますが、豪雨のせいかエンゼリーの末脚は鈍い!! ピンピンしているのはカイフタラとアポロレインボウだけ!!』
私がチーフズグライダーの激情によって復活すると同時、ジャラジャラが今度こそ力尽きた。超ハイペースの上、不良馬場が祟ったのだ。とうに限界を超えていたのか、真っ青な顔をしたジャラジャラが上体を起こして減速していく。
(――アポロさん……私はもう……ダメみたい)
(……!)
(でも……勘違いしないで)
「――いつか必ず、やり返してやるんだから……」
ジャラジャラが後続集団に飲み込まれる寸前、私は彼女の無念に満ちた声を聞いた。ジャラジャラの『
ジャラジャラの激情が流れ込んでくる。
――クラシックレースに憧れがあった。
でも、『皐月賞』、『日本ダービー』、『菊花賞』――1生に1度の大舞台。その全てに出られなくて……悔しかった。
そんな後悔はあったが、その後悔よりも鮮烈に光る夢が私にはあった。
クラシックを激走したウマ娘が見せてくれた光。
――“最強ステイヤーになる”こと。
まだその背中は遠いけれど、私もいつか――
……ジャラジャラも最強ステイヤーになりたいと考えていたのだ。ゴールドカップに勝って最強を証明したいと。そして何より、私に勝って証明したいと……。
「――――っ、ぅぐ、ぁ――、あああぁぁぁああああああああっっ!!!」
ジャラジャラの姿が雨の向こうに消えていく。夢をまたひとつ摘んだのだ。ここに集った15人にはそれぞれの夢がある。ひとりが勝つということは、それ以外の14人の夢を摘むということ。
誇れ。夢を摘んだことを。私の夢が輝いていくことを。
そして走れ。己の夢が最も鮮烈な光を放つことを証明するために。
『日本の雄ジャラジャラが失速っ!! そしてアポロレインボウに追いつこうとした14人も次々に失速し始めたっ!! ああっ!? ハニーハートビートが大きく口を開けて減速し――更にスモーキースリルまで!? いやっ、ジュニア級チャンピオンのチョコフォンデュ、サイレントジョーカー、オレンジサファイアまでもが限界を迎えたのかっ!? この6名は
『ま、まさか……
残り900メートル。ジャラジャラが脱落すると同時、ラビット役のハニーハートビートが急激にペースダウンする。彼女だけではない。スモーキースリル、チョコフォンデュ、サイレントジョーカー、オレンジサファイアらの足元が致命的にぐらついていた。ステイヤー達のスタミナが瓦解し、過酷な風雨に押し戻されて上体が持ち上がっていく。
(ぐっ――遂に来ちまったか……ちくしょう……)
(ああっ、そんな――ウソだ――)
(ば、バケモノめ……!)
(レイターさん、すいません……役目を果たせなかった……)
(し、死ぬ……)
『じ、ジャラジャラを初めとした6名が最後方に後退!! 彼女達のスタミナが完全に切れてしまったっ!! これがアポロレインボウの大逃げっ!! 無理を通して破滅的超ハイペースを刻み続けたアポロレインボウの作戦だぁっ!!』
この究極の消耗戦こそ私の望んだ戦いだ。苦悶とリスクに耐え忍んだことで生まれた特大のリターン――そして唯一の勝機。アスコットの不良馬場と私のハイペースがやっと噛み合ったのだ。レース最後半に差し掛かって、振り絞るものが何も無くなってからが私の本領発揮の舞台。
(かかって来いよ!! 私について来るなら、そのスタミナを全て削ぎ落としてやる!!)
6人のウマ娘が決定的な失速をしていく中、三強以外のウマ娘の顔色が怪しくなっていく。残されたゴール板までの距離が僅かとあって、多くのウマ娘は20馬身以上つけられた差を縮めようとペースアップしていた。そもそも不良馬場で脚が回らないというのに、大逃げのハイペースによって彼女達のスタミナは残り僅かとなっている。
ゴールデンネダウィ、ゾーンエスプレッソ、スイッチオン、ブストアルシーツォ、ジェイジェイザジェットバイシクル――そして4番人気のシーユーレイターまで。次々にスタミナ切れの兆候を明らかにし、顔面を蒼白にしながらじりじりと後退していく。
(んなアホな――……鍛え抜いた脚が、痙攣して動かへん……!?)
(あ、アポロレインボウ……有り得ん……そんな走りをしたら、普通はゴールまで持つはずがねェのに……)
(これ以上は脚もスタミナも……あぁ……アタシのゴールドカップが……)
(ぐッ……これ程までに、違うのかよ……ッ!!)
(アフリカのみんな――ごめんよ――……)
(……済まないトレーナー、ハートビート……エースとして踏ん張ることも出来なかった……)
『あ――っと!! シルバーコレクターのゴールデンネダウィが失速!! 復活をかけるゾーンエスプレッソ、中長距離巧者のスイッチオン、アルゼンチンの英雄ブストアルシーツォ、アフリカの巨人ジェイジェイザジェットバイシクルも立て続けに上体を持ち上げていくっ!! そして4番人気のシーユーレイターまでも容赦なく刈り取っていくアポロレインボウの高速逃げ!! これは芦毛の妖精なんかじゃない!! 地獄からやってきた蝙蝠の悪魔だっ!!』
彼女達には末脚を発動することすら叶わない絶望が叩きつけられていることだろう。このままのペースで走った時、私の4000メートル走破タイムは大体4分ジャストくらい。そんな私に20〜30馬身の差をつけられているということは、1馬身の走破タイムを0.2秒とすると――後続の4000メートル走破タイムは4分4秒から4分6秒程になる。
これは良馬場における従来のレコードタイムを優に超えている。道悪になったゴールドカップの平均走破タイムは4分30秒程で――単純計算によると、その差は約25秒にも及んでしまうのだ。
普通のウマ娘なら
――いない。私以外にいるはずがないんだ。レコードがレコードたる所以は、その走破タイムを超えた者が誰ひとりとして存在しないから。私みたいなスタミナ狂いの脳筋バカじゃないと無理に決まっている。
私の目指した景色は速度の果てに在るのではない。極限まで煮詰めたスタミナの果てに存在する。誰も追いつけないというのは結果であって、スタミナの暴力によって他の存在全てを
絶対的な速度の違いによって私の背中が遠ざかるのではない。絶対的なスタミナの違いによって、
サイレンススズカの大逃げとは似て非なる私の大逃げ。
これが、異次元の逃亡者には無い私だけの景色だ。
ふと、遥か過去に交わしたトレーナーの言葉が脳裏に響き渡る。
――俺の理想のステイヤーは4000メートルを走ることが出来るウマ娘なんだ
あぁ、そうだ。
この夢を叶えるには、まず――
『残されたウマ娘は長距離三強だけっ!! アポロレインボウ、エンゼリー、カイフタラだけが疾走しているっ!! そして最初にアポロレインボウと激突するのはエンゼリーだあっ!! アポロレインボウを捉えに猛追するエンゼリー、その差は15馬身!! オーストラリアの英雄が――緑の天使が悪魔を討伐するべく末脚を爆発させているぅっ!!』
――エンゼリー。まずはあなたを
残り800メートルを通過して、上り坂の向こうに
(やっと背中が見えた――覚悟しろアポロちゃんっ!! ゴールドカップはウチが獲るっ!!)
(やれるもんならやってみろ!! こっちだって負けられないんだ!!)
(
加速する私とエンゼリー。最終コーナーへ向かう2人の優駿。それぞれの身体からどす黒い瘴気が生まれ、お互いの四肢を呑み込み始める。途方もなく強くて、美しくて、激しい想い。やがて、エンゼリーの鋭い眼光が向けられると共に、眩い光が差し込んできた。
私の中にエンゼリーの激情が流れ込んでくる。見せられる。魅せられる。エンゼリーの心象風景。遥かなる大空へと続く階段を駆け上がり、昇り龍となっていくエンゼリー。連戦連勝――その勢いを表すかのように天を駆けていく彼女は、雲間から射し込んだ陽光に照らされてコートを翻した。自分を支えてくれる全ての存在のために、
そんな彼女へのカウンターとして、私は心の中に大海を展開した。青緑の大海原の上で、小舟に乗って釣りをする私。遥か上空には天使の梯子が架かっていた。心の中が侵食されている。エンゼリーの加速が勝っているのだ。
――まぁまぁ、のんびりやっていきましょうよ〜
欠伸混じりでのんびりとした声が聞こえたかと思うと、私の持っていた竿に強烈な反応があった。セイウンスカイは私の竿を掴むと、一緒に握り締めるグリップを颯爽と引き上げた。
小舟がぐらつき、糸が跳ねる。巨大な魚影が天を躍り、天使の梯子を掻き消した。そのまま大物を釣り上げた私達は、ハイタッチを交わして大物を天に掲げてみせる。
――上手いことやりなよ、アポロちゃん
セイウンスカイの声がして、顔を見合せた私達の笑顔が煌めく。
天使の梯子と大海原。私達の生んだ世界とエンゼリーの心象世界が衝突した。
――【E. E. Estimated...】
――【アングリング×スキーミング】
――チーフズグライダーの想いとセイウンスカイの想いによって、こころとからだを焼き尽くす。残る想いはダブルトリガーと自分だけ。
4段ロケットの2発目――セイウンスカイの光。その加速と燃焼に身を任せて、ボロボロになった身体を時速80キロの世界に誘う。心臓に激烈な負担がかかり、強烈な胸の痛みが脳髄を貫く。激痛で怯みそうになったが、あるがままの激情で全てを握り潰した。喉と肺は既に死んでいる。酸素を取り込めているのか分からない。穴でも空いたんじゃないだろうか。足元からぎしぎしと何かが軋むような音が飛び、四肢末端の感覚が完全に消失する。
こころを燃やして走るほど、狂っていく。極まった精神状態が織り成す『
それはエンゼリーも同じこと。彼女のスタミナも枯渇寸前のはずだ。雨風に打たれて泥を被り、精神的にもかなり参っているだろう。その証拠に、彼女の緑の勝負服は、泥水で真っ黒な勝負服へと変わっていた。
『エンゼリーがアポロレインボウとの差を詰める!! その差は10馬身!! しかしこれ以上は縮められそうもない!! もどかしい10馬身の差!! これがアポロレインボウの底力なのか!? 2人の距離は変わらない!! 2人の想いが拮抗している!! 鍔迫り合いを繰り広げたまま、2人は最終コーナーへと入っていきます!!』
普通ならば酸素不足になった脳が全身の活動を止めさせるのに、意地の張り合いから来る激情と夢への憧れが私達を限界以上に突き動かしている。この全力疾走が終わったら私は死ぬのだろうか。そう思ってしまうくらい、
でも、死んでもいい。このゴールドカップを勝てたなら、全て喪ってもいい。だけど、負けて死ぬのだけは御免だ。失せろエンゼリー、こちとらハナを譲る気は元から無いんだよ。
(ぐっ……追いつけ、ない――っ!?)
(諦めろエンゼリー、
(な……そんなことがっ!)
最終コーナーを曲がって、最終直線。残り500メートル。エンゼリーの脚が
(そんな……ことが――……)
長距離巧者たるエンゼリーでも耐えられぬハイペース地獄。運と気合と根性とスタミナでこじ開けた勝利の可能性は、三強がひとり――“緑の天使”エンゼリーすら凌駕したのだ。
(アポロ……レインボウ――……)
スタンドや屋外席から悲鳴のような大歓声が上がる。ぶはっ、と息を吐き出したエンゼリーは、みるみるうちに『
雨風に呑まれながら、エンゼリーが翼をもがれて堕ちていく。無念と悔しさと憧憬の混じった表情を最後に見て、彼女は雨の壁に消えた。
『ああっ、エンゼリーが後退っ!! アポロレインボウがエンゼリーを競り落としたあっ!! すかさずやってくるカイフタラ!! 同じく10馬身程の差を詰めていくぞ!! この消耗戦の行方は2人に託されたっ!! レースは残り500メートルしかないっ!!』
そして間を空けずに遥か後方から飛んでくる最後のウマ娘――カイフタラ。長距離三強のひとりにして、欧州最強ステイヤー。私に初めての完敗と挫折を味わせた因縁のウマ娘だ。
私とカイフタラは瞬きひとつしないまま、視線を激突させて火花を散らす。そのまま超前傾姿勢のラストスパートに入り、ゴールまで続く坂道を登っていく。風雨を切り裂いて、泥だらけのターフを蹴りつけて、ゴールドカップは遂に最終局面へと突入する。
『泥まみれの2人が激しく争っているっ!! 先頭で雨風を浴び続けたアポロレインボウと、最後方で泥を被り続けたカイフタラが!! 真っ黒に汚れた勝負服の2人が!! 死力を尽くして1着争いをしているっ!! 速度はカイフタラが僅かに勝っているのか、その差を9馬身、8馬身と縮めていくぞ!! 勝負の行方は完全に分からないっ!!』
不良馬場下の絶対的な速度勝負になった時、生来道悪を得意とするカイフタラには大きなアドバンテージがある。つまり――私とカイフタラの末脚には速度差があった。
まるで
カイフタラに対して速度による勝負を仕掛けても勝機は望めない。私のチャンスは
最終直線は500メートルで10メートルの
『残り400メートルを通過して、曇天を吹き飛ばすかのような声援が2人のウマ娘に降り注いでいます!! 降り止まない雨粒よりも遥かに多く!! 絶え間ない12万の歓声が少女2人の背中に浴びせられています!!』
残り400メートル。優雅とした社交場のロイヤルアスコットが、いつの間にか熱狂の渦中にある
「アポロちゃーーんっ!! がんばってぇ――っっ!!」
「カイフタラぁぁっっ!! 頑張れぇっ!! お前が世界最強のステイヤーなんだぁぁっっ!!」
「
「カイフタラちゃんっ、突っ走れぇぇっっ!!」
「どっちも負けるなぁっっ!!」
私達を包む声を聞いて、一瞬だけ
刹那、カイフタラの肉体が黒煙を帯びた。獰猛な野獣のようにギラついた笑みが零れ、悦びと期待に満ちた双眸が私の背中を貫く。果てしなく強い激情――想いのチカラが私のこころを侵食し始めた。
深い闇の中から一条の光が生まれ、黒い瘴気を通してカイフタラの心象風景が流れ込んでくる。見せられる。魅せられる。カイフタラが練り上げた究極の激情――その結晶たる『
唐突に、私の前に異空間が現れた。深い闇を切り裂く黄金のレース場。彼女の憧れたステイヤーの黄金郷が活気を取り戻していく。同時、その憧憬を独り占めするべく生まれたカイフタラの鎖が、私の脚に何十本と絡みついた。
模擬レースよりも密度の増した『
私の身体から飛び出して、その鎖を断つ光があった。それはダブルトリガーの光。カイフタラと同じように現実に打ちのめされたダブルトリガーもまた、長距離レースが隆盛を取り戻すことを強く願っていた。現実に絶望していた者同士が反応して、互いのトリック部分を打ち消し合ったのだ。
カイフタラの心象風景に対抗するべく、ダブルトリガーの力を借りて『
光の中から現れる雪景色。吹雪の向こう側から、月虹に照らされた異形の一本桜が姿を現した。根にはダブルトリガーの光が、幹にはセイウンスカイの光が、枝にはチーフズグライダー達の光が灯っており、私に常軌を逸した速度を与えてくれるのだ。私とカイフタラは互いが背負った心象風景を背に、激しい睨み合いを繰り広げる。
「アポロ――オレはたまらなくうれしいんだ。こんなにも多くの人が、オレ達ステイヤーを見てくれている! 精いっぱいの声援をくれる! オレが追い続けてきた夢――積み重ねてきた憧れはここに在ったんだよ!!」
「カイ、フタラぁ――っ!!」
「オレは負けねぇ――絶対に負けねぇぞ、アポロレインボウッ!! 強くなったお前が魅せてくれたこの景色!! 夢の輝き!! 憧れの果て!! 全部ぜんぶ、最強ステイヤーであるオレのものだ!!」
「違うっ!! このゴールドカップは――世界最強のステイヤーは、私のものだっ!!」
そして、2人の末脚が爆発する。
今までの人生で溜め込んできた、全ての感情を爆発させて――。
――【Turn of a Century】
――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】
――最終直線、残り400メートル。
最後の最後、ギリギリいっぱいの瀬戸際で。
正真正銘、ほんとうに最後の争いが幕を開けた。
『じ――冗談でしょう!? アポロレインボウとカイフタラが――
『あ……有り得ません。2人とも、走破タイムが4分0秒台どころか3分50秒台になりそうな大レコードペースで――更に加速……? 有り得ない……こんなレースは見たことがないですよ……』
6馬身あった差が、カイフタラのワープじみた『
しかし――ハナを奪われることだけは阻止できた。その事実の大きさたるや、形容しがたい。後は耐えるだけ。耐えて耐えて、削って削って、スタミナが空っぽになるのを待つだけだ。
全身からは雨に混じった泥のような脂汗が噴き出していて、もはや痛みとか苦しみとか、そういうくだらない領域をとうの昔に突破してしいた。少なくとも痛覚に関しては吹っ飛んでいる。まつ毛の隙間を縫って粘膜に直接打ち付けられる雨粒によって、溢れ出す涙は止まることを知らない。視界はいつの間にかモノクロに変わっており、やはりと言うべきか私のスタミナ切れも近いように感じられた。
それでも、負けられない戦いがここに在る。立ちはだかる最凶のライバルを前にして、譲れない夢が更に煌めきを帯びている。カイフタラのスタミナ切れは近い。そんな希望も相まって、行くところまで行ってやるという破滅的思考にどっぷりと浸かっていた。
アポロレインボウとカイフタラの名を呼ぶ歓声がピークを迎える。アスコットを覆う悲鳴と怒号。大差のリードをつけてきた私がカイフタラに追い上げられそうになる度、悲鳴のような大歓声が耳を
興奮がとぐろを巻き、熱気と狂気の
雪の結晶を撒き散らしながら、私の背中に宿ったボロボロの翼が背中を押す。カイフタラの脚を突き動かす黄金郷が、スタミナ切れ寸前の彼女の体躯を前に押し続ける。前に出ようとすれば更なる苦悶が、脚を止めようとすれば深い後悔の予感が身を焦がす。
早く終われ。まだ終わるな。スタミナが尽きてしまえ。お前の方こそ。そんなやり取りを視線で交わしながら、ほとんど横並びになった私達は最後の200メートルに突入する。
『残り200メートルを通過して、先頭はまだアポロレインボウ!! カイフタラはあと1馬身の所でもがいている!! 懸命の追走をするが追いつけない!! アポロレインボウは驚異的な勝負根性だけでカイフタラを押さえ込んでいる!!』
残り200メートル。極限の苦痛を味わい続けた精神が思考回路から壊れ始め、遂に隣にいるカイフタラとの距離が分からなくなった。見えているはずなのに分からない。頭の中は真っ白になっていて、もはや惰性だけで走っていると言っていい状態だった。
首から下の感覚が完全に消失している。走っているのか、それとも止まっているのか、生きているのか死んでいるかも分からない。でも、多分、生きている。だって、こんなにも辛くて、苦しくて、美しく満たされているのだから。
私の夢の根幹は、最高の舞台で最高のライバルと戦うこと。そして、最強ステイヤーになること。このゴールドカップは全てを叶えてくれるに相応しい舞台だ。
夢の根幹は既に叶えられた。あとは夢を実現するだけ。追い縋るカイフタラを振り切って、ゴール板を先頭で駆け抜けるのみだ。
ボロボロになったカイフタラに視線をやって、私は僅かに微笑んだ。
――もう、終わらせよう。
カイフタラも笑っていた。
――分かった。終わりにしよう。
最後の攻防は呆気ないものだった。
まるで、柔らかな日差しに包まれているかのような――そんな戦いだった。
横並びになった私達が、あるがままに走る。我武者羅に、ひたむきに。
そこに技巧はない。突き詰めた想いと憧れだけが私達を動かしていた。
押して、押されて。
離れて、近づいて。
負けることの怖さよりも、友達と走ることの楽しさを感じていた幼き頃に還ったかのようだった。
――なぁ、アポロ……
レースって……こんなに楽しかったんだな
幼い私とカイフタラが、幻想の草原を走っている。心象風景とはまた別の幻だ。
さくさくと音を立てる草原。私達の周りを舞う蝶々。どこかにある穏やかな風景の中、私とカイフタラは足を止めて向かい合った。
オレ……幸せだよ……
お前と出会えて本当に良かった……
私だって、あなたがいたからここまで来れました
……そうなのか?
ええ……胸を張って言えます
……そうか
うれしいよ
幼いカイフタラが地平線の彼方を指差す。あそこが夢の果てだ、と言う幼いカイフタラ。何のことやらさっぱりだったが、彼女は全てを納得しているようだった。
現実世界の私が前に出て、食らいつこうとしたカイフタラの脚元が大きく崩れ落ちる。揺れるアスコット。衝撃に打ちひしがれるカイフタラ。それさえ分かっていたかのように、幼い彼女は夢の果てに向かって私の背中を押した。
次は絶対に……このオレが勝ってやる
お前に背中を見せつけてやるんだからな……
幻は光の中に消え、冷たい雨が私を現実に引き戻す。
――無敵の要塞と化していたカイフタラが、激しく揺れていた。
――いや。
欧州最強ステイヤー・カイフタラの心肺機能が限界を迎える。どれほどの異常事態が起ころうとも、
しかし、現実はあまりにも強烈に襲いかかってきて――
ゴールまで、残り50メートル。
3950メートル地点のことだった。
『のっ、残り50メートルを通過して――地獄の競り合いに勝利したのはアポロレインボウッ!! カイフタラは失速っ!! そのまま後退していくっ!! 無敵の城塞崩れ去る!! 豪雨の中、舞い踊る芦毛の妖精はその脚を止めることなく!! ヨーロッパの王者を突き放していくっ!!』
世界が揺れた。そう感じるほどの轟々とした大歓声が響き渡って、長きに渡る戦いの大勢が決した。
私は振り返らなかった。上体を持ち上げ、ずるずると後退していくカイフタラに背中を見せ続けた。
彼女は必ず再び立ち塞がってくる。
そう確信して、彼女がそうしたように、堂々と走り続けた。
『後ろからは何も来ない!! アポロレインボウが先頭だっ!!』
極限の消耗戦を制した者にのみ与えられる、至上の瞬間――たった50メートルのウイニング・ラン。心の赴くままに、私は最後の末脚を爆発させる。
『既にアポロレインボウ以外のウマ娘は力尽きた!! しかし手は抜かないぞアポロレインボウッ!! 全身全霊を以て栄光のゴールへと向かう彼女の背中に――今――間違いなく翼が生えましたっ!!』
残り50メートル。私は視界の端に映る愛しい人達を見た。
……桃沢とみお。ルモス。ダブルトリガー。イェーツ。ファンのみんな。そして……とみおが控えめに掲げた『必勝』の応援幕。
勝利を確信して、12万人の観衆は更に声を張り上げている。
その熱狂の歓声を聞いていたダブルトリガーは静かに涙を流し、瞳を閉じた。
――なあ、アポロ。この声援が聞こえるか……
12万人の熱狂……私やルモスさんが心から望んだ世界……
そして……君だけの景色だ――
この勝利は、私だけで掴めたものじゃない。
ここに在る全ての存在が織り成した奇跡の産物。
私を導き、時には支え、打ちのめした者達がいたからこそ辿り着いた景色なんだ。
「みんな……ほんとうに……ほんとうに……ありがとう――」
そして――全身に纏っていた苦痛が、祝福へと変わる。
『これが芦毛の妖精の大逃げ!! 決して諦めなかった彼女が織り成す唯一無二の“最強”の形!! 並み居る強豪を押し退け、遂にアポロレインボウが悲願のゴールドカップ優勝を勝ち取ったあっ!!』
ゴール板を駆け抜けた瞬間、私の世界は歓喜に包まれた。
激しい音を立てて地面を叩き、霧のように飛沫を上げていた大雨はどこかへと去り――
――その代わりに。
アスコットの上空を覆う美しい虹が、眩い煌めきと共に私を祝福していた。
勝ちタイムは3分59秒9。
間違いなく最強ステイヤーだと胸を張れるような――常軌を逸した異次元の大レコードだった。