ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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133話:夢の中のカドラン賞②

 

 芝右回り4000メートル、天候は晴れ。場状態は重場、僅かに不良寄り。ゴールドカップ程の極悪場には程遠いが、それでも体力と気力を削るには十分すぎるほどの道悪だ。先んじたレースによって踏み荒らされている部分もある。

 自然形成の場という条件も加わり、単純な最短距離に向かうコース取りではスタミナ消費を抑えられない恐れがあった。走りやすい場所を見極めなければならないのだ。日本では養えないヨーロッパ特有の正しいコース取りへの嗅覚と、芝状態を読み切る経験が必要なマラソンレースとなるだろう。

 

『内枠からスッと抜け出したのはアポロレインボウ、今日も元気な大逃げで場内を湧かせます!』

 

 ロケットスタートを決めた私は、体勢を崩しそうになりながら先頭へと躍り出た。やはり、この1年で相当消耗している。上手くいっていたモノも幾らかぎこちない気がする。

 それでも、カドラン賞と有を走るには充分。もしヤバくなっても、根性で何とか持たせるしかないんだ。

 

 スタートダッシュを決めた私を止める者はいない。皆後ろの方で様子見している。止めようと食ってかかれば自滅するしか道はない――しかもこのレースにはラビット役のウマ娘が存在しない――となれば、誰もが尻込みするのは仕方の無いこと。

 やっと分かってくれたみたいだ。私が完璧に大逃げを決めてしまった時、抗いようのない敗北が待っていることを。理不尽を一方的に押し付けて逃げ切る。それが大逃げ。極端な脚質がハマった時の爆発力は侮れないということだ。

 

『2番人気のカイフタラは後方に控える動き。3番人気のエンゼリーは中団のトップに位置取ってアポロレインボウを追走する形です。おっと、他のウマ娘もエンゼリーやカイフタラに倣って、アポロレインボウをほとんど自由に逃げさせています! これは大丈夫なのでしょうか!?』

『ゴールドカップは不良場の中代わる代わる執拗なマークをしていましたが……結果は大レコードの逃げ切り勝ちです。その嫌なイメージがどうしても拭い切れないのでしょう。恐らくですが、最もアポロレインボウに迫ったカイフタラの仕掛けに合わせて、一斉にロングスパートをかけてきますよ』

 

 後方で位置取り争いを繰り広げるウマ娘達。しかしそれらの動きは私に対するものではない。中団のライバルに先駆けて、より有利な位置からラストスパートをかけるためである。

 私の対策が少しだけ進んだ、と言うべきなのだろうか。それとも、まだ対策の構築途中なのか。いずれにせよ、後ろで末脚を溜めるだけでは私を負かすのに物足りない作戦だろう。もっと極端な――カイフタラのような爆発力がなければ私を捕えることなど出来やしない。その自負があった。

 

 もちろん不安はある。先んじて挙げた前提は、競走寿命のリミットを視野に入れている――つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()の話。全員がこの一戦に全てを叩き込んだ時、どちらの爆発力が勝るのか――その行方は私にも分からない。

 不確定な未来だからこそ、積極的に。大逃げという作戦を押し付けて対策させる側に回る。後悔のないよう思考を高速回転させて立ち回るのだ。

 

 現在の重場はカイフタラの最も得意とするターフ状態。私のスターティングゲートの外側から飛び出したカイフタラは、好機を窺うかのようにゆっくりと後続に控えている。

 以前のように不意打ち的な前目の策を取るのではなく、真っ向から挑んでくる追込。2度目の最強決定戦に相応しい勝負をするため、持ちうる全ての力を使い果たしてくるだろう。

 

 あの夜誓った言葉が蘇る。栄光と勝利のために命を燃やす。勝利以外は不要。最強という極致を掴み取るためには、もう終わってもいいと身を投げ出すほどの覚悟が必要なのだ。

 カイフタラやその他のウマ娘の覚悟に触れた瞬間、気のせいか周囲の空気が冷え込んでくる。北風が吹き込んだのだろうか。それとも冷や汗による冷却効果か。

 

 目に見えない()()が高まっている気がした。ウマ娘達の激情を消費して、現実に影響が及び始めている。言葉にできない予感がそう囁いていた。

 そして、1度目のフォルス・ストレートを迎えようとする私の脳裏に――何気ない記憶が蘇った。

 最強を決めるレースの最中に思い浮かべるべきではない――そんな風にも思えてしまうくらい、いつかの日常の記憶だった。

 

 

 

「ま、待ってください! 私と契約してくれませんか!?」

 

「え、君、トレーナーいないの?」

 

「はい、いません! 今のところ全員保留させていただいてます!」

 

「……俺と、契約してくれるの?」

 

「そのつもりで言ったんですけど、ダメですか?」

 

「……ほんとにいいの?」

 

「いいんです! お願いします! 私を最強のステイヤーにしてください!!」

 

「もちろん、もちろんだとも!! 是非とも俺に協力させてくれ!!」

 

 

 

 ――何気ない記憶は、私の覚悟を引き立てた。

 あの日誓った()()()()()()。「ちょっといい感じのトレーナーがいるから大きく出ておこう」とでも言うような、行き当たりばったりで計画性のない私の発言。

 しかして、その言葉にきらきらと光る眼差しで応えてくれた桃沢とみお。個人的な気持ちはあったにせよ、あれからずっと、私は彼の瞳に魅せられていた。

 

 この人は本当に本気でぶつかってきてくれている。本気で4000メートル級G1を勝ちに行くつもりだ。その事実をひしひしと噛み締めた時、間違いなく嬉しかった。もちろん、このトレーナーやべぇなという恐れもありつつ、私は戸惑いと期待の中でトレーニングを続けるモチベーションを保つことができた。

 私が夢を抱けたのはテレビの中にいたウマ娘のおかげだ。でも、夢を叶えるために必要な精神力はほとんど全て彼がくれた。最も近くにいた保護者(おとな)が本気の本気でぶつかってきてくれたから、私も本気になれたんだ。

 

 本気になってくれないとか、ウマ娘の夢を縮小させてしまうようなトレーナーもいる中で――彼のようなトレーナーに出会えたことは本当に嬉しかった。

 ありったけの感謝と激情を、この疾走に込めて伝えたい。「最強ステイヤーになりたいなら4000メートルの全区間を全力疾走しろ」と真顔で言うあの人に、その言葉を超えるようなレースをぶつけてやりたい。他のウマ娘のレースじゃ二度と満足できなくなるような身体にしてやりたい。私だけを見ろ。最強ステイヤーになっていく私だけを。そう思いながら、私は大逃げのギアを1段階上昇させた。

 

『おおっと!? フォルス・ストレートの中間辺りにいたアポロレインボウが早くもスパートの姿勢になった! 不良と重場の混じり合った芝の状態を読み切り、ゴールドカップの再現をするつもりなのでしょうか!?』

 

 ヨーロッパのターフは、芝の状態を読み切らないと()()が違う――らしい。

 何故だろうか。超越的な何かに導かれて、進むべき道に霜が下りているように見えた。

 

 さくさくと音を立てて、私は白く彩られた道を走る。

 ――()()()()()。後続の速度と全然違う。少し外側に膨らんでいるけど、こちらの方が随分と早く走っている。

 

 これも『未知の領域(ゾーン)』の力なのか?

 極限の集中力が切り開いた雪の道……。

 いや、今はそんなことなんてどうでもいい。足が軽い。翼が生えているかのよう。身体の芯に蓄積した疲れもない。吹き飛んでいるのか、どこかに行ってしまったようだ。

 

 ()()()()()()()()。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 激情によって『未知の領域(ゾーン)』の力が増幅し、その超絶的な覚悟がウマ娘に忍び寄る破滅を呑み込んでしまったのだ。脳を焼き付くさんばかりの感情の波が、遂に現実の肉体に影響を及ぼした。私を起点に広がった激情の領域は、ウマ娘の身体を蝕んでいた破滅さえ滅ぼし、皆の背中に更なる翼を与えてくれている。

 

 つまり――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 激情により練り上げられ、覚悟によって進化した『未知の領域(ゾーン)』は――ライバルの全力を引き出し、()()()()()()()()()()()()()()()()

 最強の走りをするライバルの更にその上を行く、最強ステイヤーとなるために。

 

 その先は地獄。

 一世一代の全身全霊同士がぶつかり合う、空前絶後の削り合い。

 即ち、ステイヤーにとっての天国。

 並み居る敵の心肺機能の破壊を目的とした最凶のレース。

 

 パリロンシャンレース場で世界一過酷な消耗戦が始まろうとしていた。

 

『スタートから800メートルを通過し――て――っ!!? 何故かウマ娘達が暴走を始めました!! 後ろで大人しくしていたはずのウマ娘達が、アポロレインボウに向かって一直線に突き進んでいきます!!』

『はぁ!? ペース配分という概念はないんですか!?』

 

 全てを察したウマ娘達の動きは素早かった。後ろで控えていたはずのウマ娘達が、ギアを上げてラストスパートをかけた私に容赦なく食らいついてくる。

 1番最初、エンゼリーが来た。私とは違うトリッキーな逃げの型だが、彼女にとって大逃げウマ娘は目の上のたんこぶに違いない。真っ先に潰しに来たわけだ。

 

(アポロちゃんっ! 何かよく分かんないけど――ぶっ潰すよ!!)

(望むところだ! やれるもんならやってみろ!!)

 

 ――大きな差をつけていたはずのエンゼリーは、あっという間に私の斜め後ろに取り付いた。私の通った経済コースをそのまま走り、スリップストリームに入った上で末脚を爆発させているのだ。

 これが一世一代の疾走が生み出す爆発力。私の領域(こころ)が導いた、最強のために超えなければいけない大きな壁。最高のライバル達に苦しみながら、それでも尚敵を組み伏せよ――私の心はそう告げていた。

 

 そして、大逃げとトリッキーな逃げがぶつかり合う時――私は再び思い出す。

 忘れられるはずのないレースと、かけがえのない芦毛のライバルのことを。

 

 

 

「大物。大物ねぇ……。セイちゃんも、みんながビックリするような大物を釣り上げてみたいかも! キャハッ☆」

 

「……セイちゃんに負けないようなでっかい大物、私も釣り上げてみせるから」

 

「アポロちゃんもやるねぇ」

 

「……そっちこそ。お互いに宣戦布告だね」

 

「あんまりそういう性格じゃないけど、熱くなってきたかも」

 

「私も今、めちゃくちゃ燃えてるよ」

 

 

 

「クラシックは――皐月賞は、私のモノだぁぁぁああああああっっっ!!!」

 

 

『1着はたった9センチ差でセイウンスカイ!! 2着には僅かに及ばずアポロレインボウ!!』

 

「……おめでと、セイちゃん」

 

「アポロちゃん、ありがとう……」

 

 

 

 ――忘れるものか。

 皐月賞。セイウンスカイに全てを読み切られて敗北したあのレース。9センチ差に泣いたあの日。

 煮え滾るような悔しさと情けなさ。一生に一度のクラシックロードで犯した数々のミスは、今思い出しても身体中が熱くなる。

 

 記憶の中のセイウンスカイとエンゼリーの姿が、少しだけ重なった。しかし、全く違うウマ娘だ。似ても似つかぬレースぶり。微かに共通しているのは、逃げが集団支配型で時計を狂わせるスタイルという点だけ。

 だけど、今の私が燃え滾るにはそのキッカケさえあれば十分だった。怒りに身を任せ、『未知の領域(ゾーン)』がなければ己の脚を破壊し尽くしてしまうような強度のステップを踏んで、エンゼリーとのデッドヒートを演じる。

 

 1周目のスタンド前。互いにウマ娘の限界速度を超えていた。ガラスの足と呼ばれるウマ娘の脚を粉々に砕くような出力で、縦横無尽にターフを一閃していく。

 

(エンゼリー……そこをどけ!!)

(あははっ! 最高だよアポロちゃん!! ずーっと()()()()()がしたかったんだよね!! 自分の身体なんて気にかけず、全部ぶつけ合う戦いをさ!!)

 

 私の呼吸は半分止まっていた。『未知の領域(ゾーン)』で守られた世界の中にあっても、生命の限界或いは「減速」という単語が過ぎるほどだった。

 エンゼリーの顔は青白い。多分私もだ。いや、私や彼女だけじゃない。全員、死に物狂いになっている。限界が引き上げられたその分だけ、私達ステイヤーは()()()()()()()()()()()()()

 

 私達はとんでもないバカだ。「脚が守られてるんなら、その分()()()()無理できちゃうなぁ!?」「ちょっとくらい呼吸が止まっても……バレないか!」そんなノリで走っているに違いない。やっぱりステイヤーは最高だ。時代遅れのバカしかいない。脳味噌全部がスタミナ四文字に満たされたウマ娘じゃなきゃ、時代錯誤の長距離復権なんて考えやしないのだから。

 今この瞬間、私達は天国にいる。もっと走ろう。もっと戦おう。この世界にいる限り、私達は何度でも夢をかけられる。

 

(おい! アタシらも混ぜろや!!)

(2人でイチャついてんじゃねーぞ!)

 

『長いホームストレートの中、後ろから距離を詰めてきたジェットバイシクル達が先頭を走るアポロレインボウとエンゼリーに襲いかかっていく!! これは一体どうしたことだ!? 全員がセオリーを無視しているっ!!』

 

 1400メートルを通過して、次々と降りかかるプレッシャーの数々。リミッターをぶち壊したとはいえ、苦しいものは苦しい。むしろ、普通以上の疾走と威圧感によって感じる苦痛も有り得ないほど増大していた。

 カイフタラだけは最後方にいる。彼女に倣って控えていたはずのウマ娘達だが、我慢できなくなって彼女を置いてきぼりにしたわけだ。リミッターを破壊した彼女はどんな追込を見せてくるのだろう。不気味だが、楽しみで仕方ない。

 

「はぁっ、はっ、ハッ、くっ、ハハッ――」

 

 ()()()()()()()を磨り潰したら、私は間違いなく最強ステイヤーになれる。長い競走生命への心配を捨て去り、不滅の担保がある中で無敵となったウマ娘達を捩じ伏せたなら――私は絶対無敵の王者になれるはずなんだ。

 高速で走る中、ほとんど呼吸を止めながら追手を免れるのは堪らなく気持ち良い。この苦しみだけが夢の実現を引き寄せてくれる気がした。

 

 真っ黒に変色した勝負服を揺らして、泥を巻き込んだ靴がターフを蹴りつける。時速70キロ、80キロ――90キロに迫ろうかという怪物達の高速レースが展開され、世界は狂乱に声を上げていた。

 生物の限界に迫る速度で走っているせいか、腹部の奥底が不気味な痙攣を起こしていたが、『未知の領域(ゾーン)』の保護機能によって()()()()()()()()()()()()()()()。追走してくるウマ娘も、姿勢を崩しそうになったかと思えば異常な挙動で姿勢を持ち直していた。

 

 ――私の激情(こころ)が叫んでいる。ゴールドカップの私を超えるには私自身とライバル達の覚醒が必要で、その上を行く私が不可欠だと。ライバル達よ、()()()()()()()()()()()()()()と。

 そんな傲慢な感情がライバル達の最強を引き出していた。

 

 無理をして身体が壊れそうになれば、『未知の領域(ゾーン)』によって無茶苦茶な保護機能が働く。そして無茶を通しても壊れないと本能的に知ったウマ娘達は、更なる無理を通すために最高速度を引き上げていく。

 

 狂気のループ。この場限りの無限地獄。

 誰もが夢見て、誰もが拒絶するような恐怖のレースだ。

 今までのレースを過去の産物にするような狂走は、パリロンシャンに集った観客に異常な興奮を伝播させていく。

 

 そして、興奮が臨界点に達しようかというその時――私はとあるウマ娘の顔を思い浮かべた。

 現実に打ちのめされ、擦り切れてしまった、かつての欧州最強ステイヤーの顔を。

 

 

 

「アポロ。お前には夢があるか? 私にはどうしても譲れない夢があった」

 

「……『あった』、ってどういうことですか?」

 

「かつて隆盛を極めた長距離というジャンルの復権――私は3年前までずっとそれを夢として掲げていた。しかし、それは無駄だったんだ」

 

「私が英国長距離三冠を成し遂げた時、誰も振り向いてはくれなかった。みんなの目が向けられていたのは、キングジョージや凱旋門、チャンピオンステークス、クイーンエリザベス2世ステークス」

 

「みんな長距離のレースなんて知らなかった。長距離三冠の存在自体忘れられていた。私が勝ったグッドウッドやドンカスター、長距離三冠など、世間の連中にはこれっぽっちも響いちゃいなかったんだ」

 

 

 

「ダブルトリガぁぁぁ!! 日本に来てくれてありがとぉぉぉ!!」

 

「かっこよかったぞぉぉぉ!!」

 

「6年間ありがとぉぉぉ!! お前の走りは忘れないぞぉぉ!!」

 

 

「…………」

 

 

 

 悲しげに揺れるグリーン・アイ。ダブルトリガーの夢が脳裏を過ぎった。彼女の夢は、長距離というジャンルの復権。かつての輝きを取り戻すという夢。

 ……彼女は語らなかったが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という願いも抱いていたはずだ。

 

 現役中、ヨーロッパで夢を叶えることはできなかった。しかし、彼女は最後の最後に救われた。彼女のようなステイヤーを目標に走っていた私と、彼女自身の矜恃と走りによって。

 彼女の夢が、巡り巡って返ってきたのだろう。そして、彼女が抱いた夢は私に受け継がれ――今、この瞬間を創り出している。

 

 レースはこんなに面白いんだぞって、自由なんだぞって……この気持ちをみんなに伝えて回りたい。苦しくて、もどかしくて、全然上手くいかなくて、時々上手くいった時は堪らなく嬉しくて。

 私は、私を見る全ての人の、夢の架け橋になりたいんだ。この想いを知ってもらうために走っていると言い換えても良い。

 

 どこか遠くで、誇らしげなグリーン・アイが潤んでいた。頑張れ、負けるなと言っている。

 彼女の隣で、もう1人の長距離三冠ウマ娘が私のことを見ていた。長距離復権のために身を砕いてきたかつての長距離王者。2人の優駿が祝福と羨望の眼差しでターフを見下ろしていた。

 

 この『未知の領域(ゾーン)』は、ヨーロッパに夢を見ていた私からの恩返しでもある。私の全力に応じてくれてありがとう、全力で戦える土壌を作ってくれてありがとう。その感謝の念が激情の一端を担っていた。

 そしてこの『未知の領域(ゾーン)』は、2人の隣で呆然と佇むイェーツちゃんのような――次世代のウマ娘へと向けられるはなむけでもある。私に夢を見て、憧れを抱いて。かつての私のように、身を焦がすような輝きに魅せられてほしいのだ。

 

『アポロレインボウが10人以上のウマ娘を引き連れる中――急激に気温が下がってきました! 頭上は分厚い雲に覆われており、早くも雷鳴が轟いてきます! まるでレースの激しさに呼応するかのようです!』

 

 狂気が爆発し、レースの密度が高まる度に、吹き荒ぶ北風は強さを増していく。心象風景の中で暴れ狂う吹雪の力が、いよいよ現実にも及び始めたのだろうか。

 狂喜と酸素不足で朦朧とする意識の中、いよいよ思考回路が限界を迎えたのか――視界の中央に咲き誇る異形の一本桜を幻視した。ぎょっとして目を剥くと、他のウマ娘も全て同じような反応をしていた。どうやら、ターフで戦う者だけに見える幻覚らしい。

 

(なんかよく分かんないけど――テンション上がってきたァ!)

(ハハハッ! サイコーの気分!!)

(もっともっと速く! 全員まとめてぶっ潰す!!)

 

 やはりパリロンシャンは地獄だった。ターフの上には、この異常事態を前にして何故かペースを上げようとするウマ娘しかいない。

 そんなウマ娘だからここに立っていると言うべきか。犬歯を剥き出しにして笑った私は、ゴールドカップを優に超えるオーバーペースで蹄鉄を踏み砕いた。

 

 どれだけの力を振り絞っても終わりは来ない。終わりのない無限の苦痛。この修羅の道を望んだのは私自身だ。しかし、息を上手く吸い込めない状態で、ラストスパート時の速度を出し続けるのは余りにも苦しすぎる。

 『未知の領域(ゾーン)』によって保護され、駆動し続ける肉体よりも先に――極度の苦痛によって精神が先に限界を迎えてしまいそう。

 

 残り2000メートル。ようやく迎えた折り返し地点。口端から泡のような唾液を覗かせながら、限界ギリギリを踏ん張りながら後続の猛追を退け続ける。

 エンゼリーの執拗なプレッシャーと、その他のウマ娘から襲いかかる突き上げ。カイフタラの側に着いて彼女を妨害するウマ娘もいたが、私に向かってくるウマ娘は10人ほどもいて――全員を身ひとつで抑え込むのは至難の業だ。

 

 正直、気絶して最強を手放してしまいそうになる。こんなに近くに迫った史上最強の称号。最強の瞬間を切り取って、そのまま繋ぎ合わせて襲いかかってくる優駿達。ふたつの要素が絡み合い、思考回路が焼き切れそうになっていた。

 視界と思考がぐるぐる回って、バラバラに霧散していく。もう限界だ、想いの力を以てしても耐え切れない――そうして膝をつきそうになった瞬間。

 

(私は――私は――!)

 

 私の脳は、ライバル達と誓った言葉の数々を思い出していた。

 

 

 

「……アポロさんは、どうしてそんなに頑張れるの? 辛くないの? 投げ出したりしたくならないの? 結果が出ないかもしれないのに」

 

「……一流のウマ娘ってのは、最後まで絶対に諦めなかった者のことを言う――らしいよ」

 

「頑張る理由は人それぞれ。結果は出ないかもしれないけど、だったら結果が出るまで歯を食いしばって更に努力するだけ。大事なのは諦めないかどうか……だと思う」

 

 

 

「う、お――」

 

 あの日の誓いと責任を忘れるな。他人には偉そうに講釈垂れておいて、自分はへばって「出来ませんでした」「勝てませんでした」とでも言うつもりなのか?

 そんな大それたことはできない。日本で走るライバルのためにも。誰よりも一流に拘る親友のためにも。

 

 

 

「アポロちゃん。ちょっといいですか」

 

「グラスちゃん、何の用?」

 

「アポロちゃん、私をマークしてください。最初から最後まで貴女と全力でぶつかりたいのです」

 

「……は、はぁ!?」

 

 

 

「グラスちゃん、本気でぶつかってくれてありがとう」

 

「……いえ。負けはしましたが、とても楽しかったですから」

 

 

 

 最初から最後まで全力でぶつかりたい。レースは努力した時間と才能の殴り合いだ。鍔迫り合いを制して勝利の雄叫びを上げることの、なんと気持ち良いことか。

 あの快感は何者にも変え難い。何度味わっても色褪せない。この最高の舞台で勝鬨を上げられたなら、どれだけの絶頂が待っていることだろう。

 

 

 

「あ、アポロちゃん! 同着! 同着だよっ!」

 

「やった、やったぁ……! ダービーっ!! ダービーウマ娘になれたあっ!! やったよお母ちゃんっ!!」

 

「う――うわあぁぁんっ! スペぢゃんっ! わだじ、やった――やったんだ――ダービーウマ娘になったんだぁっ!」

 

「うん――うんっ!! 私達がダービーウマ娘だよっ!!」

 

 

 

 あの歓喜をもう一度。いや、あれ以上の歓喜を。

 蘇った闘争心を奮い立たせ、追走してくるエンゼリー達を振り切る。

 

 全員ついてこい。限界を超えろ。そして、私の糧となれ。

 

 最強までの長くもどかしい道を乗り越え――

 異形の一本桜は、いよいよ満開を迎えていく。

 

 ――ウマ娘は幾多の“想い”を背負って走る生き物だ。想いが強ければ強いほど、不可能さえ可能にする奇跡を起こす。

 その奇跡の始まりは、()()()()()()()から巻き起こった。

 

『第3コーナーに向かうウマ娘達! 変わらず先頭はアポロレインボウで――、……雪……? ゆ、雪です! パリロンシャンに雪が降り始めました!』

 

 残り1000メートル。私の夢を叶えるため、季節外れの猛吹雪がレース場に現れた。世界に奇跡が生まれ落ちたように感じた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 最凶最悪の消耗戦は、メンバーの質の高さだけではない。レース条件の悪さも不可欠なんだ――天がそう告げているように思えた。

 

 確かにそうだ。泥だらけ、雪まみれ、ぐっちゃぐちゃの消耗戦がいちばんいい。スタミナ王者決定戦に温い条件は要らない。過酷を極めた道の先にステイヤーの極致があるのだ。

 突風がピンポイントな向かい風に変わり、顔面に綿のような雪が叩き付けられた。雨を被る時とは何もかも違う。眼球の粘膜に叩きつけられた雪がじんわりと溶けていく。しかしその間、更に降ってきた雪がまた別の場所を塞ぐ。見える視界はほんの僅か。

 

 狂気に堕ちていなければレース続行なんて不可能な条件。それでも、カドラン賞に参加したウマ娘は()()()()()()を覚悟していたはず。私の大逃げに挑む以上、それ相応の地獄に飛び込むことを望んでいたはずだ。

 つまるところ、全員悦んでいた。この場にいたステイヤーは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 突然の雪模様に戸惑っていた観客は、遂に言葉を失う。

 これは現実なのか、と。

 

「――まるで神の領域だ」

 

 少しだけ静かになったレース場で、誰かが呟いた。

 きっと、『神の領域』は独りでは創れない。この場にいる15人で練り上げたものだ。

 

 最強を渇望する私の願いに応えた14人が、私の想いを加速させ、そして()()()()()()()()()()()()――パリロンシャンに地獄のレースを形作った。

 それぞれの苦しみ、願い、渇望、身を焦がすほどの激情が生み出した奇跡の領域。これ以上ない奇跡のレース。現実を消費して生み出された奇跡の産物。そんなカドラン賞を前にして、生粋のステイヤーである私達が振り絞らないわけがない。

 

 残り800メートル。長いコーナーを曲がってフォルス・ストレートに向かう途中。肉体的にはともかく、精神的に疲弊していたはずのウマ娘達が復活し始めた。

 保護された肉体を躍動させて、ありのまま、あるがまま、裸のままで走っていく。テクニックも作戦も関係ない。そこにあるのは精神力と体力だけの世界。

 

 息を吐き出す代わりに、血を吐き出しているかのような、全てを絞り尽くすような疾走で、私達はフォルス・ストレートに向いた。

 最終直線に向く前に卒倒しそうなくらい、心臓が跳ね回っていた。跳ね回ると言うよりむしろ、暴れ回って、ねじれているような感覚だ。肋骨の裏側辺りが痛い。吹き荒ぶ吹雪のせいで何も聞こえない。凍えるような寒さは五感の苦痛を増幅させ、私達を更に追い込んでいく。

 

 それでも――からだは悦んでいた。こころも喜んでいた。カイフタラも、エンゼリーも、みんな笑っていた。

 18人全員が望んでいた。

 己の未来さえ消費して削り合うかのような戦いを。

 

 私はステイヤーが大好きだ。長距離が大好きだ。

 私は、私は――()()()()()()()()()()()()()()()()()。その上で激闘を制して()()()()()()()になりたくてずっと走ってきた。

 

 画面越しに伝わってる会場の熱気、レースの楽しさと熱さ、子供心に私はその全てを欲しがっていた。私の手で作り出したいと思ったのだ。

 あの、キラキラとした、まるで雪の結晶のような夢の欠片。人を魅了する雪の結晶を、私自身が創り出してみたかった。誰もが首ったけになり、心躍るようなウマ娘になって。

 

『――フォルス・ストレートから第4コーナーを曲がって、遂に最後の直線!! 地獄の様相を呈したカドラン賞も残り600メートルを切っている!!』

 

 最終コーナー、残り600メートル。

 

『先頭はアポロレインボウ!! エンゼリーとカイフタラが加速して前を捉える勢い!! 他のウマ娘も更に加速して横いっぱいに広がった!!』

 

 ――そして。

 私に追い縋る10人のウマ娘が――

 

『――え?』

 

 ()()()()()()()()()()()

 

『じ、ジェットバイシクルが減速――いやっ、シーユーレイター、スノーラブ、サイレントジョーカー、ゴールデンネダウィ――……大半のウマ娘が姿勢を持ち上げ、大減速しているっ!? そのまま力尽きるように雪景色の中に倒れていくぞ!! 残るはアポロレインボウ、エンゼリー、カイフタラの三強だけとなった!!』

 

 いくら『領域』によって未来の競走寿命が保護されてたとしても――多くのウマ娘は、このカドラン賞という爆発的な刹那には耐え切れなかった。

 一世一代の大駆けにも限界は存在する。ウマ娘が生物である以上、どうしても超えられない壁があるのだ。

 

 そして、その壁を超えるウマ娘が3人いた。

 アポロレインボウ、エンゼリー、カイフタラ――因縁の3人だった。

 

『最終直線は三強対決!! やはり最後はこの3人だっ!!』

 

(オレは負けねぇぞ、アポロレインボウ!!)

(ウチが勝つ!! 勝つ勝つ勝つ、勝ぁつっ!!)

(私の先頭は揺るがない!! 倒れ伏せろ!!)

 

「――最強ステイヤーは、私のものだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

 

 最後の追い比べ。真っ白な世界で走る私のそばに、エルコンドルパサーとグリーンティターンのこころが寄り添っている。

 

「アポロちゃんっ、頑張れぇぇぇぇぇっ!!」

「もう少しっ!! もう少しでゴールだよっ!!」

 

 それだけではない。

 

 セイウンスカイの澄んだ瞳が見えた。

 

 ――【アングリング×スキーミング】

 

『アポロレインボウ、更に加速っ!!?』

 

 スペシャルウィークの横顔が近くにある。

 グラスワンダーの痺れるような覇気が感じられる。

 キングヘイローの泥臭い姿が見える。

 ジャラジャラの想いが胸にある。

 

 ――【無名】

 

 サイレンススズカの儚げな背中が脳裏を過ぎる。

 マルゼンスキーの優しげな瞳が思い出される。

 メジロパーマーの、ダイタクヘリオスの笑顔が弾ける。

 ルモス、ダブルトリガーの抱いた夢が背中を押している。

 応援幕に書かれた数々の想いが見守っている。

 

 ――【WE NEVER GIVE UP!!】

 

 チーフズグライダー、ブラッシングチャームと誓った言葉が浮かんでくる。

 イェーツの憧れが背中を押してくれる。

 

 そして最後に――桃沢とみおとの日常がまぶたの裏に映った。

 

 

 

「アポロは雪が似合うな」

 

「そう?」

 

「あぁ。桃色の髪に雪が良く映えるって言うか、美味しそうって言うか」

 

「うふ、何それ」

 

 

 

「アポロ。桜と言うのはね、寒くならないと芽吹くのが遅くなるんだよ」

 

「生命ってのは不思議なんだよ。桜が綺麗に咲き誇るためには、うんと寒い期間があって……エネルギーを溜め込まなきゃダメなんだ」

 

 

 

「――永遠、かぁ」

 

「……何か言った?」

 

「や、この世界に永遠なんてあるのかなって」

 

「おぉ、急に哲学的なことを……」

 

「無限とか永遠とか言うけど、やっぱりそんなものって存在しないのかな。私達が作った雪だるまだって、きっとすぐに溶けちゃうし」

 

「……確かに、無限とか永遠なんて存在しないかもしれないなぁ。でもさ、そうじゃなかったとしても、きっと無駄じゃないよ」

 

「いつか無くなってしまうとしても、誰かの中に生き続けることができれば……多分それは、永遠に不滅と言えるんじゃないかな」

 

「誰かの憧れになったり、影響を与えたり。そうやって永遠になった人がいるんだ。永遠は確実に存在するし、何なら俺達だって永遠になれるさ」

 

 

 

 ――これは、最強と永遠を目指す疾走だ。

 ありったけの想いと力を乗せた、私の魂の叫びだ。

 

 ――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】

 

 残り400メートル。最終直線に入って、三強がほとんど横一線に並び立った。

 エンゼリーもカイフタラも、最後の力と『領域』を振り絞って追走してくる。黄金郷となったカイフタラの領域と、空に天使の梯子を架けるエンゼリーの領域。それに相対するは、雪景色の中で根を張る異形の一本桜。

 

 粘り合い、ぶつかり合い、言葉や視線を交わす余裕もなく、私達は命を削って永遠(最強)の輝きを求めた。

 

『残り400メートルを通過して、三強全員が更に加速!! アポロレインボウが僅かに抜け出しているが、他のふたりも全く譲らない!! 抜いて、抜かして、一歩も引けを取らないぞ!!』

 

 真っ白な世界。そこに言葉はない。

 存在するのは、究極まで研ぎ澄ませた肉体と精神のぶつかり合いだけ。

 

 交わす言葉があるとしたなら――

 ――勝ちたい

 ただ、それだけだ。

 

『3人のウマ娘が最強を目指して懸命に腕を振っている!! 僅差の競り合いの中リードを取ったのはアポロレインボウ!! ここに来てエンゼリーが少し苦しいか!? カイフタラに抑え込まれて3番手まで後退した!!』

 

 極限の苦しみと快楽の中、視界に映る全てのものが光り輝いていた。吹き荒ぶ雪のひとつひとつが桜の花びらとなって、パリロンシャンに舞っている。

 エンゼリーを捩じ伏せて前に出たカイフタラを押さえつけ、私は最強ステイヤーへ至らんと思いっ切り足を伸ばす。既に限界を超え、何もかも通り超えて無心の域へと至っていた。

 

 そんな中、遂にエンゼリーが脱落する。ズルズルと後退していく彼女は、一瞬で見えなくなった。

 

『残り200メートル! 最後は因縁の2人の争いだ!!』

 

(あの人と誓ったんだ、私が最強になるって! 永遠になるって!! 絶対に負けてたまるか!!)

 

 最後の力比べ。

 私達の激情がターフを揺らす。

 心と夢が揺れている。

 

 レースを目の当たりにする観客達も、夢をかけて戦うウマ娘の姿を見て熱狂していた。

 高く舞い上がる桜吹雪。

 残り200メートル。

 迫るカイフタラ。逃げる私。

 異常な世界を吹き飛ばすような歓声の中、私は最も早くゴール板の姿を見た。

 

 あれがゴール。夢にまで見た、明確な『最強』を証明するウイニングポスト。

 何千回何万回と繰り返した動きで、もがくように脚を前に突き出す。反射的に胸を反らして、ゴールの瞬間に少しでも前に出ようと力を振り絞る。

 

 栄光まで残り僅か。あと数歩でゴール。

 迫る影はない。極限の疾走の中、遂に力尽き、カイフタラは桜吹雪の中に消えていた。

 もう、誰も邪魔する者はいない。誰にも追いつかれないくらい速く、かつて私が塗り替えたレコードよりも速く、ダメ押しの加速でぶっちぎる。それから更に加速して、加速して、空を飛ぶように加速して――

 

『我々は夢でも見ているのでしょうか! 雪が降りしきるパリロンシャンで――泥と雪の化粧を纏った芦毛の妖精が今――ゴールしましたっ!!』

 

 ――そのまま、私はゴール板を真っ先に駆け抜けた。こうして秋の最強ステイヤー決定戦、カドラン賞の幕が降りる。張り詰めた空気は一斉に歓喜へと変わり、レース場は私を祝福する拍手喝采に包まれた。

 いつの間にか空は晴れ渡っており、先程まで吹き荒れていた吹雪も桜吹雪もどこかへと消えていた。一気に全身の力が抜け、私は大口を開いたまま地面を転げるようにして力尽きる。

 

『ただ今着順が確定いたしました! 1着は1番のアポロレインボウ! 勝ち時計は何と――自身のレコードを塗り替える3分57秒0!! 2着に5番のカイフタラ、3着に3番のエンゼリーと続きます!!』

 

「ぜっ――はっ、ふっ、……っか、は、は、はは……あははっ……!」

 

 どうだ、これで満足か。文句なんて言わせない。私が史上最強ステイヤー・アポロレインボウだ。

 弱々しく天に拳を突き上げ、ほんの数秒だけ堪えた後、私は再び地面に四肢を投げ出してしまった。多分、今までで1番カッコつかない勝鬨の上げ方である。

 

 何が起きたかを理解した観客達は、一斉に咆哮のような大歓声を上げ始める。先程までの拍手喝采を塗り潰すような雄叫びや慟哭は、このレースがいかに劇的であったかを強く物語っていた。

 薄れゆく意識の中、誰かに抱き締められる。私は少しだけ顔を上げて微笑むと、彼の胸元に脱力した己の身体を預けるのだった。

 

「……ただいま、とみお」

「おかえり……アポロ」

 

 言いたいことは沢山ある。間違いなく夢が叶った嬉しさと、いつかの約束――2人で永遠になりたいという誓いを果たせたこと。そして、更新不可能なレコード勝ちを褒めて欲しい現金な気持ちとか。その他諸々。

 でも、レース直後にそんな会話をする余裕なんてない。彼の両腕にしかと抱き締められたまま、私は疲弊の余韻に浸ってぼうっとするだけだった。

 

「…………」

 

 視界の端。カイフタラやエンゼリーが、おめでとうと言ってくれている。何とか歩けるまでになった他の出走者達も、私達を祝福してくれているようだった。

 現実味がない。ふわふわと覚束ない。これが夢を叶えた瞬間の気持ちなのだろうか。喜びよりも疲れの方が色濃く感じられるのは、きっと何かの間違いだ。

 

 それでも、胸の中に溢れるような温かさがあって。

 ……あぁ。私、生きてるんだ。そう思った。

 

「……アポロ。本当におめでとう……本当にありがとう……」

 

 涙声で呟くトレーナーと、私の名前を呼ぶ観客達。

 ……みんなは、忘れないでいてくれるだろうか。

 アポロレインボウというウマ娘がいたことを。

 

 きっと忘れてしまうだろう。薄れてしまうだろう。

 数十年、数百年――現役時代を知る者がいなくなれば、自然とそうなっていく。

 どれだけ激しい光を放ったとしても、光がいつか闇に消えるように――きっとこの名前は歴史の中に消えていくのだろう。

 

 それでも――

 例えば、遠い――いつの日か。

 私のことを、頭の片隅に思い出してくれるだろうか。

 

 ――1番強かったウマ娘?

 ――シンボリルドルフは外せないな

 ――ナリタブライアンは強かったなぁ

 ――テイエムオペラオーに、サイレンススズカに……

 ――アポロレインボウ

 

 ……そうやって、とりとめのない会話の中で、薄ぼんやりとでも、思い出してくれるだろうか。

 夢の中を走り続けたひとりのウマ娘がいたことを。

 テレビ画面の中で輝き続けるウマ娘に憧れて、永遠を目指した少女のことを。

 

 生物には始まりがあり、そして終わりがある。

 だけど、みんなが忘れないでいてくれたら、記憶の中で私は永遠でいられる。

 私が誰かの夢の架け橋になれたなら、夢を受け継いだ者の中で永遠に輝き続けられる。

 私は夢を架けることができるんだ。

 

 夢を賭ける。

 夢を駆ける。

 夢を架ける。

 

 

 どうか、忘れないで。

 この最高のレースを。

 最強ステイヤーが生まれたこの瞬間を。

 そして、この世界にアポロレインボウというウマ娘がいたことを……。

 

 

 パリロンシャンに溢れた歓喜は鳴り止まない。

 取り囲む歓声は、いつまでも、いつまでも、世界を祝福していた。

 

 

 


 

桜の花言葉は「精神の美」。

そして、フランスにおける桜の花言葉は「私を忘れないで(Ne m'oubliez pas)」。

 

次回、最終回です。

 

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