ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
ホープフルステークスに向けてスペシャルウィーク対策をしよう……なんてとみおは簡単に言うが、実際は死ぬほど難しい。スペちゃんやキングちゃん達の理不尽レベルの末脚を凌ぐためには、彼女達に劣らないような実力と根性と運が必要なのだ。
まず私が根本的に修正しなければならないのは、メジロパーマーやダイタクヘリオスに指摘された
導き出された結果は――パワー不足。瞬発力がないため、逃げるだけで終わってしまう。スピードと根性は足りているが……実のところ、逃げウマというのは総合力の高さを要求されるので、このパワー不足は後々響いてくるだろう。理想の爆逃げウマ娘になるためには、逃げた後に
無論、それが出来れば私はあっという間に長距離を走るサイレンススズカになれる。逃げて差すのは最終目標とはいえ、逃げて先行する……くらいの末脚は蓄えておきたいものだ。
始めにことわっておくが、
実際、最強世代の幻影とレースをした紫菊賞では、最終直線で垂れ気味になってしまっていた。私の伸び足はほとんど無く、レコードで後続をちぎったとはいえ、惰性だけでゴール板までを走り抜いた。
末脚の弱さ――これが爆逃げギャル組に指摘された私の違和感にして弱点。走りの窮屈さとは恐らく中距離適性の低さに言及したものだと考えられる。
スピードはある程度身についてきた――じゃないと流石にレコードなんて出せない――ので、私達はホープフルステークスまでパワーを中心に鍛えることにした。
「アポロ、もう一本行けるな?」
「はぁ、はぁ……っ、まだ、行けるに決まってんじゃん……」
「当然だ。こんなのはまだまだオードブルだからな……」
今日も今日とてスパルタトレーニング。周囲のウマ娘がトレーナーの皮を被った鬼にドン引きしながら、私に心配そうな視線を向けてくる。
それも無理はない。これでダートコース全力ダッシュを100本近くやっているからだ。良バ場のダートコースは
しかし、無尽蔵のスタミナと超絶的など根性とはよく言ったもので、5分も休憩するとある程度動けるまでに回復した。休憩中、トレーナーが脚のマッサージをしてくれていたからかもしれない。
下半身を虐め終わったら、次は上半身を扱きまくる。75キロのダンベルをそれぞれの手に持たされて、リフティングをやりまくる。乙女がしてはいけないような表情をして、細い腕や背中の筋肉を刺激する。腕を強く振ってラストスパートをするために必要な筋肉だ。「走るためには下半身だけを鍛えればいい」だなんて、とんでもない。
とみおが借りてきた本曰く、「上半身のブレは1000メートルで1秒の差を生む」らしい。つまり、上半身の筋肉のバランスが悪かったり貧弱だったりすると、走りに悪影響が出るということ。
とみおと出会った当初、私の上半身の歪みは酷いものだった。走る際に肩や上腕が力んでいたり、腹筋や腹斜筋や背筋といった体幹の筋力不足が顕著であったり、そもそも猫背であったり……。半年くらい前の私は上半身がブレブレで、タイムも遅かった。
私達は1000メートル2000メートルなどの長距離――人間では考えられないような距離を数分で駆け抜けてしまうから忘れがちだが、ウマ娘は人間よりフォームの狂いの影響を受けやすいのである。フォームに狂いがあると、走った分だけロスが出る。人間のように100メートル200メートルの争いではなく、数千メートルが争いの舞台だからだ。1歩毎に無駄なエネルギーを使う走り方をすれば、100歩分走った時に大きな影響となって自分に返ってくるのは自明の理だ。
今の私は完璧なフォームをしているわけではない。メジロマックイーン、ライスシャワー、トウカイテイオーなど歴代指折りの優駿達は、フォームに個性こそあるものの完璧なフォームをしている。上半身に全くブレがなく、全身の力を遺憾無く使って伸び伸びと走っている。
完璧な爆逃げのために必要な完璧なフォーム。完璧なフォームのために必要な完璧な肉体。基礎の積み重ねがあって私達は強くなれる。「基礎のできない奴が発展を出来るわけがない」と著名なスポーツ選手が言ったそうだが、今になってこの言葉の重みを知った。
己の短所を無くしつつ長所を伸ばす……そんな単純な行為が、こんなにも苦しくて辛いなんて。私はウマ娘になるまでこんな努力をしたことがなかった。理想に近づくために自分を磨くことは、シンプルにして苦痛が伴う。戦う相手こそいるが、結局は怠惰で脆弱な自分との戦いだ。
己を高めることをせずダラダラとウマホを見ていた1時間が積み重なって、その間に努力を重ねていた者との差が1週間、1ヶ月、1年と開いていくとしたら――才能を持たない私は周りの人間に追いつけない。才能を持った上で努力をするスピード狂の優駿達の背中を拝むことすら許されない。だから私は狂気的なスパルタ訓練をした上で、生活の全てをトレーニングとレース研究に費やしているのだ。
しかし、過酷な毎日はあまりにも容易く私の精神を削っていく。いっそのこと逃げ出してしまいたい。トレセンとかレースとか2つの夢とか、全部放り出してどこか遠くで自堕落な生活を送りたい。本当は今だって、ダンベルをぶん投げてトレーニング室から飛び出して、布団にくるまって眠ってしまいたいと言うのに。
でも、私自身の心に根付いた狂気的な意志がそうさせてくれない。もっとやれるだろ、死ぬまで止まるなよと、もうひとりの自分が私に向かって凄んでくる。勝手なことを喋るもうひとりの自分に苛立ちを募らせながら、何くそと根性を発揮してトレーニングに身を落とす。私は、この苦痛なトレーニングに満ちた日々を精神力の強さだけで
「――っ、あぁっ! くそぉ!」
「……これで1000回。よくやったアポロ、ストレッチをしてからトレーナー室に来ること」
私は己を叱咤激励する意味で暴言を吐きながら、今日も鬼スパルタトレーニングを耐え切った。ダンベルを所定の位置に戻す際、とみおの顔が僅かばかり苦痛に歪んでいたのが分かった。
「……?」
ちょっと疑問に思ったけど、私は黙って彼の背中を見送り、1人でストレッチを行うことにした。
びりびりと痛む全身の筋肉を解すように、ゆっくりとストレッチ。
「いてて……」
ホープフルステークスにスペシャルウィークが出ると決まってから、最近はずっと筋肉痛が酷い。うわぁ、痛すぎて前屈が出来ないや……あはは……。
そんな最中、私の背中にそっと誰かの手が添えられた。ビクッとして後ろを振り向くと、そこには先程からフィットネスバイクを漕いでいたキングヘイローがいた。優しげな瞳で、顎をしゃくってくる。片手にはスポーツドリンクを持っており、どうやら休憩がてらに私の柔軟を手伝ってくれるみたいだ。
「キングちゃん、ありがと」
「……アポロさん。アナタ、最近頑張りすぎじゃない? クラシック級に行くまでに潰れちゃうわよ」
「あはは……そうなったらそこまでのウマ娘だったってことかな。私にはスタミナと根性くらいしか取り柄がないし、人一倍頑張らなきゃ」
キングちゃんが微妙な表情で私の背中を押してくる。「あいててて」と声を漏らしながら、何とか胸が床に付くまで前屈する。身体の硬さというより筋肉痛のせいで痛い。
「――凄いわね。この前まで床に胸が付かなかったはずじゃ」
「えへへ、鍛えてますから! いてて……」
私はキングちゃんに向けて、前屈しながら器用にサムアップしてみせる。こういう何気ない会話のおかげで、辛い毎日を耐えられているのかもしれない。
キングちゃんは遠くを見つめた後、ぼそりと何かを呟いた。
「――――らなきゃ」
「今なんて?」
「いえ、何でもないわ」
「ふ〜ん」
私は不思議に思いつつ姿勢を変える。キングちゃんはまだストレッチの補助をしてくれるみたいだ。本当にありがたいし、キングちゃんのこういうところが好きだ。
しばしの間、無言。だが、居心地の良い静寂と言うか、何も言わないでも何となく分かりあっているような、そんな静けさだった。
その無音を破ったのは、キングちゃんの消え入りそうな声だった。
「……アポロさんは、どうしてそんなに頑張れるの? 辛くないの? 投げ出したりしたくならないの? 結果が出ないかもしれないのに」
「え?」
「……ごめんなさい。今のは忘れてくれないかしら」
キングちゃんは珍しくその尻尾を垂れさせて、桜色の唇をきゅっと結んだ。頑張る私の姿に思うところがあるんだろうか。
……キングヘイローは一流の家の出身だ。これまで破竹の3連勝で重賞勝利(勝ち鞍は1800メートルG2・東京スポーツ杯ジュニア級ステークス)まで漕ぎ着けているが、これから挑戦する初のG1で緊張しているのかもしれない。
キングちゃんに対してなまじ「偉大なウマ娘の子」という評価があるせいで、そのプレッシャーは私の比じゃないのだろう。不安に押し潰されそうで、頑張る理由さえ見失おうとしているのかもしれない。先の発言は、トレーナーにさえ話すことの出来ない、心から漏れ出た悲鳴だったのかもしれない。
だったら、私がキングちゃんの心を救うだけだ。その実力と才能に嫉妬しなかった日はないが、どうせ戦うなら何の憂いもない状態でぶつかりたい。私はキングちゃんの手を取って、ぎゅっと握り締めた。
「……一流のウマ娘ってのは、最後まで絶対に諦めなかった者のことを言う――らしいよ」
「――――」
「頑張る理由は人それぞれ。結果は出ないかもしれないけど、だったら結果が出るまで歯を食いしばって更に努力するだけ。大事なのは諦めないかどうか……だと思う。……励まし方、今ので合ってるよね? んん……何か締まらないなぁ。ごめんねキングちゃん」
うへへ、と抜けた感じの笑いで誤魔化す私。キングちゃんは目を見開いた後、ぷっと噴き出して笑った。
「何それ、うふふ」
「あ、あはは……」
「ありがとうアポロさん……アナタのお陰で悩みが吹き飛んだわ」
「ほんと?」
「えぇ、そうよ。私は一流のウマ娘。どんな苦境が待ち受けていようと、たとえこの先敗北を重ねようが、絶対に首を下げてやるものですか。その矜恃だけは絶対に折られない――単純なことを見落としていたわ」
「――キングちゃん?」
「なんでもないわ。自分の中の考えが纏まった――それだけよ」
「……そっか。なら良かった!」
キングちゃんの瞳には強い光が宿っていた。美しい翡翠色の意志。それを見る者にすら力を伝播させてしまいそうな、そんな双眸に変わっていた。先程までのちょっと弱ったような雰囲気は吹き飛んでいた。
キングちゃんと私は、案外似ているところがあるのかもしれないな。持ち前のど根性だったり、ちょっと視野が狭くなってしまうところだったり。
私は彼女に握り拳を向ける。キングちゃんは少し呆然とした後、白い歯を見せて私の拳に拳骨を付き合わせてきた。パワフルで、力のこもった一撃だった。
「ホープフルステークス、出るのよね」
「うん。キングちゃんも?」
「えぇ――アポロさん。私、絶対に負けるつもりはないわ。このキングが、ホープフルステークスの1着を取るんだから」
「当然、私だってキングちゃんに先頭を譲るつもりは無いよ。
宝石は泥に塗れても宝石だ。キングちゃんはどれだけ追い込まれようと、きっと何度だって立ち上がれる。そんなウマ娘だ。その根性が羨ましい。彼女の精神力が羨ましい。あぁ、そんなキングちゃんと同世代であれてよかった。案外ノリも良いしね。
お互いに薄く微笑んだまま見つめあって気が済んだ後、私は荷物を抱えて更衣室に向かった。
「じゃ、私は先に上がっちゃうから! じゃーねキングちゃん!」
「えぇ。また会いましょう、アポロさん」
強力なライバルの存在を再び認識し、私はその心に情熱の炎を燃やした。
シャワーを浴びて着替えてきた私は、トレーナー室に入る。室内ではとみおがパソコンの画面に目を落としていた。扉が開閉する音を聞いて、彼が椅子を回転させてこちらを向く。
「トレーナー、マッサージよろ〜」
私は部屋の隅にある仮眠用ベッドにうつ伏せになり、いつものように彼を待った。すぐに彼がやって来て、「触るぞ」という言葉の後に私の脚に触れた。
「あ゛あ゛〜気持ちい゛い゛〜」
「あんまりそういう声を出すな」
疲れ切った脚が揉まれ始めると、私の口からオッサンみたいな声が漏れてしまう。声を我慢しろと言われても、これは湯船に浸かる時に「あぁ〜」って言っちゃうくらい仕方のないことなのだ。
「とみおマジでマッサージ上手すぎるよ〜」
「……嬉しいような嬉しくないような、はぁ……。アポロ、脚に違和感はないか? どこか腫れてるとか、触られたところが痛むとか」
「特にないよ〜」
トレーニング後のマッサージは、単純な疲労回復を狙ったものであると同時に、脚の違和感や隠された怪我を探すためにある。所謂触診というやつであろうか。
こうしてマッサージしてもらったのは、いつが始まりだったのだろう。確か、トレーニングして1ヶ月経った頃、とみおがこう言ったのだ。「頼む、脚を触らせてくれ!」と。
とんでもない爆弾発言に私はドン引きしたが、詳しく聞いてみると色々な理由があった。マッサージは無論、先に挙げた触診、筋肉の付き方のデータ取得など。それを聞いた私は、将来のために役立つのならと二つ返事で頷いた。
ウマ娘の中には、信頼しているトレーナーと言えどその脚に触れられることを嫌う子もいる。だから、とみおは私が気安く脚を差し出したことに驚いた様子であった。
そりゃ、ウマ娘の脚と言ったら命と同等かそれ以上の価値を持つものだからね。走るに当たって無くてはならない身体の組織。高速で走る故にウマ娘の脚は故障が付き纏う。時速70~80キロの負担に耐えるには、私達の脚は些か細すぎるのだ。だから、意識の高いウマ娘は階段や地面の凸凹に神経を尖らせているし、他人に触れられることを非常に嫌がる。
人間以上に繊細で、ガラスの脚と揶揄されることもある頼りない部位。それでいて、競走するためには心臓よりも大切な器官。それを今、トレーナーが手のひらを滑らせて、指先で揉み込んで、丁寧な指使いで接してくれている。どうしようもなく気持ちよくて、どこか背徳的だ。快楽に蕩けて、スライムになってしまいそうな気分。
「そろそろ仕上げだ……」
そう言って、とみおが全身のツボを押して無事終了。サブトレーナー時代にあん摩マッサージ指圧師の免許を取ったらしく、その効果は折り紙付きだ。このマッサージがないと筋疲労が抜け切らず、毎日の過酷なトレーニングによって怪我をする恐れもある。身体のあちこちを触られる拒否感がないことはないが、必要なことだと思って受け止めている。
まあ、この人のことだし邪な気持ち無く私にマッサージしてくれているのだろう。悲しいけど。
「ありがと」
「ん、お疲れ」
「これからスペちゃん対策する?」
「そうだな。門限まで余裕が無いわけじゃないし……ちょっと待ってろよ」
トレーナーがデスクに戻りながら、マウスを操作する。すぐにモニターにスペちゃんのレース映像が表示され、続いて音声も流れてきた。
キングちゃんの代わりに始めた『スペシャルウィーク対策』。それは、とにかく彼女のレースを見まくって彼女の癖を掴むことを目的としていた。出遅れ癖は無いか。コーナーリングの上手さはどの程度か。プレッシャーに対して
『スペシャルウィーク上がってきた、ここから捲れるのか!? 残り400メートルを通過して――』
今見ているのは、鮮烈な末脚を見せたスペシャルウィークの最新レース。しかし、彼女の末脚を焼き付けなければならないと言うのに――うつらうつら、と私の意識が揺らぎ始めた。
流石に疲れが溜まってしまっていたのか、映像を見ている途中、私の意識は何度も途切れかける。隣にいるトレーナーの肩に何度も頭をぶつけ、その度に目を擦って何とか耐え忍ぶ。
(……やば、眠い……)
「…………」
すると、とみおが突然レースの映像を止めた。びっくりして彼の顔を見上げると、トレーナーは苦しそうな表情で瞼を落としていた。
「……ごめんアポロ。俺が不甲斐ないトレーナーで」
「……え? そんなことないと思うけど」
突然意味不明なことを告げるトレーナー。反射的に否定する。だって私は、とみおがいなかったらここまで上がってこれなかった。スパルタは本気でキツいけど、これがあったから私は成長しているのだ。
私がそんな内容の言葉を伝えると、彼は首を横に振った。
「俺のトレーニングはどう考えても
「う〜ん……それはそうだけどさ、とみおのスパルタのお陰で得られたことも多いと思うんだよね。私のど根性はトレーナーのおかげで育ったんだよ? 無駄だったことなんてひとつもないって」
「…………」
「むしろ私からお願い。もっともっと厳しく私を育てて、トレーナー。最強ステイヤーへの道が生温いわけがないんだから」
「――!」
トレーナーがはっと目を見開く。
だから、私と彼がどれだけ辛かろうと、このスパルタは止めるべきではない。とみおもそれに気がついたのか、ぐっと拳を握り締めた。
「……分かったよアポロ。ただ、強度は今が限界だ。そこは留意しておいてくれ」
「は〜い」
「今日は終わりにしよう。それじゃ……おやすみ」
「お疲れとみお! じゃーね!」
スパルタトレーニングをして苦しいのは私だけではない。それを初めて知った日だった。