ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
パドックで一悶着あり、普段の予定より10分遅れで若駒ステークスの本バ場入場が行われた。右脚の不快感は未だに抜け切らず、レース前の高揚感とごちゃ混ぜになって私の中の感覚が
アドレナリンが出ているから、痛みをあまり感じていないだけかもしれない。結局のところ、本人が痛いと言わなければ黙殺できてしまうものなのだ。とみおへの申し訳なさと、賞金を稼いでおかなければならないという欲と、慢心なのか過度な不安なのか判断できぬ感情が、脳内で激しくうねっている。
『アクシデントはありましたが、いよいよ返しウマが始まります!』
『アポロレインボウはちょっと元気が無くなったように見えますが、果たして大丈夫でしょうか』
――彼は、これから始まる返しウマで異常がなければレースに出て良し、と言った。そして、私と戦う子のトレーナーさん方も不測の事態に備えて準備をしてくれている。
でも、それでいいんだろうか。不慮の事故というのは、こういう慢心の上に起きてしまうのではないのだろうか。前兆のある状態で突っ込んで怪我をしました、しかもそれが命に関わるものでした――だなんて笑えない。絶好調のウマ娘でさえ、レース中に起きた原因不明の事故でターフを去ってしまうことがあるというのに……。
私はほとんど歩くように返しウマを行う。脚がほんの少し温まると、締め付けるような違和感がすっと抜けていく。近くを走っていたディスティネイトとブラウンモンブランがひっきりなしに声をかけてくる。
「アタシ、アポロちゃんと戦うの楽しみにしてたんだ!」
これはディスティネイトの言葉だ。軽いランニングを始めた私に、満面の笑みで話しかけてきたのである。ただ、快調に向かう右脚とは裏腹に、私の心には暗雲が立ちこめていった。
――これは、運命が私を試しているのではないだろうか。悪魔が私を引っ掛けようとしているのではないか。そんな思考が頭をもたげる。
立ち止まった私にブラウンモンブランがこう言った。
「……私は打倒アポロちゃんを掲げてこのレースに挑むつもりでした。しかし、脚部不安がある以上……ぐっと堪えてレースを回避するのが一番賢いのかもしれません。先程とは打って変わった二枚舌で、本当にごめんなさい」
いや、彼女の意見は正しいだろう。いくら私の身体が丈夫だからって、怪我をしない保証などどこにもない。
痙攣は収まり、違和感も引いた。私の気持ちとしてはレースの流れに身を任せてしまいたい。理想を追求するなら若駒ステークスを勝たなければならないし、弥生賞にも出たい。
だが――それは私の立場の話。私がとみおの立場であれば、たとえ違和感と痙攣が無くなったとしても、担当ウマ娘をそんな状態で走らせることなどしないだろう。
どちらが正しいのだろうか。むしろ、違和感が残り続けてくれたらよかったのに。それなら問答無用で回避の選択を取れた。なまじ違和感が消えたから、欲が出そうになっている。
レース直前になって、観客達の熱が高まっている。溢れ出す想いの欠片が私にも伝わってくる。走りたいという気持ちが私の背中を押そうとする。
私はとみおの元に向かい、己の状態を伝えることにした。
「……とみお。ごめん、痛みも違和感も無くなっちゃった」
「……嘘はつくわけない……よな。そうか、違和感……消えちゃったのか」
「うん」
柵に手をついて、拳を固めるトレーナー。彼とて約束を忘れたわけではあるまい。本当に行ってしまうのか――という縋るような視線を浴びて、私の気持ちは揺らぐ。
こんな状態で出走していいのか。レースとは、トレーナーが胸を張ってウマ娘を送り出すものではないのか。だが調子はかなり良い。いつものような爆逃げをすれば、再び京都レース場でレコードを出せる予感がある。
私には、ウマソウルで約束された運命の裏付けが存在しない。呆気なくアポロレインボウの旅路は終わるかもしれないし、案外栄光の道をひた走ることになるのかもしれない。二者択一。欲を出すか、リスクを嫌うか。
「とみお。私、分かんなくなってきちゃった」
「…………」
「走りたいのに、走りたくないの」
燃え盛る感情と闘志。私を応援してくれる観客のため、私の大好きなトレーナーのため、全力で走りたいという気持ち。翻って、不安の塊を無視できない後ろ向きな気持ち。これらがせめぎ合って、私の決意をどっちつかずにさせていた。
「優柔不断なウマ娘でごめん。最後はとみおに決めて欲しい」
「!」
返しウマで違和感が消えれば走る……と自分で言ったのに、随分と優柔不断なウマ娘だ。ほとほと自分のことが嫌いになりそうである。
とみおはその言葉に目を見張った。口を開きかけては、閉じ、何も言わずに唇を結ぶ。それを繰り返すこと数回、とみおは私の手を取った。
「……アポロ。やっぱり俺は……ここで君を見送ってしまったらいけない気がするんだ。……レースは回避しよう」
苦渋の決断だったのだろう。とみおは見ているだけで辛くなるような表情をしていた。柵の上に置かれた拳に、壊れそうなほど力が込められている。
だけど、本気で考えてくれた上での選択なら、私は絶対彼を責めたりなんてしない。ある意味、どちらでも良かった。彼が送り出してくれるのなら全力で走っただろうし、こうして止められたなら私は受け止めるつもりでいた。
私は少し下を向いて、右脚を睨んだ。とみおも私の視線を追う。
「――もし君をレースに出したとして。その選択が未来の俺に誇れるかって考えた時……やっぱりダメだった。君が怪我するのは二度と見たくないよ」
彼の言葉にはっとした。メイクデビュー戦、私は何の憂いもない状態で出走した。しかし、理外の事故により怪我をしてしまった。そうだ……何も、事故というのは一人が起こすものとは限らないではないか。私が原因となって他人を巻き込む事故を起こしてしまうかもしれない。
……そういう意味でも、回避は妥当なのだろう。
「……うん、分かった。パドックでは無理言ってごめんね」
「いや、いい。アポロはターフで待っててくれ。そのうちスタッフの方が来るだろうから」
とみおは観客を掻き分けてどこかに消えた。奥田トレーナーや松尾トレーナーがスタッフの方々に事情を説明し、ゲート入りの時間を更に遅らせてくれているのだ。とみおは私がレースを走らないことをスタッフに伝えに行ったのだろう。
ターフに戻った私の下に、ディスティネイトが駆け寄ってくる。その後ろにブラウンモンブランがやってきた。ブラウンちゃんは私の顔色を見て何となく事の顛末を察した様子だったため、1歩引いた場所から私とディスティネイトを窺っている。
黒鹿毛のウマ娘が、おずおずと私に声をかけてくる。
「アポロちゃん、どうだった? 行けそうなのか?」
足元と私の顔を交互に見てくるディスティネイト。だが、私がわざとらしく右脚を浮かせているのを前にして――ウマ娘の彼女が察していないはずがない。もはやこの行為は答えを言っているようなものだった。
「……レース、回避することになっちゃった」
「そ……そうか。仕方ない、よな……」
ディスティネイトのウマ耳がしゅんとして、その表情が暗くなる。ブラウンモンブランも「やはりか」と目を伏せた。この右脚は痛みを訴えているわけではなく、一応大事をとって浮かせているだけだ。まぁ、ここまで不安に思うなら、そもそもレースに出ようなんて思うなよって話だ。
レースに集中できないような身体の状態で、ベストな走りを発揮できるはずがない。最悪なのは、不安を押してレースに出て、怪我をした上で敗北すること。ディスティネイトもブラウンモンブランもそれを分かっている。納得できるかどうかが別問題なだけだ。
私の対策をしてきた2人は、自分の想像以上にこの回避を残念に思っているのだろうか。もしも先月のホープフルステークスにスペシャルウィークやキングヘイローが出てこなかったら、私はやるせなさでいっぱいになっていたたろう。それと同じことか起きている……のかもしれない。
「ごめんね」
思わず、謝罪の言葉が口をついて出た。しかしディスティネイトは首を強く振る。
「どうしてアポロちゃんが謝るんだ? こういうことって、案外ウマ娘にはつきものだし……あんまり気にすんなよ」
彼女は私に向かって拳を突き出して、白い歯を見せてきた。
「――今度こそ、ベストな状態で戦おうぜ! じゃあな!」
「……アポロちゃん、それではまた次の機会に戦いましょう」
2人と入れ替わりにスタッフがやってきて、私は地下道に案内される。とみおと合流すると、背中に大きなざわめきを浴びた。
『6枠6番のアポロレインボウは出走除外となりました』
そんな実況の声と観客のどよめきを最後に、私はタクシーに乗って病院に向かうことになった。
松尾トレーナーと奥田トレーナーには後で感謝しておかないといけない。とみおが「大学病院まで」と言うと、タクシーが京都レース場から走り出した。
私はウマホの画面をつけて、ライブ配信されている若駒ステークスの様子を視聴することにした。画面を通してでも伝わってくる会場の喧騒は、「アポロレインボウがレースの出走を取り消した」という事実の衝撃を物語っていた。
レースが始まると、逃げウマ不在のためブラウンモンブランが先頭に躍り出る。多少混乱した様子だったが、最後方に控えたディスティネイトをマークするような動きでレースは進む。
明らかなスローペースのレース。行きたがらない先行勢と、先行勢のペースを元に相対的なペースを決める差し・追込集団。これは前方集団が有利か。
レースというのは、観察する側に回ればあっという間に終わるものだ。たかが数分間、されど数分間の戦い。その中に身を投じた者だけが感じる、時速65キロ超えの刹那。
最終コーナーに入り、ブラウンモンブランが2番手を引き離しにかかる。ディスティネイトは早くもヘロヘロで、末脚は不発に終わったようだ。
大勢は決した。ブラウンモンブランが圧巻の走りでゴール板を1着で駆け抜けた。ただ、その表情は晴れない。私も同じく複雑な気持ちだ。みんなの走りを間近で感じたかった。全力の戦いに身を委ねたかった。またいつか戦う日が来ればいいな。私はウマホをポケットに押し込み、とみおの横顔を見つめた。
ずっと厳しい顔をしているトレーナー。窓の外を眺めてぼーっとしている。私も反対側の窓から、移りゆく風景を眺めてみた。あんまり面白くなかったので、溜め息をついて目を閉じる。
それから10分ほど経って――揺れるタクシー内、とみおがぼそりと呟いた。
「自分の未熟さが嫌になる」
眠っていたわけではなかったので、目を開けて横目にとみおを捉える。彼は窓の外を見つめたままだった。
「パドックでさ、一回許可を出しちゃっただろ。その時考えてたのは、『アポロにはトライアルの弥生賞を経験して、皐月賞や日本ダービーに挑んでほしい』ってことなんだ」
「…………」
……レースに出ようとしていた私と似たような思考だ。私は耳を澄ませて、彼の独白を聞いた。
「でも、本当の本当は――未熟な若造の欲があった。
タクシーに乗ってから、初めて目が合う。彼は潤んだ瞳を私に向けていた。ずっと大人だと思っていたとみおが、少しだけ少年のように見えた。
「俺はダメなトレーナーだ、アポロ。君の全てを尊重し、本当に大切にしているのなら――パドックの時点で回避を表明するべきだったんだ。本当にごめん……アポロ」
――20代は大人と言えるのだろうか。世間一般的に言えば大人に間違いないが、20代に入ろうと間違いや失敗を犯すことはある。私達学生の立場からすれば頼るべき大人だが、その大人だって人間だ。間違え、立ち止まり、踏み外すことはある。
「……ううん、お互い生きてるんだもん。間違えることもあるって」
悔しさと虚しさとやるせなさをぐっと堪えて飲み込み……私はそっと彼の手を取った。
「トレーナー、私のことを本気で考えてくれてありがとう。これからも2人で頑張っていこうね」
「……あぁ。ありがとう、アポロ」
目指すは3月の若葉ステークスになるだろうか。
私達は間違えながらも、ゆっくりと前に進んでいく。