ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
3月と言えばすっかり春のイメージだが、寒い日は真冬の残滓を感じさせるほどに気温が低くなる。たまに雹が降る時もあるし、防寒具が手放せない日が続く――そんな季節が3月だ。
3月の異称として『弥生』が使われることがあり、これは旧暦3月の旧称として用いられてきた。そして、その弥生の名を冠する競走が――G2・弥生賞。クラシック戦線に直結する重要な前哨戦として位置づけられており、本レースの1か月後に行われるG1・皐月賞のトライアルレースとして知られている。
3月に行われる弥生賞はしっかり『弥生』賞なのに、4月に行われる皐月賞はどうして『皐月』賞なのか。どっちかと言うと卯月賞の方がしっくり来るのではないかというツッコミはともかく――
3月2週目の日曜日、弥生賞がやってきた。
私ととみおは中山レース場に、いち観客として入場した。テレビやネットニュースで『今年のクラシック級が熱い!』とぶち上げられていたらしく、観客の入りが凄まじい。私達が乗った電車はパンパンだったし、何なら船橋法典駅からここまでの道は蟻の行列みたいになっていた。トライアルレースで集まる観客の数じゃないってば……。
こんなに客入りが多い理由は、昨年のホープフルステークスと各メディアの盛り上げによるものだろうか。昨年のホープフルステークスは重バ場にしてレコードタイムに迫る激戦だった。間違いなく暴走気味にレースを引っ張った私のせいなんだけど……観客は「あのホープフルステークスの熱戦をもう一度!」という気持ちで中山レース場に訪れてきたようだ。
「はぁ……マジ最悪なんですけど……」
せっかくのお出かけだから、と髪の毛を整えてお化粧してきたのに、人波に揉まれて髪の毛がめちゃくちゃになってしまった。何とか顔はガードしたが、せっかくのゆるふわボブカットが台無しである。
私はウマホの内カメラで髪の毛を直しつつ、事前にチケット購入していたというスタンド席に陣取った。とみおがバッグからお茶を取り出して、持ってきた紙コップに注いだ。ありがたくそれを受け取って、喉を潤す。
「アポロ、すごい髪跳ねてるよ」
「この混み具合じゃ仕方ないとはいえ、びっくりするくらい乱れちゃった」
「ちょっと触って直してもいい?」
「ん……いいよ」
とみおが後頭部付近の跳ねた髪の毛を直してくれている間、私は公式サイトから弥生賞の出走表を見た。
出走したウマ娘は、フルゲートの16人には及ばない13人。フルゲート割れのため、多分私の出走は可能だったんだけど……それはもう運が悪かったと割り切るしかない。弥生賞に出走濃厚とされていた、重賞ウマ娘達はどこに行ったのだろう。賞金的に弾かれることは無いはずだという考えから、皐月賞に直行したのだろうか。
以下、出走表である。
1枠1番、9番人気サーキットブレーカ。
2枠2番、8番人気アクアレイン。
3枠3番、1番人気キングヘイロー。
4枠4番、12番人気リボンバラード。
4枠5番、13番人気メイクユーガスプ。
5枠6番、6番人気ビワタケヒデ。
5枠7番、4番人気ブラウンモンブラン。
6枠8番、5番人気ワークフェイスフル。
6枠9番、7番人気デュアリングステラ。
7枠10番、3番人気セイウンスカイ。
7枠11番、10番人気セプテントリオン。
8枠12番、11番人気チューターサポート。
8枠13番、2番人気スペシャルウィーク。
――遂に、98年当時の三強が揃い踏みである。
キングヘイローの1番人気は、去年のホープフルステークスを勝利した実績と実力を買われてのものだろう。残り200メートルから見せたあの衝撃的な末脚は、ファンの脳裏に強く焼き付いているはずだ。無論、間近でそれを見ていた私だって忘れられない。スペシャルウィークも驚いただろう。あの、泥塗れでダートのような重バ場を掻き分けて、私達を抜き去った
スペシャルウィークは大外枠からのスタートだ。先月のG3・きさらぎ賞を圧巻の走りで完封したことを評価され、キングヘイローと僅差の2番人気。大外枠の彼女は、十中八九差しの作戦を取るであろう。先行だと無駄に脚を使わされるからだ。差しの位置につけたスペシャルウィークは、きっと内枠スタートのキングヘイローをマークするはずだ。あの末脚をどうやって封じるか見ものである。
3番人気のセイウンスカイは外枠からのスタートになる。得意脚質が逃げしかない彼女にとっては逆風の枠番だが、これがどう出るか。1月に行われたG3・京成杯では驚異的なラップタイムを刻み、見事な『作戦勝ち』を収めた彼女が、今日の弥生賞でどんなレースを見せてくれるのか……頭の回転が早い彼女がこの逆境に向かう様には要注目だ。
そして、三強以外にも気になるウマ娘が2人いる。ビワタケヒデとブラウンモンブランだ。
黒鹿毛をショートにしたウマ娘……あれがビワタケヒデだ。ビワタケヒデといえば、ナリタブライアン・ビワハヤヒデの兄弟で、福島で開催された重賞・ラジオたんぱ賞を制した馬だ。確か、父がブライアンズタイムで母がパシフィカス……つまりナリタブライアンの全弟にあたるのか。今になって思い出したが、なるほど……98年世代と同世代だったようだ。この子は若葉ステークスにも出てくるから、要注意だな。
そして――ブラウンモンブラン。私が怪我によって出走を取り止めた若駒ステークスでの勝ちウマ娘。トライアルの登竜門たる若駒ステークスを制したのだから、やはり弥生賞に出てくるか。若駒ステークスでの圧巻の走りをここでも見せられたなら、十分な勝ち目はある。その期待は4番人気という数字にも現れている。頑張って欲しいものだ。
真剣な目で画面の出走表に目を通していると、私の芦毛を触っていたとみおの手が止まった。ぽんぽんと肩を叩かれたので、私は彼の方に振り向く。
「はい、直ったよアポロ。俺にしては結構上手くできた方だと思うんけど、どう?」
私はカメラを使って自分の後頭部付近を見る。2、3枚ほど写真を撮り、ボブカットのご機嫌を窺う。……うん、中々いいじゃん。これなら及第点を上げられる。
私はとみおに向き直って、「ありがと」と微笑んだ。だが、彼はずっと私の頭から視線を離さない。少し不気味に思って、私はウマ耳やボブカットのふわふわを気にし始めた。
「……な、何かついてる? それとも、またどこか跳ねちゃってる?」
「あ、いや。別になんでもないんだ」
「ほんとに?」
「うん。髪の毛は全然乱れてないよ」
とみおがそう言うので信じることにする。私はすっと両手を下ろし、ほっと胸を撫で下ろした。その様子をどう受け取ったのか、とみおは申し訳なさそうに頬を掻いた。
「ごめんね、不躾にじろじろ見ちゃって」
……とみおにはこういうところがあるのだ。変なところで遠慮して謝る癖が。私はとみおになら全然見られても構わないのにさ。いや、あまりにも注視されると恥ずかしいけど……ウホン。
「…………になら、別にいいよ」
「え? 何か言った?」
「や、や――何でもない!! ほら、お昼ご飯食べに行こ!!」
私はサッと立ち上がり、とみおの背中を押した。各レース場のスタンド内にはフードコートがあり、お昼ご飯なんかが食べられるのだ。とにかく、先の失言よりも食事に意識を向けるべく、私は早歩きで彼の背中を押し続けた。
中山レース場のスタンド内、地下一階フロアにて。私達が選んだお昼ご飯は、中山レース場を代表する売店のうどんとそばである。
ここを選んだ理由は、金のかかる女だと思われたくなかったからじゃない。普通にそばを食べたい気分だったからだ。
カウンター席に座った私達は、背後で渦巻く混雑具合にはらはらしながら、ほっとひと息ついた。ここの売店は、うどんとそばを売っている性質上、客の回転が早い。背後にずらりと並ぶお客さんに急かされる気持ちになるが、私はそばを、とみおはうどんを注文した。
座れる時間はあんまり長くなさそうだ、と辟易していた時、とみおが急にこんなことを言い出した。
「アポロ、香水つけてる? 凄く良い匂いがするから、さっきから気になっててさ」
「え」
彼の言葉に、どきりとした。そう言えば、先程髪の毛を気安く触らせていたんだった。そりゃ、あんなに髪をベタベタ触ったら、どれだけ鈍い人でも気付くのだろうけど……いざ面と向かって言われるとびっくりしたし、何より嬉しかった。
「つ、付けてるよ。とみおでも分かるものなんだね」
「あはは、返す言葉もないよ。でも俺、香水には疎くて。それ、何の匂いなんだ?」
「えっと……確か、桜の花、かな」
「桜……なるほどね」
私がつけているのは、メジロパーマーちゃんに貰った流行の香水だ。私自身、香水はあんまり好きじゃないんだけど……パーマーちゃんにこう言われたのだ。
――もし好きな人とか気になる人がいるなら、「匂い」から印象づけていくといいよ――と。
先輩に発破をかけられては引き下がれない。ということで、私もたまに香水をつけることにしたのだ。と言っても、トレーニングの日はこの香水をつけていない。とみおとのお出かけの日にしかつけたことが無いんだよね。
匂いというのは案外頭に残る。パーマーちゃんは、微かに香る女性らしい柔らかな匂いを。ヘリオスちゃんは、その快活さを表すような爽やかな匂いを。マルゼンちゃんは、ナウいヤングにバカウケな匂いを。マックイーンちゃんは、気高さや気品の高さを窺わせるような淡い匂いを、それぞれほんの僅かに漂わせていた。
匂いから印象づけるというのはこういうことなのだろう。街で似たような香りを嗅ぐと、私は彼女達の顔が頭に浮かぶのだ。もしこの心理を私のトレーナーにも転用できるなら、やらない手は無かった。
「やっぱ、春と言えば桜だもんね。俺の好きな匂いだ。まだ結構寒いから、本物の匂いを嗅ぐのはしばらく先になりそうなものだけど……」
とみおに褒められて、私のウマ耳がぴくぴくと反応した。にやける口元を見せたくなくて、口元を抑えて俯く。想像以上に嬉しくて、ライバル達のレース前だと言うのに、脳みそが恋愛方面に吹っ飛んでいってしまっていた。
私が纏った桜の香水は、甘酸っぱさや柔らかさを感じつつも、くどくない花の香りを漂わせるものだ。香水が苦手な私でも気軽に纏える初心者向けの香り。もちろんパーマーちゃんのような上級者が使うことも大いにあるけどね。
香水を嫌う男性は案外多いらしいから、気に入ってくれて本当に良かった。でも、調子に乗ってあんまり強い香りにすると、とみおも引いちゃうかもしれないな……量が増えないように気をつけないと。
パーマーちゃんにも釘を刺されたものだ。『ほのかに香る程度が一番だよ。近づいた時に、ほんの少しだけ分かるくらい。これがベスト!』……って。ちゃんとメモっといて良かった〜。
私は脳死状態になりながら、今朝のニュースで聞いた桜についての話題を適当に口ずさんだ。
「こ、今年の桜、気温の関係で、咲くのが遅くなるんだってさ」
「へぇ〜。まぁ、今年はエルニーニョ現象が起きてたからな〜」
「え……エル? エルちゃんがどうかしたの?」
「あはは。エルコンドルパサーは関係ないよ。ま、気にしないで」
「何それ。とみおだけずるいよ。気になるから教えて?」
とみおはくつくつと笑った後、私にうんちくを話し始めた。
「アポロ。桜と言うのはね、寒くならないと芽吹くのが遅くなるんだよ。つまり、今年みたいな暖冬だと開花が例年よりも遅れちゃうわけ」
「え、嘘。暖かい冬ならその分、春になるのも早いはずだから……桜が咲くのは早くなるはずじゃないの?」
「生命ってのは不思議なんだよ。桜が綺麗に咲き誇るためには、うんと寒い期間があって……エネルギーを溜め込まなきゃダメなんだ」
とみおは料理がいつ来るのかを気にしつつ、つらつらと話を続ける。
――桜というのは、花が散った前年の夏から秋にかけて、来年花を咲かせるための蕾――『
「……これが休眠打破っていう現象。ま、頭の片隅に置いておいてよ」
彼は遠くを眺めるように瞳を細める。桜についての知識を語るトレーナーの姿が、何だかこれまでの彼とは違って見えた。
――休眠から目覚めた花芽は、気温の上昇に呼応して成長していくらしい。つまり、桜の開花は休眠打破の時期と休眠打破後の気温によって決まるのである。
休眠打破が早く、その後の気温が高くなれば開花時期は早くなり……逆に休眠打破が遅く、その後の気温が低くなれば開花時期は遅くなってしまう。そう――桜の開花には、春の暖かさだけではなく、冬の厳しい寒さも必要なのだ。
そして、先程とみおが言及していた『エルニーニョ現象』は、簡単に言えば暖冬冷夏になる現象のこと。つまり、桜の開花と合わせて考えると以下のようになる。
エルニーニョ現象が起きて暖冬になってしまうと、休眠打破が鈍くなる。休眠打破が順調に進まないと、春に気温がいくら上がっても遅れが取り戻せず、開花の時期が遅れる――というわけだ。
「不思議だよね。厳しい寒さに曝されないと、目覚めが遅くなっちゃうだなんてさ」
私はとみおの話に聞き入っていた。エルニーニョ現象も、桜の開花も、全て繋がっているのだ。それと、「うんと寒くならないと桜の開花が遅れてしまう」という言葉が、やけに鮮明に頭の中に残っていた。
今の私は5戦2勝。この戦績以上に負けてきたし、失敗を重ねてきた。数々の選択を誤ってきた自覚もある。メイクデビューでは最終コーナー付近で遠心力を殺し切れず、僅かに外に膨らみ――ジャラジャラちゃんに付け入る隙を与えてしまった。その結果事故が起きた。事故のトラウマを治すために何ヶ月を要したのだろうか。あれさえなければ、私は順調に経験と賞金を積み上げることができたはずだ。しかし、そうはならなかった。ホープフルステークスに負け、若駒ステークスは溜まった疲労による怪我で回避せざるを得なかった。今日の弥生賞だって、フルゲート割れを予測できていれば――私はあの舞台に立っていたのだ。
迷いに迷って、中途半端になって。トレーナーと一緒に苦しみもがいた結果、今の私がいる。
でも、存外今の自分は気に入っていた。間違えまくって、失敗しまくって、それでも前に進めている自分。厳しい時期に耐えて、何とかやりくりできている自分。
メイクデビューの事故がなかった世界の理想の私はどうだっただろう。どっちにしても、壁にぶつかっていた気がする。いや、むしろ成功を重ねていた分、ショックの大きさに耐えきれず、立ち上がれなくなっていたかもしれない。
案外いるものだ。小さい頃からエリートだったウマ娘が
まぁ、私はエリートでも何でもないから、そこら辺とは無縁のウマ娘だ。成功しなくてよかったとは思わないが、最近は失敗を重ねてきてよかったという心境になりつつある。
今の私は、桜の開花に例えられそうだなぁ。襲いかかる逆境に耐え忍んできたからこそ、己の中に疼く開花の予感を感じることができている。
やってやる。この弥生賞を見て、そして若葉ステークスを走って、私は――……!
「アポロ、料理が来たよ〜」
「え? あ、ほんとだ」
とみおの言葉に現実に戻ってくると、いつの間にか私の注文したそばがテーブルに置かれていた。とみおは美味しそうにふーふー言いながら、うどんを啜っている。
食べ比べするために、私も違ううどんを頼めば良かったかなぁ。そんなことを思いつつ、私は箸でそばを持ち上げた。なんてことのないそばだったけど、やけに美味しく感じた。