ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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33話:観戦!弥生賞!

 そばを食べ終わって、ちょっと足りなかったかなぁと思わなくもない昼下がり。いよいよ弥生賞のパドックが始まろうとしていた。

 

 中山レース場のパドックに押しかけた私達は、人垣を掻き分けて先頭に躍り出た。柵に寄りかかり、見知った顔に向けて手を振る。スペちゃん、キングちゃん、セイちゃん、ブラウンちゃんが私の存在に気付いて目を見開いた。

 

 今日初めて目にしたみんなの目は、轟轟と流れる瀑布の如く闘志に燃えていた。体操着を着ているはずなのに、その身に勝負服を纏っているのではないかと幻視してしまうほどだ。

 

『1枠1番、サーキットブレーカ。9番人気です』

『この評価は不満でしょうか。彼女の走りに期待したいところです』

 

 ゼッケンを着用したサーキットブレーカが、微笑みをたたえながら私達観客に手を振る。私は彼女のオーラにたじろいだ。思わず隣のとみおの袖を摘んで、不安を露わにする。

 

「……この子が9番人気って、嘘でしょ?」

「いや、本当だよ。彼女は重賞戦線で入着を繰り返してきた優秀なウマ娘だけど、この弥生賞においては一歩劣るって評価が妥当だね」

 

 13人中の9番人気。人気は決して高くない……いや、それどころか下から数えた方が良いくらいの人気だ。それなのに、サーキットブレーカの肉体は非常に高い完成度を誇っていた。一見しただけなら、G1ウマ娘と見紛うほどの均整の取れた身体。しかも、気合いのノリも良い。彼女の全身からはとんでもない熱気が噴出している。

 

 スペちゃんやキングちゃん達の実力をよく知っている私でも、もしかしたらサーキットブレーカが勝ってしまうのではないか――と思えてしまう。彼女よりも人気のあるウマ娘が8人もいるだなんて、この弥生賞はどうなっているんだ。私はお披露目台から去ったサーキットブレーカを見送って、次なるウマ娘を待った。

 

 続いてお披露目されたのは、8番人気のアクアレイン。先程のサーキットブレーカよりもひとつ人気が上だ。

 

『2枠2番、アクアレイン。8番人気です』

『前走では後続を最終コーナーで突き放す圧勝劇を見せてくれました。好位置から前を捕まえるレースぶりに期待しましょう』

 

 両手を大きく振って観客に仕上がりの良さをアピールするアクアレイン。彼女の周囲に漂う熱気もまた、G1ウマ娘級のそれだ。毛艶も素晴らしいし、トモの張りも良い。凹凸が僅かに見える脚の筋肉は、13人の中でも断トツで鍛え抜かれているのではなかろうか。

 

 この弥生賞、とんでもなくレベルが高い。最終直線での競り合いが楽しみだ。私はぶるる、と身震いした。

 

 とみおはそんな私を見て何を勘違いしたのか、私の緩まったマフラーを巻き直してくれた。変なところで気を遣うのは彼の良いところでもあり悪いところでもある。

 

 まぁ、気温は3月にしては非常に低い9度。曇りの良バ場とはいえ、いつ雪や雨が降り出すか分かったものではないし、私の身体を気にしてくれるのは嬉しい。

 

「ありがと」

「おう」

「……ねぇ、とみお。私がこの弥生賞に――……いや、何でもない。忘れて」

「…………」

 

 私がこの弥生賞に出ていたら、勝てていたのかな? そう聞こうとしたが、どう考えても無駄な質問でしかない。私は口を噤んで、次のお披露目の番に当たるキングちゃんを見た。

 

『3枠3番、キングヘイロー。1番人気です』

 

 顎の下に手を当て、高笑いするように背を反らすキングちゃん。観客に対するアピールが終わると、彼女の闊達な笑顔が私を捉えた。

 

 ――アポロさん、私を見ていなさい。そう言っているような表情だった。

 

『気合いは充分! 身体の仕上がりも申し分ありません。ホープフルステークスで見せてくれたあの豪脚がまた炸裂するのか? 私イチオシのウマ娘ですよ』

 

 ……()()()()。キングちゃんを見た瞬間から、私は桁違いの迫力に圧倒されていた。めらめらと燃え盛る闘志、体操服の上からでも分かる()()()()()。全てが高水準――いや、最高水準にある。後ろに控えているスペちゃんやセイちゃんですら、ここまでの仕上がりを保てているわけではない。あまりにも眩しい。キングちゃんの身体がきらきらと輝いて見えるほどだ。

 

 史実ではスペシャルウィークとセイウンスカイに敗北したはずだが、もはやそんなことは頭の中から吹っ飛んでいた。これが弥生賞最有力候補のウマ娘。1番人気の迫力なのだ。

 

 とみおに彼女に関しての分析をしてもらうべく、ねぇ、と声をかける。しかし、彼は私の目をしかと見て、一言こう言ったのだった。

 

「――あの中にアポロがいても、間違いなく勝っているさ」

「えっ」

 

 きょとんとして、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。初めは彼の言葉の意図が分からなかったが、すぐに理解した。数分前、私が口に出さなかった疑問に答えてくれているのだ。

 

「君が頑張ってる姿は誰よりも俺が知ってる。どんな敵が立ち塞がってきても、アポロレインボウが勝つ……俺はそう信じてる」

 

 彼の読みが外れていたら意味不明な言葉だっただろう。しかし、彼は私の心を寸分の狂いなく読み取ってくれた。まっすぐな双眸が私に向けられている。嬉しく思うと同時、尻尾の付け根の辺りがとてもくすぐったく感じた。

 

「……カッコつけすぎだっての」

「いいだろ、別に」

「……まあね」

「で、キングヘイローのことを聞きたいのか?」

「そうそう。やっぱ1番人気なだけあって、キングちゃんが勝つのかな?」

「う〜ん……」

 

 とみおはパドックに目をやる。

 

『5枠6番、6番人気のビワタケヒデです』

『彼女はこの春一番の上がりウマ娘ですよ。勢いに乗って、初の重賞制覇なるか。要注目です』

 

「……いや、キングヘイローの仕上がり自体は素晴らしいんだが、今年は一度もレースをしていないから……そこが大きな不安材料だな。休養明けでレース間隔が空きすぎているんだ」

「じゃあ、今年に入って重賞を勝ったセイウンスカイかスペシャルウィークが来るって言いたいんだ?」

「そうなるな。逃げの脚質がセイウンスカイしかいないのは、緻密なラップタイムを刻む彼女にとっては追い風だ。ただ、外枠のスタートだからそれがどう出るか……。あと、スペシャルウィークのマークする相手によって結果が変わってくるだろうな」

「マーク相手……?」

 

『5枠7番、ブラウンモンブラン。4番人気です』

『トライアルの登竜門、若駒ステークスの勝ちウマ娘です。あの時見せた好位先行の作戦を、この厳しいメンバーの中でも繰り出せるか? 充分に勝ち目のあるウマ娘ですよ』

 

 スペちゃんのマークする相手……考えられる選択肢としては、キングヘイローかセイウンスカイだ。単騎逃げを決め込むであろうセイウンスカイをマークすることは考えられるけど、スペちゃんは去年のホープフルステークスの敗北が頭に残っているはず。しかも大外枠のスタートだ。先行ではなく差しの作戦を取るのが、鉄則的に丸い。外枠から脚を使ってでもハナを取りに行くセイちゃんとは違って、スペちゃんはレース序盤に脚を温存するだろうから――スペちゃんがマークする敵はキングちゃんだろうか。

 

 では、内枠スタートのキングちゃんは誰をマークするのか? 先行策を取ってセイウンスカイを捕まえる? それとも、スペちゃんとお互いマークする形になる? いや、キングちゃんの武器は、マーク戦法でも先行策でもない。残り200メートルで爆発する超一流の切れ味だ。しかしこれは、己のペースを一度でも見失えば発動することのできない諸刃の剣でもある。

 

 私だったら、その武器を活かすためにはどうするか。導き出した答えは――『自分の走りに徹する』ことだ。キングちゃんは恐らく、誰もマークせずに自由に走る。スペちゃんや他の子にマークされようと、ずっと前だけを見て、最終直線の刹那に全てを賭けるだろう。

 

 自分の走りに徹するという意味では、セイウンスカイも同じか。一応スペちゃんキングちゃんを気にしつつ、自分のペースを刻んで後続を封じ込める。マークしても持ち味は充分に発揮できるだろうが、自分だけに集中するのが最も良さが出るだろうからね。

 

『7枠10番、3番人気のセイウンスカイです』

『1月のG3・京成杯を勝った無敗のウマ娘ですか。彼女お得意の逃げがこの外枠から炸裂するのか。見ものですねぇ』

 

 パドックを見ると、丁度セイウンスカイが手を振っていた。私と目が合う。彼女はふにゃふにゃした笑みを浮かべつつ、すぐに目を逸らした。

 

 ……私を意識しているのか、それとも……オープン戦すら勝っていない私には興味がないということか? いや、目の前のライバルに集中したいという気持ちの現れ――もしくは、そもそも目が合っていないか、そのどれかだろう。まぁ、いい。私が目に焼き付けるべきは、彼女の仕上がりとその走り。一筋縄ではいかないトリックスターの尻尾を掴まえるべく、今はどれだけでもデータが欲しい。

 

 三強が揃った舞台で見せる走りはまた格別なものになるだろう。絶対に、目を離してやるものか。

 

「セイちゃんはちょっと見劣りするね」

「う〜ん、珍しいな。彼女のトレーナーはそこら辺の調整が上手いはずなんだが……まさか、皐月賞にピークを合わせて来たな? 相変わらず計算ずくだぜ、全く……」

 

 真っ白で華奢な手を振るセイウンスカイは、元の体格もあるだろうが――キングちゃんや後ろのスペちゃんよりもいくらか()()見えた。こういうのを、バ体が寂しいと言うんだっけ。

 

 調子自体は悪くなさそうなのだが、身体の仕上がりがもう一歩……という印象だ。尻尾やウマ耳の動きは好調時そのものだし、やはり身体だけを絞っていない感じ。このトライアルにおいても、本当の実力を見せたくないのか、それとも……?

 

「あっ、もう行っちゃった」

 

 セイウンスカイは早々と後ろに引っ込み、トレーナーの下に駆け寄った。薄ら笑いを浮かべた彼女はトレーナーと何かを話しており、その視線の先には、緊張した面持ちのスペシャルウィークが小さなジャンプを繰り返している。

 

 ……セイウンスカイはスペシャルウィーク狙い……なのか? あ、いや、視線をキングちゃんに移した。いや、ブラウンちゃんを見てるのか……? 分からない。くそっ。レースに出るウマ娘には見られていなくても、こういうトリックは怠らないのか。可愛いけど、可愛くないやつめ……。

 

『8枠13番、スペシャルウィーク。2番人気です』

『昨年のG1・ホープフルステークスを2着。先月のG3・きさらぎ賞では圧巻の1着と、その安定感と強さは世代でもトップクラス。まさに大器を持ち合わせたウマ娘です。大外枠がどう響いてくるか、要注目です』

 

 スペちゃんが紹介されると、えいえいおーと言う感じで彼女は拳を振り上げた。まさに、まっすぐな可愛らしさと好調をアピールするスペちゃん。表情がころころ変化して、見てて楽しい。ファンが多いのも納得の可憐さにちょっと動揺しつつ……私は彼女の分析を始めた。

 

 スペシャルウィークの身体の状態は良さそうだ。私を見つけてニコニコし始めるくらいには余裕もある。時々繰り返すジャンプの際にはしっかり踵が上がっているし、動きも軽やかだ。身体の異常とか、疲れとか、そういうのとは無縁の動き。余程のことが無ければ、スペちゃんは間違いなく上位に食い込んでくるな……。

 

「私、誰が勝つのか分かんなくなってきちゃった」

「……そろそろ席に戻ろうか。本バ場入場が始まっちゃうから」

「ん、そうだね」

 

 パドック周りに溢れていた熱気で忘れていたけど、今日はハチャメチャに寒い。早いところ席について、温かいお茶を啜りたいものだ。

 

 こうして私達がスタンド席に戻ると同時、中山のスタンドが大きく揺れた。本バ場入場が行われたのだ。早くもウマ娘達がターフで返しウマを始めており、蹄鉄が芝を切り裂く重い音がこちらまで響いてくる。

 

 スペちゃん、キングちゃん、ブラウンちゃん達は軽いランニングを行っている。ただ、セイちゃんだけは第4コーナー付近でぐるぐると回っていて、時々座り込んで芝の具合を確かめているようだった。

 

「……何してるんだろ?」

「さぁ?」

 

 セイウンスカイの行動の意図は不明だったが、それはともかく――URAお付きの演奏隊がぞろぞろと外柵付近に行進してきて、指揮者の合図とともにピタリと静止した。制服を着込んだ集団というのは、どこか威圧感があるなぁ……。

 

 G2・弥生賞がいよいよ幕を開けようとしている。歓声が地を割り、中山レース場に詰めかけた観客が、今か今かとファンファーレを待ちわびていた。ほんの僅かに歓声が怯んだ瞬間、指揮者の白い手袋と細い杖が上を向く。

 

 一定のテンポで指揮者の両手が振られると、金管楽器やドラムを持ち合わせた演奏隊の身体に緊張が走る。観客も演奏の前触れを察して、一瞬だけ静まり返る。

 

 そして、指揮者の奏でるリズムと共に、荘厳なファンファーレが演奏され始めた。腹の底を震わせるような音色。誰もが胸高鳴る、たった数十秒の音楽。

 

 ファンファーレが終わりを告げると、割れんばかりの歓声が中山レース場を包み込んだ。私のテンションもぶち上がり、思わず大声を上げて弥生賞に出る13人を応援していた。

 

「うおおおおおお!! みんな頑張ってぇぇ!!」

 

 日本のトゥインクル・シリーズではバッチリ定着しているファンファーレだが、他国のレースにおいては馴染みが薄いらしい。一部の国ではファンファーレを演奏するところもあるそうだが……こんなに盛り上がるんだったら世界中でやればいいのに、と思わなくもない。

 

 観客としてレースを見るのも悪くないじゃないか。いや、めちゃくちゃ楽しい。こりゃあ熱心なファンもいるわけですわ。私は席から早くもお尻を浮かせながら、ターフを見下ろした。

 

 こうして見ると、ターフというのは物凄く大きい。2000メートルという距離も果てしなく長く感じる。逆に、みんなが収まっていくゲートは、かなり小ぢんまりとしている。言うまでもなく、ウマ娘ひとりひとりも凄く小さな存在に見える。

 

 ……あんなに小さく見えるのに、こんなに多くの人の心を動かしているんだ。

 

 早く、私も走りたい。クラシックの舞台でみんなと戦いたい!

 

 私は跳ね回る心臓を押さえつけながら、みんなのゲート入りを見守った。セイウンスカイが若干手間取っているようだが、すぐに全員がゲートに収まった。

 

『頭上に広がる曇天。灰色の空が広がる中山レース場――低気圧による影響で厳しい寒さの中、弥生賞が行われます。発表は曇りの良バ場となりました』

『天気、持ち堪えてくれるといいのですが』

『3番人気はこの子、7枠10番セイウンスカイ。2番人気は8枠13番、スペシャルウィーク』

 

 ゲート内のウマ娘達が手首を捏ねたり足首を回したり、思い思いの動きで準備している。多分私達のいるスタンドからのざわめきは、もう聞こえちゃいないだろう。私がそうだったように、集中の極限にあると何も聞こえなくなるものだ。

 

『さぁ、今日の主役はこのウマ娘を置いて他にいない! 1番人気、3枠3番キングヘイロー!』

『ジュニア級チャンピオンです! 気合いの乗ったいい顔をしてますね!』

『ゲートインが完了し、出走の準備が整いました』

 

 実況の声と同時に、辺りが静まり返る。私が唾を呑む音さえ響いてしまいそうな静寂の中――

 

『今、スタートが切られました!』

 

 ガシャコンという音と共に、重い蹄鉄の音が爆発した。

 

 弥生賞が始まったのだ。皐月賞に繋がる大事な一戦が――

 

『各ウマ娘、揃って綺麗なスタートを切りました!』

『これは位置取り争いが熾烈になりそうですねぇ』

 

 ポンと飛び出したウマ娘も、妙に出遅れたウマ娘もいない、横一線のスタート。外枠のセイウンスカイがぐんぐんと脚を伸ばし、先頭に躍り出る。ちょっと脚を使い過ぎたか? という印象だ。

 

 このレースは、逃げ1人、先行5人、差し6人、追込1人という脚質構成から成されている。セイウンスカイの後ろにつけた先行集団は熾烈な2番手争いで体力を削り合っている。ここにはブラウンモンブランがおり、何とか2番手をキープしていた。

 

『1番手につけたのはやはりこの子、3番人気のセイウンスカイ! 2番手は早くも苦しそうだ、4番人気ブラウンモンブラン!』

『10番手には1番人気のキングヘイロー、11番手には2番人気のスペシャルウィークがつけましたよ! 早くもある程度の順番が確定しましたねえ』

 

「とみお、最初の400m! タイムはどう!?」

「……かなり早い。24.6秒ってところだ」

 

 京成杯でのセイウンスカイは驚異のラップタイムを刻んで完璧な作戦勝ちを収めた。この弥生賞でも同じことをしてくるつもりか?

 

『第2コーナーを抜けて向正面に入りました! 1番手は相変わらずセイウンスカイ、若干かかり気味か? 一人旅です。2番手とは3、4バ身の差をつけて逃げています』

『2番手以下の子はちょっと離され気味か? 大丈夫ですかねぇ。仕掛けどころに注目です』

 

 向正面に入ると、セイウンスカイがチラッと後ろを見た。何が来るな、と思ったのも束の間、明らかなペースダウンが行われる。セイウンスカイお得意のトリックだ。

 

 2番手につけていたブラウンモンブランが、セイウンスカイの背中に追いつきそうになる。ハイペース気味に逃げていたはずの先頭に追いつきそうになったのだから、普通は「自分がオーバーペースなんだ」と考えてしまうものだ。上体を持ち上げ、ブラウンちゃんがセイウンスカイに合わせてペースダウンする。それに応じて、3番手、4番手、そしてそれ以下のウマ娘もどんどんペースを落としていく。

 

 スペシャルウィークとキングヘイローも、やりにくそうに表情を歪めている。特にキングヘイローは、少し焦ったように周囲を見渡していた。内枠からの差しを敢行したため、前にも外にもウマ娘がいて、バ群に包まれた状態なのだ。しかも、セイウンスカイのペースダウンでバ群がギッチリと詰まって視界が更に悪くなったはず。

 

 そうか、セイウンスカイは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何というウマ娘だ。のほほんとした顔をしておいて周りを油断させつつ、えげつない作戦を考えやがって……。

 

「と、とみお……これって――」

「……400から800地点のタイムは26.5秒。超スローペースだ……これはやられたな。ブラウンモンブランはペースを見失っているし、キングヘイローもかかっている。スペシャルウィークは冷静だが……このまま行けばあっさり逃げ切られてしまうぞ」

 

 セイウンスカイがブラウンモンブランに1バ身の差をつけて、向正面の1000メートルの標識を通過する。ブラウンモンブランは未知の逃げで明らかに自分の走りを見失っている。顔に覇気がなく、位置取りも内に寄ったり外に膨らんだりで酷く拙い。残念だが、ブラウンちゃんはもう……。

 

 続いて私はキングヘイローに目をやった。バ群に包まれ、彼女もまた走りづらそうにしている。必死にウマ娘の隙間を探そうとして、自分のペース維持が二の次になってしまっているのだ。これでは、万全の準備を喫して発動する()()()()は封じられたも同然だ。

 

 結局、この戦いはセイウンスカイとスペシャルウィークの一騎打ちか――?

 

 セイウンスカイがその瞳をぎらつかせながら、第3コーナーの入口に入った。その瞬間、セイウンスカイの眼光が鋭さを増す。刹那、彼女は激しく息を入れ――スパートじみた速度で猛然と走り始めた。

 

「せ、セイちゃん!?」

「えっ!? な、何で――っ」

 

 とみおが驚きのあまり、ストップウォッチを放り出す。周りの観客からも悲鳴のような声が上がる。実況・解説も突然の出来事に唖然としていた。

 

『こ、これは――セイウンスカイが暴走か!? 明らかなオーバーペースで3、4コーナーに突入していく!』

『これは明らかにかかっています。ゴール板まで持ちませんよ!』

 

 オーバーペースからどん底のスローペースに持ち込んだなら、彼女がすべきはその緩いペースの維持だったはずだ。それがどうして暴走に繋がるのか、意味が分からない。

 

 セイウンスカイは人々の度肝を抜くためだけに走っているのか? いや、違う。度肝を抜くのは勝利への過程に過ぎず、彼女とて勝つために走っているはずだ。何故、早々と第3コーナーから仕掛けてしまうのだ。セイウンスカイの逃げの性質上、勝利の方程式は『なるべく敵のペースを乱しつつ、どれだけ最終コーナーまでスローペースに持ち込めるか』のはずではないか。

 

 逸ったか、セイウンスカイ……!

 

『さ、最終コーナーに入ってセイウンスカイが1番手! ぐんぐん速度を上げてくるスペシャルウィーク! 今、6番――いや、4番手に進出しようとしています! キングヘイローは進路を見失って仕掛けが遅れているぞ!』

 

 最終コーナーの中間辺りに来て、セイウンスカイが1番手。超ハイペースのせいで、その表情は苦痛に歪んで――――

 

 ――――いない。()()()()()

 

「――セイ、ちゃん――」

 

 その顔を見れば、このハイペースが何か大きな勝利のための布石であると理解できた。セイウンスカイは、あえて自分を追い込んでいるのだ。そして――()()()()()()()()()()()()()()()()()。普通の戦いでは得られない『領域(ゾーン)』という到達点に――。

 

 最終コーナーの終わり際、スペシャルウィークが2番手に進出してくる。セイウンスカイの笑顔が凄みを増す。苦しみの極限を嬉々として受け止め――この弥生賞という大舞台、集ったライバル達を利用して、セイウンスカイは己を覚醒させんと超絶的なハイペースに勇猛果敢に挑んでいる。

 

 だが、限界に挑むことは即ち苦痛を伴う。最終直線に差しかかる寸前、セイウンスカイが大きく内ラチ側に()()た。意識を取り戻したように、セイウンスカイが進路を立て直す。うわっ、と観客席から悲鳴が上がった。とみおも「どうしてそこまで――」と、呆然としていた。

 

 2番手を追走するスペシャルウィークは幾分も余裕がある。彼女が脚を伸ばすのを見て何を思ったのだろうか――それでも、セイウンスカイの口が『ついてこい』と動いたのを私は見逃さなかった。

 

 そして、セイウンスカイが大きく口を開けた――その瞬間だった。

 

「――っ!!」

 

 一瞬――あのホープフルステークスで味わったような悪寒がした。メジロマックイーンとの模擬レースで味わった、あの恐怖を予感させる「何か」の波が、確かに起こった。

 

 最終直線の入口を見つめていたはずの私の視界が、眩い光に覆われる。ぞくぞくとした怖気と、曇天を打ち払わんばかりの清涼で熱い風が、私の首元を吹き抜けた。

 

「――――」

 

 心象風景は見えなかった。しかし、これは明らかに『領域(ゾーン)』によるものだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 私は目を細めながら、最終直線に差し掛かったはずの2人の優駿を探した。実況が叫んでいる。

 

『逃げるセイウンスカイ!! 二の脚を使って後続を再び突き放しにかかるが、スペシャルウィークの末脚が爆発している!! キングヘイローは動きが鈍い!! まだ5、6番手でもがいている!!』

 

 ターフで輝いていた光が強さを失う。光が消えた場所では、セイウンスカイとスペシャルウィークがデッドヒートを繰り広げていた。セイウンスカイは、あの自滅とでも言うべきハイペースを物ともせず、二の足を使って逃げているではないか。だが、抜群の手応えで直線に入ってきたスペシャルウィークが、3バ身ほど後ろを懸命に追走している。

 

 両者共に、歴史に残る快走だ。しかし――絶対的なスペックと爆発力ではスペシャルウィークが勝っている。セイウンスカイとスペシャルウィークの差は徐々に縮まりつつあった。彼女達の懸命の叫び声が聞こえてきそうな中、私は両手を重ねて祈る。

 

 ――()()()()()()()()

 

 『領域(ゾーン)』に対する焦りはある。弥生賞に出られなかった後悔と、賞金額に対する不安もある。だがそれ以上に、あの2人のデッドヒートを永遠に見届けたくて――それでいて、死闘を繰り広げるセイウンスカイとスペシャルウィークの両方に勝って欲しい気持ちがあった。

 

 ライバルとの死闘で覚醒することのできる『領域(ゾーン)』。それは、ライバルさえ魅了してしまうほどの熱量と輝きを帯びていた。

 

 これがウマ娘。これが想いを背負って走るウマ娘の強さ。

 

 何と美しい――何と眩しいのだろう。

 

「――がん、ばれ――がんばれえええええっ!! 勝てぇぇぇぇぇぇぇぇええっっ!!」

 

 超歓声の中山レース場。盛り上がりは最高潮に達し、この場に居合わせた人全てが拳を突き上げている。見渡す限りのスタンディング・オベーション。トレーナーも「敵情観察」の命を忘れ、いちファンとしてのめり込んでいる。

 

 耳が張り裂けんばかりの大歓声の中、感極まった実況の声が流れてくる。

 

『セイウンスカイ粘る!! 懸命に追いすがるスペシャルウィーク!! セイウンか!! スペシャルか!! 3番手に上がってきたキングヘイロー、これはもう間に合わない!!』

 

 残り200メートルを通過して、スペシャルウィークが遂にセイウンスカイに並んだ。血を吐きそうなほどに絶叫するスペシャルウィーク。決して首を下げないセイウンスカイ。

 

『スペシャルウィーク抜き去った!! いや、セイウンスカイが差し返す!! さ、更にスペシャルウィークが首を伸ばして並びかけた!? セイウンスカイもまだまだ粘る!! とんでもない激闘!! どっちが勝ってもおかしくないっ!!』

 

 セイウンスカイがど根性で巻き返したかと思えば、スペシャルウィークが首を伸ばして抜き返す。2度、3度、先頭が入れ替わる。しかし、残り50メートルを迎えたその瞬間――セイウンスカイが力尽きた。

 

 大勢が決したその瞬間、観客のボルテージが限界を超えた。

 

『ゴォォォーールッッ!! きさらぎ、弥生で――皐月は見えたか!! ゴール板前の死闘を制したのは――スペシャルウィーク!! スペシャルウィークですっ!!』

 

 ――1/2バ身差で、スペシャルウィークの勝利。ここに誕生したG2・弥生賞の覇者は、日本一のウマ娘を目指す少女――スペシャルウィークだった。

 

 3番手に滑り込んだキングヘイローは、2番手のセイウンスカイと5バ身も差がついた。4番手はそのキングヘイローに3バ身差と、今回はセイウンスカイとスペシャルウィークが抜けていた。

 

 呆然と佇み、電光掲示板を眺めるスペシャルウィーク。彼女に駆け寄ってきたセイウンスカイは肩を竦めてみせると、からからと笑っていた。それでやっと己の1着を呑み込めたのか――スペシャルウィークの笑顔が弾けた。

 

 それにシンクロするように、観客席から爆発的な歓声が飛び交った。大きく両手を振るスペシャルウィーク、負けてなお強しのセイウンスカイを称える声が投げかけられる。

 

「おめでとう、スペシャルウィーク!!」

「セイウンスカイもかっこよかったぜ!!」

「皐月賞、楽しみにしてるからな〜!!」

 

 私は大歓声の中、その場からしばらく動けなかった。

 

 レースの余韻はもちろん、心に迫るものがあったからだ。

 

 ――やはり、『領域(ゾーン)』の獲得にはそれ相応の舞台が必要なのだ。これくらい相手と場が極まっていないと、そもそも掠りさえしない超絶的な極致――それが固有スキルという領域。

 

 私も――負けてられないよ。

 

 私は胸に手を当て、若葉ステークスの勝利と『領域(ゾーン)』の覚醒を誓った。

 

 





【挿絵表示】

☆元祖柿の種☆ 様から絵を頂きました! こちらはへそ出し勝負服を真正面から描いてくださったものになります。
本当にありがとうございます。

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