ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
阪神レース場第10レース、若葉ステークス。気温は20度、天候は雲ひとつない晴れ。発表は良バ場。当初の予定通り、16人立てのフルゲートでレースが行われるようだ。
私達の準備が完了したのを尻目に、遠くの方からファンファーレが鳴り響いてきた。馴染み深い恒例の音楽が頭に入ってくると、背筋が伸びるような思いになる。
『上空には雲ひとつない青い空が広がる阪神レース場。天候は快晴、良バ場の発表です』
『若葉ステークスの名に相応しい、新芽が芽吹くような清々しい天候となりましたねぇ』
私は爪先をターフに叩きつけ、そこを起点としてぐりぐりと足首を回した。脚に違和感はない。快調を示している。若駒ステークスのようにならないために、私達はとっくにスパルタトレーニングから脱却したのだ。それでも強度はやや高めらしいが、決して同じ轍は踏まないだろう。
ゆっくりとゲートに収まっていくウマ娘を視界の両端に見て、私もゲート内に歩みを進める。
『1枠2番、アポロレインボウ。ゲートに収まりました』
『1番人気の彼女には期待が集まりますよ!』
ゲート内に入ると、異常なまでに集中力が高まる。脳裏に弥生賞と金鯱賞の激闘が蘇る。あの熱量が肌を灼く。ゲートにいるライバル達の存在に胸が高鳴る。
『ゲートイン完了、出走の準備が整いました。いよいよスタートです』
早くゲートから飛び出したい。逸る気持ちを何とか抑えつけ、私はゲート解放の時を待った。さらさらと、風が芝を薙ぐ音が聞こえてくる。綺麗な音だ。しかし、その音に硬質な金属音が混じった時、私はスタートを決めなければならない。視覚と聴覚、スタートの瞬間まで緊張の糸を緩めてはいけないのだ。
……ただ、今回のスタートまでの時間は異様に長かった。何秒待たせるのか、と集中力が切れかけたその瞬間、ガシャコンとゲートが開かれた。
『スタートしました! 1人大きく飛び出したのは1番人気のアポロレインボウ。リードを広げにかかります』
ギリギリ反応が遅れることは無く、いつものようにロケットスタートを決める。今回の脚質構成は、大逃げ1人、逃げ3人、先行5人、差し6人、追込1人。注目ウマ娘は――大逃げのアポロレインボウこと私は置いておいて――差しの作戦を取ったビワタケヒデとグリーンプレゼンスと、唯一の追込で後方に控えたディスティネイト。
今回は私の大逃げ如何に関わらず、逃げが3人もいるためにハイペースが予想される展開だ。まあ、私はペースを緩めてあげる気なんてないけど、ハイペースのレースは後方有利という鉄則がある。後ろの方から末脚をすっ飛ばしてくるだろうこの3人には要注意だ。
8割の全力疾走でかっ飛ばしながら、スタート直後の第1コーナーを曲がる。すると、私を必死に追走する影が視界の端に3つ見えた。今回の逃げウマ娘の3人――ディスパッチャー、サマーボンファイア、リフレクターだ。やはり、序盤から私を捕まえに来るか。
『第2コーナーの中間点、アポロレインボウが1番手。2番手を追走する7番人気ディスパッチャーとの差は1バ身ほど』
『早いペースでのレースになりそうですね。もっとも、アポロレインボウが出るレースでスローペースになったことはありませんから、見慣れた光景になりつつあります』
第2コーナーを曲がりながら後ろを見ると、結構な速度で飛ばしているというのに、逃げウマ以外の後続集団も5バ身ほど後ろをついてきていた。私を捕まえるために高速で走っている逃げウマ3人のペースに釣られているのか、それとも全員が私を捕まえようとしているのか。多分前者だ。
今回の若葉ステークスに出てきた逃げウマ娘3人は、全員『ハナに立たないと本来の力を発揮できない』タイプ。そのスタミナと脚を使ってでも私を潰したいらしい。内ラチにピッタリとくっついている私の外から、強引に足を伸ばして抜き去ろうとしてくる。
でも……私を捕まえようとするなら、あの時のスペちゃんくらい本気で来ないとダメだよっ!
私は直線に入った途端にギアを全開にして、トップスピードで駆け出した。後ろの逃げウマ娘達を置き去りにして、どんどん差をつけていく。
『おっと、バックストレートに入ったアポロレインボウが加速します! 金鯱賞のサイレンススズカの再現か!?』
『逃げの作戦を取った子達が追いかけようとしますが、2番手のディスパッチャー以外は諦めましたよ。3、4番のサマーボンファイアとリフレクターは前の2人を無いものとしてペースを作り直す模様です』
残りは1100メートルほど。ここから超々ロングスパートをかけ、己の限界に挑む。そして、競り合ってきたウマ娘達と本気で磨り潰し合うのだ。さぁ――
「はぁぁああああああっっ!!」
向正面の直線を走り切り、第3コーナーを曲がっていく。追いすがってきたディスパッチャーが私の2、3バ身ほど後ろまで迫ってくる。そのまま思い切って外に持ち出し、追い抜きを試みたディスパッチャーだが――彼女はそこで限界を迎えた。
ディスパッチャーが第3コーナーの終わり際で大きく上体を持ち上げ、減速していく。その顔は汗にまみれ、真っ青だった。明らかなスタミナ切れの兆候。彼女はそのままバ群に呑み込まれ、姿を消した。
『おおっと、アポロレインボウを捕まえにかかった2番手のディスパッチャーが沈んだ!! 速度を落として流すように走っていますが、非常に苦しそうです!!』
『あれは怪我ではなくスタミナ切れでしょうね。1000メートル通過ペースがサイレンススズカにはコンマ4秒ほど及ばないものの、それでも早すぎる58秒5の時計ですから……無理もありません。マイラー気味のディスパッチャーにはスタミナ的にも厳しい戦いだったのでしょう』
『ここまでハイペースを演出してきたアポロレインボウを捉える子は出てくるのか!? レースは終盤に入っていきます!!』
『アポロレインボウはここから更に加速しようという動きを見せていますよ。このままのハイペースで走られると、後続はノーチャンスですね』
ぎょっとしたように、化け物でも見るように、潰されたディスパッチャー以外の14人の瞳が私を見ている。私は息を入れずに前半の1000メートルを駆けてきた。それが序の口と知っての驚愕か。関係ない。私は私の道を行く。
第3コーナーで引き上げたギアを更に上げる。スペシャルウィークやキングヘイローのトップスピードを10としたら、私の全力疾走は8から9くらいの速度しかない。ただ、2000〜2400メートルは依然として苦手なため、今現在の私のトップスピードは『7〜8』と言ったところか。
純粋な速度や爆発力ではみんなに及ばないけれど――長い時間を『7〜8』の速度でターフを駆け抜けたなら、きっと誰も追いつけない。私が敢行しようとしている走りはそれだ。
無論、長い間全力疾走をするということは、単純に辛さや苦しさを伴う。全力全開の間、乾いた口内を潤すことはできないし、不快にうねる舌は邪魔で仕方がないけれど、どうにもできない。出てこない唾液を喘ぐように飲み込もうとしても、萎れた酸素だけが喉を通り、酸っぱくて不快な味が喉奥に広がっていく。
3、4コーナーの中間点、
『3、4コーナーの中間に入って、先頭のアポロレインボウを捕まえようと先頭集団が一気に動き出した! これをどう見ますか?』
『これ以上好きにさせてたまるか、という集団意識がアポロレインボウを捕まえに走らせていますね。無論、このコーナーで捕まえておかないとまんまと逃げ切られてしまうでしょうから、この判断は正解ですよ』
ここが勝負時と見たか、
収縮されたレース中の精神時間――それこそ、スパート時の疾走が何時間にも思えるような状態で、背中を見せ続けられたらどうなるか。全力で追走しているはずなのに、その距離が縮まらなければどうなるか。答えは簡単だ。
前を向いて懸命に疾走していると、第4コーナーに入った途端、全ての逃げ・先行のウマ娘が上体を大きく持ち上げたのが分かった。スタミナ切れか、それとも諦めたのか。……いや、諦めてはいないようだ。単純なスタミナ切れ。私の走りはまだ、心を折るまでの強さではないのだろう。
『おっ――と!? 先頭のアポロレインボウに釣られてハイペースのレースを走ってきた逃げ・先行集団が一気にペースダウンした!! これはどうしたことでしょう!?』
『アポロレインボウの作るペースについていけず、ゴール前になってスタミナを使い切ってしまったようです。この大逃げはえげつないですよ……!』
『垂れていく逃げ・先行集団を追い抜く差し・追込集団!! 我々の前で今、異常事態が起ころうとしています!!』
最終直線に入る前に潰えていく逃げと先行の競走者達。驚くべきことに、最終直線に入った時、差し・追込勢と、逃げ・先行勢の位置関係が逆転してしまっていた。こうなっては、逃げ・先行のウマ娘に勝ち目はない。ずるずると後退し、誰が最下位になるかの逆レースが始まる。
そして、位置関係が逆転したとなると――当然やってくる差し・追込勢。
『さあ、好位置から飛び出してきたのは、2番人気のグリーンプレゼンスと3番人気のディスティネイト! 前傾姿勢になって大外から上がってくるぞ! 少し遅れてビワタケヒデもスパート体勢に入った!』
(来たっ、グリーンプレゼンス!! ビワタケヒデに、ディスティネイトっ!!)
私が目をつけていた3人がぐんぐん速度を上げて、トップスピードに乗ろうとしている。私の爆逃げでどれだけペースが乱れ、スタミナを削られているかは分からない。しかし、彼女達の表情にもまた余裕はない。
最終直線に入って、私が6バ身の差をつけて先頭。しかし、阪神レース場の直線は短いわけではない。この差を保ってゴール……なんて一筋縄には行かない設計になっているから、後続の巻き返しのチャンスは充分以上にある。その理由の一端を担うのは、阪神レース場最後の関門――最終直線に待つ心臓破りの坂。
この上り坂は高低差こそ1.8メートルと低めなのだが、勾配が1.5%とかなりキツい。ここまで全力疾走で駆け抜けてきた脚と肺に、この勾配はボディブローの如く効いてくるのだ。
残り300メートルを切って、先刻流し込んだ昼食を吐瀉しそうになりながら、歯を食いしばって爆走する。遂に最後の坂に差し掛かったその時、視界がぐにゃりと歪んだ。
「ぐ、ぉ――――」
思いっ切り寒気がした。背中の辺りがぶるぶると震え、嘔吐寸前の兆候が現れる。胃が持ち上がり、食道にかけて搾られるような感覚がした。生理反応に闘志がきゅっと萎みそうになるが、絶叫に似た気迫で全てを黙らせる。最後の力と想いを振り絞って、私は坂を駆け登る。
「うぁあああああああああああっっっ!!!」
ゴールまで残り僅かになって、私を射程圏内に収めた例の3人が末脚を爆発させている。阪神レース場4コーナーの下り坂を利用してトップスピードになった差し・追込ウマ娘が、容赦なく私の背中を刺そうとしている。嫌だ。この坂で1着争いから振り落とされるわけには行かない。死ぬ思いで腕を振って、棒になりそうな脚の回転を促す。
鹿毛を揺らして、グリーンプレゼンスが2番手に追い上げてくる。靱やかな身体が沈み込み、末脚が発揮される。続いて3番手、黒鹿毛のバ体――ディスティネイトが、グリーンプレゼンスにピッタリ併せウマの形で突っ込んでくる。ビワタケヒデはちょっと立ち遅れたか、4番手を走っている。
『残り200メートル!! 先頭はまだまだ粘るぞアポロレインボウ!!2番手争いにはグリーンプレゼンスとディスティネイト!! 少し遅れてビワタケヒデ!! アポロレインボウ苦しそうだ、これは追いつかれるか!?』
残り200メートル。坂を登らんと果敢に挑んだビワタケヒデの上体が大きく揺れた。……最後の直線に上り坂があるとどうなるか。スタミナが切れてきたウマ娘やパワーの無い馬が失速し、まっすぐ走れずヨレていくのだ。ビワタケヒデにはそれが起こった。
『おっと、ビワタケヒデが――ビワタケヒデがスタミナ切れです!! 逃げ先行だけではなく、差しのビワタケヒデもアポロレインボウのペースに呑み込まれたか!!』
ビワタケヒデの鹿毛の上体が立ち上がり、急激に失速していく。――彼女は脱落した。
残り150メートル。坂を何とか登り切ろうとするグリーンプレゼンスの末脚が
『これはもう3人だけの争い!! あ、いや――グリーンプレゼンスが!! グリーンプレゼンスがスタミナ切れだっ!! その上体が仰け反っているっ!!』
グリーンプレゼンスの表情が苦痛に歪み、歩幅が小さく、弱々しくなっていく。綺麗な姿勢を保っていた上半身が、背骨に通っていた糸を失ったかのように項垂れた。懸命に振られていた両腕が勢いを失い、グリーンプレゼンスの身体が視界の後方に消えていく。
――彼女もまた、脱落した。
残り100メートル。
調子が悪そうに見えたディスティネイトが、ここに来て凄まじい切れ味を見せていた。末脚を使い果たして沈みゆくグリーンプレゼンスを躱し、どんどん縮まっていく私との差。3バ身、2バ身、1バ身。一歩一歩踏み締める毎に近づいてくる蹄鉄の轟音。もはや最後の気迫すら上げられない私の耳に、ディスティネイトの絶叫が聞こえてくる。
「ああぁぁぁあああああああっっっ!!!」
彼女は元々長距離もこなせるステイヤーだ。スタミナには自信があったのだろうか――と片隅で思考しつつ、私は限界寸前の身体に鞭打つ。
だが――あまりにもあっさりと、並ばれた。ディスティネイトが勝ち誇ったように白い歯を剥き出しにする。
「う、そ――っ」
掠れた悲鳴が己の口から漏れ出た。
あと一歩ではないか。残り100メートルもない。あと数歩で事足りるはずではないか。絶対に負けたくないのに、どうして動かないんだ、この両脚は。
流石に1100メートルの超ロングスパートだなんて無理をしすぎたか。いや、無理も作戦の内。こうでもしなきゃ勝てない奴らがトゥインクル・シリーズにいるんだ。
――まだ、やれるだろ。
この戦い、絶対に後悔したくないよっ!
「ぐ、あぁぁあああああああっっ!!!」
『残り100メートルを切った!! 残ったのは2人だけ!! この異常事態の中、全力で走れているのはアポロレインボウとディスティネイトの2人だけだ!!』
残り50メートル。
もう限界だ。横を見る余裕なんてない。多分、ディスティネイトにぴったり並ばれている。抜き返す気力はあっても、体力がない。心が折れそうになっている。
限界に挑み、負けるのか。でも、若葉ステークスを2着なら、皐月賞の優先出走権が貰えるんだっけ。なら、このまま負けてしまってもいいか――
「――――」
その時だった。飛びそうな意識の中、私を導く声が聞こえた。
「頑張れアポロぉっ!!
はっと目が覚めるような感覚がした。
あの人の声だ。視線だけを一瞬、スタンドに彷徨わせて、彼を探す。
――いた。
両手を振り上げて、喉が張り裂けんばかりに叫んでいるではないか。私を見て、応援して、信じてくれる人がいるではないか。
彼は私の勝利を疑っていないのだ。
あぁ、こんなに嬉しいことはない。
それを知覚した瞬間、視界の四隅に電撃が走る。ばちばち、と故の分からぬ快感が脳髄に迸る。足元から得体の知れない力に持ち上げられる感覚がした。
切れかけたスタミナが復活しようとしている。視界は真っ白に染まり、風を切る感触だけが肌を撫でていた。
「――これが――」
その時、私は
しかし、その寸前で――掴み損ねた。
いや、運悪く邪魔された――と言うべきか。
ディスティネイトの上体が思いっ切り持ち上がり、私の視界を掠めるように大きくヨレて減速していったのだ。展開されかけた『
『――ディスティネイトがヨレた!? 苦しそうに顔を上げるディスティネイト!! これは大勢が決したかアポロレインボウ!!』
意識外の出来事に度肝を抜かれたまま、私はゴール板を駆け抜けた。
若葉ステークス、幕切れの時だった。
『ゴォォールッ!! アポロレインボウ完勝!! ハイペースに持ち込む走りで後続のスタミナを磨り潰し、見事な完封劇を披露しました!』
訳の分からぬまま、ゆっくりと速度を落として後ろを振り返る。そこには、スタミナ切れを起こし、オープンクラスのレースとは思えぬ速度で次々にゴールしていくウマ娘がいた。彼女達は誰に言われるでもなく、ゴール板を駆け抜けると同時にターフに倒れ込んでいく。
……怪我した子がいないかは心配だったが、それよりも気になったことがあった。ゴール板寸前で私を襲った、科学ではとても証明できない現象の数々。
――あれか。あれが『
久々の勝鬨。ホープフルステークスの敗走、若駒ステークスの怪我を乗り越えて、私は帰ってきたんだ!! 喜びを爆発させて笑顔になると、それを見計らったかのようにスタンドの歓声が爆発した。
『アポロレインボウが右手を突き上げると同時、オープン戦とは思えない大歓声が阪神レース場に生まれました! いや〜、アポロレインボウは半年ぶりの勝利ですか。若駒ステークスでは不運がありましたから……こちらも感じるものがありますね』
『本当に素晴らしいウマ娘ですね。ここに来てベストなレースを見せてくれるとは……。サイレンススズカの“逃げて差す”大逃げとは違って、“逃げて更に逃げる”大逃げとでも言いましょうか。勝ちウマ娘以外がスタミナ切れを起こすレースなんて、初めてお目にかかりましたよ』
実況・解説の声に、私はふと現実に戻る。
……いや、私の大逃げなんてまだまだだ。今のサイレンススズカは、彼女以外の全てのウマ娘が敵になろうと、先頭をキープして1着を走り抜く力がある。そもそも競りかけることすらできない速度で最初から最後まで突っ走るのだから、敵がどれだけ増えようと問題にならないのだ。
でも、私にはそこまでの力はない。今回はそれぞれのウマ娘が
『た、タイムは―― おおっ!? 1分57秒9! 先週、サイレンススズカが出した2000メートルのタイムに肉薄する時計です!!』
『彼女、まだクラシック級ですよ。末恐ろしいですね……』
――でも。それでも、今は喜ぶべきなのだろう。何せ、およそ半年ぶりの勝利だから。あの人に支えられての勝利だから。
こんなの、嬉しくないはずがない。
ちぎれんばかりに両手を振り、この場にいる全ての観客に感謝を告げながらホームストレートを駆ける。すると、2バ身差の2着につけたディスティネイトが話しかけてきた。
「よう、おめでとうアポロちゃん!」
「ディスティネイトちゃんっ」
「いや〜……今日は仕上がりが良すぎて、自分でもビビっちまうくらい調子が良かったんだけどなぁ。あんなえげつないレースされたら、そりゃ勝てないっつの」
ディスティネイトの息はまだ絶え絶えだ。何とか誤魔化そうとしているが、脚は震えているし肩は大きく上下に揺れている。そんな彼女は私の肩をポンと叩くと、こう言い残してターフを去っていった。
「――皐月賞っ! ぜってぇ負けねぇから待ってろよ! それじゃ!」
彼女を見送ると、ターフの上にいるウマ娘は私だけになった。ウィナーズサークルに向かう途中、私はゴール板付近にいたトレーナーと柵越しに目が合う。
「トレーナー……」
「アポロ……あぁ、本当に良かった……」
ハンカチを握り締め、わざとらしいくらいに涙ぐむとみお。「ちょっと、泣きすぎだよ」「だって仕方ないだろ」と言い合いながら、柵越しに手を取り合う。彼は涙と鼻水で視界が覚束ないようなので、ハンカチを取り上げて顔を拭いてやる。
情けなく泣く顔も可愛いな、なんて思いながら、私は彼の頭を撫でた。きっと、私の知らぬところで数々のプレッシャーに曝されてきたはずだ。1月末の若駒ステークスの怪我についても、非常に重く受け止めていて――と言うか重く受け止めすぎて、その落ち込みようは見ていられなかった。
この勝利は、私だけではなく――彼の心を救う勝利でもあったのだ。普段から自分を過小評価しがちな私でも、今日の勝利は大々的に誇っていいだろう。
『おやおや、素晴らしい信頼関係ですね』
『見ていて胸が暖かくなりますねぇ』
……いつの間にか、とみおの周りの観客がひゅーひゅーと指笛を鳴らし始めたので、私は顔を真っ赤にしながらウィナーズサークルに向かった。やばい、いつものノリでベタベタするのはまずかったか。もし記者に質問されたら、言い訳も考えておかないと……。
こうして私の若葉ステークスは見事な勝利で幕を下ろした。
そして、クラシックの前奏たる3月が終わり――いよいよ4月がやってくる。