ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
勝負服に着替えてお化粧を済ませて、私は姿見の前に立つ。この姿でレースを走るのは2度目になるが、ウエディングドレス風の勝負服は長年連れ添った相棒のように感じる。とにかく着心地が良いし、明らかに走りにくいはずなのに、関節の可動域は不思議なことに狭くならない。
ウマソウル……というやつが勝負服に込められているのだろうか。私には分からないことだけど、この勝負服の存在は凄く心強かった。
スタッフさんと入れ替わりにトレーナーが部屋に入ってきて、私の周りをぐるぐると回り始める。自信ありげに尻尾を振ってあげると、彼は何かを納得して大きく頷いた。
「うん。身体の仕上げは我ながら完璧だし、調子も良さそうだね。勝負服も似合ってるよ」
気づけばパドックまで残り僅かとなっていた。一応トゥインクル・シリーズはスポーツと興行を兼ねているため、雑に勝負服を着るのはご法度だ。一生映像に残る上メディアによる生中継も盛んに行われているため、スタッフの手によって、髪のセット・お化粧・勝負服の着付けは特に念入りに行われる。
で、この勝負服の着付けはかなり難しいらしく、スタッフさんはかなり手間取っていた。まぁ、時間をかけたお陰でトレーナーが褒めてくれたし、着付けの間「T」のポーズで立っているだけだったから精神統一に当てられたし、悪いことだけではなかった。
「……そろそろパドックだね」
「あぁ。第9レースの京葉ステークスはもう終わってるからな。そろそろ行かないと」
皐月賞は中山レース場第10レースであり、そのひとつ前のレース――第9レースのオープンクラス・京葉ステークスは既に終わっている。京葉ステークスはダートのスプリント戦だから、芝の具合が極端に変わっていることもないだろう。『グリーンベルト』はそこにあるはずだ。
「アポロレインボウさん、そろそろ――」
ノックされた扉の向こうからスタッフの声がしたので、私達は揃って立ち上がった。目と目を突き合わせて、頷き合う。そのまま言葉ひとつ交わさず、私達は中山のパドックに向かった。
――レース開始50分ほど前、10万人を超える大観衆が中山レース場のパドックに殺到していた。我こそは肉薄してウマ娘の姿を、とパドック付近の柵前に押し寄せている。ただ、パドック内に入り込むような無法者はいないのだから、ファンの意識の高さが窺える。
パドックに控えるは、『最も速いウマ娘』という栄光を狙う18人。ライバルを注視してトレーナーと話し込むウマ娘や、瞳を閉じて集中力を高めているウマ娘、はたまたソワソワして落ち着かなさそうなウマ娘もいて――晴れ渡る空の下、多様な18人のウマ娘が心の赴くままに過ごしている。私はライバルを観察してトレーナーと話す側のウマ娘だ。セイウンスカイ、スペシャルウィーク、キングヘイローから1秒たりとも目を離せなかった。
そうこうしていると、準備が整ったのか……スタッフに導かれた1枠1番のシャドウストーカーがお披露目台に立った。頭の上から聞き馴染んだ実況と解説の声が聞こえてくる。
『1枠1番、シャドウストーカー。11番人気です』
『人気は低いですが、実力のあるウマ娘です。意表を突く作戦による一発に期待しましょう』
シャドウストーカーは緊張した面持ちでステージ上に進むと、思い切ったように上着を払い除けた。1番手だったからだろうか。大袈裟に脱ぎ捨てた上着がド派手に宙を舞い、ワッと歓声が上がった。早くも中山レース場のボルテージは最高潮に達しつつある。
『すごい歓声ですねぇ。レース開始前だというのに、最終直線の大歓声を聞いているみたいですよ』
『今日の中山レース場は超満員ですから……この歓声の多さも無理はないでしょう』
順番が回り回って3番目のセイウンスカイになると、普段とは違って精悍な目付きをしたセイウンスカイがステージ上に姿を表した。これが本当の意味での初披露となる彼女の勝負服。私はどんな意匠か知っているからいいが、観客や他のウマ娘達はセイウンスカイの勝負服のデザインを全く知らない状態だ。セイウンスカイが肩にかかった上着に手をかけると、あちこちからごくりと唾を飲み込む音が聞こえてきた。
普段は「堂々とする」という言葉とは無縁で、飄々とした態度を取っていたセイウンスカイが――覇気さえ発しながら威風堂々と上着を放り投げた。一瞬、飛び上がったその上着に目を取られる観客達。すぐに視線はセイウンスカイの勝負服へと戻っていき、あちこちから感嘆の声が漏れた。
銀の輝きを帯びた芦毛が、太陽の光を受けてきらきらと輝いている。彼女の澄み切った蒼い瞳が、セイウンスカイの天邪鬼な性質さえ消し去ってしまいそうなほど美しく光る。彼女の身を包むのは、フリフリでふわふわの白い服に、緑と黄色のアクセントが付けられた勝負服。ショートパンツやイヤーキャップには雲の意匠が施され、セイウンスカイの名を表すような雰囲気だ。
今日のような快晴の空を思わせる真っ直ぐなデザインはお客さん達の心を鷲掴みにしたようで、彼女が軽く手を振る度に、その方向にいた観客が沸き立った。
『――2枠3番、セイウンスカイ。2番人気です』
『素晴らしい仕上がりですねぇ……この皐月賞では何を仕掛けてくるのでしょうか。楽しみにしておきましょう』
あぁ、本当に――嫌いになりそうなくらい、憎しみさえ生まれてしまいそうなくらい、セイウンスカイの調子は絶好調だった。それも、あのセイウンスカイが
彼女のウマ耳は、観客が彼女の名を叫ぶ度にぴこぴこと元気よく跳ね、尻尾は目立ちすぎるくらいによく振れている。彼女のトレーナーである如月さんが肩を叩いて何かを耳打ちすると、セイウンスカイの顔色が更に良くなった。良くなってしまった。
……セイウンスカイのミスを待つようなレースは望めないな。スペシャルウィークとキングヘイロー、残りの2人の調子はどうだろうか? 私はパドックに下がっていくセイウンスカイを見届けて、次なるウマ娘達を観察した。そして、いよいよキングヘイローのお披露目の番になった。
『6枠12番、4番人気のキングヘイローです』
『彼女も元気そうですねぇ。上手いレース運びで見事好位置に付けることができるか? 彼女の末脚には要注目ですよ』
前枠である6枠11番、ディスティネイトの好調な雰囲気を受けてのコメントだ。キングヘイローは精錬された動作で上着を払うと、いつものようにお嬢様然としたポーズになった。
顎の下に手を当てて、眉をキリリとしながら微笑むキングちゃん。彼女の調子は確かに良さそうだ。ホープフルステークスの時までとは言わないが、彼女の黒がかった鹿毛は艶を帯びているし、トモのハリも非常に良い。弥生賞の時から更に調子を上げてきたようだ。
彼女もまた侮れない。ベストな走りをした時、この場で最も強いのはキングヘイローかスペシャルウィークだ。特にキングヘイローに関しては、逃げウマの私からすると厄災みたいなもの。どうにか彼女がリズムを崩し、あの末脚が発動しないことを祈るだけと言うか……それくらい彼女の豪脚はえげつないのだ。あれが飛んできたらほぼ100%勝てない。
キングヘイローが引っ込んでしばらくすると、いよいよ私の番だ。私はお披露目するためにステージに上がり、右手を振り払うようにして上着を投げ捨てた。
『8枠17番、アポロレインボウ。3番人気です』
『うぅ〜ん、彼女もまた素晴らしい仕上がりのようです。大外枠と逃げのウマ娘にとっては不利な条件が揃っていますが、果たしてファンが期待するようなレースを作り出せるのか? また、レコードを演出するかどうかも楽しみですね』
私が勝負服を露わにした途端、ざわめきが少し止まる。正直、分からんでもない。やっぱりこのウエディングドレス風の勝負服は目立ちすぎる。水色の刺繍とか、左右非対称の白黒ハイヒールはともかく、白一色の勝負服というのがいかようにも目を引きすぎてしまうのだ。そうでなければ、へそに注目しているのだろうか。それは分からないけど。
「クラシック第1線の皐月賞――俺はアポロレインボウを推すぜ」
「どうした急に」
「お前には見えないのか、アポロレインボウから噴き出すあの青いオーラが。ライスシャワーが纏っていた威圧感と似た性質を感じるぜ」
「オーラは見えないけど……確かに不思議な感じがするな。でもこの変な感覚、セイウンスカイやキングヘイロー、スペシャルウィークからも感じるんだが……」
「あぁ……確かにあの4人は特にオーラが燃えている。正直な話、オーラの量だけで言えばセイウンスカイが上っ……! だけど、俺はずっとアポロレインボウを応援してきたんだ! 悲願のG1タイトル、今日こそ取ってくれるって俺は信じてる!」
「きっと、今までで最高の皐月賞になるな。全力で応援しようぜ!!」
数秒か、それとも数分か。ステージ上で思う存分視線を集めた私は、さっと身を翻してトレーナーの元に向かった。次にお披露目されるのは、堂々の1番人気――スペシャルウィークだ。
私とすれ違うように、黒鹿毛のボブカットと白い三つ編みが視界を横切る。お互い視線を交わすことは無かったが、意識はしているだろう。この皐月賞の舞台で戦うにあたって、私とスペシャルウィーク、キングヘイローやセイウンスカイは、互いを意識しなかったことがなかった。誰をマークするか考えに考え抜き、取捨選択を行い、データによる長所・短所の洗い出しによって対策を立て、万全の準備を喫してやっとこの舞台に立っている。4人がそれぞれを意識し合い、高め合ってしまっているのだ。相手は自分より強いと考え、余すところなく鍛え抜いた結果が今だ。
スペシャルウィークとすれ違う際、以前の彼女には感じなかった何かを感じた。キングヘイローやセイウンスカイにも言えるが、クラシック級の冬や春先を経て、集めたデータには現れない成長を見せているのだろうか。私はパドック内で腕を組んで、彼女のお披露目を見守った。
スペシャルウィークは「もう失敗しないぞ」という風に、何度か頷きながら上着を上に放り投げた。勢いが良すぎてスカートが捲れ上がりそうになったが何とか持ちこたえて、スペシャルウィークの勝負服が観客の目前に曝された。
『8枠18番、スペシャルウィーク。1番人気です』
『私イチオシのウマ娘です。軽快にジャンプして、調子も良さそうですね。弥生賞を制した豪脚が、不利な大外枠から繰り出せるか。彼女からは目が離せませんよ』
白と紫と淡いピンクを合わせたような、アイドル風の勝負服を身に纏って手を振るスペシャルウィーク。パドックの隅から僅かに覗く彼女の後ろ姿を睨むと、その尻尾の様子だけで彼女の調子が良いのだと理解できた。
私の隣に立つとみおが大きく息を吸い込んだ。迷わず耳を彼の口元に近づけると、彼はこう耳打ちしてきた。
「
「……了解」
例の3人が全員調子良好となれば、作戦変更の意味はない。作戦を変えるような時は、セイウンスカイが今にも倒れそうなほど絶不調な場合くらいしか考えられなかったが……まぁ、転ばぬ先の杖である。
こうしてお披露目が終わると、私達は専用の道を通って本馬場入場することになった。1枠1番の子から次々にターフへと駆けていき、スタンドを湧かせている。
私も彼女達の後を追わなければいけないのだが、どうにもそれができなくて。私はとみおの手を強く握った。
「…………」
気分は戦いの前で高揚している。早く戦いたいと心が疼いている。だが、パドックからターフに向かう道の先――歓声が溢れてくるターフを目の当たりにして、少し緊張してきてしまったようだ。
いつもなら手を繋ぐという行為は、それこそ膨大な恋心を変換するための、甘美な行為として行っていたはずだ。しかし、ここは重い重いクラシック寸前の一幕。
少女の精神が色濃く出ている今の私は、ここにきて竦んでしまっていた。私の手の震えから何かを察したのか、とみおが繋いだ手とは逆の手で私の髪の毛を撫でてくる。
「大丈夫……大丈夫だアポロ。俺がついてるからさ」
「……本当?」
私らしくもない弱音だと思った。だけど、止めようもないくらいに自分の言葉だった。私は彼と繋いだ手に力を込める。困ったように彼が苦笑したかと思うと――私は彼の腕の中にいた。
ふわりと、温かくて、彼の匂いがした。緊張が解けていき、温もりの中で闘志と恋心が燃え盛った。
「俺はターフの上じゃ戦えない。君はこれからひとりで戦わないといけない。でも、俺はずっと走る君の隣にいる」
「……うん」
「信じてくれアポロ。自分と、自分のトレーナーを」
「――うんっ」
「――信じてるぞ。さぁ、行っておいで」
彼の抱擁から解放されると、彼の言葉に背中を押され――私はターフへと駆け出した。