ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

73 / 151
63話:衝突!菊花賞!その1

 ――菊花賞。URAが京都レース場で施行する、クラシック三冠路線の最終戦として行われる長距離レースである。

 

 皐月賞は「最もはやいウマ娘が勝つ」、東京優駿(日本ダービー)は「最も運のあるウマ娘が勝つ」と呼ばれるのに対して、菊花賞は「最も強いウマ娘が勝つ」と言われている。

 

 その理由として、菊花賞は2度の坂越えを含めた3000メートルという超長距離を走らなければならないことが挙げられる。ジュニア級からクラシック級10月まで――つまり菊花賞よりも早い時期に3000メートル以上の距離を走るレースは、日本のトゥインクル・シリーズには存在しない。

 

 3000メートルは未知の道のりなのだ。長丁場を乗り切るスピードとスタミナを兼ね備え、2回に渡って淀の坂を克服することが求められるため「最も強いウマ娘が勝つ」と称されている。

 

 こうしていよいよ迎えた10月4週の菊花賞当日。京都レース場に集まった観客数は12万人。京都レース場の観客動員数レコードは143606人だから、それに肉薄する相当数の観客が集まったことになる。

 

 この凄まじい観客入場数は、私達の世代を中心に巻き起こっている『第3次トゥインクル・シリーズ・ブーム』によるものだ。メディアも『G1ウマ娘4人が集結』『史上最高の菊花賞』『2人のダービーウマ娘が集う史上初の菊花賞』と調子の良い煽り……もとい宣伝を打ちまくっていて、世間の熱が盛り下がる様子はちょっと想像できない。

 

 1週間前くらいからウマスタのDMの通知が鳴り止まず、名も無きファンからお世話になった先輩や友達に沢山の応援メッセージを貰った。マルゼンさんだけは普通のメールを送ってきたので、社会人風な感謝の返信をしておいた。

 

 私を応援してくれる人の言葉が熱い想いとなって、背中を押してくれる。桃沢とみお、ファンのみんな、マルゼンさん、パーマーさん、ヘリオスさん、マックイーンさん、スズカさん、事情を知ったフクキタルさん、グリ子、ミークちゃん、桐生院トレーナー、沖野トレーナー、ルドルフ会長、タキオンさん、あと『Le Moss』っていう謎の人……色んな人の言霊が身体を包み込んで、運命から私を守ってくれる殻となった。

 

 フクキタルさんから貰ったミサンガもある。『このミサンガには勝負運と健康を向上させる効果がありまして!! ぜひぜひ左の足首に付けて走ってください!!』とのことだったので、勝負服を着ると同時に左足首に巻かせてもらうことにした。菊花賞を制した彼女のご利益に預かることとしよう。

 

 前日に京都に赴いた私達は、朝の9時に現地入りした。高鳴る心臓を落ち着かせ、私はストレッチに励む。最高のコンディションから繰り出される出力は予想がつかない。筋肉を解しておいて損は無いはずだ。

 

「…………」

「アポロは落ち着いてるな」

「まあね。心配しても、もはやどうにもならないかな〜って感じ」

「……君は強いなぁ」

「う〜ん。自分に起こってることを理解してないから、のほほんとしてられるのかも」

 

 不安はなかった。完全に消えたわけじゃないけど、ほとんどないと言っていい。だって、私達はやるべきことをキチンとこなしてきたのだ。対策に対策を重ね、神頼みにさえ縋り付いて、その結果私達は未知の領域を受け入れる準備が整っている。

 

 まさに、人事を尽くして天命を待つ。後は三女神様のご機嫌を窺うしかないわけだ。

 

 長きに渡ってストレッチをした後、私達は菊花賞の作戦を確認しておくことにした。ちなみに菊花賞の枠番はこうなっている。

 

 1枠1番9番人気ジュエルスフェーン。

 1枠2番8番人気オボロイブニング。

 2枠3番10番人気リボンヴィルレー。

 2枠4番3番人気セイウンスカイ。

 3枠5番2番人気アポロレインボウ。

 3枠6番12番人気コンテストライバル。

 4枠7番5番人気リトルフラワー。

 4枠8番11番人気ブリーズシャトル。

 5枠9番4番人気キングヘイロー。

 5枠10番13番人気シャープアトラクト。

 6枠11番7番人気ランクツネヒト。

 6枠12番6番人気ジョイナス。

 7枠13番15番人気オリジナルシャイン。

 7枠14番14番人気ディスティネイト。

 7枠15番16番人気イレジスティブル。

 8枠16番17番人気マッキラ。

 8枠17番1番人気スペシャルウィーク。

 8枠18番18番人気オーバードレイン。

 

 奇しくもあの悪夢と全く同じ枠番だが――運が味方したか、クラシック路線最後の舞台にふさわしい絶好の秋晴れだ。場は『良』の発表で、ダービーウマ娘のスペシャルウィークが1番人気。彼女は前走の神戸新聞杯で圧巻のパフォーマンスを見せて8バ身の大勝を収めた。順当な1番人気である。

 

 2番人気は私、アポロレインボウ。大衆からの妙な人気のせいでこの位置だ。ダービーウマ娘とはいえ、ステップレースを経ずに2番人気なのだから、どれだけ私が人気なのか窺える。無論、私は負けるつもりは毛頭ない。ぶっちぎって勝つ気満々だから、上位人気なのはありがたい限りだ。

 

 3番人気はセイウンスカイ。前走の京都大賞典にて、セイウンスカイはシニア級ウマ娘に対して強い勝ち方をしたのだが、彼女はゲート入りを嫌がった。そのため、ごく最近にゲート入り再審査を執り行うという珍事(?)が起きていた。普通なら1番人気になってもおかしくなかったが、ゲート難が厳しく評価されてこの人気になったというわけだ。

 

 4番人気はキングヘイロー。前走のセントライト記念で強烈な勝ち方をしたが、3000メートルという長距離を走れるのだろうかという疑問のため4番人気に落ち着いた。

 

 さて、私達の作戦は『一心不乱の爆逃げ』である。3枠5番という中々の枠番を引けたので、スタートからゴールまで全速力でフォームを乱さずに走り切る。それが作戦だ。

 

「何回か言ったことがあるけど、アポロには後ろを確認しすぎるきらいがある。長距離で君の逃げを破れる者なんてそうそういないんだから、無駄に後ろを向いてプレッシャーを感じるようなことは避けた方がいいと思うよ」

「う、うん……でも、確認が癖になっちゃってるみたいなの」

「そうだよなぁ……」

「コーナーを利用して後ろを確認するくらいは許してほしいな〜なんて」

「……まぁ、そうだね。コーナーでならフォームも大して崩れないだろうし……」

 

 サイレンススズカはレース中滅多に後ろを確認しない。ただただ自分の逃げを貫き、最終コーナーに入ったらラストスパートをかける――それだけで良いのだ。勝ててしまうから。

 

 だけど、私にはそこまで堂々とした戦法は取れない。あれは彼女に固有の戦法なのだ。菊花賞の相手はトレセン学園を代表する優駿であるという事実が、私を捕えて離してくれない。そういうわけで、小心者の私は後ろを振り返らずにはいられないのである。

 

「あ、もう12時だ」

「そろそろ飯でも食べるか?」

「そうしようかな」

 

 そろそろ昼食の時間になったので、私は持ってきたおにぎりを頬張り始めた。願掛けにカツでも食べたい気分だったが、さすがに胃もたれするかもしれないのでダメだ。私はウマホで枠番やニュースを覗きながら、早々とおにぎりを食べ終わった。口を動かす暇があるなら、脳を動かしてレースのことを考えていたいのだ。私はWeb版月刊トゥインクルなどを見て最後の時を過ごすことにした。

 

 そんな時、とみおが私の顔を見て笑った。唐突な笑い声で現実に戻ってきた私は、とみおの方を見て首を傾げた。

 

「どうかしたの?」

「アポロ、ほっぺたにお米ついてるよ」

「えっ! ど、どこに?」

 

 彼に言われて急激に恥ずかしくなってくる。ウマホをぶん投げて、私は自分の頬をまさぐった。彼が言うには米粒が付いているらしいが……そんなことするのはスペちゃんとかオグリちゃんくらいなものだ。

 

 とみおが苦笑いしながら自分の頬を指さして「ここだよ」と指示してくるが、どこを触っても米粒の感触がない。いつまで経ってもお米が取れないからか、とみおが破顔しながら溜め息をついた。

 

「アポロ……君って子は、本当に……」

「どこ!? あ、いや! 恥ずかしいからやっぱこっち見ないで!」

「しょうがないな。俺が取ってあげるから、ほらこっち向いて」

「わっ、ちょっ」

 

 とみおが急に接近してくる。私の両手を振り解き、唇に向かって手を伸ばしてくる。私は悲鳴を上げそうになりながらぎゅっと目を閉じた。

 

「んむっ」

 

 暗闇の中で感じたのは、唇の端に押し付けられた柔らかな感覚だった。その感覚はすぐに私の肌から離れていき、何事かと目を開いた時、その正体が明らかになった。

 

 それはとみおの人差し指だった。しかも、あろうことか彼は私の口元についていた米粒を食べてしまったのである。

 

「あーーーー!!!」

「うるさいぞ。そろそろ勝負服に着替えなさい」

「変態! 最っ低! マジありえないんですけど!!」

「はいはい、ごめんよ」

「もーーーー!! 流さないでよ! こら!」

「あと数時間で菊花賞が始まるぞ、早く着替えた着替えた」

「ぐっ……後で覚えておいてよね……」

 

 全く誠意のない謝罪に頬を膨らませながら、私はとみおの手から勝負服を受け取った。この男……本当にデリカシーがない。女の子の口元についた米を普通に食べるとか、ほんとに何なの。相手が私だから許してあげるけど、私以外にやったら普通に刑務所行きじゃん。

 

 菊花賞前に余計なことしないでほしいよね、全く。……いや、余計なことではないかな? どっちかと言うとドキドキしたし、嬉しかっ……ウホン。とにかく今は勝負服に着替えよう。菊花賞に集中しなければ。

 

 私はとみおと入れ違いにやってきたスタッフさんに挨拶して、体操服を脱ぎ去った。

 

 

 勝負服を着せ付けてもらい、それと同時にお化粧が終わる。やっぱりプロの手でしてもらう化粧は、自分の手でやる化粧よりも上手い。いつもの3割増で自分の顔色が良く見えるし、まつ毛もいい感じになっている。

 

 こうして鏡で見ると、アポロレインボウは浮世離れした超絶美少女だ。芦毛のウマ娘が白い勝負服を着て、遠くから見たら妖精のようではないか。スタッフさんも――恐らくお世辞だろうが――とても可愛いですよ、なんて言ってくるものだから、G1の時は毎回調子に乗りそうになる。

 

 実際、とみおの調整が上手いおかげで、G1の時は肌のツヤも身体のキレも絶好調であるから、私の可愛さが1割増な所はあるだろうけどね。

 

 両手を広げて鏡の前でくるくると回る。そのまま軽くステップを踏んで己の身体の状態を確かめたところ、私は史上最高のコンディションにあることが分かった。勝負服を着た途端、足元からとてつもないパワーを感じたものだから、何となく予想はついていたが……。

 

 何と言うか、マジに空の果てまで飛んで行けそうな感じがする。気合いの乗りは最高だし、身体中から今にも力が溢れ出しそうだ。パドックの時間さえまだまだ先なのに、脳が沸騰してレースのことしか考えられなくなる。

 

 ヤバいと思ってその場で旋回して、何とか走りたい欲を押さえつけるが……ムズムズが全然止まらない。ターフの緑を思い浮かべた瞬間にも走り出してしまいそうだ。

 

 控え室に戻ってきたトレーナーも私の異常に気づいたらしく、慌てて傍に駆け寄ってくる。

 

「アポロ、大丈夫?」

「大丈夫……じゃないかも。ちょっとこっち来て」

 

 私はとみおの服の裾を引っ張って、彼の胸に思いっ切り鼻を押し付けた。彼の全身に力が入ったのが分かる。しかし彼も「いつもの甘え癖か」と思い出したのか、逆にこちらの頭を撫でてきた。

 

 彼の匂いを感じると、例えようのないくらい落ち着いた。彼が私の身体を包み込んで守ってくれているような気がして、全身の力が抜ける。トレーナーに撫でられることによって私は完全に落ち着きを取り戻し、溢れんばかりの闘争心を収めることができた。

 

「……落ち着いた?」

「うん。気合いが入りすぎて()()()()()けど、もう何ともないよ」

 

 ……慌てることはない。私は桃沢とみおという頼れるトレーナーに守られているのだ。ターフの上に立ったとしても、孤独ではない。桃沢とみおという確固たる大人に加え、数々のウマ娘やトレーナーが私のために動いてくれた。直接的な関わりがなくとも、みんなの想いが私に勇気と力を与えてくれる。

 

 私はとみおの胸から顔を離し、白い歯を見せた。彼もまた、満面の笑みを見せてくる。

 

「ちょっと早いけど、もう控え室から出ちゃおっか」

「いいのかな?」

「いいんじゃない? パドックの方に向かってれば、スタッフさんも気づくでしょ」

「え〜……適当だなぁ。ま、いっか」

 

 私達は手を取り合って、控え室から抜け出そうとして――そのまま止まった。2人で顔を見合わせて、ほとんど同時に口にする。

 

「アポロ。ミサンガ付けたっけ?」

「あ。忘れるところだった……フクキタルさんにせっかく頂いたんだから、ちゃんと付けていかないとね。えーと……左足首に付ければいいんだっけ」

「あ〜、俺がやるよ。アポロは座ってて」

「うん、そうさせてもらうね」

 

 私は近くの丸椅子を引き寄せて、ちょこんと腰掛ける。彼は床に跪いて、赤色と白色の編み込みがなされたミサンガを手に取った。彼の姿勢に合わせて私は左足をゆっくりと持ち上げる。

 

「きつくない?」

「ん、大丈夫」

 

 とみおは私の細い足首にミサンガを巻き付けると、走る際に邪魔にならないよう(くるぶし)よりも上の位置でしっかりと固定した。きつくならない程度にミサンガを結んでも、私の足は依然変わりなく動く。

 

 それどころか、フクキタルさんの念の力を纏ったように脚が軽くなった。プラシーボ効果による思い込みのせいかもしれなかったが、私達が当てにしているのは思い込みを含めた精神の力だ。仮に軽くなっていなくとも、そう感じられるだけで良かった。

 

「ありがと」

「結構目立たないな。そこら辺も上手くチョイスしてくれたんだろうか」

「……フクキタルさんには後でいっぱいお礼をしなくちゃ」

 

 私はどきどきしながら足を引いた。まるで、ガラスの靴を履かせてもらったシンデレラになった気分だった。私が履いているのはガラスの靴ではなくてハイヒールだし、何なら付けてもらったのはミサンガだし、全くシチュエーションは違うけれど……それっぽい行為をしただけで、私の心はいっぱいに満たされたのである。

 

 これまでで一番興奮しながら、されど温かな落ち着きを心の内に共有した私は、大切なトレーナーと共にパドックに向かった。

 

 

 

 

 

 

 ――無防備で、儚くて、喋ればちょっとおバカで、自らを顧みない頑張り屋で。いつ無理をしてぶっ倒れるか分かったもんじゃない、絶対に目を離せないウマ娘。これは、桃沢とみおがアポロレインボウに対して下した評価である。

 

 桃沢とみおはずっとアポロレインボウのことを見てきた。これまでの1年半、片時も目を離さなかった。離せなかった。トレーニングルームで、ダンスレッスンで、坂路の上で、ウッドチップコースの上で、レース場で――アポロレインボウというウマ娘にずっと目を奪われていたと言い換えても良かった。

 

 見た目が良いせいだろうか? いや、それは正確ではない。もちろん、アポロレインボウの類稀な可憐さに見惚れる時は少なからずあったが――どちらかと言えば、彼はアポロに根付いた強い精神(こころ)に興味を持っていたため、目を離せなかった。

 

 アポロレインボウは諦めの悪い性格だ。その瞬間は敗北や挫折に打ちのめされても、すぐに立ち直る。涙さえ流しながら必死に努力し、その壁を越えようと死に物狂いでトレーニングに食らいついてくる。しかも、桃沢が「ギリギリこなせないかもしれないな」というトレーニングメニューを持ち前の根性で必ず乗り切ってくる。

 

 その小さな身体にどれだけの想い(チカラ)を秘めているのだろうか。桃沢は怪我に細心の注意を払いながらアポロレインボウを鍛え抜いていった。めきめきと実力をつけていく彼女を見るのは痛快だったが、正直なところ、この大器を自分のような新人トレーナーが育てても良いものかと迷う時もあった。

 

 だが、そんな彼の迷いを打ち砕いたのは他ならぬアポロレインボウ自身である。ジュニア級のある時、桃沢が「君のトレーナーとして相応しくないかもしれない」と零してしまった時があったのだが……アポロは数回瞬きした後に「私のトレーナーはとみおしかいないもん」と当然のように言ってのけた。また、「あなたじゃないとここまでやってこれなかったよ」とまで発言したのである。アポロレインボウは、新人トレーナーで何の後ろ盾もない桃沢とみおを信じ切っていたのである。

 

 それと同時に理解した。アポロレインボウの強い精神力は、誰かを信じることによって育まれた意志なのだと。

 

 それからの桃沢とみおは、アポロレインボウの信頼に応えるために身を削って努力した。天海トレーナーや沖野トレーナーを頼り、彼女に相応しいトレーナーになりたいと必死に知識を取り込んだ。そして担当ウマ娘を信じることで桃沢自身にも強い自覚が芽生え、彼女を最強ステイヤーに育て上げるのだという意志は決して揺るがぬものへと育っていった。

 

 ……と、ここまでアポロレインボウの強い部分を挙げてきたが、彼女にも弱い部分はある。強い精神力を兼ね備えているが、その実アポロレインボウはとても寂しがり屋で甘えん坊なのだ。うっかり屋さんでもあるし、少し頭の回らないところもある。しかし、彼女のそういうギャップが人を惹き付けて止まないんだろうな、と桃沢はぼんやり思う。

 

 ただ、不意に密接なスキンシップを取ってくるのは非常に心臓に悪いからやめてほしい。桃沢はアポロレインボウの左足にミサンガを結びながら、ぼんやりと思った。

 

 

 アポロレインボウのパドックが始まると、京都レース場に集った観衆が一際大きく揺れた。上着を脱ぎ去った彼女に視線が集中する。その様子を後ろから見守る桃沢とみおもまた、アポロレインボウに穏やかな視線を送った。

 

 客席のあちこちから名前を呼ばれる度、アポロレインボウのピンクがかった繊細な芦毛が揺れる。その髪の毛の1本1本がカーテンのように棚引いて、きらきらと光り輝く。その優しげなアメジストの瞳がパドックに押し寄せた観客に向けられる。雪のように白く透き通った肌が、太陽の光を浴びて燃えるように閃く。純白の勝負服が煌めいて、元気の良い尻尾が大きく揺れる。

 

 『強くなったな』。アポロレインボウの悠然とした横顔を見て、桃沢とみおは不意に押し寄せてきた涙を何とか堪えた。

 

 アポロレインボウは大きくなった。1勝を上げられるかどうか……という時期を乗り越え、山あり谷ありでダービーを勝つまでに成長した。その経験で培った自信は桃沢が考えるよりもきっと確固たるものだ。

 

 堂々としたアポロレインボウの振る舞いを見れば分かる。彼女は自分が思うよりもずっと、ひとりのウマ娘として成長した。

 

 しかし……まだだ。まだ泣いてはいけないのだ。菊花賞を勝利で終えるまで泣いてはならない。それに、どちらかと言えば()()()()が本番である。

 

 担当ウマ娘が未知の領域へと挑もうとしているのだ。そのことを考えるだけで、心臓がきゅっと縮み上がる。

 

 トレーナーという職業に就いていようが、ウマ娘と共に走ることはできない。ターフの上で起こる何事にも後手の対応を強いられる。どれだけそのウマ娘のことを思っていようと、トレーナーは彼女達を信じることしかできないのだ。

 

 桃沢トレーナーはずっとアポロのことを信じてきた。信じられなかったのは己の手腕くらいなもので、いついかなる時も担当ウマ娘のことを信じていた。

 

 しかしパドックが終わり、菊花賞の本場入場を前にすると、初めてその決意が揺らぎかけた。このままアポロレインボウを送り出せば、二度と彼女を抱き締められないかもしれない。彼女を見る者に夢を与えるような、怒涛の走りを見せてくれなくなるかもしれない。

 

 アポロを信じていないわけではない。信じきれなくなっていたのだ。靄のかかった未来への不安がどんどん大きくなって、アポロレインボウにかける愛情も相まって、胸を張って彼女を送り出すことが段々難しくなっていた。

 

 ――だが。

 

 アポロレインボウ自身が、人を信じることを教えてくれた。

 見守る立場にあるトレーナーは、ウマ娘の背中を押すことしかできない。しかし、信じているからこそ彼女達の背中を押すことができるのだ。

 

 桃沢とみおは押し寄せてきた様々な感情をぐっと堪え、光に向けて駆け出す彼女の背中を押した。

 

「アポロ――行ってらっしゃい」





【挿絵表示】

はるきK 様からぱかプチ風アポロレインボウの絵を頂きました。ありがとうございます。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。