ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
運命の菊花賞のゲートが開いた。冷たく呆気なく菊花賞は始まりを告げ、18人のウマ娘がゲートから飛び出した。
『各ウマ娘出遅れはありませんでした。アポロレインボウがポンと飛び出て前に行きそうです』
『3000メートルでも大逃げですか……2400メートルのダービーでは一度力尽きかけたことが頭に
いつものぶっちぎったロケットスタートを決めると、普段とは違う感覚があった。ターフを蹴りつける度に細やかな振動が伝わってきて脊椎が揺れ動くのを感じる上、後頭部に第3の目が生まれたように視界が拡張し、
これが未知の領域の兆候のひとつなのか? 拡がった視界、強烈に漲ってくる力、背中に翼が生えたかのような身軽さ――しかも、私が渾身の力で踏み抜いた地面は見事な形に抉れ、足跡となってターフに残っているではないか。間違いない。このまま3000メートルを走り抜けば世界レコードを叩き出せるぞ。
もしかするとサイレンススズカが後ろを確認しなかったのは、
変な納得感に包まれつつ、私達は1度目の淀の坂越えに挑む。スタート直後の淀の坂。スタート直後から200メートル程しか距離がないため、スピードは乗っていないし位置取り争いもゴチャついている。1番手は私だが、尻尾が掴まれそうな距離には逃げウマのセイウンスカイとランクツネヒトが追い縋ってきている。
『1番手はアポロレインボウ、2番手には半馬身ほど差を開けてセイウンスカイとランクツネヒト。更に後ろはスペシャルウィークやキングヘイローを中心にごちゃついているぞ』
『位置取り争いを続けながらの坂は知らぬ間に想像以上のスタミナを削られてしまうものです。強気にスタミナを使って好位置につけるか、温存してレースの
ランクツネヒトやセイウンスカイが必死の形相でハナを取ろうと食ってかかってくるが、決して譲らない。特にセイウンスカイのような人心掌握型の逃げにハナを譲った時どうなるか、皐月賞をもって嫌というほど知っているのだから。
セイウンスカイとランクツネヒトとの熾烈な先頭争いが始まる。スピードが乗っていない状態で突入する坂道のコーナーであるため、いつものように後続を圧倒的に引き離すことができない。言われた通りの爆逃げで先頭を突っ走るが、想像以上の執着心でセイウンスカイが迫ってくる。
心臓破りの坂をピッチ走法気味に駆け上がる。セイウンスカイはほとんど真横に並びかけてきた。なるべくフォームを崩さないように、そして何より目を合わせて動揺しないように私は大内に切れ込んで最短距離を走る。
皐月賞のように先頭を渡した上で心理戦になれば勝ち目はない。それに、
(譲らない……!)
(どうにかして先頭を獲る!)
逃げウマにとって初動は命だ。どんな距離のレースにせよ、ハナを奪えて悪いことなどない。そしてセイウンスカイはその鋭い勘のためか、私を捕えなければならないと直感している。私達の命運はここで決まると言ってもいい。
(アポロちゃん、そこをどいて!!)
(嫌だ!! それなら奪ってみせろ!!)
(言われなくても――!)
前半200メートルを通過して、早くも逃げウマ娘のデッドヒートが始まる。坂道を使った後先考えない捨て身の競り合い。確かに大逃げを捕まえるにはスタート直後に競りかけるのが一番手っ取り早いが、スタミナ自慢な上にど根性・負けず嫌いの私相手にそれをするのは自殺行為だ。
ただ、長距離という舞台においてスピード勝負を仕掛けようとするのはこちらとしても大助かりである。この距離なら私はラストスパート並の速度で全距離を駆け抜けることができるのだから。
『さぁアポロレインボウとセイウンスカイが激しい先頭争いだ! 坂道を上りながらスパート時のように全力疾走しています! 対して中団から後ろでは上り坂も影響したか、ギッチリ詰まったバ群の中で位置取り争いが進行しています!』
『先頭の2人とそれ以外で大きく作戦が分かれましたね。しかし、先頭を取るにしてもあれだけスパートをかけていては、かなりの量のスタミナ消耗は免れないでしょう。セイウンスカイとアポロレインボウがやや心配です』
『ですが、後ろの詰まった集団の中で競り合うのも相当に辛そうです。キングヘイローやスペシャルウィークは激しいマークを受けて苛立ちが隠せない様子ですね』
坂の頂点付近に差し掛かると、セイウンスカイが肩をぶつけてくる勢いで大外から抜き去りにかかってきた。ランクツネヒトは先頭に立つことを完全に諦めてしまったようで、3番手を死守している。そして広い視界の中、セイウンスカイが鋭く息を吐いて私の真横に並んできた。
「ぐっ――」
セイウンスカイと接触する。弾け飛ぶ大珠の汗。姿勢が崩れかかり、私の速度が一瞬落ちる。ダメだ。フォームを崩してはならない。あの悪夢のように転倒すれば、それこそ骨折では済まないのだ。今は身体中から力が溢れんばかりに漲っているから、ちょっとした乱れで私は終わる。
今は何とか速度を緩めて助かったけど……。怒りを感じてセイウンスカイを睨むが、彼女はなりふり構わず速度を上げる。彼女とてこの菊花賞にかける強い思いがあるということか。
「――そっちこそ、どいてろッ!!」
第3コーナーを曲がって下り坂。急なカーブを終えて3、4コーナーの緩やかなカーブに向くと、私はスタートから上げきれなかったギアを全開にする。次の瞬間、下り坂の勢いに乗って私は全力疾走を開始した。
跳ねるように、或いは地を這うような超速で淀の坂を駆け下りる。2度目のスタートダッシュ。突然吹き抜けた一陣の風に背中を押されるように、畳み掛けるストライドによって加速する。
さっきまで競り合っていたセイウンスカイを置き去りにして、私は後続にどんどん差をつけた。
「えっ!?」
セイウンスカイの驚愕した声が耳に入ってきたが、無視して突き進む。全部ぶっ壊す。全部ぶっちぎって逃げ切ってやる。
全ての人間・ウマ娘を畏怖させるような私の爆逃げを見せつけるチャンスが、1年半溜まりに溜まってきたステイヤーとしての鬱憤を晴らす瞬間が、私達の夢への第一歩を踏み出す時が来た。遂に私の舞台が来たんだ。
もう――
『おっと!? アポロレインボウがセイウンスカイを突き放して爆逃げを始めた!! これぞアポロレインボウという走りが今日も炸裂だ!! これにはスタンドも沸き立ちます!!』
『逃げを離す更なる逃げ、大逃げですね。長距離の舞台でも変わらず打ってくるとは予想外ですが、このペースだと世界レコードを優に更新してしまう大暴走ですよ……果たしてこれは作戦なのか、気になるところですね』
ギアを全開にした途端、私の自意識が拡大する。後方を俯瞰する視界は更に広くなり、高速回転する両脚がターフに蹄鉄の跡を刻みつける。
燦々と照りつける太陽が生み出した影は1馬身の長さにも及ぶ。しかして、私と2番手セイウンスカイとの距離は5馬身。第4コーナーを通過して1度目のホームストレッチに差し掛かり、その差は7馬身と更に開く。早くも単騎の大逃げが濃厚となった菊花賞に、観客のボルテージは最高潮に達する。
対する2番手以下のウマ娘の心境を想像すれば、盛り上がる観客以上に訳が分からない感覚だろう。2400メートルの逃げでもいっぱいいっぱいだったアポロレインボウが、3000メートルの舞台でも
アポロレインボウは放っておいても垂れるだろう。この逃げはサイレンススズカではなくツインターボだ。追ってしまえば自分諸共破滅は免れない――そう考えるウマ娘が多いせいか、追うか追わざるかどっちつかずになっているではないか。
誰もが予想しなかった異常事態か、それとも必然のお祭り騒ぎか――悲鳴と怒号と声援が入り交じった京都レース場の中、私は爽快な感覚と共に直線を疾走する。
中距離を走っていた時のような閉塞感はない。全てから解き放たれたような開放感だけが疾風と共に吹き荒んでいる。頭は氷水に浸されたように冷えていて、心肺や手足の先は燃えるように熱い。
これが未知の領域なのか?
……いや。確かにレコードペースではあるが、これが未知の領域の力だとしてもどこか足りない。この現実離れした走りは
何か大きな変化があるはずだ。とても大きな、それこそハッキリと認識できるような。
では、領域を超えた時に起こる確実な変化とはいったい……?
――あぁ、なるほど。
私はウマ娘なんだから。
走ってみなきゃ、分からないってことか。
『各ウマ娘ホームストレートを駆けていきます! 先頭は今日も大逃げアポロレインボウ! 2番手は大きく離れてセイウンスカイ! 2番手以下はアポロレインボウの存在を
『そうですね。大逃げを続けるアポロレインボウの足は終盤まで持たないと……そういう判断が無意識的に共有されているんでしょう。いつまでアポロレインボウの大逃げが続くかが、このレースの命運を分けることになりますよ』
さすがのセイウンスカイも予想外だったか、私の様子を窺うように2番手でレース作りをしている。まるで私を無視したトリックや
しかしなるほど、セイウンスカイを含めた全てのウマ娘が『見』に回るようだ。
だが、17人が観察に回ったところで必然の罠が敷かれる。それは、どんどん離されていく私との差である。目に見える圧倒的な差は焦りを産む。どんどん離れていく距離を目の当たりにして、果たして追いつけるのかどうかという膨大な不安さえ産むだろう。
心理戦においてさえ、爆逃げは
やっと直線に入ってきた2番手以下との差は8馬身。1秒2秒の差をつけてホームストレッチを駆け抜ける。
スタンド前を走るウマ娘に浴びせられる歓声。そして先頭を走る私に投げかけられる人々の想いを受けて、私は更に加速する。その速度にして、時速80キロ。ウマ娘が出せる最高速度に達し、それでも加速をやめない。最速の世界に突入し、ウマ娘の限界へと近づいていく。
フォームは決して崩さない。とみおに指導されたことを元に、足の回転数のみを上昇させていく。ぐちゃぐちゃだった走り方を矯正し、彼が与えてくれたフォームだ。走る度に彼と試行錯誤した日々を思い出す。
鬼のようなスパルタトレーニングに疲れて泥のように眠る毎日。悪態をつきながら、それでも敗北の悔しさだけは味わいたくないと奮起した日々。時には勝利して歓喜し、時には敗北して涙した。どんな時も私の隣にはトレーナーの姿があった。
思い返せば、彼の優しさに包まれた陽だまりのような日々だった。多分、これからもずっとそういう日常が続いていくんだろうな。ぼんやりと思って、少し頬が緩む。勝負の真っ最中に考えるべきでは無かったかもしれない。
しかし、彼と共に歩んできた軌跡がフォームを更に堅固なものに変えていき、集中力を引き上げてくれる。
視界の四隅が暗闇によって狭められていき、臨界点に迫った精神が五感を閉め出し始めた。初めに消えたのは色だ。青空は陰り、緑のターフは白銀の世界と化す。飛び散る芝は暴風に踊る牡丹雪の如く変化し、燦々と輝いていた太陽は満月のような色調へと変化した。
『
第1コーナーに差し掛かって、私はコーナー内側に向かって思いっ切り身体を倒した。内枠スレスレの所まで身体を寄せて、髪の毛が柵に弾かれるような距離まで最短距離を追求する。
元々私はカーブを曲がることがド下手だった。そのせいでメイクデビューの事故を起こしたようなもので――この度胸と技術はとみおに与えてもらったものだ。
蹄鉄の角をターフに叩きつけて、引っ掛けるようにして遠心力を殺しながらコーナーを曲がる。一歩間違えれば転倒を免れない技だし、膝や腰に負担をかけてしまう恐れもある。しかし長きに渡るトレーニングの末、筋肉や関節の負担を極限まで減らしつつ、コーナーにおける最短距離を突き進む技術を会得した。
こうして常識破りの速度でコーナーをぶっちぎれているのは、神がかった才能によるものではない。私とトレーナーの努力によるものなんだ。
振り向かないまま後続に意識を移すと、第1コーナーの中間辺りで既に15馬身くらいの差がついていると分かった。2番手以下の集団は、私が蹴り抉った芝に隠れるようにして走っているため、まるで吹雪に呑まれて見えなくなるような感覚に苛まれる。
京都レース場の12コーナーは、34コーナーに比べると角度が急で短い。他のウマ娘は速度を落として懸命に遠心力に抗っているが、対する私はトップスピードでコーナーを駆け抜ける。
『第2コーナーを真っ先に走り抜けたのはアポロレインボウ! 早くも向正面に差し掛かって爆走している! しかし他のウマ娘は未だに12コーナー中間辺りにいるぞ! その差は15馬身!! レースは早くも後半に入ろうとしています!!』
『観客席からもざわめきが漏れています。……まさか、このまま逃げ切り勝ちということもあるんでしょうか?』
青い芝の匂いが消えた。嗅覚が遮断され、
それでいい。レースに色はいらない。何となく景色が分かればいい。味覚も嗅覚もレースには必要ない。レースは残り半分程度、そこまで極限の集中状態が続いたならば――私は勝てる。
モノクロの京都レース場を走る。向正面に入って、そろそろ2度目の坂越えと言ったところか。喉が絞られるように呼吸は苦しいが、もはや心地良さすら覚える。
背後で蠢く影がペースを上げる。セイウンスカイがトリックを使っているのだろう。そして、下位集団から進出を始めたスペシャルウィークの威圧感がすぐそこまで迫ってくる。実際には10馬身以上の差がついているのだから、自意識が膨張しすぎた結果身近に感じすぎているだけなのだろう。
……いける。まだセイウンスカイ達は
私は後ろのウマ娘に見えるように、微かに顔を回転させると――にやりと笑った。後続からは持ち上がった口角が見えているはずだ。これでいい。
実際、動揺したかのようなウマ娘が数人現れて、ペースを上げて前へ前へと位置取りを押し上げ始めた。セイウンスカイのトリックとは無関係な
淀の坂の手前で差が少し縮む。私と2番手の距離は12馬身。しかし、私が速度を緩めたわけではない。
今更気付いたところでもう遅い。そのまま流されるようにハイペースに呑まれるか、速度を落として末脚に賭けるか。どちらを選んでも12馬身の差を埋めることはできまい。そんなことをするスタミナは誰にも残っていないのだから。
『さぁアポロレインボウが一足先に淀の坂越えに挑みます! 後続も一気に速度を上げた! 勢い任せに坂を駆け上がるつもりでしょうか!?』
そして、第3コーナー手前。
いよいよ2度目の淀の坂だと意気込んだ瞬間――
「――!?」
ぞくり。
私の背後に凄まじい重圧がのしかかってきた。そして突如として左足に
(――怪我じゃ、ない……? ……そうか。これだ……これが
目の前に闇が生まれる。それは強烈な密度で練り上げられた
闇の中から眩い光が溶け込んで、見せられる。魅せられる。アポロレインボウの心象風景。
今度こそ猛吹雪の吹く世界に放り出される。目先の景色さえ見えない白の領域だ。横殴りの雪が吹き荒ぶ異質な雪原。しかし、今はどこか雰囲気が違う。あまりにも雪模様が厳しい。しかも、左足が積雪の深みに
(何で……動かない!?)
ふと、あの時見た悪夢が脳裏に浮かぶ。淀の坂で転倒し、めちゃくちゃ
まさか、このままじゃ左足が――
(何とかして脱出しないと!)
身体の芯まで凍らせ、果てには心まで凍てつかせてしまう極寒が襲い来る。目も開けられない、息さえ詰まるような濃い雪の群れが身体中を蝕む。焦る心模様が雪を煽り立て、私の身体を所構わず叩きつけながら、のたうち回って暴れ狂った。
「くっ……!」
左足は動かない。まるで何者かに引っ張られているような。渾身の力で身体を前傾させても、どうしても動かない。もがいている間にも雪が厚く降り積もり、左足どころか全身の自由が奪われていく。
四肢の先から温もりが消えていき、そして身体の芯まで凍えていく。あっという間に吹雪への抵抗が鈍くなっていき、精々呻くことしかできなくなってしまった。
あぁ、このままではまずいのに。この体たらくじゃ、未知の領域は超えられないというのに。
どうして私の身体は動かないのだ。
微かに見えていた月の光は、もはや極々小さい塵のようだった。必死に手を伸ばそうとするが、伸ばした己の手さえ横殴りの風雪に埋もれていく。
「…………!」
遂に、月明かりが消える。月虹は見えない。
領域の中は薄闇と吹雪に覆われ、閉ざされた。
これが未知の領域へと至る試練であったなら。
最強ステイヤーの夢を叶える唯一の道であったなら。
(……あぁ)
私はゆっくりと瞳を閉じる。
未来は閉ざされた。
最強への道は甘くなかったと言うわけか。
活動を停止し、全身の力を抜く。現実世界で坂を上る自分の左足が悲鳴を上げ始める。多分、骨が折れるか肉が切れるかして転倒するのだろう。私は極限まで高まった己の力を制御できなかったのだ。
時も場所も分からぬほどの吹雪が舞う。私を含めた世界は音も光もない純白に埋ずもれた。
遥かなる絶望に沈みゆく意識の中、ぼんやりとした光が目先を掠めた。
何事かと薄目を開くと、その光は途方もなく重く濃い雪を打ち払い始めた。
「……誰?」
ほんの小さな、ピンポン玉程度の小さな光の玉だった。その光は凍りついた私の心と身体に温もりを与え、微かに揺れる。潮騒の如く聞こえていた吹雪はすっかり止まっていた。
この光が吹雪を吹き飛ばしてくれたのだろうか。両手で光球を包み込もうとすると、くすぐったそうに逃れていく。そのまま光は空中を漂って、微かに雪の積もった平原を進み始めた。
星空と満月の光に照らされた不思議な世界を歩く。光は明確な目的地に向かって進んでいるようだった。
そして光が案内してくれた先には――小高い丘があった。
「……あぁ」
奥深くにあった記憶が刺激され、眠っていた熱が胎動し始める。胸を突き上げるかのような気持ちが目の奥を刺激し、闇雲に涙が溢れてくる。
――アポロ。桜と言うのはね、寒くならないと芽吹くのが遅くなるんだよ
「ずっと、待っててくれたんだ」
桜が綺麗に咲き誇るためには、うんと寒い期間があって……エネルギーを溜め込まなきゃダメなんだ
「ずっと、信じてくれたんだ」
……俺はアポロのトレーナーだからな
「ありがとう――」
大切な人の声がした。光の正体を推し量ることは叶わなかったが、その光は見守るように私の周囲を回ると、突然胸に飛び込んできた。私の勝負服はそれを受け入れ、あっさりと一体化する。
まるで、元々一緒だったかのように、帰るべき場所に戻ってきたかのように、光の残滓は私に足りなかった想いと力をくれた。
迷いに迷って、中途半端になって。間違えて、失敗して、時々勝って。トレーナーと一緒に苦しみもがいて、色んな人に助けられて、運命に振り回されて。
厳しい冬に何とか耐え抜いてきた。
折れそうになった今この瞬間も、みんなは私のことを信じてくれたんだね。
「トレーナー……みんな……」
ウマ娘は幾多の“想い”を背負って走る生き物だ。想いが強ければ強いほど、不可能さえ可能にする奇跡を起こす。かつてのトウカイテイオーがそうだったように、私も――
「――行かなくちゃ」
長くもどかしい休眠を終え、虹色の桜が咲き誇る。心象風景に堂々と咲き誇った異形の一本桜は、月虹と共に爛々と輝きを増す。
清々しい朝焼けのような光が視界を包む。この光は私を支えてくれた全ての人から貰った大切な温もりだ。決して離しはしない。
無数の光を胸にしまいこんで、顔を上げる。左足に絡みついた運命の鎖が断たれ、身体中に力が漲る。
次の瞬間、私の視界は京都レース場の淀の坂の目前に戻ってきた。
ぶち
左足で何かがちぎれた感覚がした。ミサンガが弾け飛んだ音だった。
(護ってくれてありがとう、フクキタルさん――!)
淀の坂を上り、下る。足は軽い。呼吸は興奮と疲弊で苦しくて堪らないが、最高の心地だった。
『アポロレインボウ、一瞬失速したかと思いましたがすぐに立て直す! あっという間に坂を登り切って下り坂へと入った!! 2番手との差がどんどん離れる!! 10馬身!! 15馬身!! 20馬身!! 果たしてこれは現実なのか!?』
『すごい歓声ですよ! 京都レース場が揺れています!』
自分も知らない秘められた豪脚――『
時代を作るウマ娘は必ず持っているものだ。
だが、
それが『
限界の先の先、
――【果ての銀雪、月虹が照らす先へ】
第4コーナーに差し掛かって、2番手は遥か後方。残り600メートル。私は容赦せず『
絶対に負けられない。ここからは私の往く道だ。白と黒に染まった世界の中、私は雪の結晶と桜吹雪を放ちながら豪脚を炸裂させた。
『おーっと!? アポロレインボウ更に突き放す!! 最終コーナー回って最終直線!! もはやどれだけの差がついているのか分からない!! とにかく大差をつけたまま
『こ、こんなことがあっていいんですか……』
伝説を残した優駿達に肉薄する。かつてのエクリプスには敵わないかもしれない。セクレタリアトには敵わないかもしれない。ダンシングブレーヴには敵わないかもしれない。
でも、今この瞬間だけは。音の速ささえ超えて光の速さに到達しようとする私だけは、世界中の誰にも止められやしない。
勢いがつきすぎて、僅かに体勢が崩れる。幾分か無駄な体力を持っていかれるが、もはやどうでもいい。身体中から溢れる力に心地良さすら感じる。極限まで身体のバネを駆使し、無限に加速する。
「ッッうああぁぁぁあああああああああああああああッッ!!!」
渾身の絶叫。咆哮。慟哭。声帯がイカれたか。それとも、声なんて出ちゃいないのか。完全に
同時、小さな体躯を淀の芝に潜り込ませた。極限までの前傾姿勢。『
視界が明滅している。視野の中央から景色が抜け落ちていく。懸命に振られる四肢の感覚が遠のき、スタンドから浴びせられる大歓声に揺られて不思議な気分に陥る。
残り200メートル。心も身体もめちゃくちゃになって、後続との距離は分からない。あまりの極限状態に、私の思考回路が故障し始める。
肺が苦しい。酸素を絶え間なく求めて喘いでいる。心臓が破裂しそうだ。胸の奥底が握り潰されそうな不快感の中にあって、上手く呼吸できない。
無様で粘っこい涎が口の端から垂れる。無防備に開いた口に風が入り込み、無理矢理に酸素を取り込ませてくる。欲しくて欲しくて堪らなかった酸素。まだ足りない。早く、次なる酸素を。
叫んでいるのか無呼吸なのか分からないまま、菊花賞の栄光まで残り数メートル――レースは終わりを迎えようとしていた。
全身の感覚はとうに希薄し、不確かで夢うつつ。もはや苦しさはない。そこにあるのは快楽と恍惚だけ。ランナーズハイが心を満たしていた。
あぁ――この瞬間が永遠に続けばいいのに。
『もう後続は誰も来ない!! アポロレインボウが先頭だ!!』
メイクデビュー。不運か運命か、事故に巻き込まれた。結果は8着、1着はアゲインストレイル。結果を知ったのは私の目が覚めてからだ。あんまりな結果に私は運命を恨み、己の未熟さを知った。
1度目の未勝利戦。最後のコーナーで大減速を起こし、3着に敗れる。1着はアングータ。走ることへの恐怖が鮮明になり、私達は大きく立ち止まった。
そして2度目の未勝利戦。ジャラジャラやとみおの声援もあって私は幻影を打ち払い、やっとのことで初勝利をもぎ取った。初めて勝ち取ったこの勝利の味を忘れたことなど一度もない。
『アポロレインボウだ!!』
1勝クラスの紫菊賞。
始めてのG1にして悔しい敗北を喫したホープフルステークス。
出走を取り止めた若駒ステークス。
やっとのことで勝ち上がった若葉ステークス。
絶対に忘れられないであろう屈辱的な惜敗をした皐月賞。
やっとのことで同着に持ち込んだ渾身の日本ダービー。
長い長い――本当に長い冬の季節を超えて。
ようやっと、私という桜が淀の地に咲き誇る時が来た。
『アポロレインボウだ!!』
どれだけ苦しくても。
どれだけ打ちのめされても。
私は絶対に――夢を諦めない。
『アポロレインボウが今、ゴールインッッ!!』