ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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67話:余波/アグネスタキオン//鬼宿し/グラスワンダー

 ――アポロレインボウの菊花賞が終わってしばらく経った頃。具体的に言えば、彼女の秋のローテーションが「菊花賞→ステイヤーズステークス→有記念」と発表されてから――アグネスタキオンは研究室に閉じこもって研究に没頭していた。

 

「……ふぅン」

 

 手元にあるのは、アポロレインボウとサイレンススズカの走行データ。それと菊花賞及び天皇賞・秋の映像。何度も何度も見返して、以前までの彼女達の走りとデータを脳に刷り込む。

 

 2人は未知の領域へと到達した。()()()()の走りとは一線を画す常軌を逸したレースが、アグネスタキオンの精神を刺激する。

 

(“果て”……か)

 

 ──私の脚は、いつ走れなくなってもおかしくない状態なんだよ。そんな言葉が栗毛の頭上を()ぎって、数回頭を振る。

 

 かつては自分自身の脚でウマ娘の限界――つまり未知の領域へと到達したいと考えていた。しかし、アグネスタキオンの肉体は脆かった。天性のスピードと硝子(ガラス)の如き繊細さを誇る、エンジンばかりが立派な機体――そう形容されるほどに、儚い光を纏った脚だった。

 

 本気で走れば壊れてしまう。その現実に対抗するために設けた「プラン」たち。アポロレインボウの菊花賞とサイレンススズカの天皇賞・秋は、願わずしてアグネスタキオンが用意していた「プランB」――すなわち他のウマ娘を“果て”へと到達させる研究が叶ったと言えた。

 

(サイレンススズカ君もアポロレインボウ君も十分すぎるほどの成果を上げた。きっとこれからも、伝説に残るような輝かしい成績を残してくれるだろう)

 

 ――では、「プランA」とは何か。答えは簡単、アグネスタキオン自身が限界に挑むこと――それが「プランA」である。

 だが、彼女は少し昔にプランAに見切りをつけていた。己の脚の弱さ故、そのプランには陰りがあったのだ。それほどまでに脆く頼りない身体が、どうやって速さの果てに到達できると言うのか。他のウマ娘に託す方が可能性は高いだろう。アグネスタキオンは案外あっさりプランAを諦めたのである。

 

 ただ、ここに来て。プランBを完遂した今この瞬間になって、少しだけ。

 アグネスタキオンは胸の中に形容しがたい疼きを感じている。

 

「熱狂」

 

 ぼそり、彼女は呟く。アポロレインボウの菊花賞、サイレンススズカの天皇賞・秋。そこには身が震えるほどの熱狂があった。ウマ娘の限界を超えた2人のパフォーマンスに対し、誰もが我を忘れて叫んでいた。タキオン自身もその熱狂に呑まれ、研究者としての自我を失うほどに魅入っていた。

 

「情熱」

 

 再び、独りごちる。菊花賞及び天皇賞・秋の最終コーナー、そこには破滅に立ち向かう2人の情熱があった。現場に居合わせていたアグネスタキオン自身、2人が作り出した『未知の領域(ゾーン)』に圧倒されて冷や汗すら掻いて、訳の分からぬ鳥肌を立てたものである。

 

 『熱狂』と『情熱』。

 アグネスタキオンは例えば『感情』のような科学から最も離れたものをあまり好んでいなかったが――過去を思い出すほど、感情のパワーを否定できなくなっていく。

 

 あの日、あの瞬間の京都と東京には、科学という絶対の摂理を超越した『想い』の力があった。精神面のコンディションが肉体的パフォーマンスを向上させるとかそういう次元じゃなく、剥き出しで真っ直ぐな『激情』がそこにあって、その想いに呼応するような奇跡が現実に起こったのである。

 

 あらゆるものがウマ娘の走りに干渉している。ただし干渉効果にとどまって決定打にはならない――アグネスタキオンはそう思っていた。

 しかし、アポロレインボウを見てもサイレンススズカを見ても言えることがあった。それは、彼女達を取り囲む数々の祝福が2人を鼓舞し、追い風のような存在になって後押ししたのではないか――という、科学理論を根拠に思考を組み立てる彼女らしからぬ答えだった。

 

(怪我の恐怖を振り切り、彼女達が結果を出せたこと。レースの出走自体を取り消すこともできただろうが、それをしなかったこと。それら全て、『感情』の後押しがあったからこそ()()なったのかもしれないねぇ)

 

 アグネスタキオンはしばし行動を止め、くたびれたソファにもたれかかる。

 ――プランは遂行された。ウマ娘の速さの果ての一端を見届けることが叶った。

 では、それからは?

 彼女達を見守るだけ? これまでのように研究を続け、たまにサポートするだけ?

 

 ……いや、違うだろう。

 『感情』は運命に抗おうとしている。

 

「……『感情』なんて、科学から最も離れたものだと思っていたが。意外や意外、表裏一体のようだ! ……侮れないものだね」

 

 アグネスタキオンは実験に取りかかる。

 『感情』を解明・分析するための実験である。

 プランBのその先。己の脚で果てを目指すため、アグネスタキオンは新たな研究に踏み出そうとしていた。

 

 狂気のマッドサイエンティスト。近づくとヤバい危険人物。色んなことを言われつつも、アグネスタキオンは身体の芯からウマ娘なのだ。

 ウマ娘の肉体に魅入られたアグネスタキオンは運命に抗うことを決め、感情の赴くままに突き進もうとしていた。

 

 そんな彼女すら知らない新たな運命が動き出すのは、また別の話。

 

 

 

 

 

 

 ――日本ダービー、敗北。

 

 ちゃぷん。

 

 ――毎日王冠、敗北。

 

 ちゃぷん。

 

 ――アルゼンチン共和国杯、敗北。

 

 ちゃぷん。

 

 誰もが寝静まった丑三つ時。栗毛の怪物――グラスワンダーは眠れないでいた。

 既に消灯時間は過ぎており、日付が変わってしまっている。重く暗い廊下からは誰の気配もない。生きている者さえいないのではないかと思えるほど、寮は深く沈黙していた。

 

「――ふぅ」

 

 グラスワンダーは顔を上げる。酷い顔をした栗毛のウマ娘が目に入る。鏡に映った己の顔は寝不足であること以上にやつれて見えた。

 

「……酷い顔」

 

 蛇口から溢れる水を止めて、自嘲気味に呟く。己の感情露出を良しとしないグラスワンダーの性格もあって、彼女は内面に酷く重いものを抱え込んでいた。

 

 それは度重なる敗北と重圧である。ジュニア級の早い時期から活躍しただけに、グラスワンダーにかけられる視線やプレッシャーは並大抵のものではなかった。

 

 無敗で制した朝日杯フューチュリティステークスを絶頂にして、グラスワンダーのトゥインクル・シリーズは下り坂だ。新年明けての骨折判明、復帰するも本命のダービーには勝てず……秋のレースでは1度も勝利を上げられていない。厳しい自責の念と相まって、グラスワンダーは不完全燃焼を露わにしている。

 

 毎日王冠やアルゼンチン共和国杯は惜しいところまで追い込めたとはいえ、負けは負け。どれだけその差が僅かでも、ゴール板を真っ先に駆け抜けた者が勝つのだ。

 分かっている。その2レースにおいて『上がり3ハロン』が最速であったとしても、自分は負けた。グラスワンダーのトレーナーが慰めてくれたが、彼女の気持ちは全く晴れない。

 

 こと日本のトゥインクル・シリーズにおいては、『上がり3ハロン』――つまり最後の600メートルのタイムが重視される。グラスワンダーを含む多くのウマ娘はその『3ハロン』を意識してトレーニングすることが多い。

 だが、グラスワンダーは度重なる敗北とアポロレインボウ達大逃げウマ娘の出現によって、自信を根こそぎ失いつつあった。

 

 グラスワンダーの末脚は世代で見ても一級品だ。上がり3ハロンのタイムや、絶好調の時の切れ味がそれを物語っている。しかし結果がついてこないのでは、どんな言葉や数字を並べ立てようとそれは()()でしかない。

 

 精神的に思い詰めているグラスワンダー。最近は寝不足から来る夜更かし気味だ。目の下にくっきりと浮かんだ隈は、慣れない化粧で何とか誤魔化しているが……そろそろ限界かもしれない。

 

「…………」

 

 クラシック路線G1はおろか、ティアラ路線G1のひとつも取れなかった。恵まれた同世代との競走に勝ち抜き、己の最強を決定づける最高の機会だったと言うのに。自分は負けたのだ。負け続けたのだ。怪我を言い訳になどできない。身体の丈夫さも才能のうちだから。

 

 この前グラスワンダーはキングヘイローと話す機会があったのだが、目に見えて落ち込んでいたグラスワンダーに対してキングヘイローは大きく笑った。

 

『私はお母さまとは違った()()()()()()を目指すわ。クラシック三冠は負けちゃったけど、この勝利にかける執念だけは誰にも奪えない。……どんなどん底でも、勝利という希望を疑わない! それが私の掲げる一流よ!』

 

 キングヘイローはクラシック路線を皆勤したが、その(ことごと)くで敗退した。中長距離の適性がないことを内心理解していたにも関わらず挑み続けたのは、キングヘイローの目指す『一流』がクラシックを制するウマ娘だったからだ。

 

 菊花賞直後には、堪えていた涙がキングヘイローの頬を濡らした。

 挑戦したことが間違いだったのか? 母親の言う通りにしていればもっとマシだったのか? ダービー敗退の頃からチラついていた思考が頭をもたげた。

 

 だが、それでもキングヘイローは再び己の道を走ろうとしている。同じく敗北に打ちひしがれるグラスワンダーを励まし、己の敗北すら呑み込んで強くなろうとしている。

 激しい怒りに似た悔しさを感じようとも、どれだけの敗北を重ねても、たとえ母親を納得させられるようなレースができなくても――何度でも立ち上がってやる、と。彼女はグラスワンダーに対してそう言い切った。キングヘイローは菊花賞を終えて明らかに強くなっていたのだ。

 

 グラスワンダーは、キングヘイローの気持ちが分からなかった。

 いや、理解こそできたが()()()()()()()()と感じた。

 

 レース直前になれば、もちろん燃えるような闘志が身を焦がしてくれる。しかし、敗北直後の精神状態でそこまで大人になれるかと聞かれれば、答えはノーである。敗北をすることも時には必要だとは思うが、やはり彼女は勝利によって成長したいと考えるウマ娘の側だ。

 

「……私は」

 

 私は何なんだろう。グラスワンダーは真っ暗な洗面所で独り呟く。

 グラスワンダーはトレセン学園に自慢の友達がいる。その中でも特に、スペシャルウィークやエルコンドルパサー、アポロレインボウ達とは仲が良い親友にしてライバルと言えるだろう。だが、彼女達にはこの半年で大きく差をつけられてしまった。

 

 セイウンスカイは皐月賞を勝ち取り、スペシャルウィークは日本ダービーを勝った。アポロレインボウはダービーと大差勝ちの菊花賞。エルコンドルパサーはNHKマイルカップ。キングヘイローはG1勝ちこそないものの秋の重賞を1つ勝っている。

 

 対するグラスワンダーだが、今年の勝ちレースはG2・青葉賞のみ。戦績にして、4戦1勝。

 

 ――かつてのジュニア級チャンピオンが、この体たらくで胸を張って彼女達のライバルと言えるのか? 彼女達と対等と言えるのか?

 グラスワンダーが瞳を細めると、静寂が耳の奥に侵入してくる。キンという澄んだ音が鼓膜を侵略して、脳髄が不快感で満たされる。外光は全て遮断され、室内の明かりは全く消されている。持ってきた携帯端末から膨らむ靄の如き光が彼女の顔を照らすが、その少ない光がかえって暗闇を際立たせた。

 

「勝たなければ」

 

 グラスワンダーの次走は有記念。ファン投票にもよるが、出走できないことはないだろう。

 

 キングヘイローは菊花賞後のローテーションが不透明だ。もし有記念に彼女が出てきたとしても、距離適性的に負けることはない……と思いたいが、精神面では確実に差をつけられてしまった。有ではこちらが優位だとしても、きっと短い距離の大舞台で立ち塞がってくるだろう。

 

 スペシャルウィークは菊花賞の後にジャパンカップへと向かうそうだ。年内最後の戦いをジャパンカップに決めたらしい。グラスワンダーはローテーションの関係でジャパンカップ出場が厳しいため、次の勝負は大阪杯辺りになるか。

 

 エルコンドルパサーもジャパンカップ後は不明。香港に飛ぶとか、年内はそのまま休養だとか色々な声が聞かれるが……来年のヨーロッパに備えて彼女は休息を取るだろう。クラシック級での疲れを完全に抜くためにも、恐らく有は出られない。

 

 セイウンスカイはどうだろう。菊花賞の後から動きがない。しかし彼女のことだ、ファン投票が多ければ大物を釣り上げるためにしれっとグランプリに出走してくるはずだ。

 

 サイレンススズカは年末を休養に当てつつアメリカへと赴き、身体をアメリカの芝とレーススタイルに慣らしていくという。2500はベストな距離から少々長いだろうし、年末のグランプリには出てこないはず。

 エアグルーヴもマチカネフクキタルも恐らく有に出走してくる。だが、立ち塞がる最凶の敵は――

 

「アポロレインボウ」

 

 グラスワンダーの鋭い視線が暗闇に飛ぶ。瑠璃色の瞳にどす黒い炎が宿る。鏡の中の自分は、最近見た表情の中でも抜きん出て威圧感溢れる顔だ。

 

 アポロレインボウ。

 日本ダービーで――細かく言えば皐月賞の前――挑戦状を叩きつけたが、そのダービーでは戦いの舞台に上がることすらできずに完敗した。スペシャルウィークとアポロレインボウの死闘に隠れ、あっさりと敗北したのだ。

 怪我の影響がなかったわけではないが、怪我を含めた体調のコンディションもまた才能と努力の賜物。悔しさの残る日本ダービーとなった。

 

 ……運命が告げているのかもしれない。日本ダービーの借りはそこで返せ。有記念で雪辱を果たせ……と。

 

「――!」

 

 グラスワンダーの距離適性は1400メートルから2600メートルほど。2500メートルの有記念は射程圏内だ。中山レース場という舞台も、右回りという条件も得意な部類に入る。

 

 グラスワンダーは、萎み切った精神が()()()()()()のを感じた。ライバルがいるほど自分も強くなる――という親友(キングヘイロー)の言葉を思い出して少し笑みがこぼれてしまう。

 

 そうだ。やはり大舞台でないと燃えないというもの。どん底まで沈んだ精神だから見えた。自分は欲していたのだ。血が滾るような死闘を。全力で臨むライバルとの激闘を。

 日本が誇る年末の一大グランプリで、ライバル達とお互いに死力を尽くして削り合って、その上で勝利を遂げたいのだ。

 

 あぁ、その通り。なぜ忘れていたのだ。怪我の影響と敗北が重なって、自分を見失っていたのか。何ともったいない――(グラスワンダー)はこうでなくてはいけないと言うのに。

 

「思い出した……私が走る理由」

 

 怒りとも、闘志とも、静かな落ち着きともつかない鈍い塊のようなものが胸の奥底にわだかまる。

 

 アポロレインボウ。間違いなく今世紀最大級の敵だ。菊花賞を世界レコードでぶっちぎった怪物。されど、怪物は2人と要らない。怪物はこのグラスワンダー1人で充分なのだから。

 

「うふ」

 

 無抵抗で負けるわけにはいきませんね、と内心呟く。グラスワンダーは踵を返して暗闇を歩き出した。

 

 譲らないものは譲らないし、決めたことを変えるつもりもない。

 有記念はこのグラスワンダーが頂くのだ。そう、今決めた。しかし、この決意は固い。今まで道を見失っていた分の鬱憤を晴らせるだろうか。どうやってあの最強の大逃げを打ち破ってやろうか。

 菊花賞は何度も見直したが、どうやらアポロレインボウの大逃げは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。グラスワンダーは薄く微笑む。

 

 『我が物と思えば軽し笠の雪』という言葉を口の中で反芻する。この言葉の意味は、自分のためとあらば苦労も負担に感じないことのたとえである。

 どんなハードトレーニングも厳しい現実の試練も、自分自身のためになるということ。古人の教えをもって深い納得を得たグラスワンダーは、廊下を歩きながら更に合点した。

 

 ――なるほど。キングヘイローの言っていたことは、こういうことだったのか。

 

 栗毛の怪物からオーラが噴出する。

 その威圧感は本物か、贋物か。

 全ては年末のグランプリで分かること。

 

 グラスワンダーは携帯端末の電源を落とし、ぼそりと呟いた。

 

「お互い全力の真っ向勝負をしましょう、そして私が勝ちます」

 


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