ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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7話:どん底を経験して

 目が覚めると、知らない天井が広がっていた。視界の端には見慣れたトレーナーの顔が映っている。

 

「あ、アポロ! 気がついたか……! あぁ、良かった……一時はどうなるかと」

「……ここは、どこ?」

 

 身体を起こそうとすると、心配そうに表情を歪めている彼の手が制してきた。そのまま優しくベッドに押し戻される。

 

「……ここは病院だ」

「病院……?」

 

 確かに、部屋の中は不気味なほど白が多い。しかし、病院とは……そんな所に運ばれることをしたっけ――と思考して、俺は重要なことに思い至る。そうだ、俺はメイクデビューを戦っていたではないか……と。

 

「と、とみお! 今何時!?」

「……17時だ」

 

 俺のメイクデビュー、第4レースが行われたのは11時だ。と言うことは、俺はレースで気を失ってから6時間も寝ていたことになる。だが、どうにも結果が思い出せない。顔に痛みが走って、そこから呼吸ができなくなって……それからどうなったのだろう。ただ、とみおの晴れない表情を見れば何となく結果は分かってしまっていた。

 

「私のレースは――結果はどうなったの?」

 

 俺は震える唇で言葉を紡ぐ。とみおは目を伏せて苦しそうに呻いた。

 

「……俺達は負けたよ」

 

 ぎり、と拳を握る音が聞こえる。俺はその言葉を聞いて、脱力することしかできなかった。

 

 ――敗北。その二文字が強烈なインパクトをもって俺の根底を揺るがした。胸の真ん中を強く押されたような衝撃が身体を襲い、上体を起こせなくなる。

 

「……そう気にすることはないよアポロ。不慮の事故が無ければ君は絶対に逃げ切って勝ってたんだから。次の未勝利戦、絶対に勝とうな」

 

 とみおはそう言って力なく笑った。

 

 不慮の事故――あぁ、思い出してくる。ジャラジャラとの接触のことだ。あの子が俺の邪魔をしたのだ。しかし――彼女には間違いなく悪意など存在しなかった。展開のアヤと言うやつで俺は怪我をした。()()()()()()()()()からこそ、悔やんでも悔やみきれない。

 

 あの最高潮のコンディションは返ってこないのである。あの走りも、展開も、決意も、全部過去に消えた。

 

 ()()()()()()って何だよ。ふざけんなよ……俺はこのメイクデビューに勝つために死ぬ気で頑張ってきたんだ。

 

 それなのに……こんな事故で出鼻を挫かれるって、ありえないだろ。本当に腹が立つ。神様が俺のことを嫌いだとしか思えない。

 

 俺は視線を落とし、掛けられた布団を握り締める。病室には痛いほどの静寂が流れ、互いに視線さえ交わされない。ふと目に付いた俺の体操服は……かなりの量の血で汚れており、鼻出血の凄惨さを物語っていた。

 

 ――ウマ娘の鼻出血というのは、人の鼻血と違ってシャレにならない症状だ。その鼻出血には「外傷性」、「カビによる真菌性」、「肺出血」と、大きく分けて3つの要因がある。俺は外傷性の鼻出血だったため、こうしてすぐに血は止まったわけだが……かの女傑ウオッカの引退理由は肺出血(鼻出血)によるものだ。

 

 足の怪我がウマ娘や馬に付き物であると同時に、鼻出血もまた身近なものなのである。マチカネタンホイザなんかはギャグに昇華できているが、あれはまた特殊な例だ。

 

「あぁ……」

 

 俺は深く重い溜め息を吐く。

 

 あのメイクデビュー、運命が俺を殺しに来ていた。抽選によって選ばれた大外枠。内枠にいた有力な逃げウマ。コーナーリングの下手さが災いして起きた事故。相手が本気で勝ちたいと思っていたからこそ起きた悲劇。

 

 一番最悪なのは――彼女の腕がよりによって呼吸を司る鼻に当たったこと。なぁ、三女神様……あんたはアポロレインボウのことが嫌いなのか? ジャラジャラの腕が俺の頬骨にでも当たっていれば、腫れはしただろうけどいい勝負が出来たはずだ。

 

 ――あぁ、クソ……。ごめんなトレーナー、俺が弱いウマ娘で。

 

 敗北を今更になって自覚すると同時、鼻の痛みがじわじわと湧いてくる。ずきずきと痛む。だが、これは単純な痛みではない。もっと重い……敗北の痛みだ。

 

「……とみお、私の鼻って折れてる?」

「いや、折れてはいないよ。かなり強く打ちつけたから心配だったけど、腫れてるだけだってさ」

 

 鼻呼吸するのが辛い。乾いた血糊が鼻腔の内側に溜まっていて、どうにも不快だ。後で鼻をかもうかな……いや、それじゃまた血が出るかもしれない。はぁ。本当に嫌な気分だ。

 

 俺はとみおに「少し休む」と言って、彼に背を向けて布団を被った。だが、目を閉じれば後悔が燻る。雑念が渦巻く。しばらくは寝れそうにないな……。

 

 そう思っていると、病室に来訪者がやってきた。

 扉のノックの音が部屋の中に響き渡る。

 

「誰だ……?」

 

 とみおが怪訝そうにして扉の方向を見る。ゆっくりと扉を開きながら現れたのは――

 

「あ、あの……アポロレインボウさん、いますか」

 

 少し汚れた体操服を着た件のウマ娘・ジャラジャラだった。顔色は見るからに真っ青で、その両手は不安そうに胸の前で組まれている。

 

「――どうしたの」

 

 表面上は笑顔を取り繕って応対するとみお。彼とて複雑な心境だろう。ある意味担当ウマ娘のメイクデビューの勝利をぶち壊した子なのだから。実際、俺だってあまり顔を合わせたいわけじゃない。

 

「わた、私、アポロさんに謝りたくてっ……本当にごめんなさい!!」

 

 ジャラジャラはそう言って勢いよく頭を下げてきた。いい子だな、というのが率直な感想である。そう、ジャラジャラに非は無いのだ。彼女も俺も本気で勝ちに行って、お互いに潰れた。ただそれだけ。

 

 加えて、ジュニア級の慣れないレースでは――こういうことがたまに起きるらしいではないか。誰のせいでもない。そういうものだ。

 

「……ジャラジャラちゃん。その右腕、大丈夫?」

「え?」

「私にぶつけたところでしょ。痛くない?」

「あ、うん。全然痛くないけど……」

 

 ジャラジャラの曝け出された右腕の一部にはアザが出来ている。そこはまさに俺と激突した箇所だった。彼女とて痛かっただろう。驚いただろう。俺を怪我させて、心苦しかっただろう。

 

 その大きすぎる自責の念は、彼女の血の気のない顔と震える身体から嫌という程伝わってくる。これ以上自分を責めるよう仕向ければ、彼女は潰れてしまうだろう。ここは、精神的に大人である俺が許してやるべき場面なのではないか。ジャラジャラという未来あるウマ娘のために。

 

「痛くないなら良かった」

「…………」

「私は……怒ってはいないよ。レーン分けされたレースじゃない以上、こういうこともあるよねって覚悟はしてた。だから、この事故についてうじうじ言うのはお互いに無しってことで……どう?」

 

 現実として、ジャラジャラは出走停止処分という罰を受けることになるだろう。彼女は俺からの私刑を求めるかもしれないが、それは行き過ぎというもの。この事故に対する引っ掛かりと燻る後悔が俺達を成長させてくれるはずだ。

 

 ジャラジャラは壊れそうな程に拳を握り固め、己を殴るのではないかというくらいの気迫を噴出させた後、ぐっと唇を結んだ。……そんなに私刑をお望みか。なら仕方ないな。俺はジャラジャラを手招きする。

 

「ジャラジャラちゃん。こっちおいで。今からぶん殴ってあげるから」

 

 両手をぶらぶらと揺らし、俺はジャラジャラの瞳を見つめた。とみおが割り込んでこようとするが、目配せで黙らせる。

 

 意を決したようにジャラジャラがこっちにやって来る。ぎゅっと目を閉じたジャラジャラちゃんも可愛いなぁ。

 

「歯、食いしばってね」

 

 そう言うと、彼女の身体に更に力が篭る。……そうやって、罰を受けようとしてくれたその姿勢だけで満足だ。

 

 ベッドから身を乗り出して、ジャラジャラに近づく。そして、ぺち、と頬に手を当てて、俺の私刑は終了した。

 

「はい、おしまい」

「えっ?」

 

 何が起こったのか分からないのか、ジャラジャラが目を見開いて俺を見てくる。いやいや、ウマ娘の超絶パワーで思いっきりぶん殴ったら普通に死んじゃうでしょ……。

 

 次第に俺の意図を理解したのか、ジャラジャラの顔がくしゃくしゃに歪んでいく。彼女は涙ながらに「ごめん」「ありがとう」と何度も繰り返した後、病室を去っていった。

 

 ジャラジャラが退室し、再び病室内を静けさが支配する。とみおは優しげな瞳で俺を見ていた。我慢できなくなって、俺は彼を呼び寄せた。

 

「とみお。こっち来て」

「どうした?」

「ちょっと胸貸して」

 

 そう言って、とみおの胸ぐらを掴んで思いっきり引き寄せる。そのまま彼の胸板に額を押し付けて、彼の温もりに身体を預けた。

 

「我慢してるなら早く言え、この野郎」

 

 とみおはそう言って俺の頭を撫でてくる。

 彼の優しさに触れて、思わず溢れ出した涙を止める術は無かった。

 

 

 

 後日、ジャラジャラに2ヶ月間の出走停止処分が下され、そのトレーナーに厳重注意の上罰金が課されたことを耳にした。まぁ、そんなことはどうでもいい――いや全然どうでもよくないが――という気概のもと、俺は次なる出走レースの未勝利戦に向けてトレーニングをしている。

 

 鼻出血の後遺症はほとんどゼロと言って良い。3日間は鼻が腫れて口呼吸せざるを得なかったが、そこからは快調の一途を辿って完治に至った。

 

 メイクデビューから1週間。トレーニングを再開して思ったのは――怪我をしないことが何より重要だということ。怪我をして停滞している間に、他のライバル達はめきめきと実力を付けるのだ。

 

 アニメ2期のトウカイテイオーがそうだったように、めちゃくちゃ焦った。とみおに軽いランニングをさせてくれと頼み込んでしまうくらい、ライバルの成長が恐ろしかった。

 

 怪我をせずにじわじわと力を付けることの大切さがよく分かる。無事是名馬という言葉があるように、怪我をしないこともまた才能だ。俺の身体が頑丈かどうかは分からないが、二度と怪我のないようにトゥインクル・シリーズを走りたいものである。

 

 次走は2週間後の未勝利戦。舞台は同じ東京レース場の芝2000メートル。恐らく抽選によって選ばれなければ出走できないだろう。その辺は祈るしかないのが辛いところだ。

 

「アポロ、その辺で今日は終わっておこうか」

「はぁっ……はぁっ……お、お疲れ様です……」

 

 復帰後最初のトレーニングはランニングマシンだった。とにかく漕いで漕いで漕ぎまくって、スピードとパワーをつける。下半身を鍛える効果があり、これを続ければ走行フォームがどっしりとした安定感を得ることができるだろう。

 

 今の俺が鍛えるべきは、やはりスピードとパワーだ。サイレンススズカの高速逃げのレベルまで――とは言わないが、メジロパーマーの爆逃げレベルにはいつかなりたい。

 

 最後まで持つスタミナは持っているから、メイクデビューのような事故を起こさないために、()()()()()()()()()()()()()()()スピードと、他のウマ娘を押さえつけるパワーが必要だ。

 

 とみおもそれを理解しているからこそ、これまでのメニューで徹底してスピードとパワーを鍛えてくれている。

 

 とみおの用意したトレーニングをこなしていく充実感と、目に見えるデータで現れる成長。メイクデビューの時ほどの絶好調とまではいかないが、かなりの好調を維持したまま、俺は6月後半の未勝利戦に臨むことになった。

 

 ――だが、俺は気づいていなかった。あのメイクデビューの事故によって、俺が致命的な弱点を抱えてしまったということに。

 

 

 

 

 東京レース場で行われる未勝利戦は、未曾有の豪雨によって一旦中止に追い込まれそうなほど荒れた天候の中で開催されることになった。タクシーに乗って会場入りしたが、叩きつけるような豪雨でタクシーが壊れるんじゃないかと思ったくらいだ。

 

 少し天候が回復し、小雨の降る中で未勝利戦のファンファーレが鳴り響く。言うまでもないが、ターフは泥のような重バ場だ。ゲート入りまでに体操服がびしょ濡れになって、前髪が額にくっついている。

 

『1番人気のアポロレインボウ、今ゲートに入ります』

 

 8人立ての中、俺は真ん中の枠からのスタートになった。この重バ場にあっても、スタートに不安はない。それほどまでに得意だから。

 

『全員ゲートに収まりました。いよいよスタートです』

 

 しかし、今日は違った。ゲートが開く瞬間、理由の分からない恐怖がチラつき――僅かにだが()()()。何とか姿勢を立て直してスピードを上げるが、他のウマ娘にブロックされて前に行けなくなってしまう。

 

 3番手で進めるレースは初めてだった。前のウマ娘が邪魔で、はやる気持ちが俺を焦らせる。大逃げしている時よりもスタミナ消費が激しい。先行すら合わない脚質なのか。

 

 今すぐにでもハナを奪い返さねば。そう考えて大外から前の2人を抜こうとするが、まだ他の子達を抜けるようなスピードが足りないのか……順位は変わらない。

 

 そして、3番手のままレースは進み、最終コーナーへ。

 

 そこで俺は――顔面に振りかざされる腕を幻視した。

 

「!!」

 

 急に闘志が萎んでいき、前傾させていた身体が持ち上がる。勝手に脚が大外に向かい、大幅なロスを強いられる。

 

『どうだ!? アポロレインボウ届かないか! ここで2番人気のアングータが突っ込んでくる! 逃げ切りを測ったコインシデンスが僅かに躱されて――今ゴール!! 3着争いはアポロレインボウとクレセントエース!』

 

 スパートをかけられず、流してのゴール。全力の闘志はどこかに吹き飛んでいた。萎えきって冷たい身体を動かして、俺は反射的に電光掲示板を見た。すぐに確定のランプが灯り、着順が示される。

 

 1着は7番のアングータ。2着が1番のコインシデンス。そして――3着、4番アポロレインボウ。

 

 悔しさよりも戸惑いが勝った。あの幻視はいったい……?

 

 俺は顔を振ってトレーナーを探す。彼は最前列にいた。雨合羽を着て、無念の感情を表すかのように曇天の空を見上げている。彼の気持ちを全て推し量ることは叶わなかったが、少なくとも気持ちの良いそれではないと分かる。

 

 俺は呆然としながら控室に続く道を行く。とみおと顔を合わせたくなかった。訳の分からない負け方だ。突然減速して、まるで無気力試合のように映ったかもしれない。

 

 控室の扉を開くと、髪に付着した雨粒さえ拭かないで、とみおが座っていた。扉の開閉音を聞いて、彼は俺の元に近づいてくる。

 

「……アポロ」

 

 びく、と俺の身体が震える。とみおは俺よりも身長が高い。もしかしたら、ぶたれるかもしれない。きゅっと目を閉じて、あの時のジャラジャラのように痛みに備える。

 

 しかし、衝撃は訪れない。俺はとみおに力強く抱き締められていた。

 

「え……?」

 

 訳が分からなかった。幻覚に惑わされて、後悔することすら恥ずかしい負け方をしたというのに。とみおは俺を叱りつけるどころか優しく抱擁したのだ。

 

「と、とみお……どうして……?」

「……俺のせいだ。俺が精神ケアをしっかりしてなかったから……」

 

 理解の及ばぬ言葉を呟いて抱き締める力を強めるとみお。しばらくの抱擁が終わると、彼はスーツの胸ポケットからハンカチを取り出して俺の顔についた汚れと水滴を拭ってくれた。割れ物でも扱うかの如く丁寧に、慈しむような手つきだった。彼は俺の肩を叩いて、優しく微笑んでくれる。

 

「……これから初めてのライブだな。そこで着替えてから、ステージに行ってくれ。場所は分かるな?」

「あ……うん」

「俺は先にステージに行ってるよ」

 

 そう言い残して、とみおは控室から出て行った。その背中が酷く寂しいものに見えたのは気のせいだろうか。

 

「とにかく着替えなきゃ」

 

 例のへそ出し汎用衣装に着替えた後、俺は東京レース場内にあるライブステージに向かった。

 

 初めてのライブは3着で躍るライブとなった。どこか現実味のないふわふわ感の中、ステージ上の明かりが灯る。即座にイントロが流れ始め、俺は意識した笑顔を貼り付けて歌とダンスに備えた。

 

 初めてのライブはつつがなく進行していく。天候こそ悪いが、そこそこのお客さんが入っている。そんな中、ステージ上からとみおの姿を見つけた俺は、一瞬ダンスと歌の歌詞が吹っ飛んだ。

 

「――――」

 

 とみおが泣いていた。

 

 いい歳をした大人が、周りの目なんて気にせず涙を流していた。惨めったらしく顔を歪めて、嗚咽がステージまで聞こえてきそうだ。

 

 心臓が締め付けられる。呼吸が上手く出来なくなり、練習してきたステップを忘れそうになったが、何とか持ちこたえる。

 

 彼を泣かせてしまったのは俺だ。その事実が身体と精神を縛り付ける。正真正銘の敗北の味は、身を削るほどに痛かった。

 


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