ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい   作:へぶん99

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72話:ステイヤーズステークス・その2

 大歓声。そう言って差し支えない大音量の声たちがダブルトリガーに注がれていた。

 

「ダブルトリガー頑張れよ〜!!」

「アポロちゃん、ダブルトリガーに負けないで〜!!」

 

 その声の主達が応援するウマ娘は十人十色。その多くはアポロレインボウの活躍を期待しているようだが――

 

(何時ぶりにこんな大歓声を浴びた? しかも、ゴール直前のデッドヒートではなく返しウマでこの声量――日本のファンが熱心とは聞いていたが、これほどとは……)

 

 ダブルトリガーはスタンドから送られる数々の声に驚きと喜びを感じながら、ゆっくりと返しウマを行う。綿密なトレーニングとシミュレーションを重ねた結果、日本の芝にある程度適応することが可能になったダブルトリガーは、今この瞬間の自分の調子と照らし合わせながらコースを走った。

 

(芝には慣れないが、コース自体は分かりやすくて良いな……)

 

 日本の芝は欧州のものに比べて軽い。ヨーロッパの芝の長さは日本に比べて長めで、見た目以上に地下茎の密度が高くクッション性の高い場になっている。日本の芝がスカスカと言うわけではないが、ヨーロッパの場はタフでスタミナを要求される場である。

 そして、日本のレース場は欧州のものと比べてかなり整備された画一的な空間だ。ヨーロッパのレース場はまさに自然の中に切り開かれた草原を舞台にしているため、色々と大雑把な所が多い。しかし日本のレース場は、上空から見ればわかる通り幾何学的模様を描くような綺麗な円状をしている。

 

 そういう背景もあって、日本の場は世界屈指の高速場。足への負担が増すため、やはりこれまで戦ってきた環境との違いがダブルトリガーにとっての大きなネックだった。

 

 遥か前方を軽くランニングする、桃色がかった芦毛のウマ娘。アポロレインボウだ。彼女を見て、ダブルトリガーは不思議な縁があったものだと笑う。元々は憧れの先輩が注目しているウマ娘だから興味を持ったのだが、アポロレインボウはそれに値するだけの強い何かを持っているようだ。

 ヨーロッパにいるライバルとラストランを競うのも悪くなかったが、今の気分はアポロレインボウと戦うこと以外考えられなかった。

 

 異国から来た少女が耳を澄ませると、はきはきとした実況解説の声が流れてくる。日本語――特にレース専門用語――は聞き取れるようにしておいたため、彼女もスピーカーから聞こえる声が何を言っているかは大体分かった。

 

『おや、アポロレインボウは今日も抑え気味の返しウマですね』

『準備運動で全力を出したらレースのためのスタミナが無くなりますからね。当然のことです』

 

 ダブルトリガーはほとんど歩くようにして、いち早くゲート前に戻ってくる。アポロレインボウの一挙一動が気になって仕方がない。栗毛の少女はゲート付近に帰ってこようとする芦毛のウマ娘を睨んで思考を回転させる。

 

 これまでのレースぶりは満遍なく映像で確認したが、菊花賞の時も確か()()()()()軽めの返しウマだった。きっとアポロレインボウは生粋のステイヤーだから、中距離以下の時には返しウマで身体を騙していたのだろう。

 しかし、菊花賞の時以上に緩い返しウマのように見えるではないか。ここから導き出せる答えはひとつ、『アポロレインボウに3600メートルは少し長い』ということ。恐らく日本のステイヤーとしては破格のスタミナを持ち合わせているのだろうが、そもそも日本の最長G1は3200メートルの春の天皇賞、欧州の一線級とは比べるべくもない。ダブルトリガーはゲートに向き直り、呼吸を整えにかかったが――短絡的な己の思考が少し引っかかった。

 

(……いや、この推測は間違っている可能性がある。むしろ私の予想通りだったなら、ルモスさんほどのウマ娘が『運命じみた何かを感じる』などと言うはずがない……アポロレインボウは間違いなく3600の舞台でも強いはずだ。相手を歳下だからと言って舐めてかかるな――殺す気で戦わなければ、逆にやられるというもの。落ち着け、落ち着けよ……)

 

 (かぶり)を振り、しばしの深呼吸。異国の少女は少し狼狽えていた。だが、それも無理はないだろう。普段の環境とは何もかも違うからだ。言語、レース場、芝、観客の性質、ラストランという重圧――

 ダブルトリガーがいくら大人びているとはいえ、彼女の内面は少女そのものだ。たった独りで海を渡って、頼れる者が誰もいない中で普段通りの振る舞いをできるはずがない。

 

 異国の少女が顔を(しか)めながら精神を統一する中、芦毛ボブカットのウマ娘がたどたどしい英語で話しかけてきた。

 

「ダブルトリガーさん、大丈夫ですか?」

「……アポロ」

「顔色が優れないみたいですけど」

 

 いつの間にか返しウマを終え、アポロレインボウがゲート前にやってきていた。にへら、と人当たりの良い笑みを浮かべた芦毛の少女は、こんなことを口走る。

 

「訳わかんなくてぐちゃぐちゃ〜ってなってる時は、人と話すと結構楽になるもんですよ」

「……ふん」

 

 ダブルトリガーは鼻を鳴らしてゲートに向き直る。僅かな会話だったが、本当に気分が楽になったことに軽い衝撃を覚える。他人以上親友未満の関係だが、ある程度話せる者と声をかけ合うだけで落ち着きを取り戻せるのは新たな発見だった。

 まだまだ知らないことだらけだなと自嘲しながら、ダブルトリガーはアポロレインボウに軽口を叩く。

 

「確かに迷いは晴れた、助かったよ。……だが、お前はレース後に、敵に塩を送ったことを激しく後悔することになるだろうな」

「……いえ、後悔しませんよ。私、全力のダブルトリガーさんに勝ちたいですから!」

「ほお……」

 

 少女は少し驚いた。と言うのも、アポロレインボウがここまで闘争心溢れるウマ娘だとは思わなかったからだ。ダブルトリガーが3ヶ月ぶりに味わうどす黒い気迫は、非常に()()()ものだった。

 話せば話すほど好感が持てる少女ではないか。実直で優しく、本当に()()()ウマ娘。だからこそ潰しがいがある。真正面から向かってくるその精神力も好ましい。それでこそ憧れのウマ娘が見込んだ大器というもの。ダブルトリガーの感情が高まっていき、鳴り響くファンファーレと共に絶頂を迎えていく。

 

 その後は会話もなく、ファンファーレ後に響いた地鳴りのような歓声と共に16人のウマ娘達が鋼鉄のゲートに収まっていく。

 

『冬の冷たい空気が張り詰める中山レース場、3600メートルという日本最長距離を争うウマ娘は16人。集ったメンバーはシニア級の古豪からクラシック級の新星、何よりヨーロッパからやってきた長距離三冠ウマ娘とバラエティに富んでいます』

『昨今の状況からすれば、ステイヤーズステークスでフルゲートとは珍しいですよね。観客の入りも目を見張るほどです』

『全てのウマ娘がゲートに収まって、年末の長距離王者決定戦が今始まります!』

 

 ダブルトリガーは2枠4番のゲートに入り、左右に揺れながらゲート開放の時を待つ。アポロレインボウは3枠6番。逃げウマは内枠有利のため、芦毛の少女は外から膨らむようにハナを奪いに来るだろう。スタミナ量に自信のあるダブルトリガーにしてみれば、先行争いでアポロレインボウのスタミナを使わせたい所である。

 

 周囲が静かになったのを機に、16人のウマ娘が双眸をギラつかせながらスタートの姿勢を取った。その直後、一斉にゲート扉が開け放たれ――遂にステイヤーズステークスが開幕した。

 

『スタートしました! やはり行きます6番アポロレインボウ! ぐいぐい飛ばして早くも先頭を奪う勢いだ! そしてその内から競りかけるのは4番のダブルトリガー! 逃げを得意とする2人が早速やり合っているぞ!』

 

 スタート直後に高低差2.2メートルの急坂が待ち構えているため、アポロレインボウは完全なトップスピードに乗れない。しかし、ダブルトリガーは別だ。本番ヨーロッパのタフなコースで長年やり合っているため、単純なパワーで言えばこの場の誰よりも高い。

 そのため、ダブルトリガーは大逃げを打っているはずのアポロレインボウに容易く食らいつく。坂道を苦にせず、それどころか下り坂を走っているような異常なほどの加速を見せ、芦毛の少女の真横にぴったりと張り付いている。スタートから第1コーナーまで、アポロレインボウはダブルトリガーを完全に引き離すことができなかった。

 

「っ……!」

 

(お前のスタミナ……存分に削らせてもらうぞ)

 

 曰く、ダブルトリガーのマークは吐き気すら催してしまうほどの圧があると言う。鳥肌が立つのはもちろん、本気で殺されると思ってしまうため呼吸がままならなくなり、レースどころではなくなる……という悪辣極まりない本気のプレッシャーである。

 アポロレインボウが焦ったような表情を見せる。ダブルトリガーが体をぴったりと密着させ、とてつもない威圧感で芦毛の少女にプレッシャーをかける。

 

 これはダブルトリガーの作戦だ。最初にアポロレインボウを捕まえなければ、最後の最後まで絶対に追いつけないスピードで好き勝手に走り回られてしまう。そうなっては勝ち目がないため、スタート直後にどうしてもちょっかいをかけなければいけなかった。

 例えばそれは、今年の皐月賞。ダブルトリガーが考える限り、あの時セイウンスカイが行った作戦がアポロ対策として最も正しいように見えた。もっとも、成長したアポロレインボウを封じ込めるためには、皐月賞のセイウンスカイ以上の運に恵まれないといけないだろうが――泣き言は言っていられない。とにかく初動でどれだけアポロレインボウを削れるか。それが勝利の鍵だ。

 

 序盤から2人の優駿が激しい主導権争いを繰り広げる。猛烈なスピードとは言い難いが、そこには見た目以上の厳しい争いが生まれていた。

 

『各ウマ娘直線の坂を登り切って、先頭は1番人気のアポロレインボウ。ちょっと手間取りましたがハナを奪い返しました。対してダブルトリガーは2番手追走、先頭のアポロレインボウにプレッシャーをかけ続けています』

『3番手以下も先頭の2人を追っていますが、かなりぎゅっと詰まった展開ですね。さすがにスタミナが持たないのか、アポロレインボウのペースは控えめに見えますよ』

 

 執拗なマークと()()でアポロレインボウを狂わせていく。どういう行動を起こせばウマ娘のペースが乱れるか、スタミナを奪えるか、6年間の経験が身体に刻まれている。

 

(映像で見た限り、アポロはプレッシャーに曝された時かなり弱くなる。菊花賞はそれを気にする必要がないくらい後ろを引き離していたが――気にせざるを得ない状況を作り出せばいいだけの話)

 

 基本的にウマ娘の進路を塞ぐことは規約で禁止されている。斜め後方で大内を走るダブルトリガーがいるため、アポロレインボウは絶妙に最短経路を取れない。そして進路妨害を避けるためダブルトリガーの進路を気にする必要があるので、彼女が施すトリックや威圧感を感じやすくなってしまう。

 自由な逃げを行うアポロレインボウとは違って、ダブルトリガーは支配型の逃げだ。ペースを操り、有力ウマ娘のスタミナを削り、己の有利展開を作り出す。綿密に計算されたペース配分、他者を威圧し掻き乱すトリック、そして瞬間的なレース勘から繰り出される位置取り――これら全てが世界一と言っていい水準にあった。

 

 ダブルトリガーの斜め前方、芦毛のウマ娘の端正な顔が苦しげに歪んでいるのが見える。ただ、ダブルトリガーも想像以上のスタミナを消費してしまった。アポロレインボウの速度が予想よりも速かったからだ。

 

(勝負は第2コーナー中間から始まる下り坂まで。下り坂に入った途端、アポロは今度こそ後続を引き離す大逃げに移行するだろう……しかし、これ以上スタミナを持っていかれると私も厳しい)

 

 ダブルトリガーは予定を変更し、第1コーナーに差し掛かる寸前で外に進路を変更した。後方で前に行きたがっているウマ娘――3番手を追走するジュエルネフライトのためだ。ウマ娘ひとりが通れる絶妙なスペースが出現し、先頭への導道が完成する。

 当然、ジュエルネフライトがそれに気づいて怪訝そうな顔をする。

 

(な、進路を開けてくれた……!?)

(前に行きたいだろう。()()())

(……くっ。気は乗らないけど、あたしは逃げウマ! 行かない手はないっ!)

 

 ダブルトリガーが蓋をしていた3番のジュエルネフライトが、するすると前に上がっていく。そのままアポロレインボウの直後に取り付いて彼女を削りに行った。

 ダブルトリガーはほくそ笑む。()()()()()。この場で最も警戒しなければならないのはアポロレインボウだ。ベストなレース運びをされればひとたまりもない――そういう共通認識があることは理解していたから、ダブルトリガーはそれを利用した形になる。

 

『第1コーナー中間点、アポロレインボウが速度を上げていきます! 3番ジュエルネフライトが先頭集団に上がり、アポロレインボウに対して勇敢に食らいついていく! ダブルトリガーは余裕の表情で3番手を走っているぞ!』

『ダブルトリガーはジュエルネフライトの背中に張り付いて、風の抵抗から来るスタミナ消費を抑えています。こういうところが抜け目ないですね』

 

 第1コーナーに入って、アポロレインボウの速度が乗り始めた。最短経路を何とか確保した芦毛の少女は、得意とするコーナーリングで加速していく。ジュエルネフライトも釣られて速度を上げていくが、レース終盤のことも考えてアポロレインボウに追いつけるような速度で追走しているわけではなかった。

 そして、ダブルトリガーはそのジュエルネフライトの思考すら読んで、彼女を利用したスリップストリーム状態に入っている。

 

(3番はあまり長くは持たないだろうが……それまでは()()させてもらうぞ)

 

 第2コーナー中間の下り坂に入って、いよいよ位置取りが確定する。先頭は大逃げを開始したアポロレインボウ、後続との差は5身。2番手は逃げウマ娘のジュエルネフライト、3番手は直後にダブルトリガーとなった。

 

 レース最序盤アポロレインボウにプレッシャーを与え続け、終盤に苦しくなるよう仕向ける。それがダブルトリガーの作戦だったのだが――ある程度成功したと言っていい。ダブルトリガーとジュエルネフライトによってアポロレインボウのスタミナは大きく削れ、残存体力はそう多くないはずである。栗毛の少女はそう予想し、早くも向正面に入った芦毛の少女を観察する。

 

(……私のプレッシャーから抜け出せて、安心した顔をしているな。アポロのスタミナ量が化け物クラスであっても、さすがにこのレベルのプレッシャーを受けて最後まで無事に走れるはずがない)

 

 3600メートルという道のりは想像以上に長い。最序盤に仕掛けた鬼のような()()で削れたスタミナに加え、中山レース場名物の急坂を3回も越えなければならないのだ。普通なら2度の坂越えで吐き気を催すような苦痛と心肺機能の限界にぶち当たる。いくら自信があるとはいえ、菊花賞のようなレースぶりをすれば間違いなく潰れる――それがダブルトリガーの計算であった。

 希望的観測ではない、豊富なレース経験から来る予想。アポロレインボウは間違いなく垂れる――そう信じてやまなかった。

 

 

 しかし、向正面を超えて第3コーナーに入る時――2()()()()()()()1()2()()()()()()()()()()()()。さすがのダブルトリガーもその考えに疑いを持たざるを得ない。

 

『アポロレインボウ今日も快調に飛ばしています!! 序盤はごちゃつきましたが、第3コーナーに入って早くも大差がついております!! ゴールする頃にはいったいどれだけの差が広がっているのでしょう!!』

 

 遥か遠くに確認できるアポロレインボウの背中。ダブルトリガーはもちろん、ジュエルネフライトやその他のウマ娘も不気味に感じていた。

 

(な……何故だ? 序盤にあれだけスタミナを削られておいて、どうしてここまで飛ばしていられるんだ? バカな! 持つはずがない!!)

 

 後ろに控えたシニア級の面々は、ダブルトリガーやジュエルネフライトが凄まじく凶悪なスタミナ削りを行ったことを知っている。同時に、目の前で振り撒かれていた威圧感が桁外れのレベルだと理解していた。

 ジュエルネフライトのプレッシャーだけならともかく、欧州の雄ダブルトリガーが行ったスタミナ削りは化け物のそれだ。少女の後ろに控えていた歴戦のウマ娘達でさえ呼吸を乱し、心臓が早鐘を打って余計な体力を消費してしまうほど。

 

 肌で感じたからこそ、ダブルトリガーのスタミナ削りを直接受けたアポロレインボウは無事では済まないと認識していたのに。その()()()()を嘲笑うかのように、芦毛の少女は速度を上げ続けてスパートをかけている。

 

(あの調子でスタミナが持つわけない)

(虚勢に違いない)

(アポロレインボウはツインターボ(逆噴射装置)になる)

 

 次第に後続のウマ娘達はそう考えるようになる。

 いくら菊花賞を世界レコードで制したとはいえ、アレはノープレッシャーの中で生まれた記録だ。だから、あのレベルの威圧を受けて同じ走りを繰り出せるはずがない。だって、()()の恐怖と効果は身をもって知っているから。

 

 経験と過去の記録をしっかりと記憶している15人(歴戦のウマ娘)だからこそ、アポロレインボウの行動が理解できない。

 普通なら速度を落とすなりして、最終局面に向けてスタミナを温存しにかかると言うのに。

 

 この場にいるウマ娘の全てがシニア級以上と言うこともあって、ホームストレッチに到達してもまだまだ速度を緩めないアポロレインボウに対して疑念を超えた恐怖が生まれてくる。

 

(おかしいぞ)

(いや、そんなはずは)

(あの調子は長く続かない、落ち着け自分。足を溜めるんだ)

(まだ前半部分が終わっただけだ! 今に見てろ、アポロレインボウは垂れてくる!)

 

 アポロレインボウとの差と、拭い切れない大きな疑念が膨らんでいく。2番手ジュエルネフライトとの差は17身。レースは1800メートルを通過し、いよいよ後半部分に差し掛かった。

 

 ホームストレッチ前のターフビジョンには、超がつくほど縦長の展開が()()で映されている。ある者は手に汗握る興奮を覚え、ある者はツインターボのような逆噴射を心配する。

 アポロレインボウの大逃げが安定して結果を残しているとはいえ、観客からも確認できるほどのプレッシャーを受けた彼女がトップスピードのままゴールできるかは観客からしても疑問でしかなかった。

 

 ホームストレッチを駆け抜ける16人のウマ娘達に大歓声と拍手が送られ、各ウマ娘が知らず知らずのうちにペースアップする。スタミナ自慢のウマ娘が集うステイヤーズステークスだったからあまり問題にはならなかったが、今回ばかりはそのペースアップに身を任せてみようと考えるウマ娘も多い。

 何故なら、アポロレインボウが15人をホームストレッチに置いたまま第1コーナーを走り始めたからだ。レースは残り1600メートル、まだまだ先は長いとはいえ、時速70キロという極限の世界にいるウマ娘達が冷静な思考を欠こうとしているのは明らかだった。

 

『アポロレインボウが独走している!! 歓声と言うよりはどよめきが中山に生まれています!! これは後続のダブルトリガー含め、アポロレインボウに届くのでしょうか!?』

 

(アポロちゃん、全然ペースを緩めない……)

(それどころか、更に加速し始めたぞ)

(もしかして……)

(ありえない。早く垂れろ、垂れてくれ)

 

 アポロレインボウを追う15人の意識はいつしか団結し、その不安の拠り所を求め始める。第1コーナーを曲がって第2コーナーに突入し、先を行くアポロレインボウとの差が20身になった時、疑念は頂点を迎えようとしていた。

 

 "もしかして、アポロレインボウは垂れてこないんじゃないか"

 

 15人が全く同じ考えを持つ。序盤にダブルトリガーの攻撃を受けたアポロレインボウが垂れずに走り切ってしまうのではないか――と。

 

 その考えに至ることは危険だった。わざわざ()()()()()()()()を考えて焦燥に駆られ、スタミナを消費してしまうことが最も危険だからである。

 

 しかし、目の前では有り得ない可能性が起こってしまっている。考えざるを得ない。残り1200メートルを切って15人の身体が悲鳴を上げ始めていると言うのに、アポロレインボウは全くペースを緩めない。

 疑心暗鬼に陥って、勝手に()()()始めるウマ娘達。ダブルトリガーは己の実力を信じてペースを押さえ込もうとするが、残りの14人の体内時計は完全に狂ってしまった。

 

 前に行きたがるウマ娘達。ダブルトリガーは必死に深呼吸を繰り返し、思考を高速回転させる。

 常識的に考えて、絶対に、間違いなく、アポロレインボウは垂れてくる。残り1000メートルを切ったが、絶対に落ちてくるはずなんだ。ここで前に行くのは失策。最終コーナーから()()()()末脚を伸ばせば、必ず尻尾を捕まえることができるのだ。無視。無視しなければならない。落ちるウマ娘は視界から外し、ベストなペースで走ることが正解だ。

 

 そうしてダブルトリガーがアポロレインボウを今度こそ視界から外そうとした時、遥か彼方を走る少女と目が合った。

 

 アポロレインボウが一瞬だけ振り向いて、白い歯を見せる。それだけで充分だった。疑心暗鬼が極限に達し、焦りに焦った15人のウマ娘は滅茶苦茶な場所から末脚を使い始めた。ダブルトリガーは残り800メートルのロングスパートを敢行しにかかろうとする。

 間違いなく逃げ切られる。その焦燥感と20身という目に見える差が彼女達を駆り立てている。しかし、生粋のステイヤー達とはいえ800メートルもの超ロングスパートをして持つはずがない。

 

 されど、出来上がった流れは止められない。末脚を爆発させるのではなく、長くスパートをかけるようにウマ娘達が位置取りを押し上げ始めた。

 

 流れの渦中にあったダブルトリガーはふと我に返って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と考える。後続の疑心暗鬼を引き起こすのなら、もっと速いタイミングでもよかったのではないか。残り1000メートル地点でも良かったし、何なら2周目の初めに振り向いても良かった。

 

 そう――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 きっと、残り800メートルという微妙な距離で後続を焦らせる必要があって。それこそがアポロレインボウの狙い。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()8()0()0()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『残り800メートルを通過して、後続が一気に仕掛けてきた!! アポロレインボウとの差が20身からどんどん縮まっていきます!!』

 

 それを察した時にはもう遅かった。ダブルトリガーを含めた15人のウマ娘はロングスパートの姿勢に入っており、末脚を長く使う意識に移ってしまっている。そこで15人は、アポロレインボウが虚勢を張っていたことに気付いた。

 残り400メートルを切ったアポロレインボウが明らかに速度を落としており、上体は完全に持ち上がってしまっているではないか。大きく口を開けて足取りは拙く、全身を汗まみれにして息も絶え絶え。一瞬だけ超絶的な『未知の領域(ゾーン)』による超加速が生まれたが、一歩進んだところで完全にブレーキがかかる。どうやらアポロレインボウは紛うことなきガス欠に陥っているようだった。

 

 ――アポロレインボウは決死の作戦を行ったのだ。失敗すれば大敗確実なこの場面で、あえて己の大逃げを貫いて後続を騙し抜いた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そんなありもしなかった未来を考えて、15人は渾身のロングスパートで追い縋る。

 

『おっと!? アポロレインボウ上体を持ち上げた!! 真っ青な顔で懸命に腕を振っているが――これはスタミナ切れだぁっ!! ダブルトリガーからの強烈なプレッシャーに加え、3600メートルという超長距離が壁となったか!! 完全に速度が落ちて、真っ直ぐ走れていません!! ロングスパートをかけたウマ娘がどんどん差を縮めているが、届くかどうかは微妙だ!!』

 

 策を講じたはずが、手のひらの上で踊らされていたわけだ。ダブルトリガーは凄みのある笑みを浮かべると共に歯を食い縛り、姿勢を前傾させる。

 アポロレインボウは根性だけで最終直線を乗り切るつもりだ。確かに彼女ほどのウマ娘なら押し切り勝ちが可能だろう。しかし、ダブルトリガーには不可能を可能にする『未知の領域(ゾーン)』があった。

 

 最終直線に入ったダブルトリガーは芦毛の少女に照準を定める。既に失速気味のアポロレインボウ。その背中に合わせて狙い済ました引き金(トリガー)を引く。

 異国の少女の背中に『未知の領域(ゾーン)』が発現する。彼女の心象風景に魅せられ、15人の足がターフに釘付けになっていく。(おぞ)ましい力の波がうねって、夢破れた少女のボロボロになった『未知の領域(ゾーン)』が火を噴く。

 

「私には全盛期程の力は無い――それでも!! この国で好敵手に巡り会えたことに感謝を!! このラストラン、選手生命の全てをこの一瞬に捧げる!!」

 

 ダブルトリガーは己の心象風景を見ながら、末脚を爆発させた。

 絶頂(ピーク)を超えて風化していく己の身体。人気が凋落したヨーロッパのレース。月日を重ねるごとに希望さえ失って、深い夜の中に閉じ込められて。いつしか走ることさえ嫌になっていた。

 しかし、日本とアポロレインボウという熱狂が夢の景色に光を灯し、かつての彩りに満ちた風景が戻ってくる。狂気的な悦びが身を襲い、ダブルトリガーは更に加速していく。

 

『ダブルトリガー抜け出した!! 残り200メートルを切って、先頭のアポロレインボウ苦しい!! 猛追するダブルトリガーとの差がみるみるうちに縮まっていく!!』

 

 ダブルトリガーはこの状況を楽しんでいた。訳の分からないレース展開だ。しっちゃかめっちゃかで、セオリーなんて関係ないバカげたレース内容。ペースメイキングが重要視される欧州では考えられない異端な走り。全ての要素に堪らなく心が躍った。

 

 残り200メートル、差を詰めるダブルトリガー。アポロレインボウは完全にスタミナを切らし、殆ど早歩きのような速度でゴール板に向かっている。1歩1歩踏み締める度に、その差が10、9、8身と詰まっていく。

 

 圧勝劇の際とはまた違う、殺気立ったような大歓声が中山レース場を包んでいた。誰もが拳を振り上げ、頑張れアポロ、()()()()アポロレインボウと叫ぶ。或いは、ぶっ飛ばせダブルトリガー、と大声を張り上げて。

 

 奇妙なデッドヒートだ。完全に失速した大逃げと、超加速を見せてそれを差し切ってしまいそうな逃げが、ゴール板の直前で()()交じり会おうとしている。

 早歩きと全力疾走の勝負。その勝負の始まりは20 身もの差があったはずなのに、何とも絶妙なタイミングで勝敗が決しようとしている。

 

 これまでにつけた勢いのまま、ど根性だけで走るアポロレインボウ。口から泡でも吹いてしまいそうなほど顔を真っ青にして、ほぼ白目を剥きながらゴールを目指す芦毛の少女。酸欠状態で失神寸前だというのに首を必死に伸ばして、絶対に勝つんだという魂の叫びが伝わってくる。

 

 かつて失ったレースへの情熱を取り戻し、ゴールに向かってひた走るダブルトリガー。王者の余裕などかなぐり捨て、目前に迫る勝利へと貪欲に走る異国の少女。必死の形相だというのに微笑が滲んでいて、されど双眸には殺意に似た勝利への欲望が満ちている。

 

 見てくれなんてどうでもよかった。ダブルトリガーもアポロレインボウも、ただ目の前のライバルに勝ちたいと思っている。

 速度は違えど、その激情(おもい)は競り合って均衡したまま。遂に、3600メートルの長い旅路に終焉が訪れる。

 

『アポロレインボウ残すか!! ダブルトリガー差し切るか!! アポロレインボウ苦しい!! ダブルトリガー凄い勢いで末脚を伸ばす!! アポロレインボウ白目を剥いているが止まらない!! ダブルトリガー猛追!! しかし――しかし――アポロレインボウ僅かに前に出てゴールインッッ!!』

 

 ダブルトリガーがアポロレインボウに並びかける。しかし、アポロレインボウは止まらなかった。

 そのまま力尽きるように倒れた芦毛の少女は、微かに笑っていた。

 


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