ゆるふわ芦毛のクソかわウマ娘になってトレーナーを勘違いさせたい 作:へぶん99
ゴールを認識した瞬間、思いっ切り脱力して速度を緩めた。泥水だらけの靴を引きずって、膝に手をつく。一度止まってしまったら、二度と動き出せないような気がする。それくらい強烈な疲労が全身を迸っていた。
身体中が悲鳴を上げている。純白のウェディングドレスは泥まみれで、撥水加工がされているとはいえ凄惨たる状態だった。汚れを払う気にもならない。髪の毛は乱れに乱れて、額や頬、口端に張り付いてしまっている。私は唇から垂れていた液体を拭って、喘ぐように深呼吸した。
そうして立ち止まる私の後ろ。少し遅れてグラスワンダーが隣にやってくる。彼女に気付かぬまま額から流れる汗を拭おうとした途端、びくりと跳ねたグラスワンダーから蛇の如く手が伸びる。そのまま彼女の白い手が私の手首を掴んだ。
「アポロちゃん。恐らく右目に泥が入っていますから、擦ってはいけません。涙で洗い流すんです」
「……あぁ――」
グラスワンダーは、私が目を擦るために手を上げたのだと勘違いしたのだろう。確かに右目は痛かったが、何故痛いのかを忘れていた。疲れすぎて。そういえばそうだった、と思いながら右の瞼を閉じて、軽く瞬きする。
高速で走っていた最中、眼球にまともに泥を被ってしまった。怪我をするのは辛いが、眼球の怪我は特別嫌な感じがする。多分最も多くの情報を取り入れる器官だからだろう。
私は血と泥を涙で洗い流しながら、頬を伝う液体を指先で拭った。純白の手袋が血と汗と泥に汚れる。手のひらに溜まった液体を握り潰して、そのままぐっと力を込めた。
痛みの中に疼く確かな喜び。――嬉しい。予想外のグランプリとなったが、それでも何とか勝てた。とみおの予想がドンピシャ的中し、グラスワンダーに会心の一撃を与えられたのだ。
私は駆けつけた救護班を手で制しながら、栗毛の少女に片目を向けた。グラスワンダーの流麗な栗毛は激しく乱れていて、あちこちに泥が付着している。集団の中央に控えていたため、勝負服の汚れも酷い。しかし、その顔は晴れ晴れとした笑顔をたたえていた。
「グラスちゃん、本気でぶつかってくれてありがとう」
「……いえ。負けはしましたが、とても楽しかったですから」
「私も楽しかった。二度とやりたくないけど」
「うふ」
グラスワンダーはくすくすと微笑む。よく見たら、彼女の脚は震えていた。私も人のことは言えないけど、もう立っていることすら限界なのではないか。
それを何となしに指摘しようとすると、彼女は私の言葉を遮った。
「アポロちゃん、あまりうかうかしていられませんよ。脅すつもりではありませんが、右目は早急に治療してもらった方がいいと思います」
「……そうだね。失明はしたくないし、そろそろ行くね」
「はい。それじゃ、また」
「うん」
最後まで弱みを見せたくはなかったのかもしれない。私はグラスワンダーを一瞥してから踵を返す。そのままスタンドに向かって一礼すると、私は救護班と共に医務室に直行した。
年末のグランプリ・有馬記念。二度と起こらないであろう波乱の中、刻まれた時計は2分31秒9。電光掲示板に示された着順は、1着アポロレインボウ。2着は2馬身差でグラスワンダー。3着は更に3馬身離れてメジロブライト。
私が去った後も、スタンドからの歓声は鳴り止まなかった。
「アポロ、大丈夫か!?」
医務室で右目の応急処置を受けている最中、とみおが大慌てで部屋の中に飛び込んでくる。大混雑の中で駆けつけたにしては相当早い。ひらひらと余裕な感じで手を振って応えてみたが、彼は私の周りをうろついて旋回を始めた。
まるでサイレンススズカだ。怪我の具合が軽そうだったのでちょっと笑いそうになったが、彼のことを
とみおはソワソワしながら医師に声をかける。医師は抑揚のない声で答えた。
「あの、アポロの目は……」
「泥が入って少し眼球が傷ついています。失明の恐れは極めて低いですが、万が一のことを考えて病院に行った方がいいでしょう」
「そ、そうですか……」
医師は処置を終えると回転イスを蹴ってどこかに消えていった。そして、医師と代わる代わるやって来たURAのスタッフが、私達におずおずと声をかけてきた。
「あの、ウイニングライブのことなんですが……そのぅ…………どうされます?」
どうされます、と言うのはウイニングライブに出るか出ないか、ということだろう。それを聞いたトレーナーは頬を引き攣らせていたが、集まったファンの人数が人数だ。いつもなら大事を取って病院に直行していただろうが、興行的な面から見れば本日の主役抜きで行うウイニングライブは避けたいだろう。とみおは即答しかねていた。
恐らくスタッフも心苦しく思っている。レース事情に精通している者なら、レース後の怪我治療の重要さなど言うまでもなく知り尽くしているからだ。本来であればウイニングライブ辞退を勧めるところだろう。
スタッフが見つめる中、とみおは迷っていた。でも、返事はハナから決まっている。答えは「私を病院に連れていく」だ。この有馬記念に彼の思考時間を伸ばすだけの要素――歴史的な観客動員数と世間の注目度の高さ――があっただけのこと。
彼は私を第一に考えてくれている。鬼のように厳しくて、それでいて優しくて。利益や世間体よりも担当ウマ娘を優先する。それが桃沢とみおというトレーナーなのである。
でも、私は違った。口を開きかけたとみおを手で制して、彼の目をじっと見つめる。この有馬記念は特別だ。普段から忙しくしているお父さんとお母さんが中山レース場にいる。しかも私のレースを生で見て、勝利する瞬間さえ目撃してくれた。
こんな瞬間、きっと二度は訪れないだろう。だから私は、躊躇わずに言った。
「とみお。私、ウイニングライブに出たい。お父さんとお母さんとファンのみんなのために、歌って踊りたいよ」
お父さんお母さんだけではない。この有馬記念で初めてレース場を訪れる人、初めて私が勝つところを生で見た人、予約抽選を勝ち取ってライブを見に来てくれる人――
ここにいる全ての人達にありがとうを伝えたい。きっとファンのみんなだって、できることなら私のウイニングライブを見たいと思ってくれているはずだ。
反対されても引き下がる気はなかった。この有馬記念においては強情でありたかった。無論、私がウイニングライブに出るか出ないか――その最終判断を下すのはトレーナーである桃沢とみおの役割だ。ライブに出られるかどうかは、私の言葉がどれだけ彼の心を揺るがせられるかに懸かっている。
彼は私のささやかな願いを聞いて、悩みに悩む。腕を組んで、組み直して、眉間に皺を寄せて、口を一文字に結んで考え続ける。
そしてやっぱり、とみおは「ウイニングライブは辞退しよう」と言うのだった。
「……アポロ、悪いけど許可できないよ。その右目じゃ、歌はともかく……ダンスは踊れないだろ」
先程の応急処置によって目の中に入った砂泥や血は取り除かれたが、右の視界はまだ赤っぽく見える。奥行きが掴みにくくなっているため、ダンスは危険が伴うというのがとみおの言い分だ。
が、そこにも付け入る隙はあった。有馬記念恒例のライブ曲である『NEXT FRONTIER』は、『本能スピード』や『うまぴょい伝説』などに比べるとそこまで激しいダンスを必要としない。ターンや左右ステップなどはあるが、機敏なフォーメーションチェンジや舞台を走り回る場面が存在しないため、ある意味自分の歌唱に集中できる歌なのだ。
どっちかと言うと、問題はダンスよりも舞台装置にあるのではないかと思う。『NEXT FRONTIER』はライブ演出として炎の柱が立ちまくる。それはもう、やり過ぎじゃないかと言われるくらいド派手に燃え盛る。常に浴びせられる照明の影響もあって、一曲踊り終わったウマ娘が汗だくになるくらいステージ上は暑くなる。
その熱気によって怪我が悪化することの方がよっぽど怖いくらいだ。
私はとみおに食ってかかり、ライブに出ると言って譲らない。とみおもまた食い下がる。
「目隠ししてでも踊れるもん」
「そういう問題じゃなくて。右目の怪我が悪化したらどうするんだ」
「そんな酷い怪我じゃないよ」
「万が一ってこともある」
「……その万が一があってでもお願いしたいの。トレセン学園に送り出してくれた家族に、ここに来てくれたファンのみんなに、絶対ぜったい私の歌を届けたいって……そう思ってる。ダメ……かな?」
「…………」
それでも。私が彼の手を握って心の底からお願いすると、とみおは喉元までせり上がっていた否定の言葉をぐっと呑み込んでくれた。そして彼は目を閉じた。
僅かな逡巡。彼は私がライブを行える可能性を模索してくれているのだ。必死に探して、導き出してもらって、それでもダメだったら……その時は諦めるしかない。
私は彼の手をぎゅっと握って、言葉を待つ。その手には想像もつかないくらいの力が込められていて、数瞬の間にどれほど彼が苦しんでいるかを理解してしまった。
本当に申し訳なかった。でも、譲れないものはある。
とみおが顔を上げる。私は彼の口が開かれるのを待った。その瞬間はすぐにやってきた。
「……分かった。ウイニングライブをやろう。この有馬記念は一生に一度しかないからな……。ただし、ダンスは簡略化するし、普段の派手な演出は控えてもらうからな」
「……! あ、ありがとうっ!」
とみおは大きな大きな溜め息をつくと、固めた拳をゆっくりと解いた。そして私の右頬に触れて怪我の具合を確かめると、医務室の外で待つスタッフの元へと駆けていく。
従来のライブより火の勢いを弱めるだとか、センターの振り付けを簡易的なものに変更するだとか、スタッフに色々な要求をしているのが聞こえる。スタッフも事情を汲み取ってくれたので、とみおの要望を何とか上に通してくれるらしかった。
「アポロさん、いいトレーナーを持ちましたね」と、お医者さんが声をかけてくる。「自慢のパートナーです」と答えると、彼は皺だらけの顔を柔和に歪ませた。
「目薬を渡しておきますから、本番前に
「ありがとうございます!」
私は目薬を受け取ると、彼に感謝しながら医務室を退室した。外に出ると、疲れ切った表情のトレーナーがスタッフを送り出していた。既に話はついたらしく、これから急ピッチでライブ会場への対応を行うそうだ。
「上手くやってくれそうなの?」
「あぁ……何とかなりそうだ」
「ありがたいね」
「……ちょっと遅れちゃったけど、1着おめでとう。目から血が出てるって気づいた時は本当に心臓が止まるかと思ったけど」
「とみおの作戦指示のおかげだよ」
「まあね」
「認められると逆に滑稽かも」
「何でだよ……はぁ」
「…………ほんと、無理言ってごめんね」
「まぁ……全部上手くいくさ」
再度溜め息を吐くとみお。多分、彼が考えているのはウイニングライブ後のことだ。私を病院に連れていくことはもちろん、色々とやらなければいけないことがあるだろうから……そこは本当に申し訳ない。
でも、私がウイニングライブを志願したのは、とみおのことを思ってでもある。もし私がライブを辞退したら、ファンからは盛大なブーイングが飛んでくることになるだろう。とみおにその矛先を向けさせたくはなかった。幸いなことにファンのみんなは良識のある人が多いから、傲慢な上に杞憂でしかないのかもしれないけど……。
……とにかく。用意してもらった以上、私に出来ることはウイニングライブを無難に終わらせること。そして、怪我を悪化させないこと。全てが上手く行けば、私が心配するようなことは起きないだろう。
メイクを済ませ、勝負服の汚れを落とし、ステージ裏に立つ。事情を知るグラスワンダーとメジロブライトが私に声をかけてきた。怪我の具合はどうですか、視界の他にも問題はありますでしょうか――と、2人の丁寧な口調が妙にくすぐったかった。
「右目はこの通り見えにくくなっちゃってるんで、もしポカしたらカバーよろしくです」
「あらまあ……」
「分かりましたわ〜」
右目は多少赤くなっているが、目薬をさしたおかげか遠目には分からないだろう。休憩時間でライブするだけのスタミナも回復したし、後は上手く踊れるかどうかにかかっている。
スペシャルウィークはメイクデビュー戦のウイニングライブにて天を仰ぐ棒立ちをしたらしいが……もしダンスするのが厳しくなったら私もそうしようかな。
視界の端々でスタッフが忙しなく動き回る中、遂にライブステージに薄明かりが灯る。壁を隔てて聞こえるざわめき。耳を澄ませば、「アポロレインボウはウイニングライブをしてくれるのか」「アポロちゃんの怪我は大丈夫なのか」という心配の声が聞こえる。
私は両隣に控えたグラスワンダーとメジロブライトに視線を送る。彼女達はゆっくりと頷いて、手を差し出してくる。そっと2人の手を取ると、私達はステージ上に続く道を歩いていった。
『NEXT FRONTIER』の物悲しいイントロが始まる。
上昇していく足場。観客のボルテージが上がり、大歓声がライブ会場を包む。同時、私の姿を確認したファンからは驚愕の声が上がった。
その声に耳を傾ける暇などない。ピンマイクに歌声を吹き込み、3人の『NEXT FRONTIER』を奏でていく。視界の両端に映るグラスワンダーとメジロブライトが優雅なダンスを刻み――対する私は、控えめな動きながらも一生懸命に全身を動かした。
歌いながら踊るというのは、ある意味全力疾走することより難しい。ダンスに集中しすぎてしまえば音程が取れないし、歌に注力しすぎれば全身の動きが疎かになる。どちらも全力のパフォーマンスをして、絶妙なバランスを取ることが大事なのだ。
そして、聡い観客はすぐに気づく。私の『歌』と『ダンス』のバランスが取れていないことに。
正直、今の私のダンスはボロボロだった。たまにふらつくし、脚をもつれさせて――その度にグラスワンダーとメジロブライトに支えてもらって――いるし、躍動感の欠片もない。右目が想像以上に見えておらず、とりあえず踊るだけで精一杯だった。
しかし、私の歌声は。腹の底から飛び出す声色は、誰にも引けを取らなかった。
――一生に一度きりの“今”を後悔したくない。
伸びやかで力強い歌声が響く。珠汗を流しながら、歌詞を紡いでいく。
ウイニングライブとは、レースに参加したウマ娘達が応援してくれたファンへ感謝の気持ちを表すライブである。ここにいる17万人に、今この瞬間しか伝えることのできない気持ちを歌声に乗せて伝えるのだ。
応援してくれてありがとう、観に来てくれてありがとう、と。
――選ばれしこの道を、ひたすらに駆け抜けて。
頂点に立つ、立ってみせる。
暮れの中山、天候は晴れ。この場にいるファンや私の家族、そしてトレーナーに向けて、大いなる感謝を込めて私は歌う。
これからも、この先も――力の限り、先へ。
ウイニングライブは大盛況のまま幕を閉じた。最後はグラスワンダーやメジロブライトと抱き合って、涙を流した。『NEXT FRONTIER』のアウトロが完全に終わると、私達は観客席に向かって大きく手を振った。