湯煙と月の光。二つが合わさることで、朧気な幻覚を見ているかのような気分だった。
いつも、最終的には銭湯に来ている気がする。その甲斐あってか、くつろぎながら眺める夜景のその細かな特徴に関して、自分は自信を持って、隅から隅まで答えることができるだろう。
ただ、今日の銭湯はいつもと違った。
ここは混浴の露天風呂。常連である自分が慣れたようにくつろいでいくその隣には、まだ混浴に慣れていない菜子がいた。タオルを巻いて、髪も束ねてまとめてあるその少女は、とても恥ずかしく思うのだろう火照った顔で、露天風呂に浸かっている。
避けるように、自分から視線を逸らす菜子。とてもよくわかる。自分も最初は、混浴というものに困惑したものだったから無理もない。
それに今日は特に、ゆっくり過ごしたい気分でもあったのかもしれない。
……立会人でありながらも、緊張から解放されたその瞬間。つい数時間前、日中にも迎えたギルドファイトの結果発表を、自分と菜子は最後まで見届けたものであったから————
町長室の扉が開けられて、ギルドマスターのネィロが入ってくる。
この時には既に、自分と菜子も居合わせていた。アレウスとオキクルミに続くよう町長室に到着した自分らは、二人の間で迸る緊張に、こちらまでも不安になるような胸騒ぎを覚えたものだった。
部屋に入るなり、人数を数えて声を掛けてくるネィロ。
「よし、メンツは揃っているな。じゃ早速だが、結果発表をしていくぞ」
前置きも冗談も無い。これも、彼の胸ポケットに収められている、勝敗を記す用紙のみが知る結末に急かされたからか。ギルドマスター本人も結果を気にしているようであり、ネィロもまた、この勝負の行方を知りたかったことに違いない。
アレウスとオキクルミを目指すネィロ。そして、軽く指を差しながら歩み寄りつつ、そうセリフを続けてくる。
「まぁ、オレちゃんもこの緊張からさっさと解放されたいモンなんだがよ、その前にまずは、負けた側の条件を再確認していくからな。そういう順序を踏むよう、上からきつく言われてるモンだからよ」
二人の前で立ち止まるネィロ。腕を組みながら、サングラス越しの視線を投げ掛けていく。
「コイツに敗北したヤツには、それぞれ事前に決めておいた条件が課されていたな。——アレウスちゃんが負けた場合は、自身の正体を自白すること。こいつは、今回のギルドファイトが勃発する要因ともなったモノだな。アレウスちゃんがこの勝負に負けたら、『自分が魔物を呼び寄せているという疑い』の真偽を含めた自分の身分を、オキクルミちゃんが理解できるよう説明する。……でだ、逆にオキクルミちゃんが負けた場合は、アレウスちゃんという龍明の仲間を追い詰めたケジメとして、自分は龍明を脱退する。という認識でいいんだよな?」
ネィロの確認に、二人は迷うことなく頷いていく。これにネィロもまた納得するように頷いていくと、次にも胸ポケットに手を入れながら、その掛け声を高らかにあげていった——
「おぅ、了解した。……では、勝敗を発表する!! アレウスvsオキクルミ・トリックマスターのギルドファイトの結果!! この勝負に勝った人間は————」
ポケットから取り出した紙。それをネィロは広げて自分だけが目を通していくと、どちらにせよ見せたであろう渋るような表情と共にして、これを見せ付けるように二人へと突き出した——
「“アレウス”の勝利だ!!」
「…………っ!!」
——走る沈黙。突き付けられた統計の事実を前にして、自分らもまた言葉を失っていく。
……次にも口を開いたのは、オキクルミだった。見開いた瞳は一瞬だけ揺らぎつつも、それを誤魔化すようにして笑い飛ばしながらアレウスの肩を叩いていくその様子。
「……オレ負けちゃったかー!!! やっぱアレウスは強ぇなー!! オレ、今までにないくらい必死になって頑張ったんだけど、それでも敵わないなんて、やっぱアレウス、オマエすげぇヤツだよ!!」
肩と背を叩いて、オキクルミは出口へと歩き出す。これにアレウスが声を掛けようとする途中にも、けん制するようにオキクルミはそのセリフを続けていったのだ。
「オレじゃなくても、アレウスが居てくれれば龍明は守られる。——オレはただ、町のみんながさ、心から安心して笑い合いながら、そんでもって、『此処に住むことができて、本ッ当に幸せだ』、って思ってさえもらえれば、別にそれで良いんだ。……コレは別に、オレじゃなくても実現できるモノ。そう……アレウス。コイツの結果は、オマエさえ居てくれればこの龍明は安泰だ、ってコトの証明でもあるんだよ」
ひらひらと振る右手。真っ直ぐと出口へ向かうオキクルミの、潔いその言葉——
「龍明のコトを頼むぜ、アレウス。……カンキとナコも、最後まで見届けてくれてありがとな。——長い間、世話になった。じゃあなギルドマスター」
……呼び止めようにも、気の利いた言葉が思いつかなかった。
彼に掛けたい声は、今にも喉から出ようとばかりに引っ掛かる。だが、所詮は立会人である自分にできることはただ一つ。それは、当事者である彼の、そのケジメを尊重することくらいだった。
黙りこくったまま、見送るべくその視線を投げ掛けていく自分。しかし、この沈黙の空間において、ギルドファイトで勝利を収めたアレウスが別の動きを見せ始める——
「…………っ」
ギルドマスター。オキクルミの、龍明の脱退を、免除できない、だろうか?
ネィロへと問い掛けたアレウス。これにネィロは驚く他なかった。
「なに?? オキクルミちゃんの龍明脱退を免除できないか、だと?」
これにはオキクルミも、足を止めて振り返るしかない。
アレウスはアレウスで口を止めず、訴え掛けるようにネィロへとそのセリフを続けていく。
「…………っ!」
勝敗の行方が、どちらに転ぼうとも、自分という存在が、魔物が増えた件と、関係していることは、事実だ。その事実を、自分の都合で、隠しているのは、紛れもなく、この自分であって、オキクルミは最初から、自分に対して、間違ったことは、なにも言っていない。
「うぅむ……アレウスちゃんの訴えもな、オレちゃんとしても否定はできない。何ならオレちゃんも、関係している云々を最初から分かっていたモンだからな。——とはいえ、コイツはギルドファイト制度に則った、正式な私闘の結果なんだ。ギルドタウンという場所でコイツを施行した以上はな、コイツで決められた勝敗の条件を無視するワケにもいかねぇのが現実なのさ。……融通の利かない上の連中から反感を買わないようにもなぁ……」
最後にボソッと呟きながらも、ネィロとしてもこの結果に思う所がある様子。だが、そんなアレウスとネィロに真っ先とNOを突き付けたのは、本人であるオキクルミの方だったのだ。
「なーに今更ンなってそんな優柔不断なハナシしてんの??? それがギルドファイトってモンでしょ?? ——どこぞの連中が決めた制度であっても、コレも龍明の中で定められた決まり事である以上は、オレは絶対に背いたりしないからな!!! ……コレは、オレなりのケジメなんだよ。コイツは、アレウスっていう龍明の仲間に疑いを向けた、オレ自身への戒めを込めたケジメなんだ。だから、今になってそんなハナシをされたところで、オレ、脱退を取り消してくれと頭下げたりしねぇからな」
……龍明の中の決まり事に背けない。それも多分、龍明という町を裏切ることに直結するだろうから。オキクルミが伝えたい言葉の意図を汲み取って、自分は目の前の様子を見守ることにしていく。
と、オキクルミがハッキリと言い切って踵を返していく、その最中。ネィロは参ったなといった具合に頭を掻きながら、何かを思い返すサマでそう喋り出した。
「……この話と全く関係ねぇかもだけどよ。オレちゃん、今回のギルドファイトで、町のほとんどの連中から苦情を受けちまって、本当に大変だったんだぜ」
「町のみんな……?? 苦情……?? みんなが、なんで???」
振り返るオキクルミ。これにネィロは続けていく。
「あぁそう、苦情。連中がさ、オレちゃんを見かけるなり片っ端から弾丸のように突っ込んできて、異議を申し立ててきたんだ。彼ら曰く、今回のギルドファイト、もー少しどうにかならなかったのかってさ。——どうして、町の連中が苦情を入れてきたか、分かるかい? オキクルミちゃん」
「えー……? オレがアレウスを疑ったからって動機じゃないの??」
「違うな。掠ってさえもいない」
じゃあ、なんなの? それを目で訴え掛けるオキクルミへと、ネィロは指を差しながらそれを伝えていく。
「——『どうして、クルミちゃんが龍明を脱退するって条件を認めたのか』。町の連中はよ、オキクルミちゃんが負けた時の条件で、オレちゃんにたくさんの苦情を入れてきやがった。……もちろん、ケジメをつけるってその心がけや良し。だが、町の連中がオレちゃんに申し立ててきたその理由も、町のために頑張ってきたオキクルミちゃんには、少なからずの心当たりがあるんじゃないのかねぇ? って、オレちゃん思うワケよ」
「……」
視線を伏せたオキクルミ。そんな彼の様子に、ネィロはニッと笑みを見せながら続けていく。
「オレちゃんもよぉ、ギルドマスター以前に、一人の人間なのよ。だから、人としての情がどーしてもよぎっちまって、オキクルミちゃんのことをどう引き留めるかばかり考えちまう。——なぁオキクルミちゃん。確かにおまえは、本日付けでこの龍明を脱退する。ギルドファイト制度の規則に則って、脱退の処理も近日中には済ませる予定だ。でだ、そしたらオキクルミちゃん、次の行き場を探すだろう? ……そこでだ」
オキクルミを見遣るネィロ。ネィロを見遣るオキクルミ。互いに視線がぶつかり合うその様子を繰り広げながら、途端にネィロはお気楽な調子でそれを口にし始めたのだ——
「——オレちゃん、フリーになったオキクルミちゃんを、再雇用でもしちゃおうかな! もちろん、出直しっつぅ形になるから、今までに昇給した分のお給料はリセットされるけど! でも、オキクルミちゃんを雇うことは、オレちゃんにとっては悪くない話だし?? 龍明のみんなにとっても、損する話じゃねーモンだから?? オレちゃん、割とマジで再雇用を考えてるんだけど?? ……本人のお気持ちとしては、いかがなモンかな」
うかがうネィロ。それを耳にしたオキクルミは、ガンガンに見開いた瞳で、呆気にとられたような表情を見せていた。
……直にも、ブフッと笑い出したオキクルミ。愉快げにそう声を上げていくと、彼はどこか安心したようにそのセリフを繰り出していく。
「なんだよソレ!! ナンデモアリかよ!! アッハハハ!!! やっぱ面白いな、龍明って! ——オレ、相手を痛めつけることしか知らなかったからさ、何処に行っても、怖がられて、恐れられて、拒否されて、攻撃され続けてきた。そんなオレを認めてくれてさ、優しくもしてくれて、美味しいモノを食べさせてくれて、住む場所まで用意してくれたこの龍明って町は、いつになっても面白いなーって思うし、何よりも……オレにとって、本当に大切な居場所なんだよね」
穏やかに話すオキクルミ。これにネィロはニッとして、アレウスも向き合うようにして頷いていく。
目の前の二人へ、視線を投げ掛けたオキクルミ。彼は物珍しい神妙なサマを見せていきながらも、次にも晴れ晴れとした表情を浮かべながら、そのセリフで締めくくっていったのだ。
「——ま、ギルドマスターのお誘いをどーするかは、町の外に出てから考えるわ!!! だから、また……声を掛けにオレんトコ顔を出しに来てくれよ! アッハハハ!!」
湯煙が見せた朧の記憶。夜景を眺めてボーッとくつろぐ自分へと、菜子が呼び掛けてくる。
「カッシー、こっち向いて」
「ん? ——おぶっ」
言われるままに向いた瞬間、顔に水鉄砲をかけられた。
両手から空気を送るようにして、器用にお湯を発射してきた菜子。これに少女は、悪戯に笑ってみせる。
「やーい、カッシー引っ掛かったー。ダッサー」
「な、菜子ちゃん、意外とこういうことするんだね……」
恥ずかしがっていた様子から一転。急に悪戯を仕掛けてきた少女に対して、自分はちょっとした仕返しを思い付く。
「なに、怒った? ムキになっちゃった? アタシのようなお子様に対して、カッシーのような大の大人が本気でイラついちゃったのかな? 大人なのに、真に受けてやんの。ダッッサ——」
「可愛いよ菜子ちゃん」
「え」
顔を拭いながら口にする。これに菜子は、悪戯に吊り上げた口元をゆっくり元に戻していく。
「そういうトコとか、特に可愛い」
「え、は……?」
「どうしたの? さっきまでの威勢はどこに行ったのかな?」
「は、はァ……っ? な——」
わなわなわな。段々と火照り出した少女の顔。そして直にも目を伏せていくと、菜子は目をグルグルにしながら、飛沫を上げつつ上ずった声で怒鳴り出した。
「……なァァっ?!? は、バカじゃないのっ?! べ、別に、今ので可愛いとか、ホント、バカじゃないの!! バカ!! カッシーのバカ!! バーカ!! ホンっト、ありえない! 可愛いとか、そんなのバカみたいじゃん! ホントにバカ! バカ。……可愛いとか、そんな……っ」
ぶくぶくぶく。顔を真っ赤にして、口元まで沈んだ菜子。そんな少女の過度な怒り具合を受けて、自分は仕返しにとても満足いったものだった。
可愛いと言えば、すぐに照れていく。そして顔を赤らめながら強がっていく。
ここ最近、菜子を少しでも放置していると、少女から何かしらのちょっかいを受けるようになってきた。とにかく、誰かにかまってほしいのかもしれない。少女の性質を何となく理解してからは、少女の期待にしっかりと応えた上で、こういったやり取りを交わしていたものだった。
……と、一連のアクションの後にも感じ取れた他人の気配。これに自分はふと向いていくと、その視界にはアレウスの姿が映り出す。
「あぁ、アレウス」
「…………っ?」
仲睦まじい声が、聞こえたけど、二人の邪魔を、しちゃった、かな?
ちょうどアレウスがやってきた。その身にはちゃんと、タオルを巻いてある。ふらっと訪れた彼に菜子は顔を上げていくと、以前までの彼への苦手意識が薄れた今、アレウスを見てそんなことを呟いていった。
「……え、スゴイ身体」
筋骨隆々。鍛えに鍛え上げて、最高に引き締まったアレウスのボディ。さらには、褐色という要素が彼のたくましさに一段と磨きをかけていく。
ファッションの都合で、腹筋といった上半身の一部分は晒されていた。が、今回こうして明らかとなった全身は、想像通りとも言うべき素晴らしい体つきをしていたもので……。
「アレウス君……え、なんか、すごくイイ。ね、ねぇ、ちょっとだけ……触ってもいい……?」
とても興味津々な菜子。互いに顔を赤くしたその空間で、アレウスは戸惑いながらも頷いていく。
ならば、遠慮はいらないだろう。異性のフェロモンも相まって、菜子はすぐさま彼へと飛び付くなりその筋肉を堪能し始めた。
「え、わぁー……え、すっごー……。なに、けっこう、しっかりと固いんだね、これ……」
チラッ。菜子が見比べるようにこちらを見てくる。
「カッシーはさ、鍛えたりとかしないの?」
「俺、これでも陰ながら筋トレしてんだけど……」
「うっそ。カッシー、強がりはダメだよ、ダメ」
「いや本当だよ……。でも、アレウスの身体の仕上がりは素直にすごいと思う」
何なら、自分も見惚れるくらいだった。こうしてアレウスの身体について言及していくと、直後にも菜子は口元へと手を当てながらそれを口にし始める。
「え、カッシーから見てもやっぱ、オトコの人の筋肉はすごいって思えたりするもんなの……?」
「するよ? 菜子ちゃんのような女の子とは、感じ方がちょっと違うかもしれないけど。……なんだろう。憧れ……? のような感じに、俺は見えているのかな」
「へ、へぇぇー……ふぅん……ぁそうなんだ……? カッシーが、アレウス君の、へぇ……ほほぅ……」
……貪るような訝しい目。
なに、なんだ……何を想像しているんだ……。
「……もしかして、そういうの興味ある……?」
疑惑。疑り深い目で問い掛けたそれ。
これがビンゴだったのかどうかは分からない。ただ、これを耳にした途端に菜子は髪を逆立てていくと、驚きと共に巡ってきた感情で赤面しながら、「ぇ、あっっ! ちがっ」と、何とも疑わしい声を上げていたものだった————