湯煙と月の光。二つが合わさることで、朧気な幻覚を見ているかのような気分だった。
しかし、今日の極楽は一味と違ったものだ。
今も自分が浸かっているそのお湯は、潮風の香りを含んでいる。その高度こそは龍明の銭湯と非常に近しいものであるのだが、ここから眺める光景は全くもっての別物だった。
南国のリゾートを模した露天風呂。断崖に建てられたログハウスの、そのテラスに設けられた混浴風呂を堪能する自分と菜子。その広さも大浴場と呼べる程度には広大なものであり、稲富に住む人間なのだろう人々が憩いの場として活用している光景がまた、とても馴染みのある様子を展開していたものだった。
稲富に設けられた混浴風呂。龍明のそれを参考にタイチが考案し、ギルドマスターを説得した末に早急と実現された極楽空間。その存在自体は二番煎じであるものの、この露天風呂から眺める大海原の夜景がまた、龍明では味わえない壮大な大自然の神秘さを感じさせる。
キラキラと輝く大海は、さざ波となって穏やかに流れていた。その海に点在する島々の光も、イルミネーションとなって一層もの美しい景色を演出しているこの光景。大浴場もまたログハウスであるために木の香りが心地良く、龍明で得たアイデアを上手く稲富に落とし込んでいるなと自分は感心さえしてしまえた。
本来であれば、稲富に住む人間のみが入れる憩いの場。だが、この素晴らしいアイデアの元となった龍明の、その人間のみは、特別に出入りが許可されている。
そのため、タイチの熱い推奨の下、自分と菜子も早速と訪れて堪能していたものだった。
今日の任務でくたくたな自分ら。体力の限界を迎えた上に負傷もしたりなど、この日の合同作戦は本当に色々あったものだった。
……本当に、色々あった。思い出すよう鮮明な記憶に耽っていく自分。
今も瞼の裏に焼き付いている。超人JUNOが被検体の男と交戦した、その後の様子について—————
研究所ナチュラル・セレクション。激しい戦闘の末に半壊した建物の内部にて、超人JUNOの拳によって打ち上げられた被検体の男が、地面にどさっと落下した。
右手で携えていた、杖のような鞘を手放していく。共にして彼は痙攣する腕で身を起こしていくと、ガクガクと震わせた膝で何度も体勢を崩しながらも、目の前の彼女を捉え続けてはその闘志を燃やしていたものだ。
だが、JUNOに慈悲は無い。悠々としたサマで彼へと歩み寄るJUNOは、直後にも地面を沿うボディブローの一撃を男にかましていく。
この一撃だけで大気が揺らいでいく。その、見るからに強力な拳をもらった男が寝ぼけ眼を見開いて浮き上がると、次にもJUNOはボディブローの拳を引き抜くようにしてから、これで最後のトドメと言わんばかりの、地面に叩き付けるような全力の振りかぶりを繰り出した——
——その瞬間だった。
「…………嫌だ。僕は、“ガジ”と——」
「そうだ、“ドグ”。我は常に、お前と共にある——」
衝突する拳。突如と発生した爆発するような衝撃波を受けて、自分はスーパーホログラフィーを守るように抱え込みながら、数回転と地面を転がり回ったものだった。
一体、何が起きた……!? 確認するため、前方を見遣る自分。
視界の中央。そこに映っていたのは、JUNOのトドメの拳を、左手の拳をぶつけることで攻撃を受け止めた被検体の男の姿。居合を得意としたその戦闘スタイルからは、まるで想像もできないほどの急な立ち回りの変化に自分は驚いてしまいながらも、同時にして目撃したのは、あれほどの寝ぼけ眼だったその目をハッキリと、それでいて勇猛な目つきとなってJUNOを捉える男の姿がそこにあったのだ。
全くもっての別人だ。拳を振るったその姿勢も歴戦と言うべきものであり、途端にして変貌した男が、低くも力強い掛け声を発しながらJUNOへと殴り掛かり始めていく。
戦況を一気に変えていった。男が放つ怒涛の拳がJUNOを完璧に捉えていき、対する彼女もまた冷静にそれらを避けていっては破滅的な拳を突き出して応戦する。
だが、JUNOの攻撃を、男は紙一重で避けていくのだ。ここにきて優れた接近戦を繰り広げ始めた男の変貌っぷり。今も杖のような鞘が地面に転がるその最中、被検体の男はあろうことか、JUNOとの殴り合いを展開し始める。
一発一発の重みが、空間を歪ませる光景となって表れる戦闘。双方の拳がぶつかり合う度に視認できる衝撃波が飛び交っていき、共にして足元の瓦礫が吹き飛び、周辺の壁が粉砕されていく。
互いに化物だった。超人同士とも言える激しい肉弾戦が繰り広げられる前方の光景に、自分は危険を承知の上で見入るようにその場に残っていたものだ。
そして、この戦いに再び区切りがつけられる。
急に大きく振りかぶったJUNO。今までに見せなかった挙動に男が目を開いていくと、まずその右拳で男の右手を弾き飛ばし、すぐにも男が繰り出した左拳を、JUNOが再びかました振りかぶりの左フックで思い切り弾き飛ばしていく。
後ろへ大きく仰け反った男。すぐにもJUNOは男の顔面に掴みかかっていくと、身長の高い彼を大きく持ち上げては力ずくに地面へと叩き付け、そこに巨大な亀裂をつくりながら男を放り投げ、その脚へと掴みかかっては弧を描く叩き付けを連続で繰り出していく彼女。
男が叩き付けられる度に、研究所からは砂のような破片が落ちてくる。それが繰り返されて次第と研究所の天井が落下し始めると、その前方で落ち往く天井へとJUNOは男を投げつけて、落下中のそれへと男をぶつけていったのだ。
落下する天井と衝突した彼が、衝撃で跳ね返るように戻ってくる。そこへJUNOが一歩踏み込んで、引き絞るようにした右腕を大きく、ゆっくりと、振りかぶっていく。
そして、タイミングを見計らった右ストレート。放たれたそれは完璧であり、飛んできた男の顔面にでも叩き込まれれば最後、その強靭な身体でさえも粉々になってしまうことだろう。
彼女が振り抜くこの瞬間は、まるでスローモーションのように流れていった。
直撃する。この勝負が決まる最後の一撃。これに、豹変した彼も歯を食いしばるような表情を見せていくと、直後にもその目は寝ぼけ眼のものへと変化していって——
——地面に落ちていた、杖のような鞘が無い。
自分がそれに気が付いた時には、被検体の男はどこからともなく右手に刀を出現させていった。そして迷いの無い動作でそれに手を掛けていくと、防御を貫通するという居合斬りを繰り出していったのだ。
この斬撃は、宇宙のような途方の無い色を彩って迸る。これに呑み込まれるよう姿を消したJUNOだが、次にも起こった出来事は、振り抜かれた拳による、大気を殴りつけたことで発生した空間が震動するその光景——
直撃までいかずとも、衝撃に押し出された被検体の男が吹き飛ばされていく。共にして、拳を振るうタイミングを速めることで体勢を前のめりにさせたJUNOが、ギリギリという距離で防御不能の居合斬りを回避してあった眼前の様子。
……分厚いポニーテールをなびかせて、JUNOは戦闘態勢から一旦、佇んでいった。
そして、だいぶと距離が空いたその先で、寝ぼけ眼の男がボロボロになりながら立ち上がる。
右手に持つ刀を、杖のようにして身体を支えていく彼。それでいて、ウトウトするかのような左右の揺らぎでJUNOを見つめやりながらも、呟くようにして男は喋り出したのだ。
「…………“ガジ”。強いよ、この人……」
と、次の時にも彼の目は、寝ぼけ眼からハッキリとした目つきへと、かつ、低い声音でハキハキとした喋り方へと変わっていく。
「臆するな、“ドグ”……! だが、奴が強敵であることも確かだ……! しかし、我と共に駆け抜けた戦の日々を、“ドグ”は忘れてなどおらぬだろう……!」
と言うと、男はすぐにも寝ぼけ眼となって、呟くような喋り方で自分へと返答を行っていく。
「…………覚えてるよ。ずっと……」
……自分自身と、会話をしている……?
不思議に思って、自分が数歩と進んでいく。こうして眺めている最中にも、被検体の男は思いに耽るような眼差しで、上の空といった調子で喋り続けていたものだ。
「…………“ガジ”、僕達やっと、解放されたね……」
「そうだな。しかし、我らは未だに“奴の奴隷”であることに代わりはない。“奴”をどうにかしなければまず、我々に自由は訪れないだろう」
「…………だから、僕達の“隊長”を見つけなきゃ……。“ウェザード”も、それを要求している……」
「だが、我らの“隊長”を奴に受け渡すわけにはいかぬ。——積年の恨みもあることだろう。奴は、その憎悪を糧にして生き永らえた存在だ。よって、“隊長”を己の手で処刑することを望んでいることだろう。故に、我々は何としてでも奴より先に“隊長”を見つけ出し、奴の目に留まらぬ安全な場所へと避難させなければならん……!」
「…………でも、良かった……。“隊長”も、僕達のように、“生き返った”んだよね……」
「喜ぶべきか、悔いるべきか。どのような経緯にしろ、我々の存在によって“隊長”を再び苦しめることとなった日には、我々はもう、死んでも償い切れぬ大罪を背負うことになる……」
「…………“ガジ”、絶対に見つけよう、“隊長”……。その前に、まずはアレを何とかしないと……」
「そうだな、“ドグ”」
手元の刀が消え、両手を握り締めるようにして佇んだ男。彼がJUNOへと真っ向から立ち塞がってみせたものなのだが、一方として彼女の方はと言うと、先ほどまでの戦意をまるでうかがわせない佇まいを見せている。
そこで、何を思ったのかは分からないが、この時にも自分は被検体の男へとそんなことを訊ね掛けてみてしまったのだ。
「その、ひとつ訊ねてもいいかな?」
彼女が居てくれているからこその強気な姿勢だった。こちらの問い掛けに男は警戒の視線を送りながらも、無言で耳を傾けてくれる。
意外と聞き入れてくれた。これに自分はホッとしながらも、ふと気になったものを質問としていくつか投げ掛けてみたものだ。
「その、”隊長”っていうのは、一体誰のことを言っているのかなって気になって……」
「貴様がそれを知ったところで何とする。敵である貴様らに隊長の身元を明かすなど、以ての外。隊長であろう者ならば心配など不要であるのだろうが、万が一もの事態を考慮するとなれば、貴様らにその正体を明かすわけにはいかぬというものだ」
実力を兼ね備えたこの男にも、心配不要であると断言させるその存在。ということは、その隊長という人物もまた相当な実力者である可能性はあるか……?
おそらく、普通の一般人ではなさそうだ。そんなことを思いながら、男の返答に自分は「わ、悪かった……」と一言。だが、流れに任せて続けてそんなことを訊ねてみる。
「”ウェザード”って名前は、一体何なんだ? あんた達は、その人物と何かしらの関係にあるのか?」
「生憎とだが、他言を禁じられている。しかし、手駒であり奴隷でもある我々でさえ奴から所在を明かされておらぬ故、貴様らに話したところで”彼女”には在り付けぬだろう。よって、諦めろ」
彼女? そのウェザードという人物は、女性……?
少しずつ明らかになりつつある情報。だからと言って、それらの情報が何に繋がるのかと問われれば分からぬものばかり。
最後に、自分は被検体の男へと、蓼丸ヒイロという人物についての質問を投げ掛けていった。
「それじゃあ、蓼丸ヒイロ、という名前に聞き覚えは……?」
「蓼丸ヒイロ……。ふん、知らぬな」
と、JUNOが突如と踵を返すなり、男から背を向けて歩き出してしまった。
あまりにも素早い切り替えだった。自分は思わず唖然としながら、歩き去ろうとする彼女を眺め遣る。同時にして、後ろの男も意外そうな顔を見せながら、こちらと同じようなサマでJUNOの背を見据えていたものだ。
これには堪らず、自分が彼女へと声を掛けていく。
「ゆ、ユノさん!!? 何をしているんですか……!? あの男、すぐにもユノさんへ仕掛けてくるのかもしれないんですよ……!?」
こちらの問い掛けに対して、沈黙で答えていくJUNO。
そう言えば、本気の姿となる仮面をつけてから、彼女は一言も言葉を発していなかった。それが彼女のスタイルなのかどうかは分からないが、こちらの問い掛けにもまるで反応を見せなかったJUNOは、直にして穴の開いた天井を見遣っていくと、次の時にも、そこへと跳躍してこの場から去っていってしまったのだ。
…………。残された自分と、被検体の男。流れから、自分と彼で目を合わせてしまった。
お互いに理解ができない。これに加えて、先ほどにも会話を交わしたその接触具合から、どことなく意思が通じ合えてしまったような気がしたものだった————
湯煙が見せた朧の記憶。今でも不思議に思うばかりのその状況は、一生、忘れることはないことだろう……。
あの後にも、皆の活躍によって研究所を制圧することができた。それを無線で知らされた時にも自分は被検体の男と共に居たものであったのだが、その男もまた、こちらに攻撃を仕掛けてくる素振りを見せることなく、互いに気まずい空気を過ごした後に、男は姿を消すようにその場から去っていったものだった。
あの男、野放しにしちゃっても良かったのか……。かと言って、自分は戦えるわけでもないから、下手に攻撃して刺激させるのも危険だしなぁ……。という迷い。これに自分は頭を抱えながら一連の状況を報告していくと、集合の命令を受けて研究所前の場所に到着するなり、そこで軽く腕を組み、何食わぬ顔をして佇んでいたユノへと訊ね掛けてみた。
「あの、ユノさん……。どうして先ほどの男を、敢えて見逃してしまったんですか……?」
こちらの問い掛けに対して、ユノは平然としたサマでそう答えてくる。
「私がそういう気分じゃなくなった。ただそれだけよ」
「い、いやいやいやいや……。そんな理由で、あんな危険な男を野放しにしてしまったんですか……?」
「それに、彼はヒイロと関係なさそうだったから、どうでもよくなったわ」
「どちらにしても、ですね……」
稲富との合同作戦においても、ユノ節は健在か……。
この災厄、気分屋すぎる……。そんな経緯を経て稲富への帰還を果たした自分達。結局、蓼丸ヒイロに繋がる手がかりはまたしてもゼロという成果の下に、ユノが見逃した被検体の男の捜索が開始されて今に至るという今日の出来事。
……ただ、あの被検体の男と通じ合えたというのも、あながち間違いとは思えなかったのもまた事実。
きっと、そう遠くない内にもまた出会うことになる。そんな予感を胸に露天風呂を満喫する自分が呆然としていると、ふと、横から泳いできた菜子が、こちらに寄り掛かるようにぶつかってくるなり肩に頭を乗せてきた。
「カッシー。つーかーれーたー」
「菜子ちゃん、今日もお疲れ様。ゆっくり休もうね」
「休むー。だから、お風呂上りの牛乳奢って」
「俺、菜子ちゃんの財布になってきてない……?」
「だって、カッシーは大人でしょ? だったら、アタシのようなお子様の面倒を見なきゃじゃん? ——子供ってのは、お金が掛かるもんだよ?? カッシーも大人なんだから、それくらい分かってなきゃダメだよ~」
と言って、得意げな表情を見せてきた菜子。
敵わないな……。自分は頭をボリボリ掻いて、今日のご褒美も要るよねなんて考えながら、少女のおねだりに渋々と頷いたものだった。