第10話 ユノ・エクレール
天井に溜まる湯煙を見上げ、ここが探偵事務所の浴室であることを認識させられる。
明日の早朝に、龍明の外へと出発する至急の用事。ユノから告げられた依頼に自分は帰宅の猶予も与えられず、この日は探偵事務所に泊まることとなっていた。
それにしても、事務所に内装された浴室という変わった環境。これは、ネィロから事務所を預けられたユノが、彼に相談もせず勝手に取り付けたものらしい。
ある意味で、ユノさんらしい。そんな風に思っていた自分は、裸体という姿で湯船に浸かっていた時だった——
「
「え?」
ガラッ。普通に開けられたドア。
思わず飛び上がる自分。そしてすぐにも音の方向へと見遣っていくと、そこには自分と同様に衣類を身に付けないユノが存在していた。
結っていた分厚いポニーテールを解した、灰色混じりの白色長髪を流しながら——
「ちょ、ユノさん!!? なんで入ってきてんすか!?」
「?」
「い、いやいやいや!! だから、なんで入ってきてるんですか!? 俺まだ居るんですけど!?」
「貴方が居て当然でしょう? 私がそう指示したんですもの」
「いやそれは事務所で宿泊しろって方の話じゃないですか!!」
こちらの反論に、ユノは不愉快そうな表情を見せてくる。
「ここは、私が所有する事務所よ。私が私の所有物を使用することの、何がいけないのかしら」
「ユ、ユノさん、ズレてる!! そこじゃないんですよ、俺が言いたいことは——ってあぁ待って動かないで!!」
話が噛み合わない。彼女が持つ独特なペースは、とにかく合わせづらかった。
ユノの生まれもったままの姿に、自分は動揺を隠しきれない。だが目の前の彼女はまるで平然としており、大食いでありながらも保ち続けるプロポーションを披露しながら、シャワーを浴び始めていく。
傍から見たらダメな光景。自分はすぐにも出口へと向かい出す。
「お、俺、なんだかのぼせてきちゃったなぁ!? さ、先に失礼しますね——」
「待ちなさい。ここで明日の打ち合わせをするわ。だからここに残りなさい」
「なんで打ち合わせを風呂でするんすか!?」
「? 身体を清めながら、仕事の打ち合わせも進行できるのよ?」
「すっごい当然のように一石二鳥を唱えてきましたけど、それ以前にもっとこう、気にすることとかあるでしょう!?」
「私には見当つかないわ」
出口へと向かっていたこちらの腕を掴み、引っ張って壁に押し付けてくるユノ。
次にも、彼女は壁ドンを行ってきた。
ドキドキするシチュエーションとして流行ったこともあっただろう。それを今、自分よりも背が高く、かつ、男も顔負けな甘いマスクを持つユノにされている。
立場が逆。そんな内心のツッコミをする自分に対して、ユノは上から流れ続けてくるシャワーのお湯を浴びながら、そのセリフを口にしてきたのだ。
「貴方が何を気にしていようとも、私は何も気にしていないわ。だから私に従いなさい、柏島くん。いいわね?」
「……わかりました」
裸の付き合いとは、よく言ったものだ。
全くもって意識してこない向こうの意向に従い、自分はこのまま浴室に留まることとなる。
目の前では、湯船に浸かってくつろぎ始めたユノの姿。腕をついて頬杖をつきながらこちらを見遣ってきた彼女は、宣言通りにすぐにも打ち合わせの話を開始してきたのだった——
朝の龍明も、既に遠くへ置いてきた。
海沿いの道に、赤色のオープンカーを走らせるユノ。助手席に座る自分が後ろを振り返ると、龍明の出入り口になっているトンネルももう見えない。
隣には、サングラスをかけて運転する彼女の横顔。これに自分は、目を通していた分厚い本のような資料をそのままに、ユノへとそんなことを訊ねてみた。
「ユノさん。俺は助手として、ユノさんという上司のことをもっと知りたいと考えています」
「そう。頑張ってちょうだい」
「なので、いくつか他愛のない質問をしてもいいでしょうか? 移動時間の暇を潰す余興としてお付き合いくだされば、それで結構ですから」
「かまわないわよ」
風を突き抜ける空間。素晴らしい景観を横にして、自分はユノへと質問していく。
「ユノさんは、イヌ派ですか? それともネコ派ですか?」
「そんなことを訊いてどうするの?」
「他愛のない質問です。こういう些細な好みから、ユノさんという人を理解していきたいんです」
信号もない、緩やかなカーブが続く道を往く。こうした、ずっと走らせるだけの自然を巡るコースの中、ユノは暫しと考えてから、そんな回答を繰り出してきた——
「インコ」
「え? ——あの、ユノさん。すみません。風の音でよく聞こえなくて」
「インコよ」
え?
「……ユノさん、風の音で聞き取りミスをしているかもしれません。イヌ派か、ネコ派かという質問です。イヌのイと、ネコのコで、自分が誤解を与えてしまったかもしれませんが——」
「私はインコが良いわ」
「イン——え??」
噛み合わない。聞き間違いでないことを確信してから、自分は質問の内容を修正していく。
「で、では、イヌかネコのどちらかを飼うことになったとします。そしたら、ユノさんはどちらを飼いますか?」
暫しのシンキングタイム。これにサングラスのユノは真っ直ぐな視線を道へ向けながら、その問い掛けを投げ掛けてくる——
「柏島くん」
「なんでしょうか?」
「貴方は、イヌやネコを調理したことはあるかしら」
「…………あの、ユノさん。もしかして、味で決めようとしてません?」
ユノという人物を知るには、自分はまだ未熟らしい。
そんな会話を展開しながらも到着した目的地。街の郊外にある廃れた村に足を着けた自分とユノは、その時点で多くの騎士が行き交う光景を目の当たりにする。
昨日にも、ここで事件が起きた。その内容は、巷で有名な暴力団組織が“一人の少女”を襲ったというもの。
言葉の響きから察する危険性と、一方として“その少女が取り押さえられた”という今回の件。一見すると自分らに何も関係の無いように見られるが、ユノが騎士団の中で通じているという一人の青年が、“その少女”のことで彼女に連絡を寄越したみたいだった。
特徴の無い騎士団の青年が、サングラスを外している最中のユノへと声を掛けてくる。
「ユノ・エクレールさん! お待ちしておりました! 今日も一段とお美しい——じゃなく、“例の子”の件であなたのご助力が必要であると判断し、お越しいただきたく思いご依頼させてもらいました」
「建前はいいわ、モブキシくん。“その子”の所へ、連れていってちょうだい」
「はっ!」
騎士の青年に連れられる自分ら。道中、彼に「見慣れない御仁がおりますが、彼は……?」という質問をユノに投げ掛ける。
これにユノは、「彼は、私の助手よ」という返答を行ったところ、青年は「さ、左様ですか! 決して、あなた様のパートナーではないと……ふぅ」なんていう会話が繰り広げられること数分……。
異能力で内部が膨張したテント。見知らぬ力が働く空間へと案内され、そこで、拘束のために鎖をぐるぐるに巻かれた少女とご対面する。
……椅子に座った状態で固定されてはいるものの、百六十五の背丈で、とても無難な印象を与えてくる女の子だった。ベージュ色の髪を肘辺りまで伸ばしており、黒色の瞳で睨みを利かせてくる。服装は学生服と似通っており、ネズミ色のブレザーに、緩く巻かれた赤色のリボン風ネクタイ、白色のシャツに、茶色と白色のチェック柄のスカートというもの。白色のソックスに赤色の靴というシンプルさに、自分は肩透かしを食らったような顔をしてしまった。
騎士の青年が付き添う中で、ユノは少女へと言葉を掛けていく。
「初めまして、“
「は? 自分が優位な立場にいるからって、気安く話し掛けんじゃねぇよッ!!!」
ガチャンッ!! と鎖を鳴らし、噛みつかんとする勢いでユノへと怒り出す少女。
獰猛だった。この気迫に自分は圧倒されたものだったが、少女と相対するユノは、まるで動じない。
「今回、騎士団の方から直々に調査依頼を頂いて、私はある組織についての情報が必要になったの。その組織は、世間で猛威を振るいつつある指定暴力団の組織であって、菜子ちゃん、貴女はそのメンバーと、先日にも接触している。——そこで、貴女からお話をおうかがいできればと思って、こうして訊ね掛けてきたの。……先日にもここで起こった騒動について、当時の現場の様子なんかを、少しだけでもいいから聞かせてほしいのだけれど」
「うるっせぇなぁ!!! だったらコレ外せッ!! それが条件だッ!!!」
頭に上った興奮が、思考を侵食してしまっている。
巻かれた鎖をぎちぎち鳴らしながら、八つ当たりするかのようにユノへと告げる少女。これにユノは暫しと平然なサマで何かを考えていくと、次にも騎士団の青年へとそれを言い出したのだ。
「モブキシくん。少しだけ、私と彼女だけで話をさせてもらえないかしら」
「それは、つまり……?」
「外に出ていてくれないかしら」
「ははぁ、なるほど分かりました。本来でありましたら、騎士団の者が一人は付いていないといけない場面なのではありますが……あなた様の言うことでありましたら、何の異論もございません! ——ささ、そちらの助手さんも、共に外へ参りましょう!」
「柏島くんは別にいいわ。ここに残っててちょうだい」
騎士団の青年は、とても間抜けな顔を晒して驚いた。
複雑な心境だったのだろう。彼は渋々と外に出ていくのを自分は見送ると、それを確認次第にもユノは、拘束されている少女へとそんなセリフを掛け始めた——
「菜子ちゃん。事件が起こった当日、暴力団の連中はここを拠点にしていたと聞いているわ。その暴力団の組織を、菜子ちゃん、貴女が全員やっつけてしまったのかしら?」
疑問の投げ掛け。これに対して、少女はイライラしながら答えていく。
「だったらなんだってんだよっ!! 悪い!? ——正当防衛だったって言ってもどうせ、てめぇも信じねぇクチなんだろ!? あのクソみたいな騎士団の連中と同じようにさ!! てめぇも話聞かなそうな顔してるから分かってんだよ!! バーカ!!! ベーッだ!!!」
思ったこと全てをぶつけるように喋る少女。怒りのままに繰り出す言葉でユノを攻撃すると、次にも少女はそんなことを口にしていく。
「——異能力も持たないアタシなんかが一人で返り討ちにしてやったって言っても、誰もアタシの事なんか信じてくれない。挙句に組織の連中の仲間とか疑いかけられてこのザマ!!! なに、アタシがそんなに弱く見えるっての!? ふざけんな!!! 全員死んじゃえばいいんだ!!!」
「随分と気が立っているのね。何か理由があるのかしら」
「は? ケンカ売ってんの? てめぇみたいなそういう無自覚なヤツのことが、アタシ、ホンットに大ッ嫌いなの!!! 人が動けないからって好き放題に言いやがって!! これが解けたら、絶対にぶっ殺してやる——」
「私には、貴女がやさぐれるに至った十分な理由に心当たりがあるわ。例えば、そう——“駆け落ちしてしまったお姉さん”の存在、とかかしら」
「——ッ」
硬直。真ん丸にした少女の目は、ユノという人物をしっかりと捉えていく。
「……だから、なに? だから……なんなの? ——ヒトの辛かった過去をダシにしないでくれる……っ? マジで殺すよアンタ」
「そうね。確かに私は、貴女に殺されても何らおかしくない立場にいる人間。でも、今のままでは貴女、私を殺すよりも先に“連中”に始末されるわよ」
「連中って、あの暴力団? っは、バカみたい。あんな連中に、そんな……待って、ねぇ。なんで、駆け落ちしたって詳しく知って……なんで、今のって、どういう意味——」
疑い。うかがい。少女の顔色が物語る、怒りを越えた先の心境。
佇むユノは、少女と向き合う。——そして、意を決したような真っ直ぐな瞳で少女を捉えながら、ユノはそれを伝えたのであった。
「八年前、貴女のお姉さんと駆け落ちした憎たらしいパートナー。……私は、貴女のお姉さんである“