「参る」と言ったカイナだが、そう簡単に行かせてくれる程生易しい相手ではなかった。
先ずその
背中にあったソレを片手で引き抜き、一切ブレずに体躯を維持し続けるニスモからも、見てくれ通りの筋力と持久力が窺える。腰にはダガーまで備えられており、長剣のみの戦法と捉えるのは早計だ。
それら全てが合わさり生み出される尋常ではない存在感、威圧感。カイナと言えど、足を踏み込むには躊躇いが生まれる。
(…惑わされるな。力と速度、耐久力なら間違いなく私が上だ)
自身の絶大な魔力量を信じ、そう己に言い聞かせたカイナは、先ず魔力を剣へと集中させて強度を上げた。
正しい判断だ。硬化は、対象が柔らかければその分効果も薄くなるので、衣服に使って防御を上げようとするのはナンセンスなのだ。それに、ニスモから借りた剣は長剣より少し短い程度で、軽量化の為にフラーも掘られている。まともに打ち合えば容易く折れてしまうだろう。
だが、アレ程の剣ならば機動にも難がある筈。ならば後はダガーに注意しつつ、パワーとスピードで押し切るのみ。
加えてこれはカイナの推測だが、ニスモの魔力量自体は極めて少ない。平均的に見て魔力量は女性の方が上というのもあるが、何よりあの隆々たる筋肉、魔力の少なさを補う者の特徴だ。昨晩の会話でも、彼は「もっと魔力があれば」と小さく嘆いていた。
だがどんなに肉体を鍛えても、魔力が生み出す身体能力と肉体耐久度には決して敵わない、この世界における真理だ。それが、物理法則の外にありながら、自然法則の様にこの世界を巡り続けるエネルギー“魔力”だ。だからこそ筋肉量及び重量の劣る女性でも戦士になれる。
観察と分析からそんな落ち着きを取り戻したカイナ。後は仕掛ける「間」を伺うのみ。
どの道、ニスモはいずれ木剣による模擬戦を組み込むつもりだった。カイナの剣技をより細かく把握すべく。
何より、彼女の『
技能とは、魔力を“力”へと変換し、その“力”が更に細かく変化したものである。
例えばごく一般的な技能として「吸水」がある。これは言わば対象から水分を奪う技能で、「水属性魔法」を応用したものだ。あくまで単純魔法の域を出ないので、「言葉」による詠唱や魔法陣を必要としない。
ただし、技能を得るには「魔力の流れ」を認知する訓練が必要であり、脳に吸水のイメージがなければ発動もしない。そのイメージは個々人によって異なり、イメージが強く定着していれば発動は早く効果も高い。つまりは「想像力」と「発想力」が重要なのだ。そう言った意味では「吸水」の様に名前を付けたり、発動の際に手を翳す等の動作を入れた方が、よりイメージもし易い。
イメージによる効果の増減は勿論だが、当人が放つ魔力量に準ずる部分が大きい。因みに吸水の場合、触れた対象から最大10レタ*3程度しか水分を奪えない者が殆どだ。
体内に膨大な魔力を有するカイナが操る技能、一体如何程のものか。警戒は勿論、旅の仲間として知っておかねばなるまい。
戦いが付きものである冒険において、仲間の実力・得手不得手を知らないのは致命的だ。よって、ニスモにとってこれは決闘ではなく「確認」に過ぎない。
だが勝つ。互いに剣と剣を抜いたならば、騎士としての本能がそうさせるのだ。例えそれが、勝つ見込みの無い負け戦だろうとも。
そして勝つべく剣を向け合う以上、場合によってはどちらかが死ぬ。
異なる物事に頭を回す、騎士と騎士。
だがそれも終われば、後は全く同じ沈黙が続くだけだ。ただ始まりを待つ、無に近しい沈黙。真正面の一点に集中し過ぎて、そよ風すらも感じない沈黙。
息の詰まる沈黙を最初に破ったのは。
ダヒュッ!!
カイナだった。
強化された脚全体が爆発的な加速を生み出し、一瞬でニスモとの距離を詰める。技能はまだ使わない。奥の手を隠すは、基本戦術の一つ。
全力で繰り出したソレは刺突。ニスモの腹目掛けて、容赦無く切先を送り込む。
常人ならば反応も出来ずに貫かれるソレを、ニスモは右脚を引いては身体を逸らし避ける。
(良しッ)
だがそれは、カイナの狙い通りであった。彼女はそのまま、突き出した剣を真横に振り抜こうとする。
(それだけの巨剣を、ほぼ筋力だけで振り回すなら、二撃目でも私の方が一手早───)
直後、カイナの視界を“何か”が覆った。
ゴッ
やや四角いソレが“裏拳”であると気付いた時には、既にカイナは後方へと吹っ飛ばされていた。
転がりながら受け身を取り、キッとニスモを睨むカイナ。魔力で骨肉を強化しているにも関わらず、鼻孔からは血が流れ出ていた。
(…構えた状態で躱し、同時にグリップから左手を離してそのまま拳打。私の追撃が間に合わぬ程に速いとは)
大型の長剣を扱う者とは思えない、最小限の動きによるカウンター。
それを放った張本人が、高みから見下ろす様に彼女へ告げる。
「馬鹿正直に突き過ぎだよ。どんなに速くても、軌道が直線的なら読まれ易い」
「…黙っていろ」
偉そうに師匠面をされ、怒りの段階をもう一つ上げたカイナは再び立ち上がる。この程度なら、彼女にとっては傷の内に入らない。
それでも「失ったもの」は大きい。カウンターである拳打への強過ぎる警戒心、更にはニスモからの指摘。それら2つが合わさり、彼女は今や心理的に「突き」を出せない状態だった。
そんなカイナの心理的動揺を、ニスモは意図して作り上げていた。
ニスモの意図に気付かないカイナだが、その心中はあくまで強気だ。
(良い気になっていろ、拳打という手数を晒したのは貴様の方だ、同じ手は食わん。こちらには技能もある)
そう思いながらも、今度はそのまま「待ち」に徹するカイナ。やはりニスモの指摘を気にしている様だ。
案の定な行動を取るカイナに対し、「お望みなら」と今度はニスモが突っ込んで来る。
(速───)
心の中で言い切る前に、肉体の限界を疑ってしまう程の異次元的加速から、黒き長剣が落石の如く振り下ろされる。
己の反射神経を信じ、恐怖心に屈する事無くカイナはソレをスレスレで躱す。先程のニスモと全く同じ、ごく小さい動作で。
ズゥゴォゥゥン!!!
カイナの元居た場所には、巨大な何かが墜落した様なクレーターが出来上がった。黒剣が生み出す質量と速度により。
余りの威力に血の気が引いたカイナだが、それを懸命に抑えてニスモに斬り掛かる。型は上段からの袈裟懸け。躱し様、真横からの斬撃、彼女はニスモの右腕を落としたと確信していた。この間合いなら、拳打は届かない。
そう、“拳打”なら。
「ガッ」
鈍く重たい衝撃がカイナを襲い、行き場を求めて空気が彼女の口から排出される。
振り下ろした直後、瞬時に黒剣から意識を手放したニスモが放ったのは“蹴り”だった。その長き肉の塊は、袈裟懸けよりも速くカイナの腹部へ直撃し、またも彼女を吹っ飛ばした。
蹲り、激しく咳き込む彼女に、ニスモは先程と同じく言い放つ。
「僕の剣気を恐れず、よくギリギリで躱したね。その精神力と天賦の才は、賞賛に値するよ」
上からのうのうと褒めてくるその様が、カイナには陰湿な煽りにしか思えず、流石に声を荒げようとする。が、ニスモの話は続いた。
「ただ、剣を持った人間相手に、それだけじゃ通用しない。拳打、蹴り、組技を合間に組み込むのは、長剣同士の闘争では基本だからね」
そして、一つの確信をニスモは得る。
「それすら分からないと言う事は…成程、本当に君は「人間」を相手にした事が無いんだね」
その言葉に対し、遂にカイナは2度目の激怒を見せた。ただその怒りは、煽りに対するものではなかった。
「当たり前だッ!人間を魔物から護る事が騎士の務めだ!その人間と戦う愚かな騎士が居るかァ!」
カイナは勿論、戦士皆が持ち合わせている常識であった、少なくともティランタニアでは。そして、ニスモと同じ考えに至る排除対象の人間も、基本的に現れなかったという事である。人間を殺めるという行為は、一切の例外無く禁忌中の禁忌であった。
故に戦術も戦法も、想定しているのはあくまで「対魔物」であり、剣を修めた「対人」ではない。オーク・ゴブリンや獣人も人型だが、彼等が使う武器は槌や斧だ。
そこでカイナは気付く。ニスモの、まるで彼自身は人間を相手にしてきたかの様な言動から。
「まさか貴様…これまでに魔物だけじゃなく、人間も殺めてきたというのか!?その剣で…何人も…!」
カイナは問い質す。柄を握る手に力を込めながら。
ニスモは答える。一拍子の間を置いた後、深く息を吐く様に。
「ああ、そうだよ。幾人もの剣士と立ち合い、剣を交え、そして斬り殺してきた」
途端、カイナは戦闘に必要な思考すらも、怒りに塗り潰された。今彼女の頭には、ただ感情に任せて剣を振るう事と、一秒でも早くニスモを仕留める事しか無かった。
技能を使うか温存するか、その判断軸すらも激情で焼き切れ、脳内は「技能発動」の一色に染まった。
「技能『
声に殺意を乗せながらそう叫ぶカイナ。そして彼女の剣身もまた、使い手の内面を露わにするが如く、橙色に輝き始める。
ソレを見てニスモが分析する前に、怒りの刃が突っ込んで来る。上から、下から、左右そして斜めから、絶え間無く暴れ狂う様に。
だがニスモは剣戟には付き合わず、一振り一振りを丁寧に躱していく。極太の殺気をものともせず、躱せる事が当たり前であるかの様に。
そして、カイナの技能の正体を見抜いていく。
(剣自体の高熱化か…これだけの熱量だと、剣先が掠っただけでも衣服に引火してしまう。熱剣が生み出す熱風も厄介だ。躱しても防いでも、熱に体力を奪われる。熱剣になっても強度は…落ちないだろうね、魔力で硬めているのなら)
ここでニスモは、漸く彼女の剣に己の剣をぶつける。彼の黒剣は特別製だ、どんな高熱だろうと溶けやしない。
鋼鉄同士の衝突が火花を生み、高熱がその色合いをより濃くする。互いの顔が、剣へと近付く。
「!」
ニスモの予想通りであった。
熱は鋼鉄から鋼鉄へと伝わり、そのままタング*4を通っては黒剣の柄にまで易々と届いた。柄の放つ高温が、ニスモの両手に激痛を与える。
(これじゃあ鍔迫り合いは厳しい。リカッソ*5も掴めないとなると、高速剣戟による翻弄も出来ない)
カイナ自身に熱風のダメージが無いのは、恐らく風魔法の応用だ。風のコーティングとでも言うべきか。
火属性と風属性の魔法を同時に用いた技能。どれ程の鍛練を積み重ねたのかは分からないが、そんな難技を激情に任せて発動出来るという事は、やはりカイナも一握りの天才なのだ。
(それでも僕が勝つけどね)
ニスモに秘策は無い。戦闘に使える技能も無ければ、魔力もごく少ない。
有るのはただ、これまでの鍛練と経験から積み上げて来た、技量そして精神力のみ。そしてそれらこそ、何にも変え難い勝利への自信であった。
或いは、如何なる状況だろうと最後の最後までただ戦い続けるという、騎士の矜持か。
鍔迫り合いの最中、ニスモの動きに変化が見られた。絶妙な力加減を以て、剣同士の接点をずらし始めたのだ。
そうして黒剣の切先へと接点が移ると、力の均衡がカイナに傾く。刹那、ニスモは一気にいなし、必然として勢い余ったカイナが前のめり気味にバランスを崩す。その勢いを利用し、ノーモーションでのタックルをかますニスモ。
身長190、体重100近くはある肉の衝突をモロに食らい、脳ごと視界を揺さぶられるカイナ。だがあくまで怯まず、怒りと魔力を武器に我武者羅に剣を振りまくる。まるで暴れ牛だ。
(魔物に肩入れする人殺しめ…!何としてでもここで仕留める!)
そう息巻いても、技能を発動していても、どうにも戦局が覆らないのは間違いなく技量の差だ。
ガィン! ガギンッ! ギン!キィン!
魔物相手に圧倒的だった渾身の一撃たちは、その悉くが容易く防がれるか、躱される。そんなニスモの動きは洗練されており、重厚な長剣を構えているとは思えない程軽やかだった。
それだけならまだしも、動きまで読まれているとあってはどうにもならない。熱くなっているカイナの剣筋は、それだけ単純化されていた。挑発への耐性が、彼女には無さ過ぎたのだ。今の今まで、された事なんて無いのだから。
そんな2人の間には、技量の差以前に場数の差が歴然と現れていた。
どんなに怒り心頭だろうと、これだけはカイナにも分かっていた。どう足掻いても勝てないし、勝てるビジョンも見えない、と。互いに剣を抜いた時、彼女はニスモの放つ気迫から苦戦を覚悟したが、その想像以上の絶望的戦力を彼は持っていた。勇者であるタクトよりも。
その様は神敵である筈なのに、異様な神々しさすら感じられる。
だが勝つしかない、神を信仰する1人の信徒として。その焦りが、ますます彼女の剣技を粗くしていく。
カイナは酷く後悔していた。あの時、ニスモから距離を取らず、ニスモの抜剣を待たず、その場で直ちに斬り伏せれば良かったと。
では───
ギィンッ!!
「ッ!!」
どうして、と考えようとした所で、黒剣による横薙ぎを受けるカイナ。辛うじて防いだものの、身体全体が痺れる様な衝撃を受ける。
とうとう、ニスモによる反撃が始まった。
そして攻めながらも、彼はカイナが抱いた「どうして」を代わりに繰り出す。
「何故、君が僕との真剣勝負を望んだか…教えてあげようか?」
「!…何を───ッ!?」
カイナの上段縦斬りを躱し様、ニスモは彼女の膝へ遠慮無く下段蹴りを入れながら答える。
「騎士として卑怯な真似は出来ないから?違う、君達にとって魔物はそれにすら値しない。じゃあ僕の外見が殆ど人だから躊躇した?それも違う、君の剣筋に躊躇は無い」
体勢を崩すカイナに、遠慮無く突きを放つニスモ。ソレを転がりながら避け、直ぐ様反撃すべく立ち上がろうとする彼女の顔面に、ニスモは間髪入れず前蹴りを繰り出す。
咄嗟に長剣でガードしたカイナだが、衝撃を殺しきれず、剣身がそのまま額に激突し再び後方へと転がる。少しずつ、カイナの強靱な肉体にダメージが蓄積されていく。
「君はほんの少しだけ思ったんだ、本当にこれが騎士として正しい行いなのかと。そんな、君の中に潜む信仰心ではない“何か”に突き動かされ、その場で斬るという判断が出来なかった」
「違う!!神敵風情が騎士道を語るな!!」
額から血を流しながら、カイナは馬鹿の一つ覚え宜しくニスモへと突っ込む。橙色の剣が、黒剣の持ち主に耐え難い苦痛を与えていく。
たがどんなに柄が熱せられようと熱風に晒されようと、汗を流すニスモに苦悶の表情は浮かばない。苦痛には慣れていると、その顔は語っていた。
「君がその「教え」とやらに囚われている限り、勝つ事は出来ないよ。僕は勿論、この大陸の誰にもね」
「どういう意味だ!?」
首目掛けて放たれた横薙ぎをニスモは剣身で防ぎ、そのまま弾いてはすかさずポンメル*6をカイナの頬に叩き込む。
「人であれ魔物であれ、「命」を奪う相手から目を反らすなって事さ。相手がどう生きてきたのか、何を思いどう戦うのか、それらを軽視するから刃も届かない。相手が同じく剣を持っているなら尚更だ」
「ッ…」
当然だ、相手はちゃんとそれらを踏まえ、敵の心理から動きを読んで戦うのだから。今目の前でそうしているニスモの様に。
無論それだけではないが、今のカイナにはそう言った方が効果的だ。
カイナは、咄嗟に反論が浮かばなかった。現に、ニスモ相手に手も足も出ないのだから。身体中に魔力を巡らせても尚、技能を発動しても尚。
神敵とは何なのか、魔物とは何なのか。その事に何の疑問も抱かず、ただ闇雲に排除してきた結果だ。
「そしてそれが、戦いにおける礼節でもある」
「何が…礼節だ!」
それでも、身体中に鈍痛が走っていようとカイナは剣を振るった。そして、少しでも精神的優位を得るべく、必死に反論を展開する。
熱剣と黒剣が、使い手の言葉と共にぶつかり合う。
「神敵に見せる礼節などあるか!敵を効率良く倒し、民を護る事こそ礼節であり騎士道だ!」
「それこそ暴力の正当化に繋がる、危険な考え方だ」
「じゃあ何か!?いちいち魔物を倒してギャーギャー嘆き悲しめば良いのか!?その間に人々が犠牲になっても良いと!?」
「そうじゃない。魔物は全て敵、人は全て味方という考えは危険だと言っている」
「戦いの最中に見定める余裕などあるか!綺麗事をほざくな!」
「君はその綺麗事にすら及ばないよ。「殺す」という現実から、目を背けているだけだ」
相手の心へと放たれる、言葉と言葉。だが両者の間には、それを受け止める「芯」の強さにも大きな隔たりがあった。
そして、言葉と長剣による殴り合いはあっさりと終局を迎える。ニスモの言葉を皮切りに。
「そのままじゃ、君は自分の意思で見定められなくなるよ。自分が一体何を護るのか」
「」
一瞬、カイナは固まってしまった。脳裏にタクト達が浮かんだ事で。
ニスモがそれを見逃す筈も無く、一気に姿勢を落とすとグリップを彼女の足首に掛け、そのまま思いきり引く。片足が地から離れた彼女は姿勢を崩し、踏ん張る間も無くニスモから追撃の大外刈りを受け、背中から地面に叩き付けられる。続け様に剣身を踏まれ、武器をも封じられる。
仕上げとしてニスモはダガーを引き抜き、カイナの首筋に当てる。これら一連の動作が、滞りなく流れる水の様に見事なものであった。
こうして、生殺与奪の権利はニスモが手にした。
たった一瞬の思考停止から、気付けば全てが封じられ地に倒れ伏している。現実を受け止められず、カイナはただ呆けるしかなかった。
だが、神敵を倒せなかったという事実が、現実よりも先にカイナの脳内を支配する。そして彼女は、一気に鬼の形相へと変貌する。
「クッ…!殺せぇ!!」
カイナはそう吠えた。彼女にとって、敗北した神敵に生かされる事ほど、惨めなものは無い。
だが、ニスモは
「見習い騎士カイナよ。潔く死ぬか、仲間の為に生き恥を曝すか、君の意思で決めろ。“君の意思”でだ」
今ここで死ねば当然、仲間には二度と会えなくなる。だがそれは、神敵に命乞いをするのと同義だ。
ニスモは本気だ。ここで死を選ぶようならば、その程度の盲信者でしかないと言う事。この大陸において、カルス教は危険思想以外の何物でもなく、斬り捨てた所で何の不都合も無い。例え子供だろうと。
「…」
決して登れない絶壁を見上げる様に、ニスモを黙って睨む事しか出来ないカイナ。自分から決闘を持ち掛けておいて、完膚無きまでに敗北し、あまつさえその相手に情けを掛けられるという体たらく。恥どころの騒ぎではなく、負け犬よりも惨めな噛ませ犬に等しい。
とても無理だった、「生きる」と言葉にするのは。それが仲間の為であっても。余りにも虫が良すぎるし、何より騎士としてのプライドが許さなかった。魔物に屈し、生かされる等と。
ならば舌を噛み切って、何も乞わずに自害した方が、神の嘆きもまだ少ないというもの。神敵への敗北とは、彼女にとって自害以上に冒涜的なものだった。
そんな事、考えるまでもなく分かるのにどうして、舌を噛めないのか。どうしてこんなにも長く、自身は沈黙しているのか。死への恐怖など、とうの昔に捨て去っているのに。
どうしてこの男は、生きるという選択肢を与えたのか。あれだけの殺意を向け、今後も命を脅かすかもしれない相手であるにも関わらず。
カイナには、何も分からなかった。仲間が第一なのか、信仰が第一なのか。誰が、何が自身の敵なのか。どんな脅威から何を護るべきなのか。
騎士道とは一体何なのか。
どれだけ待ってもカイナの返答を聞けなかったニスモは、彼女の首筋に当てていたダガーを鞘へと納めた。
「君は最後の最後まで生を選ばなかったが、死も選ばなかった。今はそれで十分だ」
戦いの時とはまるで違う優しい言葉を残しながら、ニスモは自身のフードマントを拾い上げ、ケムニの亡骸へと歩いていく。手に負った火傷も気にせずに。
仰向けのまま、見ていたら吸い込まれそうな程に雲一つ無い青空を、カイナはただ見上げていた。
すると、身体の至る所に受けた打撲痕が、今更になって痛みを訴えてきた。
その痛みが、彼女を引き戻す。何も分かっていない事が分かった、これまでの経験が何一つ活かされなかった、戦って負けたがそれでも生き残った、という現実に。
彼女はその「新しい現実」と向き合いながら、この絶望的に価値観の異なる世界を生きねばならなかった。
旅はまだまだこれから!(暗黒嘲笑)
そう、これから……主人公らしくなっていく筈です………きっと。