美しい満月の昇る空。
世界は淡く照らされて、鬱葱とした森が怪しく浮かび上がっている。
水の流れる音が聞こえるのは、ここが川の近くだからだろう。川のせせらぎのみが聞こえる世界は、あまりにも静寂で満たされている。
どぼんと、静かな空間に水が弾ける音が突然鳴り響いた。盛大な水しぶきを上げて、緩やかな流れの水面に波紋が広がる。
(久しぶりの外がこれか、泣きそうだな)
文字通り、降って湧いた男は存外に深い川底で文句を垂れた。すぐに浮上する必要性を感じないのか、水の流れに身を任せたままで。
それは人にとってありえない行為。間違いなく死へと直結する行動。
しかし、男は静かに川底を漂いながら、何の変化もないままに光の屈折で歪んだ満月を見上げている。
男の双眸は煌めく緋色。爬虫類のような縦に細い瞳が印象的だ。
腰で交差する2本のベルトに長ズボン、更には着ているシャツとコートまで。その全てが黒で統一され、まるで闇に紛れるような格好をしている。
(このまま流れて海まで行ってみるか? いや、水死体と間違われるのも面倒だなあ)
男の吐いた溜め息が、泡となって川の中を流れていく。
落下地点から随分と流されたな。と思うも、見えているのは上空で歪んでいる月だけ。どれほど流されたのかなど、計る事は出来もしない。
ゆっくりと流れる途中で、適当に出っ張っている岩を男の手が掴んだ。そこから体勢を入れ替えて、岸を目指して方向転換。砂利だらけで歩き難い川底を、しっかりと足で踏みしめる。
足に力を入れれば、ざばぁと水を垂れ流して、男の頭が冷たい空気に触れた。
「あぁ~、これは冷たい……風邪引きそう、引かないけど」
「ふむ。では、こちらに来て火に当たるといい」
不意に、水の中に佇む男へ女の声がかけられた。
凛とした良く通る声に誘われ、男は背後へと振り返る。
目に入ったのは、白い服を着て切れ長な目をした水色長髪の少女。脇には刺すことを主眼においたような、不思議な形をした赤い槍――龍牙――が置かれている。
「おお、寒空に川へ落ちてみるもんだな。なんせ、美しい女性と焚き火で暖を取れる」
「ふっ、口が上手いな」
いやいやと笑って、男はザバザバ水を掻き分けつつ岸へと上がった。水を含んだ衣服は、普段の何倍も重くなっている。
ぎゅっと絞れば、水を垂れ流す上着。
おそらく夜が明ける頃には乾くはずだろうと適当に考えつつ、とりあえず適当な木に上着を吊るしておく。
座ったまま此方を見ている少女の対面、そこへちょうど座るのに良い感じの岩を見付けて腰を下ろす。
水気を吸った前髪を後ろへと撫で付けながら、男が浮かべる表情は笑顔だ。
ニッコリと上手に笑んで、少女へと礼の言葉を送る。
「感謝しよう。凍死は無いだろうが、このままでは風邪を引くところだった」
「気にする事は無い。困っている者を助けるのも、また旅の一環だ」
ふ、と笑う少女と共に男も笑みを濃くした。
へぇ、と感心したような声が漏れるのに続くのは賛辞の言葉。
まるで、正義の味方の様だな。そう漏らした言葉に反応して、少女は一つ頷いてから躊躇う事無く肯定した。
胸を張る姿は凛々しく、言葉にも力が籠る。
「私は、この乱世を終わらせる為。そして、私が仕えるに相応しい主を求めて旅をしている。言い様によっては、正義というのも正しい表現だろう」
成程と頷いた男は、笑顔を崩さず頷き返す。
外見では当たり障りのない会話をし、内側での思考。そして、それを悟られぬ為の笑顔を忘れない。
速い話が、情報収集の真っ最中というわけだ。
旅。更には焚火。乱世。主。最後に、物騒極まりない物理的な武器。会話で得た単語と、目に見える景色を統合。
短い会話と、この世界の人間にとっての常識、環境、状況、態度、立ち居振る舞い。
全ての事柄を観察し、考察する。
予測して、それを補完する情報を引き出す為の言葉を選び。新たの情報を得ては、仮定から予測を確信へと近付ける予測を導き出す。
これも全ては『見知らぬ世界へ男が何度も訪れる内に』編み出した処世術だった。
状況の把握というのは、非常に大切な物だ。それを知っているだけで、面倒事を敬遠出来る可能性はぐんと上がるのだから。
「まあ何にせよ、立派な意思は好ましい。是非貫いて、出来るなら俺も守ってくれると有難いな」
くっくっと喉を鳴らしながら笑みを濃くし、状況をアバウトに理解した所で所持品のチェックへと移る。
手荷物は殆どない。上着の中に、ナイフ程度の刃物が二つ。
他は全部ベルトキットに入れたな、と手を腰の辺りに手を這わせて捜す。
手触りに、反応が返って来ない。
(な、まさか落としたのか)
慌てて視線を回して確認するが、やはりそこには影もない。
おそらく。否、間違いなく川を流れてしまったのだろう。これでは、回収も不可能だ。
血の気が引くような音を伴って、男の思考が停滞する。
それほど重要な物が、中に入っていたわけではない。むしろ簡易治療キットや調理道具といった、ほとんどは彼にとっては比較的どうでもいい物ばかりだ。
しかし、しかしだ。落し物の中には、唯一にして絶対に手放してはいけない物が入っていた。
二振りの剣。
間違いなく2本のベルトに固定していたはずだが、今はその姿かたちすら見当たらない。
「どうした?」
「ん? ああ、いや。どうやら、荷物を川に流されたらしい。きっと、落ちた時に何処かへやったんだろうな」
脱力するように吐息を漏らす男に、少女は掛ける言葉もない。言える事といえば、残念だったなと慰めるのが限界だ。
実際、流れのある川を探しても見付かりはしないだろう。何より今は夜で、こう暗くては見付かる物も見付かりはしない。
吐息。
「まあ、そう気を落とすな。少しくらいなら、食料を分けてやる事も出来る」
ほらと少女が出してきたのは、手に収まるほど小さな壺だった。閉められた蓋に厳重な封がしてある辺り、何か漬け物的な食糧なのかもしれない。
が、残念な事に男の悩みは食料ではないのだ。
いや、それも重要ではある。むしろ普通の旅人が荷を無くしたと言えば、真っ先にそれを嘆いていると見ても問題はないだろう。
しかし、男にとっての普通からしてみれば少し的外れだ。
恵んでくれる行為に苦笑いしつつ、男は口を開く。
「いや、食料じゃないんだ。荷物に大事なものが2つほどあってな。それ以外は、ぶっちゃけどうでもよかったんだが……」
何故、落ちた直後に気付かなかったのか。そう悔やみきれない言葉を内心で吐露する。
どこでも見に着けていたせいで、重さを感じなくなっていたか。手に馴染んでも、これでは本末転倒だ。
自らの武器は体の一部と思えるほど使い込む。そんな持論を唱えたこともあったが、今となっては恥ずかしい限りである。
(手足をもがれて気付かないとは、ただの間抜けだな)
出来ることなら、過去の自分を殴り殺したい気分だ。
完全なる不注意の産物。最早、言い逃れなど出来るわけもない。
いっそのこと、豆腐の角に頭をぶつけて流血してみるか? と更に吐息を重ねる。
同時に、視線を感じて正面を向けば少女と目が合った。逸らされることなく、ジッとこちらを見る目に男は思わず身動ぎしてしまう。
「俺の顔は、なにか付いているのか?」
「いや、先ほどから表情が豊かに変わるものでな。面白くて見入ってしまった」
そんなに顔へ出ているのか? と男が自分の頬に触れてみる。しかし、当然ながらそんなことでわかるはずもない。
諦めて、逃げるように星の輝く空を見上げる。
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