穏やかだなと思う戒李は、ぼんやりと空を眺めていた。
清々しく晴れ渡った青空には、ぽつぽつと白い固まりが浮遊している。
心地よい風が頬を撫で、程良い日差しで身体は暖められ。詰まるところ、本日は実に素晴らしい昼寝日和だ。
芝の上へ寝転べば、美人の睡魔が手招きで誘惑してくる事だろう。
だが、今の戒李は完全なる睡眠に落ちることが出来ない。と言うのも、せっせと左肩の傷を触る存在がいるからである。
坑道の中を鬼ごっこしていたのは、既に1ヶ月も前の事。結局、生き残った黄巾党員は60人中32人で、その全員が戒李と共に来ていた。
威羅と自分も含めて、全員で34人。無駄に大所帯だなと頭を抱えたのは、もはや懐かしい思い出となりつつあった。
「包帯、巻けない、身体上げて」
「あいよ」
不意に、文章を一文ずつ区切る独特の声が上から降ってきた。
短く応え、腹筋の要領で上半身を持ち上げれば、細い女の腕がテキパキと包帯を巻いていく。
完全に塞がっているものの、未だ触られると少しちくちくする傷口。この刺激は眠りを妨げるには十分で、しかし痛いと不平を漏らすほどでもない。
そもそも塞がっている傷口にここまで厳重な処置は必要ないようにも思うが、付けた張本人は頑として譲らなかった。
最近では説得も面倒になって、好きにさせているという状況である。
出来たと短く言葉を放つ加害者、元黄巾党の女頭こと姓を楊(よう)、名が宵(しょう)、字は春燕(しゅんえん)で、真名を蘭芳(らんふぁん)は、ほうと安堵の息を吐き出した。
何を緊張する事があるのかとも思うが、それだけ細心の注意を払っていてくれたという事なのだろう。
丁寧に巻かれた包帯へ気を遣いつつ、どうにもここ1ヶ月で穴が増えた気のする服を着る。
これで治療は終了。
他にする事も無くなり、このまま睡魔に身を任せようと戒李は寝返りをうつ。
なんとなく男の声に呼ばれた気もするが、それは華麗に無視した。
目を閉じていると、瞼の裏で眩しい光が滲む。
心地良いなと思いながら、その身を右へ振り。
直後、少し前まで戒李がいた場所へ踏み砕くような一撃が降ってきた。
「最近、威羅君は過激だなあ」
薄く目を開ける先、陽光を禿頭に反射させる大男――威羅がいる。
彼は足元に戦果がないのを確認すると、隠しもしないで舌打ちをしつつ。
「ああ、危うく頭を踏み潰してしまえるところでしたが。非常に残念でなりません」
「まあまあ、落ち着けよ威羅君。そう怒ってばかりいたんじゃ、そのうち気苦労で早死にするぞ?」
誰のせいでしょうね? と不満でいっぱいな視線が来る。が、これも戒李は無視した。
威羅の後ろで呆れている優男を発見し、ついでにようと気さくに声をかける。
返ってくる答えは嫌そうに歪められた表情だ。
嫌われたもんだな、と笑みを堪えながら。
「何の用だ?」
「財政報告だ」
言って、筒状に巻かれた竹簡が投げよこされた。
空中を舞いながら紐が解け、ばらけそうになる直前に右手でホールドすると。そのまま手を下へ振る動作の勢いを使い、目の前の地面に竹簡を広げる。
俯せのまま足をぱたぱたと動かし、支出と収入比を確認。続いて支出内容へ視線を滑らせ、そこで不意に戒李の動きは停止した。
なあ、と疑問を含んだ声が紡がれ。
「今更だが、なんで俺の所に持ってくるのかな?」
戒李の疑問に、疑問の表情が返ってくる。それも3つ。
何を言ってるんだろう的な居心地の悪い視線に晒される男へ、最初に答えを返したのは優男だ。
心底呆れたように吐息する勢いで、言葉の方も紡ぎ出す。
「ここの大将は貴様だろう?」
空気が停止した。
驚愕というよりは、困惑に近い表情の戒李が優男に向かって口を開こうとする。
しかし、それを思いとどまってから威羅へと目配せした。
視線の意味に少し迷った彼は、意図を理解すると手を打ち戒李の耳元まで行って。
「あの人は、姓を楼(ろう)、名を陸(りく)。字が緋凰(ひおう)の、真名が璃撥(りはつ)ですよ」
「ああ、それだ?」
「1ヶ月前に名乗っただろうが!! 今まで名を呼ばれた記憶が無いから変だと思ったが、そう言う理由か? と言うか、なんで語尾が疑問系なんだよ!!」
「そう耳元で喚くなよ。で、なんだって?」
全然聞いてないじゃねえか!! と璃撥が声を大にしたのを無視して、戒李は竹簡に視線を戻す。
どうせ、こっちは全く指示を出していないのだ。放っておけば、待遇の悪さに不平不満を漏らして元黄巾党員たちは四散していくだろう。
それまでの辛抱、と自分に言い聞かせる。
竹簡に記されている内容は、生活必需品から食料関係。その支出額と、彼らが働いて得た収入額。
最初に大きく書かれた収入支出比は、僅かに黒字を出している。これだけの大所帯が生活するに当たって、一番の懸念である貧困はないようだ。
と言うのも「全員養える様な金なんてないよ」と1ヶ月前に宣言したのと同時、それぞれがそれぞれに近くの街へ働きに行ったのである。
この大所帯は、蘭芳を合わせて5人の女性と。老婆が1人に老爺が2人。残りの26人が戒李、威羅、璃撥を含めて中年から若者まで男所帯だ。
女たちは小物を作って三老人が町へ売りに行く、更に男たちは出稼ぎに行きと色々動いていたらしい。
そんな中でも、戒李は肩の傷を理由にだらだらしていたわけだが。
「しかし、無駄に大所帯だなあ」
と、今度は口に出して状況を把握する。
食費がバカ高い。26名の男所帯中、5名は蘭芳を除く4人の女たちの子供だ。上は18才から下は14才と、彼らは本格的に育ち盛りの子供である。
食べ盛りが5人もいて、且つ重労働をしてきた男が追加で20名。こうなるのも仕方ないかと内心で吐露しつつ、続きへ視線を走らせ。
視線は一カ所で動きを止めた。
食費以上に金が使われた項目がある。内容は馬が8頭に屋根付きの荷馬車が3台。一瞬の沈黙を作った戒李は、威羅君? と声を絞り出して疑問の視線を向け。
「一つは物資保管用ですよ、武器とか食料の。残りの二つは居住用ですね。いずれも、少し大きめの物を用意しました」
手際良いでしょ? と誇る本人を直視できず、地面へ顔を伏せる。
用意が良すぎるのも問題だが、食料以外にもこんなに大きな買い物が出来るほど稼げる集団というのは。もういっそ、そのまま一般人に帰化しろよと思わなくもない。
微かに馬の嘶きが耳に入り、そちらを目視すれば件の馬と馬車がある。力強く毛並みの良い馬を選べたのは、彼らが元農民だからだろうか。
そして、どこかの勇者が魔王を成敗する為、旅の途中で手に入れるような馬車が3つ。白地の布で出来た屋根も相まって、どこか食パンを彷彿とさせる半ドーム状を象っていた。
「ごめん、ちょっと……いや、かなり予想外だ。まさかここまでやるとは」
「まあ、正直私も驚いています。まさか、彼らにここまでの収入能力があったとは」
「私たち、元、農民」
「俺らの住んでた村では、これぐらい出来ないと死ぬような貧困村だったんだ。とお嬢が言っている」
つまり、職さえ見付けてやれば一般人以上にできると言いたいらしい。
その辺の斡旋能力は威羅の采配だろう。どっちにしても、戒李としては喜んでいいのか泣けばいいのか微妙なところだ。