響け!ユーフォニアム〜北宇治のスーパー自由人〜 作:キングコングマン
今でも、その会話は確かに、鮮明に覚えている。
「どこまでも、伸び上がって行く様な音ですね」
初恋は、一目惚れだった様に思う。初めて見たのは、小学校の低学年の頃からか。音楽家である父に挨拶にと、やって来たその人。もう、5年以上もその初恋が続いてる。いや、最初は憧れの様なものだったのだろう。
「もっと上手くなりたい。もっと遠くに行きたい。そんな音です」
口調は丁寧に。しかし淡々と、その中には優しさも含まれてる様な、今と変わらない声。
「先輩には、周りの音を聴いてないって、怒られるんですけど……」
中学生になった頃の私は、もうその感情が憧れから恋慕に変わっていたと思う。思えばこの観流橋での会話で、確信したのだろう。
「確かに、それも大事です。でも、高いところを目指すその気持ちは、とても大切だと思いますよ」
その人は、滝先生はそう言って空を見つめる。眼鏡越しのその瞳が、何を見据えているのか、当時の私には分からなかった。ただただ、その瞳に夢中になっていた。
「ところで、この曲、知っていますか?」
そう言って、滝先生は楽譜を見せてくる。……見た事も聴いた事もないスコアだ。
「……いえ」
「良かったら、差し上げますよ」
「え、いいんですか?」
なぜこの楽譜を私に預けたのか。
「ええ。私にはもう、必要のないものなので」
なぜ滝先生がそんな言い方をするのか。当時の私には分からなかった。
「吹いてみてください。貴女に、ピッタリだと思います」
ただ、そう言って優しく微笑む滝先生の表情は、鮮明に覚えていた。
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確かめずには、いられなかった。
居残りの後にいつも鍵を返しに行く時、デスクに立ててあった一枚の写真。滝先生と、橋本先生と、新山先生と、知らない女性の人。
「滝くんの?……あ、もしかして、黄前さんから聞いた?」
橋本先生に問い詰めた。そして、返ってきた答えは、私のどんな悪い想像をも超えて来た。
滝先生には奥さんが居る。……いや、居るとは違う。しかし、現在進行形の方が良かったのかも知れない。
正確には、居た。
「滝くん、奥さん亡くなってから元気無かったからさ」
そんな現実があるなんて、受け入れたくなかった。受け入れられなかった。私は何もかも知らなかったのだ。ただ勝手に、滝先生を想って、ただ勝手に、"特別"になろうとした。そんな浮かれた私の水面下での現実が、全く見えずに。
真実を知っていた両親にも、そして親友にも強く当たった。自暴自棄になった。しかし、それを表に出してはいけない。私は強く、特別にならなきゃいけない。
でも、音は誤魔化せない。
滝先生にそれを見透かされた事が、1番辛かった。彼に"弱い"と言われた、私の音。自分でも驚くくらい納得した。自分がこんなに弱いとは、思わなかった。でも、私は強くなければならない。そうしなきゃ、"特別"にはなれないから。
『本当に特別な奴ってね、自分は特別だとか、ましてや特別になりたいだとか、微塵も思っちゃいないのよ』
予想外のところから、ぶん殴られた気分だった。今でも、優子先輩のこの言葉は、頭にこびり付いている。でも、否定されたとは思わなかった。同じパートに、特別と皆から認められてる人が居たから。
でも、その特別の正体が何なのか、まだ分からない。
そして、もう一つの特別。それは、優子先輩とアッキー先輩の関係。
今の私にとってあの2人の関係は羨ましく、そして妬ましかった。それ程に、特別な何かで結ばれていたから。なんであの2人は、そんなにも互いを信頼し合えてるのだろうか。なんで私と滝先生は、こうなってないんだろう。
そして滝先生とその奥さんは、優子先輩とアッキー先輩の様に特別な何かで結ばれていたのだろうか。
そんな疑問が、次へ次へと出てくる。
でも、疑問だけでは解決しない。だから、まずは滝先生に直接聞いた。
「滝先生の、奥さんって、どんな方だったんですか?」
正直、人生で一番勇気を振り絞ったかもしれない。でも滝先生は拒絶する事なく、話してくれた。
「妻は元々、この学校の生徒だったんですよ。吹奏楽部に居たんです。橋本先生も居ましたうちの父がここの顧問で」
そう言いながら、滝先生は思い出す様に語っていた。その表情は、やっぱり私には見せないものだった。でも、私が一番知りたいのは、そう言う事では無かった。
「そう言うんじゃなくて」
「?」
どんな人が、滝先生を……
「どんな、人だったんですか?」
嫉妬の感情は、驚く程無かった。純粋に、知りたかった。私に見せない顔を、その人には見せていたのだろう。そんな人が、どう言う人なのかを、知りたかった。
「元気な人でした。よく笑って……体を動かす事が、大好きで……体が、丈夫なのが取り柄だとは言ってました。………将来は、吹奏楽部の顧問になって、全国を目指すと言っていたんですよ」
そう言う滝先生の顔は、やっぱり私に見せた事は無いものだった。ここには居ない。別の誰かに向けた、慈愛の表情だった。
「……だから、余命が宣告された時は、頭が真っ白でした。……それからは、あっという間で」
やっぱり特別だったのだろう。しばらくは、何も言えなかった。でも、もう一つ、ここだけは聞きたかった。
「………じゃあ、滝先生が吹奏楽部の顧問になったのは……」
奥さんの為?とまでは言えなかった。
「……どうなんでしょう?彼女が居なくなってから、吹奏楽とは距離を置いていたんです。どうにも、楽器に近づく気にならなくて。……ですが、父から顧問をやるよう頼まれてしまって」
そして一つ呼吸を整えて、また滝先生は私ではない別の何かを見据えるように顔を上げた。
「いつまでも塞ぎ込んでいたら、怒られてしまいますから……」
その言葉を聞いて、やっと分かった。
まだ、滝先生にとって奥さんは……
「……話していただいて、ありがとうございます……」
その先は、言えなかった。辛かった。でも、少し心が軽くなった気がした。私の中の疑問が、少しながら晴れた。でも、まだ特別と言うものの中身が何なのか、分からない。
ただ、分かった事は一つ。滝先生の前で言えなかった事。
滝先生は、まだ奥さんの事を好きなんだ。
腑に落ちた。奥さんの為に顧問になって、奥さんの為に全国大会を目指す。滝先生が、心の底から好きになった人。……だからこそ、心の底から祈りたい。奥さんの思いを受け継いで今、滝先生はここにいるのだから。そう思って、先生に奥さんのお墓の場所を聞いた。そうすれば、自分の中の疑問がまた晴れる気がしたから。
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「高坂さんと黄前ちゃん?」
そしてその疑問は、意外な形で解決しようとしていた。
目の前の人なら。秋川忍ならば、私が追い求めている"特別"の答えを持ってるかもしれない。