黒く染った純白の彼女 作:灯利
孤児院へ向かうのは、翌朝になった。
もう日も落ち始めていたし、何よりシズクが、
「今から行ったら、帰ってくる頃には夜中になる。」
と珍しくまともなことを言ったからだ。
僕としては今すぐにでもマザーへ話を聞きに行きたかった。
でも。
焦ってまた一人で突っ込んで、何かやらかすのも違う。
……少しくらいは学習している。
多分。
…。
「じゃあ、その前にこれ。」
シズクが机の上へ置いたのは、北棟から持ってきた帳面だった。
所々が黒い墨で塗り潰されている。
「御影が持ち出していいって?」
「私がいいって言った。」
「御影さんは?」
「嫌そうな顔してた。」
「それ許可取ったって言うのかな……。」
まぁいい。
多分。
「お兄ちゃんの力。」
シズクが帳面を指差す。
「もう少しだけ確かめておきたい。」
「明日マザーに会う前に?」
「うん。」
「何で。」
「お兄ちゃん、また適当なこと言って誤魔化しそうだから。」
「……。」
前に。
マザーに魔法の痕跡を見つけられた時。
僕は試しに魔法を使っただけだと嘘をついた。
ものすごく怒られた。
三時間くらい。
「今回はちゃんと話すよ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
「じゃあ証拠。」
「信用ないなぁ。」
「あは。」
シズクが笑う。
机の隅には、少し欠けた古い小皿も置いてあった。
「まずこっち。」
「また物壊した?」
「最初から欠けてた。」
「本当に?」
「本当。」
怪しい。
でも。
小皿を手に取る。
端が一ヶ所欠けている。
前の状態。
元の形。
そう考える。
胸元が少し熱くなった。
欠けた部分の輪郭が、じわりと変わっていく。
無かったはずの破片が戻るわけじゃない。
なのに。
気がつけば。
皿は綺麗な円に戻っていた。
「……出来た。」
「やっぱり。」
シズクが皿を持ち上げ、裏表を確認する。
「治した感じじゃない。」
「どう違うの?」
「私は傷を塞いだり、壊れたところを直す感じ。」
「僕も同じじゃない?」
「似てるけど。」
シズクは少し考える。
「お兄ちゃんのは、壊れたこと自体を無かったことにしてるみたい。」
「無かったことに。」
「多分ね。」
「多分なんだ。」
「私もお兄ちゃんの力を全部知ってるわけじゃないもん。」
それは。
少し意外だった。
シズクは僕のことを何でも知っているような顔をする時がある。
でも実際は。
知らないこともある。
「じゃあ、人にも出来るのかな。」
口にしてから。
少し後悔した。
怪我を戻す。
病気になる前へ。
もっと。
取り返しのつかないことまで。
シズクの表情が少しだけ変わった。
「試さないよ。」
「え。」
「人では。」
「シズクが言うんだ。」
「何その顔。」
「自分の腕切った人。」
「……あれは説明。」
「説明で自分を切らないでよ。」
「はい。」
素直だ。
「でも本当に。」
シズクは僕を見る。
「人に使うのは、もっと分かってから。」
「うん。」
そこは僕も同じだった。
小皿を置く。
そして。
本題。
北棟の帳面。
墨で塗り潰された一行。
僕はそこへ指を置いた。
「これ。」
「うん。」
「戻すなら。」
書かれた後。
消される前。
そう考える。
胸元が熱くなる。
さっきより強い。
黒い墨が少しずつ薄くなる。
その下から、文字が浮かび上がった。
『第七収容区へ移送』
「第七……。」
さらに次。
同じように消された部分。
触れる。
『生存維持処置』
「……。」
二人とも黙った。
生存。
その二文字だけが目に残る。
「これって。」
僕は声にする。
「この記録を書いた時は、生きてたってこと?」
「……うん。」
シズクも真面目な顔で頷いた。
「少なくとも。」
心臓が早くなる。
友達。
あいつ。
まだ。
もしかしたら。
「お兄ちゃん。」
シズクが僕の手を握った。
「焦らないで。」
「でも。」
「分かるよ。」
「……。」
「私だって今すぐ地下に行きたい。」
「じゃあ。」
「でも、先にマザー。」
朝から言っていたことと同じ。
真っ直ぐ僕を見る。
「御影が言ったことも、本当かどうか確かめる。」
「うん。」
「それから地下。」
「……うん。」
昔の僕なら。
多分。
このまま一人で地下へ行こうとしていた。
今でも行きたい。
すごく。
でも。
一人で分からないまま突っ込んで。
また誰かに助けてもらうだけじゃ。
何も変わらない。
「シズク。」
「何?」
「ありがとう。」
「……。」
少しだけ。
顔が赤くなる。
「あは。」
すぐ笑って誤魔化した。
「じゃあ今度から、もっと妹の言うこと聞いて。」
「それは別。」
「えー。」
その時だった。
帳面の端。
まだ触れていなかった別の箇所が、微かに黒く滲んだ。
「……?」
僕が手を伸ばす前に。
消されていた文字が一瞬だけ浮かび上がる。
『零番』
「何これ。」
シズクの笑顔が消えた。
「シズク?」
返事がない。
明らかに。
知っている顔。
「知ってるの?」
少しの沈黙。
シズクはゆっくり息を吐いた。
「……多分。」
僕を見る。
「それ、お兄ちゃんの番号。」
明日。
マザーへ聞かなければならないことが。
また一つ増えた。