黒く染った純白の彼女 作:灯利
次の日。
朝食を終えた僕は、屋敷の玄関で靴を履いていた。
「お兄ちゃん。」
「何。」
「やっぱり私も行く。」
「昨日もその話したでしょ。」
「したけど、一晩寝たら考えが変わった。」
「そんな簡単に変わるの?」
「変わったものは仕方ないでしょ。」
シズクは僕の袖を掴んだまま、どう見ても離す気がない。
昨日は一緒に孤児院へ行くと言っていた。
でも、夜になってから改めて考えた。
マザーとシズク。
この二人をいきなり同じ場所へ連れて行くのは、多分ものすごく面倒なことになる。
何となくじゃない。
ほぼ確信している。
「僕が先に話してくるよ。」
「嫌。」
「シズク。」
「嫌。」
「子供みたい。」
「子供だもん。」
そう言われると弱い。
確かに見た目も年齢も子供なのだ。
力だけがおかしい。
「ちゃんと帰ってくるから。」
「……本当?」
「うん。」
「孤児院にそのまま住んだりしない?」
「しないよ。」
「マザーに『もう屋敷へ戻るな』って言われても?」
少しだけ答えに詰まった。
シズクの手に力が入る。
「ほら。」
「いや。」
僕は袖を掴んでいる手を見る。
「言われても、自分で決める。」
「……。」
「孤児院に戻るか。屋敷に戻るか。それも僕が決める。」
シズクは黙って僕を見上げた。
「じゃあ、どっちに帰るの?」
「どっちって。」
「帰る場所。」
前なら、迷わず孤児院と答えていた。
今でも孤児院は大切な場所だ。
マザーも。
ジャックも。
みんなもいる。
でも。
屋敷にも。
目の前に、帰ってくるのを待っている子がいる。
「……両方じゃ駄目?」
シズクの目が丸くなった。
「孤児院も。ここも。」
「ずるい。」
「何が。」
「そんなこと言われたら、行くなって言えなくなる。」
ようやく袖から手が離れた。
シズクは少しだけ寂しそうに笑う。
「行ってらっしゃい、お兄ちゃん。」
「うん。」
「でも約束。」
「何の?」
シズクが小指を出した。
「帰ってくること。」
「分かった。」
指を絡める。
「ちゃんと帰ってくる。」
「絶対。」
「うん。」
「帰ってこなかったら迎えに行くからね。」
「……やっぱり?」
「今度は壊したりしない。」
「そこまで心配してないよ。」
「努力する。」
「努力なんだ……。」
最後の最後で不安になった。
それでも。
僕は屋敷を出た。
…。
久しぶりに孤児院へ向かう道を歩く。
屋敷で暮らし始めてからも町には何度か出た。
それなのに、こっちの方角へ来ることだけは避けていた。
シズクに止められていたから。
それもある。
でも。
僕自身も少し怖かった。
勝手にいなくなった僕を、みんなはどう思っているんだろう。
何より。
マザー。
説教だけで済めばいいけど。
……三時間では済まない気がする。
やがて、見慣れた建物が見えてきた。
庭から子供達の声が聞こえる。
何も変わっていない。
それだけで少し安心した。
門に手をかけようとした、その時。
「マキにい。」
「――っ!?」
横から小さな声。
塀の陰から金色の髪が覗く。
「アリス?」
「しーっ。」
人差し指を口元へ当てたアリスが、僕の腕を引っ張った。
「ちょっとこっち。」
「え、待って。」
「早く早く。」
そのまま孤児院の裏手まで連れていかれる。
人目が無くなったところで、アリスはようやく僕を離した。
「何してるの、こんなところで。」
「それマキにいが言う?」
「……。」
何も言えない。
アリスは僕の顔を見て、それから上から下まで確認するように眺めた。
「元気そうだね。」
「うん。」
「良かった。」
本当に安心したような顔だった。
少なくとも、そこに嘘は無いように見える。
「みんなは?」
「すっごい心配してるよ。ジャックなんか屋敷まで行くって三回くらいマザーに止められてたし。」
「三回も。」
相変わらずだ。
少し笑いそうになる。
「マザーは?」
「いるよ。」
「会いたいんだけど。」
「うん。」
アリスの顔が少し曇った。
「その前にさ。」
「何?」
「……お姉様、元気?」
「え?」
聞き間違いかと思った。
「今、何て?」
「……。」
「アリス。」
「何でもない。」
「いや、言ったよね。」
「言ってない。」
「お姉様って。」
「……。」
露骨に目を逸らした。
怪しい。
「誰のこと?」
「それは……。」
「シズク?」
ピクリ。
分かりやすい。
「何でシズクのこと知ってるの。」
「……マキにい。」
アリスが頭を抱える。
「怒らない?」
「内容による。」
「だよねー……。」
暫く唸った後。
観念したように大きく息を吐いた。
「私、こういうの向いてないんだよなぁ。」
「何が。」
「潜入。」
「……。」
「……。」
二人で固まった。
「今、潜入って言った?」
「忘れて。」
「無理だよ。」
「だよね。」
アリスは肩を落とした。
「私もね。シスターズの一人なの。」
昨日から増え続けていた頭痛が、また一つ大きくなった気がした。
「アリスも?」
「うん。お姉様みたいにすごい力は無いけど。」
「じゃあ孤児院に来たのって。」
「マザーと、この孤児院を調べるため。」
「誰に頼まれて?」
答えは聞く前から分かっていた。
「シズクお姉様。」
「……。」
やっぱり。
「僕のことも調べてた?」
「最初は知らなかったよ。」
「最初は?」
「マキにいにお姉様のシルシがついて、それで分かったの。」
アリスが僕の胸元を指差す。
「お姉様の魔素ってすっごく分かりやすいから。」
「じゃあ、僕に近づいたのも。」
「それは違う!」
思ったより強い声で返された。
「マキにいと話してたのは任務じゃないよ。」
「任務って言った。」
「あ。」
「やっぱり任務なんだ。」
「そこは忘れて。」
「無理。」
アリスがますます小さくなる。
「報告したのは本当。マザーのことも、孤児院のことも。マキにいのことも。」
「……。」
怒るべきなんだと思う。
でも。
目の前で本気で申し訳なさそうにしているアリスを見ると、何を言えばいいのか分からなくなる。
「ごめんなさい。」
いつもの勢いはどこへ行ったのか。
アリスが素直に頭を下げた。
「でも、友達だと思ってたのは本当だから。」
「……うん。」
今は、それだけ受け取る。
続きは。
ちゃんと全部聞いてからだ。
「それで。」
「うん。」
「マザーに――」
「ミス.アリス。」
背後から声がした。
二人同時に固まる。
「随分と楽しそうですね。」
振り返る。
そこにいたのは。
いつもの柔らかい笑顔。
そして。
全く笑っていない目。
「それと、ミスターマキ。」
「……はい。」
「お帰りなさい。」
「……ただいま。」
「お話があります。」
「はい。」
「沢山。」
「……はい。」
三時間。
では。
多分。
足りない。