はばたけ!みんなと永遠のオーロ島   作:ホンバラ

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9. トロピカる部とおんなのこ

 高らかな合唱が舞い上がった。男たちを乗せた船団が、次々に浜辺へと漕ぎつけてきた。その興奮したような眼差し。何かを見つけたような、子どものような視線がまなつたちをのぞいている。

 くじらの身体が現れた。その打ち上げられた生命に、白い抜け殻がまるで縫い合わさるように繋がっている。

 まなつたちは目の前に広がる、点々とした光景を眺めていた。

 アニが我に返ったように、男たちへと駆けだした。男たちが、みるみると血の気を失って、何かへとすがるように集落へと駆けていく。

 声が聞こえない。

 意識が飛んでいるようだ。

 それほどに色を失っていた。

 まなつたちの影を通り抜けていく。

 得体の知れない他人のような、青い青い影が。

 

 波打ち際に、脚が見えた。

 永遠に繰り返す、波の行方にさらされている。

 その視線は、脚に注がれていた。

 自分の立つ場所を、必死に探しているかのように。

「……ローラ」

 ローラはくじらを見つめていた。

 白い遺骸は、じっと虚空を見据えていた。

 ローラは波をはねていった。

 くじらへとしゃがみこむと、その目をのぞきこむように身体を寄せる。

 淡くくすんだ、全てを見据えるような、潤んだ眼。

 ローラは、じっと見つめ返していた。

「……」

 ローラは、何かを呟いた。

 まなつたちは、身を寄せ合う、二つの生命を見つめていた。

「……くるる~ん」

 くるるんが、遺骸の反対側から現れた。

「くるるん……」

 呟くと、まなつは歩きだした。

 ちゃぷ、ちゃぷ。

 彼女たちの音が、寄せる波をはねていく。

 くるるんは、誰かを見上げていた。

 困ったように鳴きながら、まなつたちに助けを求めていた。

 足音が止まった。

 くじらの眼。

 小さく開かれた口。

 牙が何本もびっしりと生えている。

 少女が立っていた。

 生まれたままの姿で、くじらを見つめてから、振り向いた。

 その眼は、透き通ったガラス玉のようだった。

 

 

     ※

 

 

 熱い湿風だった。

 織物がさあっと揺れて、あすかたちの髪をなでていく。

 まなつたちの小屋には、あすかたちがいた。

 無力感に打ちのめされ、言葉の立ち入る隙などなかった。

 まなつは声を掛けていた。辺りを見回す少女が、その白銀の髪をなびかせて、小さな瞳を瞬かせる。わずかな胸の膨らみは、彼女の未成熟な年端を表していた。

 男たちの声が響いた。

 大切なものを失ったような、遠くの空にかすんでいく音。

 応えてくれる者は、誰もいない。

 彼女たちの底に、夜霧のような冷たさが立ちこめた。

「……ごめん」

 ローラが呟いた。

「私が、いなかったから」

「それは違う……!」

 あすかが遮った。

「私たちが、選んだんだ」

 

「……どうして」

 さんごが口を開いた。

「どうして、ヤラネーダは現れるのかな……」

 そんなこと、わかるはずはなかった。

「あのヤラネーダ、確かに、いつもとは雰囲気が違った……」

 みのりが仄かな考察を交える。

「もし……」

 仮定の話だ。

「また、戦うことになったら」

 それでも考えずにはいられなかった。

「私たち、どうなっちゃうのかな」

 その現実を、誰もが想像できた。

 

「――はい、ばんざーーいっ!!」

 まなつの声が響いた。

 裸の少女へと、自らのパジャマを持ちだして話しかけている。

 まなつの言葉は、まるで通じていないようだった。いくら話しかけても、自分がそこにいないかのように、生きている実感が湧いていないかのように、辺りを見回していく。

 まなつは、手を挙げて見せた。

 少女が、おっかなびっくり真似をしていく。

 すっ、と上衣が被さった。

 襟ぐりから顔を出した少女は、不思議そうに、身にまとった衣をまさぐっていった。

「……負けないよ」

 声が震えていた。

 少女は、まなつをきょとんと見つめていた。

 敷物の床が、ぽつ、ぽつ、とぬれていく。

 熱い風が吹いていた。

「ああ、ごめんね……っ!」

 まなつは顔を背けると、ぶんぶんとかぶりを振った。

「ほら、今度は足を上げてぇ……!」

 再び着方を示していく。

「村の子ども……?」

 みのりが尋ねた。

「ううん、知らない子。でも、きっとそう!」

 じわじわと涙が浮かぶ。すすっても、また大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出る。

 少女は脚を上げた。

 パジャマの下衣に脚を通すと、まなつの動きにならい、帯を持ち上げていく。

 すとん。

 帯が落ちた。きょとんとした目が、まなつを見やった。

 まなつは、優しく微笑んだ。

 帯を持ち上げると、腰の間隔に合わせるように、ひもを結び上げていく。

 少女は見つめていた。誰かのために、その手を動かす誰かを、呆然と。

「私の名前は、夏海まなつ」

 くしゃくしゃになった顔が見上げていった。

「あなたの名前は……?」

 まるで、天気雨にさらされたみたいだった。

 少女の瞳が瞬いた。

 胸の奥に、何か、温かいものが広がった。

 この感覚は、何だろう。

 何も言葉が出てこない。

「ま・な・つだよ……!」

 まなつが、顔を真っ赤にした。

「な・つ・う・み~……!」

 あすかが、おい、と遮った。

「……やめておけ」

 少女は、まなつを見ていた。

 この、温かいものは何? その答えを、まるで目の前に見るように。

「じゃあ、これだね……!」

 まなつは、再びかぶりを振った。

「握手っ!」

 太陽が出たみたいだった。

 少女の鼓動が高鳴った。

 この鼓動を、早く誰かに伝えたかった。

 そうすれば、自分が立っている場所が、わかるような気がした。

 少女は、まなつを抱きしめた。

 鼓動が、温もりが、匂いが、吐息が、伝わる。

 目の前のあなたが、ここにいるんだ、って伝わってくる。

 ぱっ――。

 少女の身体が光った。

 青白く浮かび上がる身体に、七色の光が盛り上がり、小屋の屋根を貫いて、村全体へと打ち上がっていった。

 男たちが見上げていった。

 鮮やかなやる気パワーが、やる気を失っていた村人たちのもとへと、戻っていく。

 喜びの炎が、めらめらと燃えだした。

 村中に、歓声のとどろきが響き渡った。

「……」

 まなつたちは、立ちつくしていた。

 きょとんとしている少女へと、視線を落としていく。

 少女のまなざしに、言葉はなかった。

 ただまなつたちの目を、見つめていた。

 

 

     ※

 

 

 陽気な歌声が響いた。

 調理場の東屋で、女性たちが、喜びを風に乗せて歌っている。なみなみと揺れるスープが、椀の中で音を立てる。

 食堂では、やる気を取り戻した村人たちが、遅めの昼食にありついていた。

 家族や、友人、恋人たち、その他にも、たくさんの人びとが同じことをしているということが、今さらながら不思議なことのように思えてくる。

 奇妙な浮遊感。まなつたちは、呆然とテーブルに着いていた。目の前の料理には、とても手を付ける気にはなれなかった。茫洋とした視線が揺れて、村人たちの合間を縫うように、見えない何かを追おうとする。

 まなつのパジャマをまとった少女は、きょろきょろと辺りを見回していた。経験したこともない現実感が、わあ、と口を丸くさせる。言葉はない。たださわやかな感動と、確かな驚きがあるだけだ。

 村人たちの喜びが大きくなった。まなつたちの感覚を飲みこんでいく。まるで白昼夢を見ているみたいに、ふわふわした現実感が、薄皮一枚を隔てて閉じられていく。架空の物語の登場人物を思うように。

「何が、起きているの」

 みのりがこぼした。

 そうこぼすのが、精いっぱいだった。

 少女は、まなつを見上げていった。

 まなつは言葉を失っていた。

 ぐい、ぐい。

 さんごの背が引っ張られた。

「ひゃぁ!?」

 さんごは振り向いた。嬉しそうな笑顔を浮かべたサラと、子どもたちが、こちらを見上げてはにかんでいた。

 施してもらったメイクが、少女たちの表情を、どこまでも煌めかせていた。

 さんごの目が潤んでいった。

 この村に、いつもの日常が戻ってきたんだ――。そう思えたことが、心から嬉しかった。

「まなつ!」

 はつらつとした声。振り返ると、朗らかにアニが立っていた。

「アニ……」

 そうこぼすまなつに、アニは微笑んだ。きょろきょろと料理を見回す少女に、声を掛けていく。まるで自分がそうして欲しいかのように。

「……こう!」

 そう言って、ごはんをつまんでいく。

 少女は示されるがまま、葉っぱの上のごはんをつまんでいった。指先に温もりがにじんで、温水を浴びたようにはっとなる。

 アニはにやっと笑うと、ごはんを口元へと運んでいった。

 少女はならっていった。目元がきらきらとする。アニの仕草を見ながら、まるで親子のように動きがシンクロしていく。

 まなつたちは、その光景に見入っていた。

 ぱくっ。

 少女の口が閉じた。

 もぐ、もぐ。

 口が上下する。アニの笑顔も合わせるようにゆがんでいたが、やがて一人で飛び立つように、少女の表情が明るくなった。

「……おいしい!」

 アニは言った。

 少女が、瞳を瞬かせた。

 自分にもできたんだ。その喜びが、押し寄せてきたようだった。

 まなつたちは、見つめていた。

 その少女の、小さな煌めきが、どうしても脳裏から離れなかった。

「ぼくの名前は、アニ」

 アニがにかっと笑った。

「あなたの名前は?」

 少女は言い淀んだ。

 声が出る。

 自分の声。自分の言葉。自分の意思。躍動。

 それが、不思議なほどに自分に跳ね返って、自らの世界を満たしていくような気がした。

「……ヘ」

 言葉が生まれた。

「ロ、ン」

 まなつたちは見ていた。

「ヘロン……」

 まなつはなぞるように、へろん、と言った。

 アニが、まなつたちの名前を呼んだ。

 まなつたちは振り向いた。

 アニは、嬉しそうに笑っていた。

「ついてきて!」

 

 

     ※

 

 

 カブロスの家には、数人の男たちがいた。

 気難しそうな顔。それも仕方がない。この先に何が起こるのか、その時に、自分たちがどこにいるのか、誰の目にも映ることはない。

 まなつたちは、織物をかき分けてやって来た。カブロスたちの目が、一斉に動く。少女たちの姿を、まるで違った生き物でも見るように、じっと見つめている。

「……カブロスさん」

 まなつが呟いた。

「……プリキュア」

 男の一人が呟いた。

 さっと冷たくなった。呟いた何かが、目に見えない何かに、覆われているような気がした。

「じいちゃん……!」

 アニが駆けだしていった。カブロスのもとへたどり着くと、振り返る。

「つれてきたよ!」

 カブロスは、ありがとう……、と呟いた。重苦しい視線が、まなつたちを見やる。

 男たちが、何かを察したように部屋を出ていった。

 慣れ親しんだ言葉が、何かの輪を通して、まなつたちに届いているようだった。

「……アニ」

 まなつは、思わず指を差した。

「……にほんご」

 アニは振り向いた。

「……にほんご?」

 カブロスが神妙に呟いた。

「それが、あなたたちの歌なんだね」

 アニが近づいてきた。

 面食らうまなつを、まじまじと見上げる。

 動揺するまなつに、言ってのける。

「まなつの目、かわいいね!」

 変な声が出た。

「どうして、今まで気付かなかったんだろう……」

 にしし、とはにかんだ。

 何故だか前よりも、アニを身近に感じる気がした。

「プリキュアのみなさん」

 カブロスが口を開いた。

「村のことを救ってくれて、どうもありがとう」

 見えた視線は、厳かな雰囲気をたたえていた。

「アニや男たちから、話は聞いています」

 焦る口調が紡がれていく。

「聞いてもらいたい話があるのです」

 まなつたちのもとへと、腰を下ろす。

「食べながらでいいので、聞いてください」

 アニが、ヘロンと名乗った少女に、スープの椀を差しだした。

 まなつたちは、食堂から持ってきていた、すでに冷めかけてしまったごはんとともに、腰を下ろした。

 

 

 カブロスが語ったのは、この村に伝わるという、不思議な伝説だった。

 遠い遠い昔、自分たちの祖先が、何者かから託された、再生と破壊を司るという、聖なる炎。

 その炎が、いつの日か、人間の姿を伴って、地上へと現れた時、永く続いた物語が終わり、幾つもの輝きが、あまねく星々を照らすであろう。

 それが、いつから伝わることなのか、何を意味しているのかは、もはや誰にもわからないのだった。

 

 

「……石碑の絵はもう見ましたか?」

「ぼくが見せたよ!」

 アニが言った。自慢げに笑って、カブロスを振り返る。

「あそこに描かれていた、白き主、そして、青き人魚……」

 深い光が、まなつたちを見据えていった。

「私には、とても偶然には思えないのです」

 波打ち際で、白い遺骸が、村人たちに囲まれていた。

「……」

 ローラは、カブロスの目を見つめ返していた。

 何か、巨大なものに、一部の隙もなく囚われている気がした。

「ローラっ!?」

 ローラは駆けだした。

 振り向かずに、入口の織物が、さっ、と揺れる。

 まなつたちは取り残されていた。

 冷たい風が吹いていた。

「……その少女」

 カブロスの口が開かれた。

 ヘロンが、ごはんを食べ進めていた。弾んでいく表情が、手探りで温かいものへと触れる喜びを、きらきらと表している。

「その時が来るのは、もう近いのかもしれません」

 カブロスは目を閉じた。

 その声が、まなつたちの脳裏に、いつまでも浮かんでいた。

 

 

     ※

 

 

 波音が響いていた。

 広場から、聞きなれている言葉が、ローラの耳をくすぐった。

 子どもたちが駆けていく。

 陽の当たる波をはねて、真っ白なくじらへと走っていく。

 ローラは膝を抱えていた。

 真っ白な遺骸の、黒い小さな粒を見つめていた。

 白が黒になり、黒が白になる。

 それは、ほとんどどうでもいいことだった。

「……ローラ」

 まなつの声が聞こえた。

 優しく包むような足音。

 憂える視線。

 その身体が、悼むように沈黙をまとう。

 ローラは、ちらと視線を向けた。けれど、ほとんど横顔しか見えなかった。

 波が寄せていた。けれど、返っていくのはどうしてなんだろう。そんなことを想っていた。

「……はい」

 まなつの手が差しだされた。

「……聞いたよ」

 その手には、おむすびが握られていた。

「好きなんでしょ」

 ローラは目を向けた。

 特段いつもと変わらない様子で、おむすびを手に取った。

 波が返る。寄せていく。

 その繰り返しが、時間を永遠に繋ぎ止めてくれないかと願いながら。

「……あの人たち」

 ローラの口が開いた。

「……嫌い」

 まなつは見つめていた。

「いくら、生きるためだからって」

 ローラの声がなびいた。

「いくら、生命を繋いでいくためだからって」

 波音が響いた。

「あんなむごいこと、許されるはずない」

 声がかすれていた。

 くじらの眼が、ローラを見つめていた。

「……ローラ」

 まなつが呟いた。

 風が吹いていた。

 二人の髪が風に揺れて、そよそよと舞った。

「……」

 声が聞こえた。子どもたちの声。

 聞きなれた言葉が、風に乗って、音になった。歌になった。

 創られた意味を失った。

 まなつたちの身体は、淡く浮かんだ、白い世界に浮かび上がっていた。

 

 

――――――――会えるよ

 

 

 ローラはおむすびにかじりついた。

 もう一口。やがて、もう一口。

 時折、喉を詰まらせそうになったが、どうやらそんな雰囲気ではないみたいなので、気を付けた。

 ぱく、ぱく。

 美味しかった。涙は出ないが、潮の味がした。

「おいしい!」

 まなつが言った。それがどういう意味なのかは、もう知っていた。

「知ってる」

 そう言いたかった。それでも、もう少し笑えばよかったと思った。

「ローラー! まなつー!」

 さんごの声が聞こえた。

 広場の方から、さんご、みのり、あすか、そして大勢の子どもたちの姿が見えた。

 子どもたちは目を輝かすと、一斉に駆けだして、真っ白なくじらを囲んでいった。

 白いきらきらとした皮膚が、陽光を受けて、子どもたちの表情を映していく。

 アニと仲間たちが、音頭を取った。

「……せーのっ!」

 一斉に子どもたちは歌いだした。そのメロディーは、大人たちが漁を終えて、村に帰る時のものと同じだった。そこには、大人たちが歌うような物哀しさはなく、ただ生きる楽しさと、宇宙のように際限なく広がる、生きることへの喜びがあった。

 メロディーは瞬いていった。時には音に、そして、声に姿を変える。揺らいだかと思えば、今度は音へ、また歌へと変わっていく。

 力強い響きが、そこにはあった。

 まなつたちは呆然と聴いていた。

 ヘロンがやって来た。楽しそうな子どもたちをよそに、もう動かないくじらをぼうっと見つめている。

 子どもたちの声が響く。

 その揺るがない生命を、精いっぱいに膨張させて。

 ヘロンは身体を寄せた。

 くじらの眼が、うっすらとにじんだ気がした。

「そのときは、くる」

 ヘロンの声だった。

「その時は、来る」

 子どもの声がこだました。

 くじらの遺骸は、大きなものの一部となったように、この果てのない旅路を見据えていた。

 

 

     ※

 

 

 淡い雲が進んでいった。

 子どもたちの影が、熱い砂浜の上を縫っていった。

 村人たちが、ヤシ酒を酌み交わしていた。

 そこには、平行な宇宙の繋がりがあった。

 新婚の夫婦が笑い合っていた。

 女性のお腹は、新しい生命に、ふっくらと膨らんでいた。

 初老の男が、傷んだ船を修理していた。

 若者たちが、その様子をじっくりと観察していた。

 男の子と女の子が、見つめていた。

 船小屋の男たちを、興味深そうに見つめていた。

 子どもたちが、桶たっぷりの水を、家へと運んでいった。

 いずれ身につけるであろうモリさばきを、男の子が父から教えてもらっていた。

 くじら、イルカ、マンタ、エイ。その他にも、たくさんの海の生き物の骨を、子どもたちが珍しい石でも見つけるように拾い上げていく。

 骨が埋もれている遊び場で、アニたちが、元気な声を上げて駆けだしていった。

 みんながそこにいた。

 母親たちも、父親たちも。

 友人たちも、恋人たちも。

 そうでない人たちも、そうである人たちも。

 愛すべき人たちが、みんな――。

 子どもたちが、魂をむき出しにしながら駆けだしていった。

 陽はいつの間にか淡くなり、海面をオレンジ色に反射させていた。

 白いくじらの影が、黒々と陽の光に浮かび上がった。子どもたちが混ざるように、その小さな影を、まるで鳥のように飛び交わせた。

 自由に、どこまでも。

 その気持ちを、はるかな夢に乗せて、駆け巡っていた。

 

 

     ※

 

 

 まなつたちは立ちつくしていた。

 誰かが、まなつの手を取った。

「行こっ!」

 アニが駆けだした。

「行こ!」

 サラがさんごの手を引いた。

 影が、ひとつ、ふたつと加わっていく。

 それは混沌と呼ぶには、あまりにも楽しそうな生命たちの輪だった。

 ローラは、呆然と取り残されていた。

 遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 微かに聞こえる名前。それは、幼い頃にも聞いたことがあったような響きだった。

「ローラ!」

 はっとなった。

 まなつの声。

 ヘロンが、自分のことを見上げていた。まるで、自分自身を見ているかのように、呆然と。

 小さな手が差しだされた。

 私の手に寄り添うように。

「えっ?」

 瞬間、走りだす――。

「ちょっと……?」

 手が繋がれていた。

 前を見据えて、ただ一心に。

 二人は、終わらない輪の中へと入っていった。

「よぉーっし! じゃあローラがオニねー!」

「はぁ!? オニごっこ!?」

「わぁ! 楽しそうだね……!」

 みんなの笑顔が瞬いた。

 誰一人欠けることなく、まなつたちは、砂浜を駆けだしていった。

 

 みのりとあすかは、眩しそうに見つめていた。

 何の隔たりも、しがらみも見出すことはできなかった。

 ふと、みのりの視線が揺れた。

 楽しそうに歩いている、シュレオたち三人組の姿……。

 みのりは歩きだした。

 伏し目がちに、眼鏡の光が、視線を覆う。

 あすかは苦笑した。

 眼鏡の恨みは恐ろしかった。

「あー、あー!」

 声が聞こえた。

 足元で、ラウラがこちらを見上げていた。

 すがるような目つきで、寂しさが、胸を打つように。

「……ラウラ」

 呟くと、同じ名前を呼ぶ声が聞こえた。

 ラウラの母親が、肩を揺らしながら走ってきた。

 ラウラが、脚へと抱きついた。

 泣き顔が、あすかのジャージへと埋もれた。

「……あなた」

 呟くと、母親は微笑んだ。

 温かいまなざしに、胸が焦がれるようだった。

「無事、だったんですね」

 心の荷が降りた気がした。

 精いっぱいの笑み。

 安心の吐息。

 でも、どうやらそうではなかったらしい。

「あれ……」

 くすぐったいものが、まろび出た。

「え?」

 目元を伝い、落ちていく。

 ラウラが見上げた。

 それは、小さな天気雨だった。

「……ごめんなさい」

 わけもないのに、言葉が漏れた。

「……どうして」

 わからない。

 わからないが、母親の温もりは、それほどに代えがたく、温かかった。

 

 みのりが、シュレオたちへと追いついた。

 小柄な男の子が、げ……、と口元をゆがめるのがわかった。

「きょうぼうおんな……」

 中背の子が言う。挑戦的な色が浮かんでいた。

「ふうん、そういう風に呼んでいたんだ」

 言葉がわかる。こんなにも興味深いことはなかった。それでも、もうちょいましな言葉が聞きたかった。そう思うと、少年たちの表情はゆがんでいった。自らの危険を察知するように。

「何だよ、きょうぼうはきょうぼうだろ……!」

 みのりが近づいてくる。その視線は、少年たちを捉えているはずで、夕陽が照り返して、眼鏡が光って、何も見えない。

「ええ、本当にそうかもね……っ!」

 黄色い光が揺れた。そう錯覚した時には、少年たちは駆けだしていた。

「ぎゃああーー……っ!!」

 みのりは立ち止まる。海風が、ふわりと髪をなでた。

 こんなものか……。まるでそう言いたげに。

「……」

 シュレオが見つめていた。

 固唾をのんでいた。

 言わなきゃならない。そんなことを思いつつ……。

「ありがとう」

「……」

「あなたが、助けてくれたんですよね?」

 シュレオは見つめていた。

 夕陽を受けて、頬がほんのり染まっているように見えた。

 みのりは目を伏せた。

 暗い影が落ちる。

 私じゃない。

 そう言われる筋合いなど、どこにもなかった。

 そうしていた。

 わいわいと声が聞こえる。

 大丈夫ですか? と聞かれた。

 うん、平気、と答えるしかない。

「……あの」

 まだ何かあるのか。

「……名前」

 名前。

「聞いても、いいですか……?」

 みのりは答えていた。

「……一之瀬、みのり」

 みのり。シュレオの瞳が瞬いた。

「僕は――」

「シュレオ君」

 シュレオは固まっていた。

「あなたの、名前」

 不思議な響きだった。

「あの時、届いてた……」

 どうしてだろう……、でも、そう思えた。

「あの時は」

 止まらなかった。

「つかんで、ごめん」

 シュレオは見ていた。

「……」

 シュレオの目。

 ふっ、とため息を吐く。

「やっと、言えたね」

 二人の目が合った。

 その頬は、つられるようにゆるんでいった。

 

 

     ※

 

 

「あはははは……!!」

 まなつの声がこだました。

 過ぎ行く時を惜しむように、茫漠と広がっていく。

 子どもたちの影が飛び交った。まるで海の向こうを夢見る、渡り鳥のように。

「ちょっと、私はオニなのよ! あなたは逃げなきゃダメなのよ……!」

 ローラがツッコんだ。立ちつくすヘロンに向かって、表情を崩していく。

「ヘロン、きっとわからないんだよー」

 まなつがのんきに笑う。夕陽に、サイドテールのリボンが揺らめいた。

「だったら、今からオニは私たちよー!」

 ローラが駆けだした。ヘロンと手が繋がれている。ぱちくりと目が瞬いた。その手は、ごはん粒のように温かかった。

 子どもたちが駆けていく。

 広大な浜辺に、あまねく生命が瞬いていた。

 アニが笑い疲れたように、立ち止まった。息を切らして、まなつへと問いかけていく。

「まなつたち、いつもこうやって遊んでるの……?」

 羨ましそうな目。興奮が抑えられない。憧れが止まらない。

「いつも、っていうか、へへ……。学校とか部活とか、いろいろあるんだけど」

 まなつは苦笑する。遊びだけじゃなく、宿題や勉強、個人的にはトロピカれないことなんて、たくさんある。

「がっこう? ぶかつ?」

 アニが尋ねた。知らない。知りたい。やってみたい。

「うん! いろんな人がいて、いろんなことがあって……、すっっごく楽しいよ!!」

 トロピカった。太陽のような熱さが、胸の底から湧き上がってきた。

 アニの瞳が瞬いた。

 だがその瞬きは、一瞬のうちに隠れていった。

「いいなぁ」

 まなつは振り向いた。

「ぼくも、やってみたい」

 届かない願いだった。

 そのことだけはわかる気がした。

 まなつは考えた。

 それが、どうして無理なのだろう。

 強く想った。

 いつも、そうだった。

「おいでよ!」

 まなつは白い歯を見せた。

「すっっごくトロピカってる!!」

 アニの瞳が瞬いた。

 夜空の、無限の星粒のように。

「ローラぁ! 街に戻ったら、みんなにどこ案内しよっかあ?」

「はあ? 何よそれ……。まだどうすりゃ戻れるかもわからないってぇの」

「まずは、私のお母さんがやってる、プリティホリックに案内したいなあ!」

「いいねえ! さんごのお家ってえ、可愛いコスメのお店やってるんだよー!」

 子どもたちの目が輝いた。行ってみたい。そんな黄色い声が、次々に上がっていく。

「決まりだね! じゃあ他にはー?」

 ローラが呟いた。

「だったら学校は?」

「私たちの部室に招待しようよ!」

 さんごが続けた。

「むっふっふ、私たちが苦労して見つけた部室だもんねー!」

 まなつが不敵に笑う。

「あすか先輩とみのりん先輩も、手伝ってくれたんだよ」

 さんごが微笑む。

「あ! だったら水族館もどうかなあ!?」

 まなつが首を揺らした。

「いいじゃない! いい? 海の生き物が、こ~~んなにいっぱいいるんだから!」

 ローラが腕を組む。

「私のお母さん、そこで働いてるんだよー!」

 まなつが割りこんだ。

「私専用の、プライベート水槽だってあるんだから!」

 ローラが張り合った。

「じゃあついでに、動物園にも行っちゃったり?」

 さんごが手を挙げた。

「ああ! それだあっ!!」

 まなつが身を乗りだした。

「そう! まなつと一緒に、行きたいねって話してたの!」

 ローラが乗ってくる。

「ぞうさん見たいね、って! ぞうさん!」

 まなつが両腕をくねらせ、象の鳴き真似をした。

「そう、ぱおーん、って言うのよ! ぱおーん!」

 ローラまでが続いた。

 いつの間にか、象の鳴き真似大会が始まっていた。

「そうだ! こんなことも!」と言って、まなつが即席のタップダンスを披露した。

 大地を踏み鳴らす。ざっ、ざっ、と音をはねて、砂粒が辺りに飛んでいく。

 子どもたちは顔を避けた。自分たちも、見よう見まねで大地を踏み鳴らしていく。

 大合唱が起きていた。

 そこには言葉はないが、確かな躍動があった。

 大地が揺れる。

 自分たちの立つ場所が、楽しさで満たされていく……。

「そうだ! みんなでケーキも食べよう! マリンモールに新しいお店ができたんだ……! 遊園地にも行こう! 絶叫マシーンってクセになるんだあ……! おしゃれなオープンカフェでランチしてえ、電車に乗るときはカードをピッとタッチしてえ……! それからそれからぁ……っ!」

「――まなつ!」

 カシャッ。

 シャボンが舞い上がった。夢を語る少女の姿が、すでに夢を叶えているまなつの姿が、鮮明に浮かび上がっていた。

「シャボンピクチャー!!」

 まなつが叫ぶ。

 ローラの肩から、くるるんがひょっこりと顔を出した。アクアポットを抱えて、嬉しそうに辺りへと声を上げた。

「みんなで撮ろう、って!」

 ローラが言った。

 その言葉は、わかるような気がした。

「何だ、また何かやるのか……?」

 南風が、トロピカった仲間たちを連れてきた。

「あ……、あすか先輩っ!」

「あれ、何だか目が赤い……?」

「う、うるさいっ! ほら、何かやるんだろっ!?」

「くるるんも映りたいと思うよ」

「あ、みのりん先輩っ!」

「何でわかるのー?」

「そんな気がしたから……」

 わいのわいの。時間が過ぎていく。

 心を輝かす彼女たちには、いくら時間があっても足りはしない。

 子どもたちが寄ってくる。

 その中心には、いつも彼女たちがいる。

「あははは……!」

 サラたちが、シャボンピクチャーを指さした。

 揺らめく記憶の中に、何か変わらないものでも見つけたように。

「ああ、これは写真、って言ってえ……」

「時間を閉じこめてくれるの」

「ええーっ!? すごぉーい!!」

「何だ、今さら……」

「だってそれって、すごくなーい!?」

「物は言いよう……」

 時が過ぎていく。

「……」

 ヘロンは見つめていた。

 不思議だった。

 ここにいられることが、

 みんなが生きていることが、

 この時間が流れていることが、まるで奇跡のように思えた。

「……何してんのよ」

 声が聞こえた。

 ローラだった。

「あなたも!」

 手が繋がれた。

 二人は駆けだした。

 まばゆい輪の中へと、溶けていった。

 

「じゃあミネリさーん、お願いしまーす!」

 まなつが駆けていく。呼んだのは、ラウラの母親の名前だった。

 アクアポットが揺れる。

 海原を背景に、子どもたちがざわざわと並んでいる。

「あの、いいんですか、本当に……」

 あすかが慌てた。ラウラを抱いていた。

 アクアポットが揺れる。いいよ、と言っているみたいに。

「きゃははは……!」

 ラウラが笑った。

 生きとし生けるみんなを抱きしめるように。

 祝福するように。

「ほら、みんなぁー! もっと笑ってぇー!」

 まなつが前へ出た。

 大好きな仲間たち。

 子どもたちの表情は、まとまらなかった。

「ほらあ、もっともっとぉー!」

「にいー、って言えば、自然と口角が上がるそうな……」

 みのりが呟く。シュレオたちがのけぞった。まるで恐れをなしたかのように。

「ミネリさーん! みんなが笑ったら撮ってくださーい!」

 まなつが、ぶんぶんと手を振った。振り返って、お手本を示していく。

「ほらみんなぁ! にい~~っ!!」

 精いっぱいの笑顔。

 にい~~! と声が揺らいでいく。

「まだ硬いよー! にいい~~っ!!」

 後ろ歩きで、そのまま、石に突っかかる。

「あっ――」

 どさっ。

 砂だらけの頭。

 かぶりを振ると、その唇がぷるぷると震える。

 その表情は、子どもたちを見つめると、とたんににやけだす。

 子どもたちに、にい~~っ、と、ゆがんだ笑顔が浮かんでいった。

「あはははは……っ!!!」

 カシャッ。

 軽快なシャッター音。

 戻らない時間が、大切な想い出の一ページへと刻まれていった。

 

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