高らかな合唱が舞い上がった。男たちを乗せた船団が、次々に浜辺へと漕ぎつけてきた。その興奮したような眼差し。何かを見つけたような、子どものような視線がまなつたちをのぞいている。
くじらの身体が現れた。その打ち上げられた生命に、白い抜け殻がまるで縫い合わさるように繋がっている。
まなつたちは目の前に広がる、点々とした光景を眺めていた。
アニが我に返ったように、男たちへと駆けだした。男たちが、みるみると血の気を失って、何かへとすがるように集落へと駆けていく。
声が聞こえない。
意識が飛んでいるようだ。
それほどに色を失っていた。
まなつたちの影を通り抜けていく。
得体の知れない他人のような、青い青い影が。
波打ち際に、脚が見えた。
永遠に繰り返す、波の行方にさらされている。
その視線は、脚に注がれていた。
自分の立つ場所を、必死に探しているかのように。
「……ローラ」
ローラはくじらを見つめていた。
白い遺骸は、じっと虚空を見据えていた。
ローラは波をはねていった。
くじらへとしゃがみこむと、その目をのぞきこむように身体を寄せる。
淡くくすんだ、全てを見据えるような、潤んだ眼。
ローラは、じっと見つめ返していた。
「……」
ローラは、何かを呟いた。
まなつたちは、身を寄せ合う、二つの生命を見つめていた。
「……くるる~ん」
くるるんが、遺骸の反対側から現れた。
「くるるん……」
呟くと、まなつは歩きだした。
ちゃぷ、ちゃぷ。
彼女たちの音が、寄せる波をはねていく。
くるるんは、誰かを見上げていた。
困ったように鳴きながら、まなつたちに助けを求めていた。
足音が止まった。
くじらの眼。
小さく開かれた口。
牙が何本もびっしりと生えている。
少女が立っていた。
生まれたままの姿で、くじらを見つめてから、振り向いた。
その眼は、透き通ったガラス玉のようだった。
※
熱い湿風だった。
織物がさあっと揺れて、あすかたちの髪をなでていく。
まなつたちの小屋には、あすかたちがいた。
無力感に打ちのめされ、言葉の立ち入る隙などなかった。
まなつは声を掛けていた。辺りを見回す少女が、その白銀の髪をなびかせて、小さな瞳を瞬かせる。わずかな胸の膨らみは、彼女の未成熟な年端を表していた。
男たちの声が響いた。
大切なものを失ったような、遠くの空にかすんでいく音。
応えてくれる者は、誰もいない。
彼女たちの底に、夜霧のような冷たさが立ちこめた。
「……ごめん」
ローラが呟いた。
「私が、いなかったから」
「それは違う……!」
あすかが遮った。
「私たちが、選んだんだ」
「……どうして」
さんごが口を開いた。
「どうして、ヤラネーダは現れるのかな……」
そんなこと、わかるはずはなかった。
「あのヤラネーダ、確かに、いつもとは雰囲気が違った……」
みのりが仄かな考察を交える。
「もし……」
仮定の話だ。
「また、戦うことになったら」
それでも考えずにはいられなかった。
「私たち、どうなっちゃうのかな」
その現実を、誰もが想像できた。
「――はい、ばんざーーいっ!!」
まなつの声が響いた。
裸の少女へと、自らのパジャマを持ちだして話しかけている。
まなつの言葉は、まるで通じていないようだった。いくら話しかけても、自分がそこにいないかのように、生きている実感が湧いていないかのように、辺りを見回していく。
まなつは、手を挙げて見せた。
少女が、おっかなびっくり真似をしていく。
すっ、と上衣が被さった。
襟ぐりから顔を出した少女は、不思議そうに、身にまとった衣をまさぐっていった。
「……負けないよ」
声が震えていた。
少女は、まなつをきょとんと見つめていた。
敷物の床が、ぽつ、ぽつ、とぬれていく。
熱い風が吹いていた。
「ああ、ごめんね……っ!」
まなつは顔を背けると、ぶんぶんとかぶりを振った。
「ほら、今度は足を上げてぇ……!」
再び着方を示していく。
「村の子ども……?」
みのりが尋ねた。
「ううん、知らない子。でも、きっとそう!」
じわじわと涙が浮かぶ。すすっても、また大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出る。
少女は脚を上げた。
パジャマの下衣に脚を通すと、まなつの動きにならい、帯を持ち上げていく。
すとん。
帯が落ちた。きょとんとした目が、まなつを見やった。
まなつは、優しく微笑んだ。
帯を持ち上げると、腰の間隔に合わせるように、ひもを結び上げていく。
少女は見つめていた。誰かのために、その手を動かす誰かを、呆然と。
「私の名前は、夏海まなつ」
くしゃくしゃになった顔が見上げていった。
「あなたの名前は……?」
まるで、天気雨にさらされたみたいだった。
少女の瞳が瞬いた。
胸の奥に、何か、温かいものが広がった。
この感覚は、何だろう。
何も言葉が出てこない。
「ま・な・つだよ……!」
まなつが、顔を真っ赤にした。
「な・つ・う・み~……!」
あすかが、おい、と遮った。
「……やめておけ」
少女は、まなつを見ていた。
この、温かいものは何? その答えを、まるで目の前に見るように。
「じゃあ、これだね……!」
まなつは、再びかぶりを振った。
「握手っ!」
太陽が出たみたいだった。
少女の鼓動が高鳴った。
この鼓動を、早く誰かに伝えたかった。
そうすれば、自分が立っている場所が、わかるような気がした。
少女は、まなつを抱きしめた。
鼓動が、温もりが、匂いが、吐息が、伝わる。
目の前のあなたが、ここにいるんだ、って伝わってくる。
ぱっ――。
少女の身体が光った。
青白く浮かび上がる身体に、七色の光が盛り上がり、小屋の屋根を貫いて、村全体へと打ち上がっていった。
男たちが見上げていった。
鮮やかなやる気パワーが、やる気を失っていた村人たちのもとへと、戻っていく。
喜びの炎が、めらめらと燃えだした。
村中に、歓声のとどろきが響き渡った。
「……」
まなつたちは、立ちつくしていた。
きょとんとしている少女へと、視線を落としていく。
少女のまなざしに、言葉はなかった。
ただまなつたちの目を、見つめていた。
※
陽気な歌声が響いた。
調理場の東屋で、女性たちが、喜びを風に乗せて歌っている。なみなみと揺れるスープが、椀の中で音を立てる。
食堂では、やる気を取り戻した村人たちが、遅めの昼食にありついていた。
家族や、友人、恋人たち、その他にも、たくさんの人びとが同じことをしているということが、今さらながら不思議なことのように思えてくる。
奇妙な浮遊感。まなつたちは、呆然とテーブルに着いていた。目の前の料理には、とても手を付ける気にはなれなかった。茫洋とした視線が揺れて、村人たちの合間を縫うように、見えない何かを追おうとする。
まなつのパジャマをまとった少女は、きょろきょろと辺りを見回していた。経験したこともない現実感が、わあ、と口を丸くさせる。言葉はない。たださわやかな感動と、確かな驚きがあるだけだ。
村人たちの喜びが大きくなった。まなつたちの感覚を飲みこんでいく。まるで白昼夢を見ているみたいに、ふわふわした現実感が、薄皮一枚を隔てて閉じられていく。架空の物語の登場人物を思うように。
「何が、起きているの」
みのりがこぼした。
そうこぼすのが、精いっぱいだった。
少女は、まなつを見上げていった。
まなつは言葉を失っていた。
ぐい、ぐい。
さんごの背が引っ張られた。
「ひゃぁ!?」
さんごは振り向いた。嬉しそうな笑顔を浮かべたサラと、子どもたちが、こちらを見上げてはにかんでいた。
施してもらったメイクが、少女たちの表情を、どこまでも煌めかせていた。
さんごの目が潤んでいった。
この村に、いつもの日常が戻ってきたんだ――。そう思えたことが、心から嬉しかった。
「まなつ!」
はつらつとした声。振り返ると、朗らかにアニが立っていた。
「アニ……」
そうこぼすまなつに、アニは微笑んだ。きょろきょろと料理を見回す少女に、声を掛けていく。まるで自分がそうして欲しいかのように。
「……こう!」
そう言って、ごはんをつまんでいく。
少女は示されるがまま、葉っぱの上のごはんをつまんでいった。指先に温もりがにじんで、温水を浴びたようにはっとなる。
アニはにやっと笑うと、ごはんを口元へと運んでいった。
少女はならっていった。目元がきらきらとする。アニの仕草を見ながら、まるで親子のように動きがシンクロしていく。
まなつたちは、その光景に見入っていた。
ぱくっ。
少女の口が閉じた。
もぐ、もぐ。
口が上下する。アニの笑顔も合わせるようにゆがんでいたが、やがて一人で飛び立つように、少女の表情が明るくなった。
「……おいしい!」
アニは言った。
少女が、瞳を瞬かせた。
自分にもできたんだ。その喜びが、押し寄せてきたようだった。
まなつたちは、見つめていた。
その少女の、小さな煌めきが、どうしても脳裏から離れなかった。
「ぼくの名前は、アニ」
アニがにかっと笑った。
「あなたの名前は?」
少女は言い淀んだ。
声が出る。
自分の声。自分の言葉。自分の意思。躍動。
それが、不思議なほどに自分に跳ね返って、自らの世界を満たしていくような気がした。
「……ヘ」
言葉が生まれた。
「ロ、ン」
まなつたちは見ていた。
「ヘロン……」
まなつはなぞるように、へろん、と言った。
アニが、まなつたちの名前を呼んだ。
まなつたちは振り向いた。
アニは、嬉しそうに笑っていた。
「ついてきて!」
※
カブロスの家には、数人の男たちがいた。
気難しそうな顔。それも仕方がない。この先に何が起こるのか、その時に、自分たちがどこにいるのか、誰の目にも映ることはない。
まなつたちは、織物をかき分けてやって来た。カブロスたちの目が、一斉に動く。少女たちの姿を、まるで違った生き物でも見るように、じっと見つめている。
「……カブロスさん」
まなつが呟いた。
「……プリキュア」
男の一人が呟いた。
さっと冷たくなった。呟いた何かが、目に見えない何かに、覆われているような気がした。
「じいちゃん……!」
アニが駆けだしていった。カブロスのもとへたどり着くと、振り返る。
「つれてきたよ!」
カブロスは、ありがとう……、と呟いた。重苦しい視線が、まなつたちを見やる。
男たちが、何かを察したように部屋を出ていった。
慣れ親しんだ言葉が、何かの輪を通して、まなつたちに届いているようだった。
「……アニ」
まなつは、思わず指を差した。
「……にほんご」
アニは振り向いた。
「……にほんご?」
カブロスが神妙に呟いた。
「それが、あなたたちの歌なんだね」
アニが近づいてきた。
面食らうまなつを、まじまじと見上げる。
動揺するまなつに、言ってのける。
「まなつの目、かわいいね!」
変な声が出た。
「どうして、今まで気付かなかったんだろう……」
にしし、とはにかんだ。
何故だか前よりも、アニを身近に感じる気がした。
「プリキュアのみなさん」
カブロスが口を開いた。
「村のことを救ってくれて、どうもありがとう」
見えた視線は、厳かな雰囲気をたたえていた。
「アニや男たちから、話は聞いています」
焦る口調が紡がれていく。
「聞いてもらいたい話があるのです」
まなつたちのもとへと、腰を下ろす。
「食べながらでいいので、聞いてください」
アニが、ヘロンと名乗った少女に、スープの椀を差しだした。
まなつたちは、食堂から持ってきていた、すでに冷めかけてしまったごはんとともに、腰を下ろした。
カブロスが語ったのは、この村に伝わるという、不思議な伝説だった。
遠い遠い昔、自分たちの祖先が、何者かから託された、再生と破壊を司るという、聖なる炎。
その炎が、いつの日か、人間の姿を伴って、地上へと現れた時、永く続いた物語が終わり、幾つもの輝きが、あまねく星々を照らすであろう。
それが、いつから伝わることなのか、何を意味しているのかは、もはや誰にもわからないのだった。
「……石碑の絵はもう見ましたか?」
「ぼくが見せたよ!」
アニが言った。自慢げに笑って、カブロスを振り返る。
「あそこに描かれていた、白き主、そして、青き人魚……」
深い光が、まなつたちを見据えていった。
「私には、とても偶然には思えないのです」
波打ち際で、白い遺骸が、村人たちに囲まれていた。
「……」
ローラは、カブロスの目を見つめ返していた。
何か、巨大なものに、一部の隙もなく囚われている気がした。
「ローラっ!?」
ローラは駆けだした。
振り向かずに、入口の織物が、さっ、と揺れる。
まなつたちは取り残されていた。
冷たい風が吹いていた。
「……その少女」
カブロスの口が開かれた。
ヘロンが、ごはんを食べ進めていた。弾んでいく表情が、手探りで温かいものへと触れる喜びを、きらきらと表している。
「その時が来るのは、もう近いのかもしれません」
カブロスは目を閉じた。
その声が、まなつたちの脳裏に、いつまでも浮かんでいた。
※
波音が響いていた。
広場から、聞きなれている言葉が、ローラの耳をくすぐった。
子どもたちが駆けていく。
陽の当たる波をはねて、真っ白なくじらへと走っていく。
ローラは膝を抱えていた。
真っ白な遺骸の、黒い小さな粒を見つめていた。
白が黒になり、黒が白になる。
それは、ほとんどどうでもいいことだった。
「……ローラ」
まなつの声が聞こえた。
優しく包むような足音。
憂える視線。
その身体が、悼むように沈黙をまとう。
ローラは、ちらと視線を向けた。けれど、ほとんど横顔しか見えなかった。
波が寄せていた。けれど、返っていくのはどうしてなんだろう。そんなことを想っていた。
「……はい」
まなつの手が差しだされた。
「……聞いたよ」
その手には、おむすびが握られていた。
「好きなんでしょ」
ローラは目を向けた。
特段いつもと変わらない様子で、おむすびを手に取った。
波が返る。寄せていく。
その繰り返しが、時間を永遠に繋ぎ止めてくれないかと願いながら。
「……あの人たち」
ローラの口が開いた。
「……嫌い」
まなつは見つめていた。
「いくら、生きるためだからって」
ローラの声がなびいた。
「いくら、生命を繋いでいくためだからって」
波音が響いた。
「あんなむごいこと、許されるはずない」
声がかすれていた。
くじらの眼が、ローラを見つめていた。
「……ローラ」
まなつが呟いた。
風が吹いていた。
二人の髪が風に揺れて、そよそよと舞った。
「……」
声が聞こえた。子どもたちの声。
聞きなれた言葉が、風に乗って、音になった。歌になった。
創られた意味を失った。
まなつたちの身体は、淡く浮かんだ、白い世界に浮かび上がっていた。
――――――――会えるよ
ローラはおむすびにかじりついた。
もう一口。やがて、もう一口。
時折、喉を詰まらせそうになったが、どうやらそんな雰囲気ではないみたいなので、気を付けた。
ぱく、ぱく。
美味しかった。涙は出ないが、潮の味がした。
「おいしい!」
まなつが言った。それがどういう意味なのかは、もう知っていた。
「知ってる」
そう言いたかった。それでも、もう少し笑えばよかったと思った。
「ローラー! まなつー!」
さんごの声が聞こえた。
広場の方から、さんご、みのり、あすか、そして大勢の子どもたちの姿が見えた。
子どもたちは目を輝かすと、一斉に駆けだして、真っ白なくじらを囲んでいった。
白いきらきらとした皮膚が、陽光を受けて、子どもたちの表情を映していく。
アニと仲間たちが、音頭を取った。
「……せーのっ!」
一斉に子どもたちは歌いだした。そのメロディーは、大人たちが漁を終えて、村に帰る時のものと同じだった。そこには、大人たちが歌うような物哀しさはなく、ただ生きる楽しさと、宇宙のように際限なく広がる、生きることへの喜びがあった。
メロディーは瞬いていった。時には音に、そして、声に姿を変える。揺らいだかと思えば、今度は音へ、また歌へと変わっていく。
力強い響きが、そこにはあった。
まなつたちは呆然と聴いていた。
ヘロンがやって来た。楽しそうな子どもたちをよそに、もう動かないくじらをぼうっと見つめている。
子どもたちの声が響く。
その揺るがない生命を、精いっぱいに膨張させて。
ヘロンは身体を寄せた。
くじらの眼が、うっすらとにじんだ気がした。
「そのときは、くる」
ヘロンの声だった。
「その時は、来る」
子どもの声がこだました。
くじらの遺骸は、大きなものの一部となったように、この果てのない旅路を見据えていた。
※
淡い雲が進んでいった。
子どもたちの影が、熱い砂浜の上を縫っていった。
村人たちが、ヤシ酒を酌み交わしていた。
そこには、平行な宇宙の繋がりがあった。
新婚の夫婦が笑い合っていた。
女性のお腹は、新しい生命に、ふっくらと膨らんでいた。
初老の男が、傷んだ船を修理していた。
若者たちが、その様子をじっくりと観察していた。
男の子と女の子が、見つめていた。
船小屋の男たちを、興味深そうに見つめていた。
子どもたちが、桶たっぷりの水を、家へと運んでいった。
いずれ身につけるであろうモリさばきを、男の子が父から教えてもらっていた。
くじら、イルカ、マンタ、エイ。その他にも、たくさんの海の生き物の骨を、子どもたちが珍しい石でも見つけるように拾い上げていく。
骨が埋もれている遊び場で、アニたちが、元気な声を上げて駆けだしていった。
みんながそこにいた。
母親たちも、父親たちも。
友人たちも、恋人たちも。
そうでない人たちも、そうである人たちも。
愛すべき人たちが、みんな――。
子どもたちが、魂をむき出しにしながら駆けだしていった。
陽はいつの間にか淡くなり、海面をオレンジ色に反射させていた。
白いくじらの影が、黒々と陽の光に浮かび上がった。子どもたちが混ざるように、その小さな影を、まるで鳥のように飛び交わせた。
自由に、どこまでも。
その気持ちを、はるかな夢に乗せて、駆け巡っていた。
※
まなつたちは立ちつくしていた。
誰かが、まなつの手を取った。
「行こっ!」
アニが駆けだした。
「行こ!」
サラがさんごの手を引いた。
影が、ひとつ、ふたつと加わっていく。
それは混沌と呼ぶには、あまりにも楽しそうな生命たちの輪だった。
ローラは、呆然と取り残されていた。
遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
微かに聞こえる名前。それは、幼い頃にも聞いたことがあったような響きだった。
「ローラ!」
はっとなった。
まなつの声。
ヘロンが、自分のことを見上げていた。まるで、自分自身を見ているかのように、呆然と。
小さな手が差しだされた。
私の手に寄り添うように。
「えっ?」
瞬間、走りだす――。
「ちょっと……?」
手が繋がれていた。
前を見据えて、ただ一心に。
二人は、終わらない輪の中へと入っていった。
「よぉーっし! じゃあローラがオニねー!」
「はぁ!? オニごっこ!?」
「わぁ! 楽しそうだね……!」
みんなの笑顔が瞬いた。
誰一人欠けることなく、まなつたちは、砂浜を駆けだしていった。
みのりとあすかは、眩しそうに見つめていた。
何の隔たりも、しがらみも見出すことはできなかった。
ふと、みのりの視線が揺れた。
楽しそうに歩いている、シュレオたち三人組の姿……。
みのりは歩きだした。
伏し目がちに、眼鏡の光が、視線を覆う。
あすかは苦笑した。
眼鏡の恨みは恐ろしかった。
「あー、あー!」
声が聞こえた。
足元で、ラウラがこちらを見上げていた。
すがるような目つきで、寂しさが、胸を打つように。
「……ラウラ」
呟くと、同じ名前を呼ぶ声が聞こえた。
ラウラの母親が、肩を揺らしながら走ってきた。
ラウラが、脚へと抱きついた。
泣き顔が、あすかのジャージへと埋もれた。
「……あなた」
呟くと、母親は微笑んだ。
温かいまなざしに、胸が焦がれるようだった。
「無事、だったんですね」
心の荷が降りた気がした。
精いっぱいの笑み。
安心の吐息。
でも、どうやらそうではなかったらしい。
「あれ……」
くすぐったいものが、まろび出た。
「え?」
目元を伝い、落ちていく。
ラウラが見上げた。
それは、小さな天気雨だった。
「……ごめんなさい」
わけもないのに、言葉が漏れた。
「……どうして」
わからない。
わからないが、母親の温もりは、それほどに代えがたく、温かかった。
みのりが、シュレオたちへと追いついた。
小柄な男の子が、げ……、と口元をゆがめるのがわかった。
「きょうぼうおんな……」
中背の子が言う。挑戦的な色が浮かんでいた。
「ふうん、そういう風に呼んでいたんだ」
言葉がわかる。こんなにも興味深いことはなかった。それでも、もうちょいましな言葉が聞きたかった。そう思うと、少年たちの表情はゆがんでいった。自らの危険を察知するように。
「何だよ、きょうぼうはきょうぼうだろ……!」
みのりが近づいてくる。その視線は、少年たちを捉えているはずで、夕陽が照り返して、眼鏡が光って、何も見えない。
「ええ、本当にそうかもね……っ!」
黄色い光が揺れた。そう錯覚した時には、少年たちは駆けだしていた。
「ぎゃああーー……っ!!」
みのりは立ち止まる。海風が、ふわりと髪をなでた。
こんなものか……。まるでそう言いたげに。
「……」
シュレオが見つめていた。
固唾をのんでいた。
言わなきゃならない。そんなことを思いつつ……。
「ありがとう」
「……」
「あなたが、助けてくれたんですよね?」
シュレオは見つめていた。
夕陽を受けて、頬がほんのり染まっているように見えた。
みのりは目を伏せた。
暗い影が落ちる。
私じゃない。
そう言われる筋合いなど、どこにもなかった。
そうしていた。
わいわいと声が聞こえる。
大丈夫ですか? と聞かれた。
うん、平気、と答えるしかない。
「……あの」
まだ何かあるのか。
「……名前」
名前。
「聞いても、いいですか……?」
みのりは答えていた。
「……一之瀬、みのり」
みのり。シュレオの瞳が瞬いた。
「僕は――」
「シュレオ君」
シュレオは固まっていた。
「あなたの、名前」
不思議な響きだった。
「あの時、届いてた……」
どうしてだろう……、でも、そう思えた。
「あの時は」
止まらなかった。
「つかんで、ごめん」
シュレオは見ていた。
「……」
シュレオの目。
ふっ、とため息を吐く。
「やっと、言えたね」
二人の目が合った。
その頬は、つられるようにゆるんでいった。
※
「あはははは……!!」
まなつの声がこだました。
過ぎ行く時を惜しむように、茫漠と広がっていく。
子どもたちの影が飛び交った。まるで海の向こうを夢見る、渡り鳥のように。
「ちょっと、私はオニなのよ! あなたは逃げなきゃダメなのよ……!」
ローラがツッコんだ。立ちつくすヘロンに向かって、表情を崩していく。
「ヘロン、きっとわからないんだよー」
まなつがのんきに笑う。夕陽に、サイドテールのリボンが揺らめいた。
「だったら、今からオニは私たちよー!」
ローラが駆けだした。ヘロンと手が繋がれている。ぱちくりと目が瞬いた。その手は、ごはん粒のように温かかった。
子どもたちが駆けていく。
広大な浜辺に、あまねく生命が瞬いていた。
アニが笑い疲れたように、立ち止まった。息を切らして、まなつへと問いかけていく。
「まなつたち、いつもこうやって遊んでるの……?」
羨ましそうな目。興奮が抑えられない。憧れが止まらない。
「いつも、っていうか、へへ……。学校とか部活とか、いろいろあるんだけど」
まなつは苦笑する。遊びだけじゃなく、宿題や勉強、個人的にはトロピカれないことなんて、たくさんある。
「がっこう? ぶかつ?」
アニが尋ねた。知らない。知りたい。やってみたい。
「うん! いろんな人がいて、いろんなことがあって……、すっっごく楽しいよ!!」
トロピカった。太陽のような熱さが、胸の底から湧き上がってきた。
アニの瞳が瞬いた。
だがその瞬きは、一瞬のうちに隠れていった。
「いいなぁ」
まなつは振り向いた。
「ぼくも、やってみたい」
届かない願いだった。
そのことだけはわかる気がした。
まなつは考えた。
それが、どうして無理なのだろう。
強く想った。
いつも、そうだった。
「おいでよ!」
まなつは白い歯を見せた。
「すっっごくトロピカってる!!」
アニの瞳が瞬いた。
夜空の、無限の星粒のように。
「ローラぁ! 街に戻ったら、みんなにどこ案内しよっかあ?」
「はあ? 何よそれ……。まだどうすりゃ戻れるかもわからないってぇの」
「まずは、私のお母さんがやってる、プリティホリックに案内したいなあ!」
「いいねえ! さんごのお家ってえ、可愛いコスメのお店やってるんだよー!」
子どもたちの目が輝いた。行ってみたい。そんな黄色い声が、次々に上がっていく。
「決まりだね! じゃあ他にはー?」
ローラが呟いた。
「だったら学校は?」
「私たちの部室に招待しようよ!」
さんごが続けた。
「むっふっふ、私たちが苦労して見つけた部室だもんねー!」
まなつが不敵に笑う。
「あすか先輩とみのりん先輩も、手伝ってくれたんだよ」
さんごが微笑む。
「あ! だったら水族館もどうかなあ!?」
まなつが首を揺らした。
「いいじゃない! いい? 海の生き物が、こ~~んなにいっぱいいるんだから!」
ローラが腕を組む。
「私のお母さん、そこで働いてるんだよー!」
まなつが割りこんだ。
「私専用の、プライベート水槽だってあるんだから!」
ローラが張り合った。
「じゃあついでに、動物園にも行っちゃったり?」
さんごが手を挙げた。
「ああ! それだあっ!!」
まなつが身を乗りだした。
「そう! まなつと一緒に、行きたいねって話してたの!」
ローラが乗ってくる。
「ぞうさん見たいね、って! ぞうさん!」
まなつが両腕をくねらせ、象の鳴き真似をした。
「そう、ぱおーん、って言うのよ! ぱおーん!」
ローラまでが続いた。
いつの間にか、象の鳴き真似大会が始まっていた。
「そうだ! こんなことも!」と言って、まなつが即席のタップダンスを披露した。
大地を踏み鳴らす。ざっ、ざっ、と音をはねて、砂粒が辺りに飛んでいく。
子どもたちは顔を避けた。自分たちも、見よう見まねで大地を踏み鳴らしていく。
大合唱が起きていた。
そこには言葉はないが、確かな躍動があった。
大地が揺れる。
自分たちの立つ場所が、楽しさで満たされていく……。
「そうだ! みんなでケーキも食べよう! マリンモールに新しいお店ができたんだ……! 遊園地にも行こう! 絶叫マシーンってクセになるんだあ……! おしゃれなオープンカフェでランチしてえ、電車に乗るときはカードをピッとタッチしてえ……! それからそれからぁ……っ!」
「――まなつ!」
カシャッ。
シャボンが舞い上がった。夢を語る少女の姿が、すでに夢を叶えているまなつの姿が、鮮明に浮かび上がっていた。
「シャボンピクチャー!!」
まなつが叫ぶ。
ローラの肩から、くるるんがひょっこりと顔を出した。アクアポットを抱えて、嬉しそうに辺りへと声を上げた。
「みんなで撮ろう、って!」
ローラが言った。
その言葉は、わかるような気がした。
「何だ、また何かやるのか……?」
南風が、トロピカった仲間たちを連れてきた。
「あ……、あすか先輩っ!」
「あれ、何だか目が赤い……?」
「う、うるさいっ! ほら、何かやるんだろっ!?」
「くるるんも映りたいと思うよ」
「あ、みのりん先輩っ!」
「何でわかるのー?」
「そんな気がしたから……」
わいのわいの。時間が過ぎていく。
心を輝かす彼女たちには、いくら時間があっても足りはしない。
子どもたちが寄ってくる。
その中心には、いつも彼女たちがいる。
「あははは……!」
サラたちが、シャボンピクチャーを指さした。
揺らめく記憶の中に、何か変わらないものでも見つけたように。
「ああ、これは写真、って言ってえ……」
「時間を閉じこめてくれるの」
「ええーっ!? すごぉーい!!」
「何だ、今さら……」
「だってそれって、すごくなーい!?」
「物は言いよう……」
時が過ぎていく。
「……」
ヘロンは見つめていた。
不思議だった。
ここにいられることが、
みんなが生きていることが、
この時間が流れていることが、まるで奇跡のように思えた。
「……何してんのよ」
声が聞こえた。
ローラだった。
「あなたも!」
手が繋がれた。
二人は駆けだした。
まばゆい輪の中へと、溶けていった。
「じゃあミネリさーん、お願いしまーす!」
まなつが駆けていく。呼んだのは、ラウラの母親の名前だった。
アクアポットが揺れる。
海原を背景に、子どもたちがざわざわと並んでいる。
「あの、いいんですか、本当に……」
あすかが慌てた。ラウラを抱いていた。
アクアポットが揺れる。いいよ、と言っているみたいに。
「きゃははは……!」
ラウラが笑った。
生きとし生けるみんなを抱きしめるように。
祝福するように。
「ほら、みんなぁー! もっと笑ってぇー!」
まなつが前へ出た。
大好きな仲間たち。
子どもたちの表情は、まとまらなかった。
「ほらあ、もっともっとぉー!」
「にいー、って言えば、自然と口角が上がるそうな……」
みのりが呟く。シュレオたちがのけぞった。まるで恐れをなしたかのように。
「ミネリさーん! みんなが笑ったら撮ってくださーい!」
まなつが、ぶんぶんと手を振った。振り返って、お手本を示していく。
「ほらみんなぁ! にい~~っ!!」
精いっぱいの笑顔。
にい~~! と声が揺らいでいく。
「まだ硬いよー! にいい~~っ!!」
後ろ歩きで、そのまま、石に突っかかる。
「あっ――」
どさっ。
砂だらけの頭。
かぶりを振ると、その唇がぷるぷると震える。
その表情は、子どもたちを見つめると、とたんににやけだす。
子どもたちに、にい~~っ、と、ゆがんだ笑顔が浮かんでいった。
「あはははは……っ!!!」
カシャッ。
軽快なシャッター音。
戻らない時間が、大切な想い出の一ページへと刻まれていった。