太陽が雲の隙間へと閉ざされた。まなつたちは小屋の中でうなされているヘロンを見守っていた。表情がゆがんでいく。悪夢を見ているようなそのうめきに、重苦しい影がゆらりと重なった。
「……ヘロン」
アニが呟いた。返事は返ってこなかった。その名前がひどく頼りなく、か細くまなつたちの耳に届いた。
カブロスは見つめていた。アニが漏らしたその言葉に、自分たちのもとの言葉を思いだしたようにはっとなる。この言葉は? 私たちは今どこにいる? なくなっていく。祖先の魂も、私たちの文化も、全て。
カブロスは出ていった。白衣の男も慌てたように出ていった。冷たい風が通り抜けた。言葉は何の役にも立たなかった。
「……カミサマ」
アニが呟いた。涙がこぼれた。言葉がこぼれた。言葉にならない声だった。
「……どうして」
みのりが言葉を継いだ。
「どうして、かみさまなの……?」
ずっと気になっていたことだった。
アニはかぶりを振ると、答えていった。
「夢だったの」
震える声だった。
「向こうでは、いろんな人がいて、いろんなことがあって、みんな楽しそうに遊んでた」
何のことかはわからない。だがまなつたちはじっとその話を聞いていた。
「海の向こうを見せてくれたかみさま」
アニは俯いた。
「また会えたのに……」
破れている屋根から冷たい欠片が舞い降りた。はらはらと落ちて、ヘロンの頬へと消えていく。
まなつたちは見上げていった。全てを飲みこむような厚い灰色の雲が垂れこめていた。
織物の外からどよめくような声が上がった。駆けだしていくと、ちらちらと瞬くような雪が降っていた。村には凍るような風が吹いていた。
※
冷たい夜だった。闇に揺れるランプに白いまだらが次々と浮かんでは消える。子どもたちが声を上げた。雪など生まれて初めて見るものだった。
まなつたちは食堂にいた。小屋よりも数十倍は広いその室内に、たいまつの灯りが煌々と赤く燃えている。
ヘロンの表情にゆらゆらと影が躍る。苦しそうにゆがんでいた口はすっかり鳴りを潜め、すーすーと落ち着いた寝息がまなつたちの耳にも届いていた。
「熱は下がったみたい」
さんごが言った。汗まみれの額に新しくタオルを置いていく。心なしか白い霧となって舞う微かな吐息が、ぱちぱちと音を立てるたいまつの灯りに踊っている気がした。
何一つ状況はわからなかった。昼間の戦いでの出来事、村に古くから伝わる伝説、その意味がもたらしめる結末、そして目の前で翻弄されている幼い少女の未来。そのことを思うと、見えない落とし穴に四方を囲まれているような、そんな絶望的な気分にさせられた。
「……やっぱり」
アニが口を開いた。
「伝説の通りなのかな」
ぼくたちはこのせかいから逃れることはできない。そういうことを目が語っていた。
「――みんな!!」
サラが織物をかき分けてやって来た。
「見て!!」
興奮したように、簾の向こうを指し示していく。子どもたちが次々と大きな簾を巻き上げていった。そこには生き物のようにうごめいている白々とした星空があった。厚い雲が通り過ぎていく。鮮やかな月が銀幕に深い彩りを与えていく。星々が光る軌跡を大空へと刻んでいった。廻る光線が、私たちのこの星を眠るように見守っていた。
「……星が、動いてる」
まなつが呟いた。
「違う。動いているのは、私たち……」
みのりはそう答えることしかできなかった。
「くるる~ん……」
くるるんが呟いた。その目は星々の輝きを映していた。
「あんなに遠くから、私たちのことを見てるんだ」
あすかが言った。目を細めて、何かを思いだすように。
「私たち、どこへ行くのかな」
さんごが呟いた。そんなことわかるはずはなかった。
「くるる~ん」
くるるんが鳴いた。
「わからない……」
ローラが呟いた。くるるんのその言葉を代弁するかのように。
「……みんな」
まなつたちは振り向いた。ヘロンが立っていた。よろよろとバランスを崩し、まなつの前へと倒れこんでいく。
「わっ……!?」
まなつは支えようとした。だが支えきれなかった。成長しているその身体に、まなつの時間が追いつかなかった。
「ちょっと、大丈夫……!?」
ローラたちが駆けつけてきた。まなつはヘロンの下敷きになっていた。その大きくなった身体に息も絶え絶え、抜け出そうとしている。ヘロンの身体はもう少女のものではなくなりかけていた。
「私、普通じゃないのかな」
ヘロンが言った。その目は虚空をつかむように揺れていた。
「みんなと、いたいよ」
まなつたちは呆然と聞いていた。
「もう一人ぼっちは、やだ……」
見えない何かが彼女を引っ張っていく。その憧れと孤独の狭間で、言いようのない衝動が、外へ、外へ出たいと、繰り返し訴えていた。
※
朝の光がちらちらとまぶたを弾いた。
「うう……」
まなつが声を漏らす。ぼやける視界に誰かの影が見えた。自分たちと同じ、中学生くらいの身体つきだった。
「まなつ!」
声が聞こえた。快活な声。弾むような声音が未来を通して、過去へと通じていくのがわかる。ヘロンの声はその煌めきを通して、はるか青空へと響き渡っていた。
「……ヘロン」
まなつはぽかんと口を開けていた。身につけているパジャマが、見慣れた魚のイラストを目の前へと突きつける。
「見て、ぴったり!」
ヘロンが笑った。まなつのパジャマをぴんと張って、嬉しそうにサイズが合っていることを示している。
さんごたちが次々と起き上がっていった。熱い砂浜が彼女たちの身体をうるさい目覚ましのように支えていた。さんごたちは目を見開いた。ヘロンの成長ぶりに何も言葉は出てこなかった。
「はい!」
ヘロンは手を差しだした。ローラがその手を取っていく。
「ローラがオニね!」
立ち上がったローラに言い捨てる。駆けていく。絹のような長髪を揺らして、白い幻のような身体が躍動とともにかすむ。
「ヘロン……!」
まなつたちは駆けだした。今駆けださなければ、永遠に彼女を捉えることはできないように思えた。
「オニさんこーちらっ!」
ヘロンは駆けていった。
「あはは……!!」
何からも自由に。広く。大きく。解き放たれた小鳥が大空を舞うように。
少女たちは駆けていった。砂浜に足跡が刻まれていく。彼女たちは輝いていた。そこに何の違いもありはしなかった。
ヘロンは立ち止まった。言葉を発せないまま、はるか水平線を見つめていた。
まなつたちは立ち止まった。ヘロンの背中を見つめることしかできなかった。
「……夢、だったの」
ヘロンは呟いた。
「いつも、そばにいるみたいに」
その目はどこか遠くを見据えていた。
「みんな楽しくって、きらきらしてて」
その先には確かな像が結ばれていた。
「……プリキュア!」
ヘロンは振り向いた。
「みんなのこと!!」
確かな笑顔がそこにはあった。
「きっと、私の夢を叶えてくれるために来たんだね!」
ヘロンの身体にぼうっと青白い光が揺らめいた。
「……いいの」
ヘロンは肩をすくめた。
「……もうすぐ」
自分が自分ではなくなる。何かを諦めたような、崩れそうな顔つきで。
時が進みだす。
朝が来た。
眩しい太陽が空に昇った。
夜が来た。
凍るような月が冷たい夜空に瞬いた。
星々が露わになった。
夕空が煌めいた。
幾日も。幾日も。
生命が縮んでは膨れ、伸びてはまた私たちのもとに寄り添った。
全てを覆いつくすような影が伸びていった。
いつの間にか、何の音も響かない宇宙が広がっていた。
無音の闇に、息を止めたような白々とした穴が浮かんでいる。
まなつたちは、確かにその星々のひとつひとつだった。
その星々を支えているのは、何か身近な、とてもとても身近なものなのかもしれなかった。
太陽の光が瞬いた。
その光を受けて輝く一つの星が、道を閉ざされたように煌めきを失っていった。
※
影が落ちていた。空は晴れている、はずだ。太陽がどこにも見えなかった。不気味な青空だけが海の上にぽっかりと浮かんでいた。
カブロスの家には村中の人びとが集まっていた。何か大いなる物を失うかのように、村人たちは覚悟をその目に秘めて、部屋の奥に横たわっているカブロスを見ている。
カブロスが白衣の男に耳打ちをした。途切れるような声で、まっすぐにその目を見つめている。口が開いた。黒い小さな粒が目の奥で揺れていた。
「……祖先たちの物語と、ともにある」
白衣の男が代弁した。一語一語、聞き逃さないように汲み取っていく。
「その先を紡ぐのは、いまを生きる我々である」
その言葉を最後に、カブロスの動きが止まったように見えた。永い時間。永い交わりの時を終えて、彼の魂も海へと還っていくのだろうか。その確信は、村人たちの中で渦を巻き、目に見えない流れとなって、彼ら彼女らの魂深くへと根ざした。永い永い時間。永い永い夢。永い永い物語。その語り部という役を終えて。
カブロスの目は開かなかった。目の前で横たわっているこの男と、私たちの間に何の違いがあるだろうか。その境が淀み、形を失い、外へ、外へ出たい、と何かを失いながら舞い上がってゆくような気がした。
まなつは涙をこぼしていた。大きな声を上げて、家の外でいつまでも泣き続けていた。
※
温かな夜だった。南風に乗って、賑やかな歌声が広場の方から届いてくる。波音が響いた。はるか過去まで。はるか未来まで。その先の人びとを力の限り祝福するように。
海には灯篭が浮かんでいた。布とランプで作られた簡素な灯りに、木造の小舟が可愛く波に揺られ、はるかな旅路を見据えている。月明かりが揺らいでいた。星々の動きがゆったりと、自分たちの立っているこの大地が躍動し、どこかへ向かっていることを示していた。
「……」
まなつは立ちつくしていた。黒い生き物のような波をじっと見つめ、その行き返りを、時が過ぎるのを惜しむように見送っている。涙は出なかった。灯篭の淡い光が、揺れる闇に自分のまとまらない想いを代弁してくれているような気がした。
「……まなつ」
ローラが声を掛けた。まなつは振り向かなかった。いつまでも闇に響く無造作な波を、温かな風とともに見つめていた。
「……言葉は、時には語れない」
みのりがいた。眼鏡の奥にその澄んだ瞳を瞬かせて、たまらないローラの表情を見つめている。あすかがいた。その隣にはさんごも。そしてくるるんも。優しくさんごに抱かれながら、のんびりと貝がらクッキーをかじっている。
「……まなつ」
声が聞こえた。アニが立っていた。寄り添うようにまなつを見上げ、期待するような眼差しがその目を捉えている。
「歌を、聞かせてよ」
その頬に涙が濡れていた。
「まなつたちの歌!」
まなつは表情を硬くした。
「私たちの……」
何も思い浮かばなかった。
子どもたちが駆けていった。灯篭のついた小舟を片手に、我先にと海岸線へと走っていく。大人たちが祈るように目をつむって、しめやかな灯りを海へと送りだしていく。
「……ローラ、歌得意」
みのりが無茶振りという無茶振りを夜に放った。
ええ!? という顔つきでローラが振り向いた。
「期待されてるぞ」
あすかが促した。その笑みが優しい目をしてローラに向けられた。
「私、また聞きたいな」
さんごが乗っかった。彼女は、かつて鼻歌だけだがローラの歌声を堪能していた。
どうやらもう逃げ場はなくなっていた。
「い、いやよ……! だって、あれは別に、私たちの歌ってわけじゃないもの……」
何やら気が引けた。あすかたちが言っているのは、きっとグランオーシャンで歌い継がれている〈なかよしのうた〉。ひとりで歌うより、そりゃみんなで歌った方がいい。でもそれは、まなつたちの世界の歌ではなかった。人魚でもあり、人間でもある私が歌うべき歌って、どんな歌? ローラはしばし頭を悩ませた。当たり前だが、答えなどすぐに出てこない。
「じゃあ応援部の時やった、応援歌なんてどうだ……?」
あすかが言った。
「私たちの学校の校歌とか……」
さんごが続ける。
「みんなの合唱曲」
みのりが呟く。その他にもたくさんの、彼女たちが慣れ親しんだたくさんの歌が、次々と彼女たちの口から飛びだした。これだけの歌が、想いと旋律に乗って、彼女たちの記憶に残っているのだ。その事実に、今更ながら不思議な驚きのようなものを感じてしまう。
「くるる~ん!」
くるるんが鳴いた。楽しげな雰囲気に、さんごの腕を飛びだしてローラの胸へと飛びこんでいく。
「わぁ……!?」
ローラがのけぞった。くるるんはにこにこと微笑んでいた。歌うのを思いだしたように、さんごたちのハミングに合わせて、くるくるとその声を弾ませる。
ローラは、はっとなった。くるるんが頭をなでてほしそうに、ローラの腕に顔を寄せた。
懐かしい歌が頭をよぎった。もうはるか昔のことのように、私の言葉とまなつの笑顔が浮かぶ。
――――――――会えるよ
子どもたちが駆けていく。広場で燃えるごうごうとしたたき火に、小さな影が幾重にも揺れる。小さな影も、大きな影も。よく見たら大人たちも笑いながら踊っているようだった。
不揃いの人形のように、ばたばたと走り回るその姿には見覚えがあった。どこか遠い、四角い画面の中に、とても身近な、楽しい歌が鳴り響いていた。
星々が流れていく。灯篭の灯りが遠ざかっていく。まなつがぼうっと見つめていた。そんな顔しないで。あなたが笑ってなくて、どうするの。心地よい手触りがした。くるるんの温もりとともに口が開いた。
「なみを、ちゃぷちゃぷ、かきわけて」
確か、こんなだった。
「くもをすいすい、追いぬいて」
星空が瞬く。私たちはどこへ行くのだろう。
「ひょうたんじまはどこへ行く、ぼくらを乗せてどこへ行く……」
みのりが微笑むと、口を開いていった。
「まるいちきゅうのすいへいせんに……」
あすかとさんごが笑う。その歌は知っていた。
「なにかがきっと待っている」
彼女たちは歌っていた。
苦しいこともあるだろさ
悲しいこともあるだろさ
だけどぼくらはくじけない
泣くのはいやだ 笑っちゃお
すすめ――――!
ぷっ。
子どもたちから笑いが漏れた。
あっという間に、無邪気な笑い声が広がっていった。
みんなが笑っていた。子どもたちも、大人たちも、愛する人たちが、みんな。
まなつから笑みがこぼれた。
太陽がようやく顔を出したみたいだった。
ヘロンは見つめていた。暗い闇の中で、ひとりぼっちでまなつたちの笑顔をのぞいている。
「ヘロン――!」
声が聞こえた。
「おいでよ!!」
まなつが手を振っていた。
ヘロンは戸惑った。でも気付いてみると、着ていたパジャマはいつの間にか村人たちの服へと変わっていた。
足が動きだした。あきらめきれなかった。
目の前の彼女たちが、闇の向こうに見えた灯りだった。
「わっ、どうしたの……!?」
ヘロンがローラに抱きついた。
「服似合ってる、かわいいね!」
さんごが目を輝かせてヘロンに言う。
「ローラはいつ着るのー?」
まなつがローラに微笑んだ。もうジャージ姿なのはローラだけだった。
「もう、すぐ着る! みんなだけずるい!」
ローラが頬を膨らませた。
「早くもらってこい」
あすかが笑った。
「ここにいるから」
みのりが言った。ふふ、と笑ってくるるんを抱き寄せる。
「くるる~ん!」
くるるんが鳴いた。嬉しそうに、温かい闇夜に言葉を投げかけるように。
彼女たちの鼓動が瞬いた。夜空に浮かぶ星々のように。
たくさんの生命を乗せて、この島は、どこへたどり着くかも知れない物語を巡っていた。