ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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第一章
こうして、二人はコンビになる 1


 かぐわしい紅茶の香り漂う、あの部屋を壊したのは俺だ。

 

 由比ヶ浜のクッキーから始まり、戸部の一方通行な恋の修学旅行まで、短くも濃密で、されど出来損ないの青春が燻る部屋だった。

 

 発端は、表層を取り繕う欺瞞をなにより嫌っていた筈の俺が、葉山と海老名さんの願いに共感してしまったことだろう。

 

 同く欺瞞を嫌う雪ノ下には糾弾され、優しい由比ヶ浜には涙ながらに人の気持ちを斟酌しないことを怒られた。

 

 返す言葉は無かった。

 

 彼女たちは正しいのだろう。青春的な意味でも。善悪の観点でも。感情論でも。

 

 そして、俺は間違えたのだろう。取り返しがつかない失敗をし、かけがえのないと思いたかったものを壊してしまったのだろう。

 

 諸行無常の中で、変わらないものは無い。大切なものも、失ってしまう時はどうしようもなく訪れる。

 

 人間関係などその最もたるものだ。人と人の繋がりなど簡単に断ち切られる。小学校も中学校も、いままで続いた関係など皆無だ。ズッ友なんて、走れメロスの中だけなのだ。

 

 物事には、なんであれ終わりがある。何十年と連載した漫画も、何百年と続いた帝国も、何千年と生きた大樹も、いつかは終幕の向こうに沈んでしまう。

 

 だから、そんな世界が間違っている。

 

 終わらなくていいものを容易く終わらせる世界は、きっと違う。

 

 それでも、終わることにもやはり意味はあるのだ。終わりの先にあるものにも、きっと意味はある。

 

 そうやって、信じてもいない詭弁を並べ、実態の見えないものに責任をなすり付けなければならない程度に、俺は疲れている。

 

 昔から言うではないか。

 

 三十六計逃げるに如かず、とか、逃げるが勝ち、とか。

 

 だから、俺は逃げ出したのだ。

 

 紅茶の香り漂うあの部屋に、俺の居場所など無いのだから。

 

 

 

 人生は苦いから、コーヒーくらいは甘くていい。

 

 常々言い続けてきた言葉だが、予想以上に人生は苦いらしい。

 

「どうしてこうなった」

 

 俺のつぶやきは、何に届くこともなく、広場のあちこちから弾丸のように飛び交う怒号や悲鳴の中に消える。

 

 彼の有名なVRMMORPG——《ソード・アート・オンライン》に俺はいた。

 

 広大な石畳に、周囲を囲む街路樹。空から零れ落ちる黄昏に濡れ、どこか現実離れした中世の街並み。遠くに見える黒光りする巨大な宮殿は、心の奥底を撫でるように哀愁が漂う。ここは、《はじまりの街》の中央広場だ。 

 

 周囲には、茅場晶彦による突然の宣告に心慌意乱する、一万人近い囚人諸君。

 

「マジでどうしてこうなった……」

 

 宣告の内容はこうだ

 

 曰く、百層の城を攻略するまで自発的ログアウトできない。

 

 曰く、外部からの救出はなく、実行すれば死ぬ。

 

 曰く、ゲームで死ねば実際に死ぬ。

 

 ちなみに、顔はゲームアバターじゃなくてリアルの顔だからよろしくね。

 

 以上、ゲームマスター茅場晶彦さんによる説明より抜粋。

 

 なんで顔リアルにしちゃうの。俺の目だけ腐っちゃってるんだけど。あらやだ、魚? DHA豊富そう!

 

 もはやため息しか出ない。

 

 本当に。

 

 ちょっとした現実からの逃避行のつもりだったのだが、本当に現実に帰れなくなるとは……。これじゃあ現実逃避じゃなくて現実逃亡だ。

 

 神様、俺のこと嫌いなの?

 

 しかし、まあ、周りがうるせえ。

 

 現実からゲーム内に捕らわれた彼らは、頭を抱えうずくまり、或いは泣き叫び、もしくは怒りに任せて怒鳴り散らしていたり等、天地創造以前の混沌並にみな混乱しているのだ。

 

 まあ、この状況下で、少なくともこの場で錯乱する他人を頼りにするのは愚策だろう。何をするにせよ、無駄に回転するこの頭で考えるしかないらしい。他人はアテにならず自分だけが頼り。つまりは、ぼっち最強。

 

 だってほら、邪魔しちゃ悪いし。話しかけて「うっせぇ! って目が死んでるキモッ!」とか急に正気になられても困るし。言ってて泣きたくなってきたんですけど……。

 

 まずは、荒れ狂うこの場から抜け、今後の方針を練る必要がある。ぼっち御用達の気配遮断スキル、ステルスヒッキーを駆使して歩き出す。付随効果で喧騒が自然とシャットアウトされ、ぼっち思考が急速に回り始める。

 

 直近の問題は、この城の攻略に乗り出すか、この街でゲームが攻略されるのを待つかの二択をどうするかだ。前者を取れば命掛けの戦いが始まるだろう。限られたリソースを奪い合うMMORPGでは、敵はMobだけではないのだ。

 

 ならば、後者であればどうだ。安全面では当分の心配ない。最低限度の生活であればこの街でも問題はないだろう。動かざること山のごとし、働いたら負け、将来の夢は専業主夫の俺としては、後者に魅力を感じる。働きたくねえ。

 

 だが、この街が安全というのも所詮はルール内のことだ。ルールを作る者が敵となれば、最低限度の保障など露ほどの安心も持てない。いざ外界に出ざるを得なくなったとき、結局は戦わなければならないのだ。なんの覚悟も、技術も、レベルすらないままに。

 

 それに、現実への帰還という最終目標を他人に託すということになる。自分の命の掛かったゲームで他人を頼るなど論外だ。それは、ぼっちの思考じゃない。

 

 いや、前提条件が間違っている。

 

 なぜ現実に戻ることが目標になっている。どうしてあの世界に戻りたい。あの部屋に俺の居場所はなく、周囲は悪意に満ち溢れ、最愛の妹とは喧嘩したままだ。そんな世界へ、命まで賭けて帰る必要がどこにある?

 

 ここで問うべきは、比企谷八幡が現実に戻りたいか否かだ。

 

 考える。

 

 分からない。

 

 急に周囲の喧騒が戻り、思考にノイズが混じる。

 

 やはり、静かな場所で答えを探した方がいいだろうか。

 

 一体幾重、幾百の人を避けただろうか。思考の波間を縫うように、ふと見知った顔と目が合ったような気がした。足を止めて振り返る。すらっとした女子が背を丸めて、呆然としたようにこちらを見ていた。

 

 長く背中にまで垂れた青みがかった黒髪。ぼんやりと遠くを見つめるような覇気の無い瞳。濃紺色の初心者装備。そのスカートから伸びる、蹴りが鋭そうな長くしなやかな脚。そして、印象的な泣きぼくろ。

 

 震える彼女の唇が、この場の誰も知らぬはずの俺の苗字を口にする。

 

「……ひ、比企谷?」

 

 え、なに? なんでこの人がここにいるの?

 

 川……なんとか、確か川口さん……? 川内さんだっけ? 夜戦しちゃうのかよ。あー、確かこいつ、小町にたかるハエ……じゃなくて、同級生のシスコン姉貴だっけ。あのクソ野郎、思い出したら腹立ってきた。川崎大志め、今度小町に近づいたら裁きを与えてやる。あ、思い出した。

 

「かわ、さき……か?」

 

 同じく彼女の苗字を漏らした途端、川崎沙希の端正な顔が、くしゃりと歪んだ。じわりと目の端に涙が滲み、泣きぼくろを伝って顎に滴る。

 

 それを見て俺は言葉を失った。

 

 ぶっきらぼうで怖くて、それなのに家族思いで家事が得意、俺と同じぼっちで孤高の川崎が、いまや表情を壊して泣いている。

 

 こういうとき、なんと声を掛ければいいのだろう。意外性ばかりが目の前で展開されて、場違いな感想しか出てこない。

 

 名前を呼んで固まったままの俺を見て、川崎が一歩踏み出す。俺の胸にそっと両手を当てて、そのまま額を押し付けた。

 

「あ、あたし、どうすればいい……?」

 

 止まったはずの問いが戻ってきた。

 

 川崎は聡い子だ。だから、現実に帰る術がゲームの攻略しかないことをきっと理解している。理解した上で、どうするべきか分からないのだろう。なぜならここは現実ではないから。現実とは異なるルールで動いているゲームだから。

 

 勝手な推測だが、川崎はゲームなどろくにやったことがないのだろう。だからこうも狼狽し、偶然見つけた俺に縋り付いた。きっと、俺がそういうのが得意のだと思って、生きる為に動いた。

 

 かける言葉を探して、頭をがしがしと掻く。

 

 悪い気はしない。川崎のような美人に頼られるのは悪くないのだ。でも勘違いしてはいけない。単に頼るべき相手が俺しかいないだけだ。

 

 ならば俺はどうする。

 

「まあ、なんだ。戻りたいか?」

 

 胸の中で川崎がこくりと頷く。鼻先に長い髪が触れてくすぐったい。

 

「助けて欲しいか?」

 

 これは最悪だ。自分では答えの出ない問いを川崎になすり付けようとしている。

 

「……助けて、比企ヶ谷」

 

 帰るべき理由はまだ見つからない。だが、もし帰ることを依頼とするならば、俺が動く理由足り得るのではないか。依頼の道程の中で、あの世界へ帰る意味を見つけられるのではないか。

 

 なんだこれは。ひどく歪で気持ち悪い。

 

 それでも、鬱々とあの現実を考えるくらいならば、いっそすべてを捨て去り、川崎の依頼に集中することで心の安寧を得てしまいたい。

 

 なんて独善的な思考だろう。気持ち悪くて吐き気すら覚える。

 

「分かった。その依頼、奉仕部として受ける」

 

 奉仕部の名が、いまだ心内に燻って冷めやらぬ感情を波立たせた。

 

 俺の承諾を受けて川崎が身体を離す。そして、俺の顔をしばし眺め、涙の残る顔で微笑んだ。

 

「あんた、こんなときでも部活やってるんだ」

 

 川崎の笑みを見ていると、さっき触れられた場所が罪悪感で軋んだ。

 

 すぐには答えず空を見上げる。

 

 頭上に覆いかぶさるように見える第二層の先には、数えるのも馬鹿馬鹿しい程の層が、未だ見ぬ艱難辛苦と共に伸びている。

 

 これを攻略しなければならないのだと思うと正直心が折れそうだ。

 

 ならば目的を設定しよう。なにが起きようと心が折れないだけの目的を。

 

「川崎」

 

「ん」

 

「俺は、お前を現実に帰す」

 

 目的がなければ、今は動けそうにない。

 

 川崎に目を戻す。急に視線をきょろきょろとさせた川崎が、頬を赤らめオロオロしていた。忙しい奴だな。まったく、いつもメンチ切ってる癖に可愛いじゃねえか。昔の俺だったら勘違いして告白して振られるまである。振られちゃうのかよ。

 

「まあ、色々あるんだよ」

 

 醜い思考を一言でまとめた。色々とは実に便利な言葉だ。

 

 ともあれ。仕事を始めようか。

 

 兵は拙速を尊ぶとも言うし。働きたくねえなあ……。

 

 

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