ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
目が覚めると夕方だった。
天井を見上げた俺は、だいぶすっきりとした頭を少し抑えながら、上半身を起こした。やわらかなベッドから足を下ろし、両腕を膝に落す。
部屋を見渡し、ここがサキの寝室であることに気づいた。
「あー、やらかしちまった……」
迷宮区前へ行ったところまでは覚えている、あとは気を失う寸前に襲い掛かってきたワーウルフのことも。他はあまり覚えていない。
ただ、夢うつつに一度起きたことは覚えている。サキに散々罵倒されたことも、サキを泣かせてしまったことも、しっかりと現実として認識している。そして、アルゴにも迷惑を掛けてしまった。よくよく思い出すとどんなときも被っていたフード姿ではなかった。きっと俺を守って戦い、フードを破損してしまったのだろう。今度弁償しないと……。
「ん……っ」
ふと、背後から声が聞こえた。柔らかい声だ。しかし、違和感を感じる。
オーケイ、考えよう。
俺はベッドにいて、椅子代わりにして座っている。
そして背後から女の子の声。
つまり、声の主はベッドで寝ている。
ということは、俺はそいつと一緒に寝ていた。
――これなんてギャルゲ?
いやいや、待て待て! 違和感はそれだけじゃない。
声がサキじゃない。
え? 待って? ここサキの部屋だよね? サキの寝室だよね? なのになんでサキの声じゃない声が聞こえるの?
そもそもだ。
なぜ俺は起きるときに気づかねえんだよ! どんだけモヤットしてんだよ!
「んんぅ……」
男を惑わすような、可愛らしくも艶っぽい声。どこかで聞いたことのある声だ。しかもつい最近。
恐る恐る振り返る。きっとそんなことはあり得ないと思いながら……。
「やっぱりテメエかアルゴ! しかも起きてるじゃねえか!」
「あハ! バレたカ?」
悪戯大成功! といったように満面の笑顔のアルゴが、ベッドの上で丸くなっていた。その容貌から、まるで昔流行った猫鍋を想起させる。なんだこの生物、超可愛い。お持ち帰りしたい。
にっこりとアルゴが顔を近づける。近い近い近い。ハチマンのA.T.フィールドが破られちゃう! この使徒、ツヲイ……。
「ハチマン、おねーさんの添い寝で元気になったカ?」
じりじりと近寄ってくるアルゴから、俺は必死になって離れようとする。
「全然気づかなかったんだけどな! てかなんでアルゴが一緒に寝てるんだよ。なんなの? この世界、ゲームなの?」
「ゲームだゾ? ギャルゲーじゃないけどナ」
「そうでしたね! 死んじまえよ茅場晶彦め!」
叫びながらアルゴの接近をかわす。飛び退いて床に頭を打ち付ける。超痛い。
「まったク、病み上がりなのにハッスルするからだゾ。気をつけろヨ」
なに誤解されそうなこと言ってやがるんですかねこいつは!
「で、サキはどこいったんだ? リビングか?」
「ああ、サキちゃんならいないよ」
「は?」
目を見開く。意味が分からない。
「ココ、アイツノイエ、ナゼ、イナイ?」
「宇宙人みたいなしゃべり方だナ」
確かに……。我ながらまるで深夜テンションのノリだ。少し落ち着こう。
アルゴはまだ笑っている。ツボにでも入ったのだろうか。
「で、サキはどうしたんだ?」
「だから、家にいないヨ」
だからなぜと聞いているんだけどね? 話通じないのかこの鼠娘め。
「どうして」
「ちょっとアレがアレでこうなっテ、こうなったんだヨ!」
「こいつ、俺の言い訳を真似てやがる……いつ聞きやがった」
「ハチマンが言いそうなことを適当に言ってみただけだヨ。ワーオ、以心伝心だネ。相性バッチしだヨ」
ぱちぱちぱちーと胸の前で小さく手を叩いたアルゴがにっこりとキュートな笑顔。
あざとい。こういうことをやれば大抵男どもは落ちるんだと、裏で量子計算機並みの速さで計算している女の強かさを感じられるような仕草。だが、それにあからさまな好意が混じると性質が変わる。例えばリトマス試験紙につける液体の性質を変化すれば、現れる現象は変わる。BTBでもいいけど。
つまり、言いたいことはひとつ。
可愛い。超可愛い。
お持ち帰りしたい。
「あー、邪魔していい?」
コンコン、と開け放たれた寝室のドアを叩く音と、不機嫌そうなサキの声。なんだよ、いるじゃんサキ。
嘘つきめ、とアルゴを睨む。彼女はてへっと舌を出して頭を拳で小突く。うわ、リアルでやった奴初めてみたよ。以前俺がやってましたね……。
「もういいのかい?」
表情を戻したサキが近づいてくる。俺は頷いて立ち上がる。
「大丈夫だ。その……すまんな、昨日から色々と……。それと、サンキューな」
サキが目を伏せる。わなわなと唇を震わせ、顔を上げてキッっと柳眉を吊り上げる。
「……許さない」
無音。
言うべき言葉はない。心配に心配をさせ、挙句ごめんなさいで済むとは思っていない。しかるべき叱責を負うべきだと理解している。
だから、俺は目を閉じてじっと俯いた。
きっと来るであろう衝撃を待ち構える。
だが、代わりに来たのは、別の衝撃だった。
「あんた、今日からここに住んで」
「は?」
「にゃんだっテ?」
おいアルゴ、お前はいつからネコになったんだ? 雪ノ下が喜んじゃうじゃねえか。
……じゃねえ! サキのやつ、今なんつった?
俺は決して難聴系主人公では決して無い。決して無いのだが。あまりに脈絡がなさ過ぎて、聞いた言葉をそっくりそのまま飲み下せない。喉下につかえたままだ。これがこんにゃくとかなら死んじゃうまである。
「さ、サキ……聞き違えたきがするから、もう一度言ってくれ」
「デジャブを感じるヨ……」
何事かをアルゴが言っているが無視だ。
こほん、と咳払いをしてサキがもう一度言う。
「ハチマン。あんたはしばらくあたしの家に住んで。あんた、放っておくとまた無理やらかすでしょ」
サキの表情は真剣そのものといった様子で、冗談は微塵も無い。
ここまで来れば誤解も聞き違いも何も無い。冗談抜きで、サキがルームシェアしようと言っているのだ。
確かに、ここはひとりで住むには広すぎる2DKだし、俺なんかいまだに宿屋住まいだからベッドを買えばすぐにでも住めるくらいだ。
しかし、理由がいまいち納得できない。
「無理っつっても、別に無理なんてしてないぞ」
「じゃああんたのスケジュールを言ってみな」
なんだよ。以前とあまり変わってないぞ、と思いつつサキとアルゴへ俺のスケジュールを告げる。
午前八時――起床。
同時間――朝食。
午前九時――レベル上げ兼情報収集。
正午――昼食。
午後一時――レベル上げ兼情報収集。
午後六時――夕食。
午後七時――対人訓練。サキがいない場合はレベル上げ。
午後十時――情報収集。
翌午前五時――就寝。
全然変わってない。それどころか、俺ってば、周囲から目の仇にされているくせに、真昼間からレベル上げしてるっておかしくないか?
うん、知ってる。ステルスヒッキーと高熟練度の《隠蔽》で、俺の存在を正確に認識していないと看破されないんだよね。ヒッキーまじインビジブル。
なにか問題でも? と国会答弁する官僚様のような慇懃な態度でサキとアルゴを睥睨する。
「あんた……」
「これは酷いネ……」
なぜか呆れられている。
サキなんか頭を抱えてうずくまりやがった。
え? だってこれゲームだよ? たくさん遊びたいじゃん?
「あんたの将来の夢、専業主夫だよね?」
唐突な質問。俺はこれに胸を張って答える。俺の座右の銘と言ってもいいからだ。
「当然だ。絶対に働きたくない!」
「そんなこといいつつ、あんた絶対将来働いてるよ。毎日働きたくないって言いながらね……」
なんという絶望的な未来を予想してくれやがるのだ。しかし、よくよく考えてみよう。
理不尽な上司を上に持ち、上司から「分からないことがあったら聞いてって言ったよね?」とか「チッ、それくらい自分で考えろよ……」とか、ミスしたら「ねえ、なんで俺に聞かないで勝手にやっちゃうの」とか無限ループを言われながらも、きっと俺は死んだ魚のような目をしながら毎日終電で帰るまで働くのだ。平塚先生の愚痴のまんまじゃねえかよ……。
そして、私の年収低すぎ! とか思いながらも働き続け、いつか限界が来てやめるのだ。そして病院のお世話になりながら家族のスネをかじってニートするのだ。
最悪な未来だ。最高なのはニートの部分だけじゃねえか。
「サキ、俺はいま猛烈に働きたくなくなった。ニートになりたい」
あまりの俺の落ち込み様に見かねたサキが苦笑した。
「あたしはできれば働いては欲しいけどね。もちろん、ちゃんと働いて、でも身体を壊さない程度に、かな」
「嫁の言い分みたいだナ」
アルゴが混ぜっ返すも、サキが鋭い眼光をぶちかます。
「黙りな。いまは真面目に話してるんだよ」
「う、うーん、発端の台詞は真面目だケド、な~んか違うんだよナア」
ぶつくさと言うアルゴ。こういうときのサキには言い訳は通用しないから黙っていた方がいいぞ。ほれ、俺みたいに。なんなら年中黙って部屋の隅っこで暮らしてるまである。ほら、すみっこぐらしって可愛いよね!
サキが一歩踏み出す。両頬を掴まれて、顔を近づかれる。まるでキスでもするかのような距離感で、サキがまなじりを下げた。
「あんたが心配なんだよ。今回だって、すごい心配した。あんた、さっきのを聞く限り自己管理なんて全然できていないんだからさ。お願いだから……あたしの家に来て。これ以上、心配させないで……」
真摯な言葉だった。サキにどれだけ心労をかけていたのだろうか。いまにも泣きそうなサキを抱きしめそうになった腕を下ろす。それでも、すぐには答えられず、言葉が出てこない。
いまだに変わらない。
俺はずっと、サキに引け目を感じている。
最初に会ったあの日からずっと、理由を預けて重荷を課し続けていることが、罪悪感となって胸に刺さったままなのだ。それから逃れるために、時間があればサキのために動き続けた。こうすることが贖罪になるのだと、勝手な理由を押し付けて、あまつさえ、心を痛めさせた。
サキに甘えるのが嫌ではない。だが、ある一線を越えてしまえばいまよりももっと自覚してしまう。どれだけ自分が最低なのかと。
サキと再会してから五ヶ月。ずっと抱えてきたものを吐き出してしまいたい願望と、いつも戦っていた。
弱い心だ。かつては、強くある必要があった。それがいまや、ぼっちを自称しても、本当はそうではない。俺に関わりを持とうとしてくる人が多くなった。
ずっとぼっちと自称していたのは、きっと怖かったからだ。誰かにこの邪な気持ちを暴かれてしまうのではないかと、ずっと怯えていた。
「ハチマン? やっぱり、嫌? 嫌ならちゃんと言葉にして。どんな形であれ、あたしはあんたの意思はちゃんと尊重したいから」
ひっ、と喉の奥で悲鳴が漏れた。
サキはいつもそうだ。俺の意見を聞いてくれる。俺の意見など無視が普通でだった。それなのに、彼女はそれを許さない。俺の言葉を聞きたいと言う。俺は、それに誠実でいられているのだろうか。いや、できていない。
なぜなら俺は、最初から彼女に本心を話していないのだ。
「少し……考えさせてくれないか……? 色々、疲れてるのかもしれない」
「ん、そうだね。ごめんね、急にこんなこと言って……」
「気にすんなよ。俺が悪いんだからな……」
サキがアルゴを見る。視線で会話をしているのか、アルゴがふっと頷いた。
「今日はもう帰るヨ。ハチマンもサキちゃんの言うように無理するなヨ?」
「ああ、色々助かった。サンキューな、アルゴ」
いいヨ、と言って扉を開こうとしたアルゴの手が止まる。
「サキちゃん。あの話の答え、本当にそうなのかナ?」
それだけ言って、サキの返事も待たずにアルゴは出て行った。
サキは、窓の外をじっと眺めながら、小さく息を吐き出した。
俺が寝ている間、女同士話し合いでもして何かあったのだろうか? あまり言及するのも野暮だろう。俺もそこまで余裕がある状態じゃない。
ねえ、とサキに呼ばれる。
「ん? どうした?」
サキがもじもじとお腹の前で腕をいじる。
「明日、ちょっとふたりで外にでない? いつもの予定全部やめてさ」
「遊びに行くってことか?」
「うん、デート」
飲み物を口に含んでいなくてよかった。水飲んでたら絶対噴出してきた。いきなりなに言い出しちゃってるのこの人。
「お、おう、別にいい、けど……」
ひさしぶりにサキ相手にどもってしまう。でも許して。男の子だもの。
サキが薄紅色の睡蓮のように微笑み、ほっと息を吐いた。
「ほんとかい? じゃあ、お弁当作っていくよ。二十二層でのんびりしよう?」
二十二層――頭の中で検索し、ぼんやりと思い出す。確か自然の豊かな、のどかな田舎のような場所だったはずだ。確かに、荒んだ俺の心も癒してくれそうだ。
「わ、分かった。明日何時だ?」
「ちょっと遅く、十時にしよっか」
「了解」
あと、とサキが思い出したように言う。
「ごはん作ったけど、食べてく?」
俺は無言で大きく頷いた。
天気は快晴。空気も湿っぽくなく乾燥しすぎてもいない。風は適度に吹いて気持ちのいい。つまりは絶好のデート日和というやつだ。
時刻はちょうど九時半。サキの家に行く時間を考えてもまだ少し余裕のある時間帯。
宿に取った自室のベッドの上で、俺はひとり座禅を組んでいた。
なぜかって?
緊張してるから心を落ち着けているのだよ。
実は九時ごろから必死になって瞑想をしているのだが、無駄に元気な心臓はばくばくとうるさいままで、どうやっても落ち着けそうに無い。
なぜだ。
サキとは今まで何度も行動を共にしている。泣きつかれるだの抱きしめあうだの恥ずかしいことをした仲でもある。いや、マジでどんな仲だよ。
だが、デートと意識してふたりで出かけたことなどないのだ。
俺だって現実でデータのひとつやふたつ……雪ノ下と由比ヶ浜のあれをカウントして良いのなら、の話だが、あるにはある。なのに心はあの時など比較にならないほどに浮ついている。
「同棲しよう、みたいなこと言ってきたやがるからだ」
恨むように呟く。
到底落ち着ける雰囲気でもなくなり、システムウインドウを開いて時間を見る。そろそろいい時間だった。
早く行ってサキに会いに行こう。そうすればきっと、いつもの調子に戻るはずだ。
……そんなことを考えていた時期もありました。
サキと対面した途端、赤面した。完膚なきまでのリンゴっぷりだった。
可愛美し過ぎるんだよ……なんだよ、気合入れすぎじゃねーの?
普段の濃紺色の装いから一点、髪はいつものポニーテールではなく、ゆるく流して胸元まで伸ばしている。白のカーディガンに緑のワンピース。胸の下あたりで巻かれているのは、最近流行りのサッシュベルトとかいうやつか。首下には翡翠色のネックレス。
正直ファッションのことなど分からん。分からんが、これは……かなり来る。なにせ、サキのおっきなお胸がここぞとばかりに存在を主張しているのだ。昨今はロングスカートばかりで足首まで見せないサキも、今日はワンピースから元気な太股がこんにちわしている。
うん、さっきからどんだけサキを見てるんだ俺。ちょっとは自嘲しろよ。
サキもサキで、両腕をお腹の前でモジモジと腕を抱きしめているものだから、ただでさえ主張の激しい胸が盛り上がってしょうがない。胸ばっかじゃねえかさっきから。
そろそろやばい気分になりそうで、思い切り首を振る。
小町、お兄ちゃん、こういうときどうすればいいんだよ。
そのとき、小町の声が耳元で聞こえた気がした。
――お兄ちゃん、そういうときは愛してるでいいんだよ!
よくねえよ! ド直球どころかデッドボールだよ! 他にねえのかよ?
内心で思い切り突っ込むと、小町がゴミいちゃんめ、と大きくため息をついた。なんで想像上の小町にまでゴミ呼ばわりされてるんだよ俺。
――お兄ちゃん、まずは服を褒めなさい。あと、可愛いよっていうと小町的に超々ポイント高い!
わ、分かったよ小町。俺がんばる!
「お、おう。サキ、今日は、その……なんだ、いつもと服違うんだな。綺麗だぞ」
「うん……ありがと。選んだ甲斐あったよ」
そう言って、サキが柔らかく微笑む。
心臓が高鳴る。不整脈かな……。
「さっ、行こうか」
そう言って、俺の腕を取る。そのままの流れで俺の肘を取って腕を組んできた。身体を密着させ、大きな胸を押し付けられる。当たってる、当たってるからサキさん……!
「な、なんで腕を組んでらっしゃるので?」
「ん、デートだから」
おかしい、サキの回答の意味が分からない。
第一まわりを見てくれ。サキに密着されたことでステルスヒッキーが解除されてしまい、さっきから俺への視線がもう殺意や憎しみといった負のオーラしか混ざっていないのだ。あ、これはいつも通りでしたね。しかし、嫉妬まで入っているのだ。俺、今日背後から刺されないかな……。
「さすがに周りの視線が痛いんですけど……」
「あんな奴らのことなんか知らないよ。気になるなら、あたしだけ見てなよ」
微笑しながらもかっよくサキが言う。
マジで何がどうしてこうなった?
たった一日でサキに何が起こったというんだ!
サキに全身もたれかかれながら歩いていく。相変わらず周りからの視線は痛い。だから、サキの言うとおり、彼女だけを意識することにした。見るのはいまの格好を再認識させられるから恥ずかしい。
《ラーヴィン》の転移門の前に着くと、サキが転移先を指定する。もはや馴染み深くなった光と共に、視界が薄くなっていく。
転移が終わると、そこは長閑な景色が広がっていた。主街区の《コラルの村》だ。
転移門の周囲には木造りの民家があちこちにあり、ゲームであることを忘れさせるような光景だ。
「ハチマン、今日はゆっくりしようね」
笑ったサキが俺の腕をぎゅっと抱きしめた。
「あ、ああ……」
やはり慣れない。ただ、ここには居住しているプレイヤーがあまりいないのか、時折見受けられるのはNPCくらいのものだ。
大きくない田舎村を南へゆっくりと歩いていく。
しばらくすると、緑に溢れた光景が現れる。一面緑色に染められたそこは、薄い緑色の草原と遠くに浮かぶ森の深い緑が見事なコントラストを描いている。風が吹けば草花が波を描く。少し視線をずらすと、神が穴を掘ったかのように空いた湖畔が、陽光の光を反射し、淡い水色が光り輝いていた。空は蒼穹、というより柔らかい水色で澄み渡り、あちこちに優しく雲が伸びている。
白や赤、青に黄色といった野花も点々と咲いており、どこを見ても飽きることのない色彩を俺たちに見せていた。
色に恋するポーランド。
確かそんな言葉をどこかで聞いたことがある。
ここは、まさにそんな言葉にぴったりの場所だった。普段渦巻いている考えもここにいれば多少はすっきりするものだろう。
ん、と腕から離れたサキが深呼吸をしながら大きく伸びをする。自然溢れる空気をいっぱいに吸ったサキの顔色は、いつもよりもすっきりしたものだ。
「気持ちいいね。もし引っ越すならここがいいな」
「だな。俺も金が溜まったらここに来たい。そしてあの草原で一日中寝転ぶことにする。働きたくない!」
んふふ、とサキは眉を下げる。
「あんた、こんなところでもそんななんだね」
「当たり前だ。俺は初志貫徹の男だからな」
「あはは、それとハチマン。実はマックスコーヒーの試作品を作って来たんだよ。もしよかったら、後で飲んで感想を聞かせてくれない?」
マジか! 俄然テンションが上がるぜ!
「ようやく、ようやくマッ缶様に会えるのか……。ありがとう、ありがとうサキ」
「大げさだねえ」
他愛も無い話をしながらふたりで田舎道を歩く。
ふと、向こう側から歩いてくる人影が見えた。一見して、長い黒髪をした同い年くらいの少女だ。互いにゆっくりと近づいていく。
不意に、前を歩く少女と見覚えのある顔が重なった。少女もこちらを見ていぶかしんだように顎に手をやる。しばらくして、少女は早歩きでこちらに近づいてきた。
「ハチマン……もしかして……」
サキも分かったのだろう。
俺は、声が出せなかった。
なぜ、こいつがここにいる。それよりも、どうして俺に近づいて来るんだ。
そんな、悲しそうな顔をして。
黒髪の少女が俺たちの前で立ち止まる。精巧な人形のような顔立ちをした美しい少女が、肩で息をしながら、俺の名を呼ぶ。サキ以外、決してここでは知らないはずの、俺の名を。
「比企谷くん……久しぶりね」
「雪ノ下……」
運命か、それとも悪魔か。
なんにせよ、あまりにも悪戯が過ぎる。俺は意識を失いそうなほどに動揺しながら、それだけを思った。
サキに向いた雪ノ下が、こんな顔を見たことがないほど淡い微笑で口を開く。
「川崎さんも、変わりないようでよかったわ」
「あ、ああ……あんたも、元気みたいだね」
サキも驚いているのか、生返事を返す。
俺に向き直った雪ノ下は、一歩、足を踏み出す。
やめろ、来ないでくれ。
まるで幽霊に襲われる夢を見る子どものように、俺は怯えた。ただ、恐ろしい。なぜなら、俺は逃げたからだ。雪ノ下から、由比ヶ浜から、あの部室から、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。居場所がないとして、背を向けた。そんな俺に、雪ノ下が罵倒するでもなく虫けらへ向ける視線を投げるでもなく、ただ微笑んで俺の前に立っている。
別人じゃないかとも思う。それでも、約一年近く同じ部室で過ごしてきた期間が、これは間違いなく雪ノ下雪乃であると明言していた。
「比企谷くん……いえ、ここではハチマンくんだったわね。噂は聞いているわ」
「……そうか」
雪ノ下が目を伏せる。何かを堪えるように、苦しんでいるように胸を掴んで、それからまた俺に視線を戻す。
「あなたに、言いたいことがあったの。今日会えたのは偶然だけど。それでも、きっと私があなたに告げるべき日が来たということなのだと思うから」
「な、にを……」
やめてくれ。もう否定の言葉は聞きたくない。お前の口から、もうあの言葉は聞きたくないんだ。俺は弱くなった。あの時までの強い俺とは、もう違う。欺瞞だらけで、偽善を振りかざし、そしてなにより、現実へ帰る理由すらサキへ預けてしまっている俺には、お前の言葉に堪えるだけの力は、もうないんだ。
「あなたに――」
言葉が始まった瞬間、俺は足を動かしていた。
「ハチマン!」
サキが驚いて上げた声が聞こえる。それでも足が止まらない。
俺は逃げ出した。
雪ノ下の前から逃げ出したのだ。
どんどん、自分が酷くなっていく。
俺は……俺は……
「こんな自分、大ッ嫌いだ……!」