ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
雪ノ下と話をすることになったのは、あれから二日後になった。
《はじまりの街》に訪れた俺とサキは、雪ノ下が指定して来た彼女の家に招待された。礼譲とは思えない、一件すると貧相な家だった。
「ごめんなさい。本来なら私が行くべきところなのに……」
「あんたも《軍》で忙しいんだろう? 構わないよ。こっちは休暇してる最中だから」
サキが軽く返す。まるで十年来の友人みたいだ。かつてメンチ切りあってましたよねえあなたたち……。一体なにがこいつらになにがあったのん?
と、いうかだ。雪ノ下から頭を下げられた。マジで信じられねえ。あの雪ノ下が―いや、ここではユキノだが――が頭を下げている……!
宇宙人にでも会ったような面持ちでユキノを眺めていると、ぴくっとユキノが眉を動かした。
「変、かしら?」
「ああ、変だな。大分変だ。開始早々罵倒するのがお前のデフォだったはずだが……」
途端、ユキノがばつの悪そうな顔をする。隣でサキは「あんたってやつは……」と俺に対して呆れた目を向けていた。あれ、何か悪いこと言ったの? 折角場を和まそうとしたのに……!
「それを含めて謝罪させてほしいの。でも、まずは座って。紅茶を用意するから」
勧められたのは、貧相な木造りの丸テーブルと椅子だった。二脚分しか用意されておらず、代わりに木箱が置かれていた。
俺はそのまま木箱に座り、サキは隣に座った。
戻ってきたユキノが、テーブルに紅茶を置くと、ふぅっとため息を吐いた。
「言葉にしなかったからかしら、ごめんなさいハチマンくん。あなたの席はそっちよ。お客様に対してそんな酷い椅子を出すわけがないでしょう?」
唖然とした。ユキノが謙虚だ……!
お、おう……といって、もう片方の椅子に座る。
「あたしはどうする? いたほうがいい?」
俺の反応が怪しすぎることに気づいたか、サキが一応、という体で訊く。
「頼む、いてくれ」と俺。
「お願いしていいかしら」とユキノ。
「あいよ、じゃあ、あたしはなるべく口を出さないから。もし聞かせられないないようになったら言ってよ。一度外に出るからさ」
「ありがとう。本当に感謝しているわ、サキさん」
またも深々と頭を下げる。ほんとにどうしちゃったのユキノさん!
さて、とばかりにユキノがまっすぐと俺を見る。普段は凛とした瞳も、いまは不安に波立っている。表情もわずかに強張っているように見え、全体的に緊張している印象だ。
「ハチマンくん、いえ、ここではあえて比企谷くんと呼ばせてちょうだい。構わないかしら?」
「ああ、構わん。俺もここじゃ雪ノ下って呼ばせてもらうぞ?」
「もちろん、こちらとしてもいまはその方がいいわ」
雪ノ下が軽く息を吸った。
「まずは、いままでの私の態度を謝罪します。本当にごめんなさい。あなたの優しさに甘えて、いつも会うたびに暴言を吐いてしまっていたことを、いまは後悔しているの。本当に、ごめんなさい」
そう言って、またも頭を垂れようとする。ここまで来ると雪ノ下らしくないと、さすがに俺が止める。
「いいから、もう頭は下げなくていい。別にお前の暴言なんか別に気にしちゃいない。あれは俺にとっちゃデフォみたいなもんだからな。あれがないと落ち着かないまである」
でも、と反論しようとする雪ノ下の言葉を遮る。これに関しては謝られる必要なんてない。
「それに、あれが本気だったら俺は奉仕部をやめてる。お前が俺を本当に嫌って出してるわけじゃないって分かってたから、俺は問題ない。それに、結構楽しかったしな」
「そう、そうなの……でも、ごめんなさい。これからはこんな風に普通に接するけど、いいかしら?」
「ま、少し残念だが、雪ノ下がそうしたいなら構わない」
「ありがとう」
そう言って微笑んだ雪ノ下は、やはり綺麗だった。この女に陰りなど似合わない。
「それと、奉仕部の依頼の件、いつもあなたが解決してくれたわね。ありがとう。ずっと、まずはこのお礼を言いたかったの」
「最悪な解決手段ばっかりだったがな」
「それは……わたしたちはまだ、子どもだったのよ。だから、正しいことばかりが正しいと思っていたの。あなたの解決方法でも、確かに救われた人はいた。それを否定することはできないわ」
「そうか……」
雪ノ下が、瞑目する。目を開いて、再び瞳をゆらがせる。
「修学旅行のことは、本当にごめんなさい。あなたに任せると言って、あんな言葉を掛けてしまったのは、私に完全に非があるわ。ごめんなさい」
あの、京都でのできごとが蘇る。
竹林で行われようとしていた戸部の告白の直前に、俺がやらかしたことを。
その後、雪ノ下に凍える声で言われたことを。
そして、由比ヶ浜に痛々しい微笑みで言われたことを。
「サキさん……いいかしら」
雪ノ下が弱々しく言った。
サキは何も言わず、外へと出て行った。扉がやさしく閉まる音だけが、室内にむなしく響く。
たぶん、ここからは奉仕部同士だけの会話だ。
あなたは、と雪ノ下が続けた。
「あなたは欺瞞の関係を嫌っていた。それなのに、解決方法は先延ばしだった。私は、それが嫌だったの。私とあなたが嫌っていたはずのそれを、よりによってあなたが行ったことが、私は許せなかった。そして何より、私が好きなあなたが、依頼解決のためとはいえあんな方法を取ったことが、つらかった」
知らず、俯いていた顔を上げる。
いま、こいつはなんて言った?
触れれば散る桜のような笑顔で、雪ノ下が告げる。
「比企谷くん、私は、あなたが好きだからあのときあんなことを言ってしまったの」
時が止まった。
あの雪ノ下が……俺を、好きだと?
俺の疑問に気づいたか、雪ノ下はゆっくりと首を横に振った。
「嘘ではない。本当のことよ。でもいまはそれは置いておきましょう。本質は、そこではないもの」
そんな物を置くように軽く言われても困る。
嘘ではない本当の告白など、生まれて初めてなのだから。いつかされるんだと夢見ていた頃のように、すぐに答えが出てこない。何を言ったらいいのか。どうしたらいいのか。話が急すぎて、どうすればいいのか皆目見当もつかない。
雪ノ下がやんわりと微笑んだ。
「ごめんなさい。これを言わないと、先に進めなくて……。でも本当に気にしないでちょうだい。いま答えが欲しいわけじゃないの。だから、話を先にすすめましょう」
「あ、ああ……」
たどたどしく返事をする。
「あのとき、あなたが受けていた依頼を教えて。辻褄が合わないのよ。あなたがあんなことをする理由が、戸部くんが振られるだけだとは、思えない。確かに戸部くんは振られることはなかった。だけれど、他に、きっと他になにかあるのだと私は思っているの。これは、ただの私の願望かしら?」
言わなければならないだろう。彼女が不本意な告白までして聞きたかっていることを。あの修学旅行の一件のすべてを、彼女に話す日がようやく来たのだ。
「分かった……」
俺はすべてを話した。海老名さんからの迂遠な依頼を、直前での葉山からの願いを、そして、どうしようもなくてやってしまったあの告白までを、すべて、すべて――。
「そう……人間関係って不思議ね。たった数年過ごしたはずの中で、色々なことが起こるんだもの。いまとなっては、海老名さんや、葉山くんの気持ちも分かる。だけど、これだけは言いたい。私が言える立場じゃないと分かっているけれど……」
雪ノ下が拳を握る。悔しそうに顔を歪ませ、涙を滲ませている。
「どうして、あなたを利用したの。どうして、自分達で解決しなかったの。どうして、色恋沙汰の依頼を私は受けてしまったの。どうして、あなたにすべての責任を押し付けてしまったの。すべてが、私は許せない」
「責められるべきは俺だ。安易な方法に飛びついた俺が悪い。お前らに相談できればよかった」
俺の釈明に、雪ノ下はやはり首を振る。
「比企谷くんに責はないわ。そんな時間はなかったのでしょう? それに、あなたは、由比ヶ浜さんのことも考えていたんでしょう? 彼女のグループで依頼に失敗すれば、結果として彼女がつらい目に合うことを予想していたんでしょう?」
そこまで言って、雪ノ下は嗚咽をする。
――あなたは、優しすぎるわ。
そんなんじゃねえよ。俺は、ただあの願いに共感しただけだ。多くの嘘が重なって作られたあの場で、俺が一番の大嘘つきだった。そして、つい最近まで、いや、いまも欺瞞を抱いている俺に、彼らを糾弾などできない。
きっと、時間を巻き戻しても、俺はあれをやっただろう。あれしかないと信じて。そして、ぬるま湯に浸かっていたいと願っても構わないと、いまも俺はそう思う。
そんなことを、滔々と語ったと思う。納得してくれたかは分からない。それでも、雪ノ下は何度も頷いて、最後に、
「話してくれてありがとう。ずっと早くにこうしていればよかったわ」
そう、言った。
それからも、色々な話をした。ひとつひとつの依頼のとき、何を思ったか、何を感じたか、ひとつ残らず、嘘もつかず、遠慮もせずに、ふたりで長い間話し合った。
このとき、俺たちはようやく奉仕部員になれたような気がした。だから、この場に由比ヶ浜がいないことが、不謹慎かもしれないが、残念だった。
「ありがとう、今日は来てくれて、たくさん話せて嬉しかったわ」
「俺も、色々話せてよかったわ。サンキューな」
それで、と雪ノ下がもじもじしながら言った。
「答えは、いつでもいいから。もうあなたの返事は分かっているのだし」
「お、おう……」
「でもできれば早くして欲しいわ。希望は、あまり長く持っていたくはないもの」
雪ノ下は泣きそうだった。
いま、ここで答えるべきだと思った。
俺は他人の言葉の裏を読む癖がある。だが、彼女の言葉の真摯に疑いなど持てない。それは、サキの言葉に通ずるものがあった。たった短い時間だが、すべての嘘を取り払い、互いに言葉を尽くした関係だ。いまさらそれを疑うことなどできはしない。
「雪ノ下。返事はいまする」
「そう……お願いするわ」
雪ノ下が目を伏せる。覚悟するように。
俺は、短く息を吸った。答えは決まっていた。確かに、初めは憧れだったのかもしれない。その孤高さに。その強さに。
しかし、いつしか惹かれていたこともあったのだろう。だがそれは過去形だ。現在進行形ではない。ならば、答えはひとつだ。
「雪ノ下、俺はお前とは付き合えない」
目を開いた雪ノ下が、ゆっくりと笑みを作った。悲しい笑みだ。
「分かっていたわ。あなたとここで再会したときから。だからありがとう。ちゃんと振ってくれて。これで、私も前に進めるわ」
さあ、と雪ノ下が立ち上がる。
「サキさんを呼びに行ってくるわ。散々待たせてしまったんだもの。謝罪しないとね」
まるで何もなかったかのように振舞う。きっと、サキに何も悟らせないようにと、零れ落ちそうな感情を落ちそうになる端からすべて掴んでいるのだ。
ああ、やはり雪ノ下は強い。だが、それでも泣きたいときはあるのだろう。
俺がこんなことを考えていいのかは分からない。
しかし、いつの日か、彼女が心底愛する人が、彼女の感情を掬ってくれる人であることを、いまは願わずにはいられない。
◇◆◇
ユキノが《軍》の仕事に戻るからと言って、俺とサキは帰ることになった。サキも言っていたが、どうやらユキノは《軍》で財務担当になっているらしい。まさかゲームで経理をするなんて思ってもみなかったわ、という彼女の苦笑が新鮮だった。
去り際、気になっていたことを俺は告げる。
「ある情報筋から、《軍》内部でゴタゴタしてるって聞いたんだが。大丈夫か?」
ユキノの表情が、すこしだけ曇った。
「ええ、事実よ。でも大丈夫よ。あなたは気にしないで」
「気になるから聞いてるんだよ」
ユキノがくすくすと笑う。
「そうね、そうだったわね。今度時間があるとき、ゆっくり話させてもらうわ。そのときはサキさんもまた一緒にお願いね」
サキも微笑んで頷いた。
「いいよ。あんたと話すのは、楽しいからね」
「ありがとう。ふたりとも、また……ね」
胸の前で手を振って、ユキノが別れの挨拶を口にする。俺とサキもそれに返して、《ラーヴィン》へ戻った。
道中、サキが探るように声を掛けてくる。
「どうだった? 少しは過去に整理がついた?」
少し思案気味に俺は答える。
「そうだな。色々話せて、たぶん、互いにすれ違っていた部分が明確になって、ちゃんとお互いに理解できるようになったと思う」
そして、自分の気持ちに気がついた。
いや、素直になって良いと感じたのだ。
俺は、川崎沙希が好きなのだと。
だからといって、ユキノのようにすぐに告白する勇気はない。まずは、彼女を現実へ帰し、そこからだ。恥ずかしいからとかじゃないぞ、絶対。情けねえ。
湖畔から風が吹いた。サキのポニーテールが揺れ、彼女が髪を押さえる。時刻は正午を過ぎたところで、まばゆかんばかりの陽光がサキの姿を明るく照らす。
思わず、見蕩れた。
サキも俺を見て、二人無言になる。
このファンタジーの世界で、俺はサキと再会した。一言では尽くせない冒険やあらゆるできごとを経て、ふたりはコンビになった。
そして、ようやく俺は、サキへの想いを自覚した。
やがて気づく。
こんな状態で同棲は、ちょっとまずいんじゃないでしょうか……。
んっ……んん、と咳払いする。
なに、とサキが目線だけで答えた。
こんな些細な以心伝心も嬉しく感じてしまうのだから、恋とは不思議だ。小町、お兄ちゃん恋しちゃったよ。どうしよう。
「俺がサキの家に住むって話なんだが」
「あ、うん……」
サキも微笑から表情を戻す。
「やっぱ、やめないか?」
「理由、聞いていい?」
「たぶん、もう大丈夫だからさ」
「ん、そっか。なら仕方ないね」
そう言って、サキは微笑んだ。もう、心配などしていないというように。
「あんたいま良い顔してるよ。やっぱり、ユキノと話したことは大きかった?」
「それだけじゃねえよ。お前がいたから会えたんだ。サキが一番でかい」
サキが頬を染めて顔を逸らす。そんな仕草も、いまは愛おしい。
恋というやつは厄介だ。気持ちひとつで、相手の言葉も仕草も、すべてが違って見える。世界が総じて翻り、眩しく感じるのだ。世の中のカップル諸君がすべてが楽しいと感じているあの様が、ようやく理解できたような気がした。想いを交し合い、大好きな人と過ごす一瞬一瞬は、きっとなによりも大切で貴重なものだろう。
さあ昼飯にでも行くか、とサキの手を引っ張って歩き出す。
これくらいは、頑張ってもいいだろう?
◇◆◇
《軍》の施設は、《はじまりの街》の中でも一際目立つ建物だ。かつてはこじんまりとした組織であったが、徐々に組織内容が変更していき、実質軍隊の様相を呈するようになった。
私――ユキノはその最初期メンバーのひとりだ。
そんな私は、《軍》の施設へ向かいながら、今日あったできごとを思い出す。
本当に、彼と再会できてよかった。そしてなにより、すべてのわだかまりが解消できたことは嬉しかった。ただ唯一残念なのは、彼に振られてしまったことだけだ。
二十二層で出会ったときから、そんな気はしていたから。覚悟していた。だから、いまだって心はそこまで痛くはない。
施設に戻ると、私は財務部の執務室へ入る。私は責任者なのだ。そのくせ、家の中は質素倹約にしているのだから面白い。実はああいう質素なくらしが少し夢だったのだ。贅沢することなく、唯一の楽しみである紅茶を糧に生きる。そんな生活が気に入っている。
「本当に、まったく、どうしてゲームでまで財務なんてあるのかしら」
ゆったりとした椅子に腰掛けシステムウインドウを開く。各部署から出されてきた電子メールの内容をチェックしていく。どれもこれもお金のことばかりだ。財務部なのだから当然だが、これがゲームの中だと意識すると、いよいよ気が滅入ってくる。
昔は単に相互扶助を目的とした組織だったのだ。ギルド長のシンカーに、副官ユリエールのふたりには、本当によくしてもらった。この世界で生きるのだと誓ったあの日に、あのふたりに拾われたのは幸運だったのだ。
それもしばらくしてから様相が一変した。ある人物が参入してから、相互扶助組織はアインクラッドに捕らわれる人々を開放するための軍へと変わった。最初はそれも良いと思った。自力でこの世界から脱出する。最前線に身を置くハチマンと同じように戦いたいと願ったこともあったから、私はそれを受け入れた。
だが、それも長くは続かなかった。人の良いシンカーはそのものを制御できず、徐々に実権を奪われてしまった。ユリエールも閑職へと飛ばされ、当時のメンバーで私だけが重要ポストに残っている。
はあ、とため息する。つまらないことを考えてしまった。少なくとも、現実へ帰ろうという趣旨は問題ないのだ。だから、これは私のただの感傷に過ぎない。
組織は変わる。変わらないものはないのだ。私のように、彼のように。
ただ、組織内に不穏な空気が流れているのだ。気づかぬうちに蜘蛛の巣に絡めとられているような錯覚を覚えることがある。これは、気のせいなのだろうか。
不意に、執務室のドアがけたたましい音を立てて開いた。私の秘書官アイシアだった。
「どうしたの? 入るときはノックをしてちょうだい。あと、静かにね」
「ごめんなさい、ユキノさん。でもそんな悠長なことをしている場合じゃないんです。何も訊かずすぐに逃げて下さい!」
秘書官の表情は決死の覚悟を抱いてるかのようだった。自然と、私も真剣なものになる。
「何があったか端的に答えて」
わ、分かりましたと秘書官が答える。
「ユキノさんが《軍》の資金を横領していたという事実が発覚したとして、近く、ユキノさんが処刑されることが決まってしまったんです!」
……なんですって?