ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
事件の影で、家族も一緒に戦っている
鏡に映った私の姿は、控えめに見ても綺麗な方だと思う。以前は可愛らしいと近所で評判だった小町ちゃんだけど、いまは大和撫子もかくやのお淑やかな娘に変身したのだ。きっと兄が知れば驚愕に腐った目を落とすはずだ。うちの兄はゾンビか……。
さて。
頬をぴしゃりと叩き、私は大丈夫だと気合を入れて、女子トイレから出た。だけど、すぐに目元が熱くなる。一月に一回は、必ずこういう日がある。だから私はそういうとき、必ず女子トイレに篭るのだ。泣かないように、決して悲劇のヒロインを気取らないように。
茜色に染まる放課後の廊下を進んでいく。こつこつと、リノリウムの床を叩く音が静かに響く。既に部活動が始まる時間はとっくに過ぎていて、どこの教室を覗いても人の姿は見当たらない。季節はもう一月半ばを越えた冬だ。窓の隙間からすうるりと入り込む冷気が寒くてかなわない。
廊下から階段を下りていくと、踊り場でひとりの女子生徒と出会った。
「あ、やっはろー小町ちゃん。探したよー」
結衣さんだ。桃色がかった茶髪をお団子にした、お胸がとってもビックな女子生徒だ。ぐぬぬ、結局私はそこまで成長できなかった。遺伝子を恨みたい。
「結衣さん、こんにちは。どうしたんです?」
結衣さんの表情が少しだけ落ち込んだように見えた。かつての私を思い出しているのかもしれない。そんな顔をしないでほしい。私は望んでこうなったんだから。
「あ、うん。ヒッキーたちのお見舞いに行こうと思って。だから小町ちゃんのこと、探してたの」
私の顔が一瞬だけ強張る。結衣さんは目ざとくそれを見つけて、控えめに切り出した。
「急にごめんね、ひとりの方がいい?」
一拍。
「すみません。今日は私ひとりで行かせて下さい」
事情を察した結衣さんが、ひとつ頷いて魅力的な微笑みを浮かべた。
「ごめんね。じゃあ、私はまた今度行くね! じゃあね小町ちゃん。また明日」
「はい、また明日」
元気よく手を振りながら結衣さんが去っていく。私は、何か取り残されたように、しばらくの間その場に立っていることしかできなかった。
殆ど放心状態にいた私が動き出すことができたのは、いかほどの時が経ってからだろう。
私は階段を下りて昇降口から校外へ出る。校門を抜けて、兄が眠る病院へと向かう。
あの日のことを私は決して忘れない。
ソードアート・オンラインのサービスが開始する前から、当時の私は兄と喧嘩をしていた。私は普段怒りの感情を表に出すことはないけれど、一度着火すると長く持続するタイプだった。だから、兄が歩みよるのをただひたすらに待っていた。
でも、そんな日が来ることはなかった。
結局、兄と言葉を交わすことは叶わなかった。
ソードアート・オンラインのサービス開始と同時、兄は仮想空間の虜囚となった。当時のことは覚えているが、実は詳細な記憶があまり無い。ニュースを見て兄の部屋へ駆けつけたところまでは覚えている。けれど、そのあとの記憶がぽっかりと空いているのだ。
まるで、たったひとつだけ欠けたジグソーパズルのように。
なんて言ったら、詩的な表現だろうか。兄からダメ出しを食らいそうだ。
だけど、間違いなく私は泣いていた。兄は帰ってこないかもしれないと恐れ、泣き喚いていた。
一日、一週間、一ヶ月と月日は無情に過ぎていき、私は遂に兄への甘えを捨てた。大人になることを決意した。一人称を小町から私へ変え、髪も伸ばし、天真爛漫な私を捨てた。せめて、兄が戻ってきたときに成長した姿を見てもらおうと、それだけに縋ってこうして新たな私を創り上げた。
そして、今日までそれは続いている。兄はあれから一年以上経ってなお、仮想空間から抜け出すことができていない。
そして、私も悲しみの虜囚となったまま、変わらずいまを生きている。
考え事をしている内に、兄が眠る病院へ着く。ロビーへ入り、もはや馴染みとなった看護師さんへ挨拶をし、兄の部屋へと向かう。兄が知ったらきっと喜ぶであろう、たったひとりだけの部屋、つまりは個室だ。
当然、うちはさして裕福な家庭ではない。両親共、兄曰く社畜ではあるけれど、子どもをふたり抱え、家まで建っている以上、金銭的な面では他の家庭と変わりないはずだ。だから、これは政府が出してくれたお金だ。被害者に対する給付金、賠償諸々で現状が成り立っている。
それくらいは分かる程度に、私は賢くなった。やっぱり、昔の私は少しアホだったんだろうか。そうではないと信じたい。
形式的にノックをし、誰もいないことを確認して部屋に入る。兄に似合いそうも無い白で埋め尽くされた病室の中に、ベッドがひとつだけ置かれている。その上に、兄がひとり横たわっていた。腕には点滴が刺されていて、ぽたぽたと栄養が流れ落ちている。兄の命綱だ。頭部には兄を仮想世界の虜囚とした忌まわしき装置がすっぽりと覆っている。
兄の姿は変わった。日々やせ細っていて、そのまま地面から這い出てきたら、目の腐り具合も相まってリアルなゾンビと間違われてしまうだろう。冗談だ。ちょっとした小町的ジョーク。
でも、そんなことを考えていないと、胸が痛くて堪らない。
兄の姿は、今にも死んでしまいそうなほどだ。その姿を見るたび、私は目頭が熱くなる。
いつもは耐えられるそれも、今日だけはもう限界だった。
静かにドアを閉める。そして、鞄を投げ出して兄の下へ駆け寄った。
「お兄ちゃん――!!」
大声で泣いた。隣の部屋にも聞こえるほどの大声で、私は叫ぶように泣いた。これを私は毎月繰り返している。
兄がいないのが寂しかった。兄に甘えられないのがつらかった。家に帰っても誰もいない。食事を作っても兄が食べてくれない。兄がいない。ただそれだけで家に言いようのない静けさとやるせなさが溜まっていく。私は日々それを浴びながら生活していて、一月に一度は限界が来る。そんなときは、兄の下でこうして泣く。
泣いて、叫んで、喚いて、そうすればきっともう一月は頑張れる。
それをただひたすらに繰り返している。まるで終わりのない円環を回るようだ。ハムスターの気持ちがいまなら分かるかもしれない。
馬鹿馬鹿しい想像が浮かんで、やっといつもの私に戻ることが出来た。その代わり、兄が眠るベッドのシーツは涙でびしゃびしゃだ。参った。今日は泣きすぎてしまったみたいだ。
どうしたものかと思案しているとき、部屋のドアからノックが聞こえた。
一拍。
「はい、どちら様ですか?」
平然とした声を作って答える。
「オレっす。大志っす」
以前よりも幾分低くなった声が届く。馴染み深くなった声で安心した。
「ああ、大志くんか。どうぞ」
失礼します、と言って大志くんが花を携えて入ってくる。
大志くんも、お姉さんの沙希さんがソードアート・オンラインに囚われている被害者家族だ。初めて病院で遭遇したときは驚いたものだ。まさか、家の兄以外の被害者家族に知り合いがいるなど思いもしなかったからだ。
大志くんが花瓶から萎れかけた花を取り出し、水を入れ替え、持ってきた花に挿しかえる。忘れていた。今日は花を持ってこようと思ったのに、すっかりと頭から抜けていた。
私の視線を感じたのだろう、大志くんが少し疲れた表情で苦笑した。
「これくらい構わないっすよ」
「ごめんね。ありがとう」
大志くんも、私と同じようにあの事件から変わった。雰囲気から幼さが消え、随分と大人らしい空気を出すようになった。変わらないのは私に対する口調くらいか。
他にも、大志くんは沙希さんが行っていた家事をすべてこなすようになったのだ。勉強と家事の両立は大変だ。ましてや、今までろくにやってこなかった男の子であればなお更に。だけれど、大志くんはくじけずに、ただひたむきに頑張った。私も料理を何度か教えたこともあった。
すごいな、と思う。本当に。心の底から。
「小町さんは最近どうっすか?」
泣きはらしたのに気づいているはずなのに、大志くんはそれに言及せず世間話を投げてくれた。彼の優しさだ。私もそれに乗る。
「まあまあかな。テストの点数も良かったし。それに、また家族会やるんでしょ?」
「もちろんっす。うちの家族も小町さんたちとの家族会を楽しみにしてるんで」
あの事件から、川崎家と比企谷家は家族ぐるみの付き合いをするようになった。共に被害者家族だからだ。そして――
ノックが響く。私はどうぞと言って、来客者を招く。
「こんにちは、ふたりとも。やっぱり来てたんだね」
現れたのは、陽乃さんだ。元々大学生で大人びた容貌だった彼女も、随分と雰囲気が変わった。まるで自分を見せなかった彼女も、いまでは私たちに対して心を開いている。事件によって変わった人のひとりだ。
「はい」
「もちろんっすよ」
薄く微笑んで、陽乃さんが近づいてくる。
「三人ともまだ無事でよかった。比企谷くんも沙希ちゃんも、前線で頑張ってるそうだよ」
こうして、陽乃さんは私たちにSAO内部の情報を教えてくれることがある。情報源は相変わらず不明だが、ありとあらゆる手段を用いて得ているらしい。そこは陽乃さんらしいな。
「そうですか。家族としては、安全な場所でいてもらいたいですけど。兄らしいかな」
「そうっすね。うちも、姉貴らしいっす」
陽乃さんはその答えに安心したように、窓の外を見た。日はもう沈んでいた。そろそろ面会終了の時間が近づいてきている。
「折角だから、夕食一緒しない? 家族会のことも、色々話したいから」
陽乃さんの提案に、私と大志くんは頷いた。
雪ノ下家とも、もう家族ぐるみの付き合いだ。
「じゃあ、うちに来ますか? チビたちもおふたりに会いたがってますよ」
「そっか。けーちゃんやわっくんに会いに行こうかな」
陽乃さんの表情が僅かに暗くなった。
きっと、未だに罪悪感を感じているのだ。
雪乃さんがSAO未帰還者になったのは、陽乃さんが原因だと聞いている。なぜそんなことをしたのか、陽乃さんは語ろうとはしなかったが、いつだったか語ってくれたことがあった。
――比企谷くんと仲直りしてほしい。
ただそれだけだったそうだ。当時、すれ違いをしていたふたりの仲をなんとか戻そうとしていた陽乃さんは、兄がSAOをやろうとしていることを知った。それで、無理やり機材を揃えて雪乃さんへ送ったそうなのだ。
現実では無理でも、仮想世界ならばあるいは、ということだ。
当時の陽乃さんの荒れっぷりは酷かった。私も大志くんもそうだが、とりわけ彼女は一番酷かった。病院内で泣き叫び、室内で自傷行為にも及んだほどだ。あまりの状況に自殺してしまうかと思うほどだった。
だけれど、いまはこうして持ち直している。三人が生きて帰ってくると信じているからだ。
「結衣ヶ浜ちゃんは今日来てないんだ。今日は……ああ、ごめんね小町ちゃん」
陽乃さんが途中で気づいたように、謝罪をする。
そう、私は今日、結衣さんの誘いを断った。理由は単純だ。泣きたかったから。ただそれだけだ。きっと大志くんは私の叫びを聞いていた。聞いていて、落ち着いたところを見計らって入ってきたのだ。
本当に気遣いができるようになったな。思わず好きになって告白して玉砕するまである。玉砕はやだなあ。
結衣さんは、たまに家族会に参加してくれる。私と陽乃さんがお願いしたのだ。最初の家族会の時は酷かった。まるで通夜のありさまで、結衣さんがいてくれなければ一体どんな状況になっていただろう。本当に、彼女には感謝している。兄のことを慕っていてくれ、私たちのことも心配してくれている。素敵な人だ。
さて。陽乃さんが手を叩く。
「ふたりとも歩きでしょう? 送っていくよ」
陽乃さんの気遣いに乗りかかって私たちは病室を出る。三人で歩いていると、ふと、兄の声が聞こえた気がした。
――なあ小町。お兄ちゃん、頑張ってるぜ。これでも結構成長したんだ。だから、いつまでも泣くのはやめろ。苦しむのはやめろ。ひとりにさせちまうのは申し訳ないが、お前も前を向いて頑張ってくれ。
思わず、涙が零れた。いまのは、兄からのメッセージだ。俺は成長したから大丈夫、お前もちゃんと前へ進め……と。
「小町ちゃん?」
陽乃さんが振り返る。大志くんも心配したように私を見ている。
違うんです、と私は首を振る。
「兄の、兄の言葉が聞こえたんです……。俺は大丈夫だって。お前は前に進めって……」
ああ、お兄ちゃん。
ありがとう。
その言葉で、私は救われたよ。
私も頑張る。
だからお兄ちゃん、早く帰ってきてね。