ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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第六章
ただひたすらに、彼ら彼女らは支えあう 1


 かくして、あたしの日常は地獄へ堕ちた。

 

 最愛の人を狂わせてしまった、罪悪感の牢獄に。

 

 幸せの日々は茫漠とした闇に消え去り、未来が見えない道に迷いこんだ。

 

 部屋にはそれが広がっていた。それは彼の慟哭であったり、あたしの涙であったり、仲間たちの後悔であったりと、目に見えない空気が滞留して、あたしは日々それを身体に取り込んで生きている。

 

 ――引っ越そう。

 

 仲間の誰かがそんなことを言った。ここはあまりにもつらすぎる。もっと緑のある場所へ行こうと。

 

 きっとキリトだったと思う。彼とアスナは、二十二層のログハウスを買ったそうだ。その近くにあるログハウスを買ってみてはどうかと。お金なら工面すると。何も心配する必要はないと。

 

 あたしはそれに何と答えただろう。肯定したのか、否定したのかすら覚えていない。あたしがいつも考えているのはただひとつだ。

 

 愛する人を戻したい。

 

 そのために、あたしができることは、彼が眼を覚ましたときに視界に入るようにする。泣いたら全力で抱きしめる。眠りに付くまで手を握っている。それだけだ。たったそれだけのことしかできない。

 

 いつだったか、クラインとディアベルが来たような気がする。彼らはこう言っていたと思う。

 

 ――もう戦わなくていい。オレたちがすべて片付ける。だから、ゆっくりしてくれ。

 

 殆ど聞き流していたけれど、ただ想いだけは伝わって涙を流したことは覚えている。

 

 アルゴはいつも私の隣にいてくれている。エギルも、殆どの時間をあたしたちのために割いてくれる。最初こそ酷い様だったというユキノも、最近は持ち直して時間を見つけてはあたしたちの下に来てくれている。

 

 ああ、ハチマン。

 

 ねえ、ハチマン。

 

 あたしたちは、みんなに囲まれているよ。

 

 何も見えない真っ暗な場所に迷い込んでしまったけれど。

 

 みんなの声だけは聞こえるよ。

 

 だから戻ってきて。

 

 その声であたしの名をもう一度呼んで。

 

 あたしを抱きしめて。

 

 あなたをずっとずっと、愛しているよ。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 SAOに囚われてから、約一年と半年の月日が流れた。現在、最前線は第五十四層である。

 

 その主街区、《ハーレーン》の会議場に、主要攻略組メンバーらが終結していた。今回の首魁はディアベルでもヒースクリフでもなく、《風林火山》のクラインだった。

 

 クラインはいつもの緩んだ表情ではなく、死を覚悟したまさしく漢の顔で全員を見渡している。皆は普段とは違う彼の雰囲気に動揺したように、口々に不安や混乱を声に出していた。

 

 やがて、クラインが静かに言葉を発する。腹の底から出したような、深みのある声だ。

 

「今回集まってもらったのは、オレが言いたいことがあったからだ」

 

 クラインが拳を握る。その手は大きく震えていた。

 

「事件のことは覚えてンな? それを誰が解決したか。どうやって終わったかも」

 

 全員が沈黙する。

 

 ――残虐の祝祭。

 

 誰がそう言ったか、あの悲劇をそうやって呼ぶようになった。誰もがその悲惨さに心を痛めた。SAO開始以来、初めての虐殺だ。そしてことの顛末は、アルゴによってしかるべき手順、内容に纏められて流された。

 

 黙っておくことはできた。だが、世論がそれを許さない。いらぬ噂を流されハチマンとサキが傷つくくらいならばと、決死の覚悟でアルゴがすべてをひとりで纏めたのだ。

 

「事件の一旦に関わった者として、誤解のないようもう一度言う。あれは事実だ」

 

 全員が息を呑んだ。誰もが嘘だと思っていたかのように。だが、あのクラインが、いつもふざけているようで、それでも仲間のために命をはれる男の中の男が、こうして真剣な眼差しで言ったのだ。誰もが信じざるを得なかった。

 

「アイツに対して言いたいことはあるだろ。色々とな。だが、それを聞いてやる気はねえし、言わせる気もねえ。どういうことか分かってンだろうなテメエら」

 

 静かな炎がクラインの身体から発せられる。

 

「アイツは、ハチはひとりで解決した。解決せざるを得ない最悪の状況に嵌められて、それでもなお解決した。行為は人として最低だったかもしれねえ。だけど、オレはそれ間違ってたなンて口が裂けても言えねえ。あいつは正しいことをした。大勢の人を助けた。あいつが動かなきゃ、倍以上の住人が殺されてた。それは分かるな?」

 

 沈黙。誰もが口を開かない。誰も、言葉を発せない。

 

「いま、アイツはサキさんと一緒に休んでいる。場所は教えるつもりはねえ。そっとしておきたいからな。でだ、オレが本当に言いたいのはここからだ」

 

 クラインが一度言葉を切る。全員の視線がクラインへと集まる。

 

 クラインが長く、長く、息を吸った。

 

「この体たらくは何だテメエら!?」

 

 会場を震わせる怒声が響いた。

 

「あのふたりがいなくなった途端、急に攻略ペースが落ちた。どういうことだ? あんだけ貶してきたハチマンがいなきゃテメエらなんもできねえのか? 戦乙女のサキさんがいなきゃやる気が出ねえってか? ふざけんな! ふざけんなよテメエら!! そんな腐った根性でこの場に立つんじゃねえ!! 攻略組を名乗るんじゃねえ!!」

 

 全員が項垂れる。誰も異論を差し込まない。誰しもが無意識に自覚していた。攻略速度が遅い。なぜだ。あのふたりがいないからだ。なぜいないと遅くなる。ふたりに頼っていたからだ。

 

「情けねえとは思わねえのか? あんな働きたくねえ働きたくねえ言ってた奴が一番働いて、テメエらがそいつに全部おっかぶせてのうのうとこの場に座っている。おかしいと思わねえのか!?」

 

 ある者は頷き、ある者は額に手を当て苦悶する。全員がきっと正しく理解していた。

 

 情けないと。

 

「少しでもそう思うなら根性見せろ! もし、仮にあいつが戻ってきたときにいまの俺たちを見たらどう思う? どう感じる? そのちっぽけな脳みそで少しでも考えてみろ!? 失望すると思うか? 呆れると思うか? 違うンだよ! あいつは責任を感じるんだよ! 自分の所為だと、そうやってまた抱え込んじまうんだよ! そういう、良い奴なんだ!!」

 

 クラインが握った拳を胸の前に持ってくる。

 

「テメエら、これ以上あいつに責任を感じさせるな。帰ってきたとき、あいつが安心するくらい、俺たちはこんなにやったんだぜって言えるくらいの活躍を見せてみろ! それが出来ねえなら攻略組なんぞやめちまえ! ここから今すぐ立ち去れ!!」

 

 そのとき、会場の中でひとりの男が立ち上がった。

 

 誰もが驚いた。あの《聖龍連合》のリンドだったからだ。

 

「オレは行くぞクライン。あいつらに借りがある。オレはまだその借りを返せてはいない。攻略組の意地を、矜持を見せてやる。クライン、オレはやるぞ! お前らと共に、この悪魔の塔を駆け抜けてやる!」

 

 そして、次々に攻略組の面々が立ち上がり、決意を口にしていく。誰もが再び、帰還への夢に火をつけたのだ。

 

 クラインは満足げに頷く。目じりには涙が浮かんでいた。

 

「おう、それでこそ攻略組だ。これから俺たちは、全速力で攻略を進める。テメエら、着いてくる用意はできてンな?」

 

 全員がそれに答える。

 

「よし、攻略会議に入ろうぜ!」

 

 こうして、未だかつて無いほどの一体感と共に、攻略会議が開始された。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 私にとって、事件から一ヶ月は地獄の日々だった。カイルは精神不安定の状態で戻り、ハチマンは完全に壊れて帰ってきた。幸せから一転、奈落の底へ落とされた気分だった。

 

 すべてが私の所為だと思った。男女交際に浮かれ、女子会などにうつつを抜かしていなければ。住人たちを止められていれば、きっと何もかも問題なかったはず。何をしていても、その考えが抜けず、気づけば身体の力すら抜けて、起き上がることすらできなくなった。

 

 思考は絶えず紡がれているのに、身体だけが言うことを聞かない。感情は悲しみばかりが溢れ出て、他の感情が生まれる余地などなかった。きっと私はそのとき壊れる寸前だった。崩壊への扉をノックしていた。ノブを捻って開ける寸前だった。

 

 引き戻してくれたのは、他でもない、仲間たちだった。

 

 最愛のディアベルだった。

 

 そして、ギルドの子ども達だった。

 

 彼らは、何もしていない無力な私を責めることはなかった。大丈夫だと、なにも問題ないと、あなたの所為じゃないと。動かない心の手に暖かさを添えて、壊れそうな心の欠片をひとつずつ拾うのを手伝ってくれた。子ども達は私にできることがないかと一生懸命考え、花束をくれた。永久凍土となっていた心が、じんわりと溶け出していくのを感じた。

 

 そうして、深遠を覗いていた私は元の自分に戻ることができた。

 

 これはきっと幸いだ。

 

 ひとりではダメだった。誰かがいなければ、こうして元の生活を送ることなどできなかった。孤高など、何の役にも立たないのだと改めて思い知らされた一ヶ月だった。

 

 だからいま、私はここにいる。

 

 三十三層《ラーヴィン》のふたりの部屋の前に立っている。

 

 ハチマンを起こさぬよう、控えめなノックをする。静かな音と共に、扉が開いた。

 

 そこに立っていたのは、青ざめた表情のアルゴだった。目じりには涙があふれていた。そして、私を見ると、嗚咽もなく涙を滂沱と流し始めた。無言で私の胸に飛び込み、私の胸にさまざまな負の感情を宿した涙を染みさせていく。

 

 私はアルゴをぎゅっと抱きしめ、背中をさすった。

 

 嫌な予感がした。

 

 すごく、すごく嫌な予感がした。

 

 決定的に、なにか起こってはいけないことが起きてしまったような気がした。

 

 アルゴをなだめたあと、私はそろりそろりとしのび足で、ハチマンの寝室に入る。

 

 入って、私は倒れそうになった。

 

 椅子に座ったエギルが頭を抱えている。ベッドには悪夢にうなされるハチマン。いつも隣にいるはずのサキがいない。涙を滲ませながらも、決して声を上げて泣かず、ハチマンに寄り添い続けたサキの姿がそこにはない。

 

 なぜなら――

 

 サキが倒れていた。

 

 まるで死んでいるかのように。

 

 シュシュが解け、長く綺麗な髪を広げて。

 

 寝室の真ん中でサキが横たわっている。

 

 顔は疲れ切ったように青くやつれ、頬にはどれだけ流したか、涙の線が色濃く滲んでいる。

 

 血の気が引いた。

 

 わなわなと、唇が、手が、足が、全身が、ネジが外れたように震え出す。

 

「なにが……起きたの……?」

 

 呟くように言ったのに、世の無常を嘆くように部屋に響く。世の終わりを告げる喇叭のように。

 

 エギルが顔を上げて振り返る。彼もまた、泣いていた。

 

「……サキさんに限界が来た」

 

 ああ、ああ、ああ……。

 

 崩れそうな身体をなんとか立ち上がらせて。私はこの“訪れ”を作った居もしない神を呪うように、胸の前に両手を組んだ。

 

 神様、ああ神様……。

 

 なぜあなたはこの世に地獄を作るのです。

 

 ――たとい死の影の谷を歩もうとも、わたしは災いを怖れません。あなたが私と共におられるから。

 

 そう、聖書に書いてあるではありませんか。

 

 これがあなたが寄り添った結果ですか?

 

 ああ、なんて、ひどい世界だ。

 

 私はふらふらと壁に寄りかかる。そうでもしていないと、大事な何かを失った身体が立っていることすらできそうにない。

 

 嘆く。ただ嘆く。そして憎悪が浮かびあがり、やがて彼らを助けなければと心が動く。

 

 ゆっくりと、壁から背を離して、自分の力で立ち上がる。これくらいで動じてはならない。彼らを捕えた闇の方が、ずっとずっと濃くて悪辣だ。

 

「エギルさん。みんなを集めてちょうだい」

 

「あ、ああ……分かった」

 

 動揺から立ち直れないように、エギルが鈍く頷く。

 

「アルゴさん、ふたりをお願い」

 

「うん、分かった」

 

 アルゴがエギルの代わりにふたりを診る。それを見届けて、私はエギルの後に続き、寝室のドアを閉めてリビングへ入る。

 

 エギルがメッセージを打っている間、私はぼんやりと寝室を見ていた。

 

 ハチマンの部屋の寝室の壁は、特別製だった。少しでも彼に安らかに眠ってほしいと、決して外から騒音が聞こえない材質で作り変えた。これを探したのは他ならぬキリトだ。あらゆる階層を探しに探し、殆ど寝ずに駈けずりまわり、ようやく納得できるだけの材質を集めた。それを基に街の職人に作ってもらい、こうして防音の寝室ができあがった。

 

 ディアベル、クライン、アスナは、ふたりの代わりに攻略組の先陣を切ることとなった。オレたちが希望になるんだと、強く、強く、心に訴えかけるように言っていた。後にキリトもこれに加わり、四人と攻略組が全速力でこの悪夢の塔を駆け抜けている。

 

 エギルは商売を、アルゴは情報屋をそれぞれ行いながらも、殆どの時間をここに通いつめている。このふたりは、全力でハチマンとサキに寄り添っている。これに最近私が加わった形だ。

 

 皆がふたりを心配している。皆がふたりを愛している。

 

 それでも、徐々にサキの様子がおかしくなっていたのは感じていた。

 

 何を言っても、何を訴えても、訊いているのか定かではない。ただ、時折聞こえているように涙を流し、ただ壊れてしまったハチマンの傍に居続ける。そんなサキが……。

 

 ああ……。

 

 ついに、限界が訪れてしまったのだろうか。

 

 事件からもう二ヶ月近く経つ。サキは、ハチマンと自分を悪戯に苦しめる闇の中で、必死に彼に呼びかけていた。それが、彼女の心にもじわじわとと侵食し、取り込んでしまったかのようだ。

 

 きっと、エギルも、アルゴも、その瞬間を見てしまった。

 

 サキが倒れるそのさまを見て、絶望を重ねてしまった。だから、あんなにも大人なエギルですら頭を抱え呆然とした。

 

 ここは駄目だ。もう駄目だ。生きた闇が這い回り、生者の精神を貪っている。かつてあんなにも楽しい空気で充満していた家が、いまや絶望の住処となった。

 

 ここはもう限界だ。

 

「ユキノ」

 

 ディアベルの声が聞こえた。思考を紡いでいた間に、全員が集まっていた。

 

 ディアベルが、キリトが、アスナが、クラインが、エギルが、全員が私を見ている。エギルは俯き苦悩の顔で、震える拳を握っている。きっと大人だからこそ言えないのだ。彼は、その年齢から一番責任を感じている。

 

 だから、これは私が告げるべきことだ。

 

 現実での交友を持ち、そして親友である私が、彼らに告げるべきだ。

 

 全員が黙って私を見ている。

 

 なにか、悪魔の坩堝でも覗くような怯えを含んだ瞳で。

 

 小さく息を吸う。

 

「サキが倒れたわ」

 

 全員が喉の奥で悲鳴を上げた。決して声は出さず、けれど、あまりの現実の過酷さを呪うような、悲嘆の貌で。

 

「家を変えましょう。ここはもう、ふたりにとって良い場所じゃない」

 

 キリトが目を伏せた。

 

「二十二層にしよう。俺とアスナが住んでいる場所の近くのログハウスを予約してあるんだ」

 

 二十二層。あの、私とふたりが再会した場所。色彩豊かな、自然に溢れた静かな場所だ。きっとあそこならふたりも癒えるのではないかと思えた。

 

 でも、すぐに現実的な観点が思考に滑り込む。家を買う。資金はどうする。彼らをどう運ぶ。こんなときだって、私の頭はそればかりだ。

 

「資金は、いかほどかしら……?」

 

 アスナが首を振る。大丈夫だというように、痛々しい微笑みを浮かべる。

 

「もう貯めてあるの。あとはふたりの意思を確認するだけだったから」

 

 驚いた。

 

「一体、いつの間に……」

 

「寄付を募ったんだよ。攻略会議の場でね。みんな快く寄付してくれたよ」

 

 ディアベルが答えた。視線はクラインへ向いているが、彼は何も言わなかった。クラインが攻略会議で発破をかけたことは聞いていた。そんな彼だからこそ、寄付を募ったのだと思う。本当に彼には頭が上がらない。

 

 家の問題が解決したのなら、次へ移ろう。

 

「移動方法はどうしましょう。できれば、彼らを表に出して好奇の視線に晒したくないの」

 

「回廊結晶を持ってる。それを使おう」

 

 顔を上げたエギルが答える。

 

「いいの……? 高価なものと聞いているけれど」

 

「いいに決まってる。あいつらのためなら全財産だって投げ打つさ」

 

 エギルが大人らしい微笑みで、胸を叩いた。

 

 胸が熱くなった。自然と涙が流れてしまう。膝が笑って、その場にしゃがみ込む。慌てて傍に寄ってきたディアベルに支えられながら、私は深く、深く頭を下げる。

 

「ありがとう……みんな」

 

 ハチマン。

 

 サキ。

 

 あなたたちの仲間は、こんなにもあなたたちを愛してくれているわ。幸せものよ、あなたたちは。

 

 だから早く、お願いだから早く戻ってきて。

 

 

 

 ――かちゃり。

 

 

 

 ヒイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――――――!! イイイイイイイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 サキィィィィィィィィィィ――――――――――――――!!

 

 どこだあああああああああああああサキィィィィィィィィィ―――――!!

 

 

 

 奈落の底から響くような、悲痛の慟哭。

 

 ハチマンが目を覚ましたのだ。頼るべきサキは、もう倒れてしまった。

 

 だからアルゴが泣きながらドアを開けてリビングへやってきた。どうすれば良いかも分からずに。

 

 ディアベル、クライン、キリト、エギルが動く。寝室に入って暴れるハチマンに取り付き、ベッドに押さえつける。

 

 仲間たちが次々に訴える。大丈夫だと、安心していいと、サキはここにいると。

 

 それでも絶望の音は止まらない。

 

 アスナはその場にしゃがみ込み、アルゴは頭を抱えている。私はただ、寝室への扉の前で呆然としていた。

 

 考える。思考する。ただひたすらに。

 

 この状況をどうすれば解決できるか。

 

 ハチマンを一時的にでも眠りに付かせることができるのか。

 

 彼ならどうする。

 

 いつも奇策で難題を解いてきた彼であれば……。

 

 私はゆっくりと立ち上がった。

 

 寝室に入る寸前、ある一節を思い出した。

 

 ――この門をくぐるもの、一切の希望を捨てよ

 

 ダンテの神曲だったか。

 

 ああ、本当だ。まさにその通りだ。一切の希望を捨てねば、この門はくぐれない。それほどに酷く胸を掻き毟りたくなるような絶叫だ。

 

 それでも、私は強い覚悟を胸に秘めて一歩を踏み出す。システムウインドウを呼び出し、ストレージからあるアイテムをオブジェクト化。すぐさま使用する。

 

 誰も私の変化に気づいていない。男性陣はハチマンを抑えるのに必死で、女性陣は悲嘆にくれるのに忙しい。

 

 ただ私だけが、たったひとつの冴えたやり方を思いついた。

 

 最初にディアベルが気づく。目を剥いて、しかし瞬時に私の思考を理解する。次にキリト、エギル、クラインが察する。

 

 暴れるハチマンを取り押さえながらも、私が傍に寄れる場所を開けてくれる。

 

 そっとハチマンの傍に近づき、彼が突き出した手に触れ、抱きしめた。

 

「ハチマン。あたしはここにいるよ。大丈夫、ここにいる」

 

 まるでサキのように私は振舞う。口調を真似、声を真似、髪色を彼女の色と同じにした。即席で作った、サキの模造品。それがいまの私だ。

 

「大丈夫。あたしはここだよ。ここにいる。だからもうおやすみ。愛してるよ」

 

 サキが言った言葉をなぞる。私はサキなのだと自身を騙しながら彼へと告げる。もう、これしか思いつかなかった。これ以外に方法などなかった。

 

 ハチマンの様子が変わる。動きが止まり、声が細まり、やがて、私を見て悲しみに涙を流しながら、瞳を揺らして唇を動かした。

 

 ――すまん、ユキノ……。

 

 人形の操り糸が切れたように、ハチマンの意識が消えた。夢の世界に誘われ、規則的な寝息が届く。

 

 全員が言葉を失っていた。

 

 私の行動に。その効果に。

 

 私はディアベルを見る。彼は首を振ってから、肩に手を置いてくれた。

 

「ごめんなさい……これしか、方法が思いつかなかったの」

 

 ディアベルに謝る。愛する男性の前で、他の男に愛を語ってしまった。たとえそれが演技であったとしても、許されることではない。

 

「いい。気にしないでくれ。ユキノは精一杯やった。ありがとう。ありがとう」

 

 私の身体が抱きしめられる。

 

 暖かく、力強くディアベルに抱きしめられて、私は涙が止まらなかった。

 

 

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