ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
迷宮区で敵の攻撃パターンと弱点部位を確認し、経験値を稼ぎ終えた俺が宿に帰ったのは、朝の八時を超えたところだった。さすがにぶっ続けで起きていると、ゲームの中とはいえ頭の中に鈍い痛みのようなものを感じる。
頭を抑えながら部屋に戻ると、サキがベッドに腰掛けてなにやら頭を抱えているところに遭遇する。
「……どした?」
「は、ハチマン? ちが、わた、え? ちょ、待って! 落ち着く! いま落ち着くから!」
サキは頭を上げるやいなや、両手を前に突き出しわさわさと振りまくり、立ち上がったと思えば今度はベッドにダイブする。布団を被ると足をバタバタとさせて思い切り唸り出す。
おうおう、面白い慌てっぷりだ。黒歴史を思い出した夜の俺みたいじゃないか。
「あー、とりあえず外出てるわ。落ち着いたら呼んでくれ」
こういうときはそっとしておくに限る。下手に突かれるとダメージでかいんだよなあ、アレ。
返事も聞かずに外に出て、廊下に寄りかかって腕を組む。思わず俯きそうになって、寸でのところで顔を上げた。目を閉じたら確実に寝るな、これ。
おかしい。現実だと少しくらい徹夜してもどうってことなかったんだが。
最近何かしたっけかなと、昨今の基本スケジュールを頭の中で思い出す。
午前八時――起床。
同時間――サキと共に朝食。
午前九時――レベル上げ。
正午――昼食。
午後一時――レベル上げ。
午後六時――夕食。
午後七時――対人訓練。
午後十時――サキを宿へ送り、気づかれないように外へ出る。
午前五時――旨そうなクエストやら狩場やら、なんやかんや色々情報を得た末、宿に戻り就寝。
……あれ、あんま俺寝てなくね? というか何、この社畜もびっくりのブラック労働。
働きたくないでござる。絶対に働きたくないでござる!
まあ、一日くらいはなんとかなるだろ。昨日のは不可抗力だし。つまり、俺のせいじゃない。社会が悪い。
二十分くらい経っただろうか、俺の部屋の扉がようやく開いた。装備を整えたいつもの格好になったサキが、顔を真っ赤にしながら出てくる。
「お、おはよう。な、なんかあった?」
おう、こいつさっきのことを丸ごと何もなかったかのようにしてやがるぞ。ふてぶてしい奴め。気持ちはわかる。だって同類だもの。
ここは乗ってやるのが男の甲斐性だろう。そうだよね、小町? え、ちがう?
「いや、俺もいま起きたところだ。なんもなかったぞ」
うっ……と、サキが胸を押さえる。罪悪感にやられたか? 負けるなサキサキ!
「やっぱ、ごめん。部屋とっちゃって……それに、昨日は色々ありがと、ホントに」
サキが思い切り頭を下げる。
負けちゃったのかよ。折角乗ってやったのに。まあいいか。
「気にすんなよ。俺も小町が恋しくて泣くとかあるしな」
「ほんとごめん。ちゃんと寝た? 目の濁りがいつもよりすごいよ?」
さり気なく俺の目ディスるのやめてね。
「濁ってるのはデフォだっつーの」
「大丈夫ならいいけど……」
そういいつつ心配そうに俺の顔を覗きながら、サキがもう手馴れた手つきでパーティ申請をしてくる。現れたウインドウ上の承認ボタンを押して、パーティを組む。
宿の一階に行き、大量に買い込んでいた黒パンをふたりして、もしゃもしゃモグモグする。あまり時間を掛けずに食べ終わり、宿屋の外へ出た。
「今日はどうする? ハチマン、なんかしんどそうだし、特に目が……。今日は軽めにしない?」
「俺のことは気にすんな。それと、さり気なく目をディスるのやめてね。泣いちゃうぞ俺」
「ご、ごめん。心配だったから……」
「わ、わりい。ま、気にすんなよ」
「……ん」
どうにもやりづらい。
それにしても最近こいつの発言や態度から険が取れてきたな。前は顔が合うたび睨まれてた気がするんだが。いまはお互い相手に慣れてきたのだろうか。なんにせよ、罵倒されないのはいいことだ。優しい世界万歳!
しばらく歩いていると、妙に視線が集まっているのを感じる。やばい、あふれ出る俺の男気オーラが視線を吸い寄せてしまうのか……なんてわけがない。ステルスヒッキーは常時発動しているのだ。
視線の先にあるのはサキだ。サキはサキで、何も気づいた風もなく俺の横を風でも切るように颯爽と歩いている。ヤンキーなの?
ぼんやりと遠くを見ながら歩いていると、前方から二人組の男どもがこちらに向かって歩いてくる。片方は茶髪のロン毛男。もうひとりは金髪の爽やかイケメンだ。ふたりとも片手剣を腰にひっさげ、ゆっさゆっさと揺らしている。
ちっ、と内心で舌打ち。葉山と戸部を思い出しちまったじゃねーか。
まあ、ただすれ違うだけだと、ステルスヒッキーを発動したままサキと通り過ぎようとしたところで、ロン毛に呼び止められる。もちろん俺じゃない。サキだ。
「ねえ、キミぃ~。良ければ俺らとパーティー組まな~い?」
なんで声が間延びしちゃってるんだよ。伸びるのは髪だけでいいんだよ。
で、当のサキはというと……。
MU☆SHI。
見事なまでのガン無視。
ここまで来るといっそ潔いな。相手が哀れとすら感じる。
ロン毛が慌ててサキの前に滑り込んで両手を広げる。
しまった、まわりこまれてしまった! にげられない!
「ちょっとちょっと~、無視しないでよ~」
「あ? 邪魔なんだけど」
今度はサキの睨みつけるが炸裂。ロン毛の防御力が下がった! というかしつこいなこいつ。
怯んだロン毛に変わり、今度は金髪が現れる。動きと共にさらっと髪が空気に流れ、きらきらと星でも流れそうだ。イラっとくるよね♪
「おい、そんな強引に誘うなよ。ごめんね、サキさん」
金髪が名前を呼んだ途端、サキの眉が上がる。確実に怒ってらっしゃるな。というか、こいつら、間近にいる俺の存在にまだ気づいていないのか。《隠蔽》スキルじゃなくて、ステルスヒッキーだよ? すげえなステルスヒッキー。スキル顔負けじゃん。
「なんで名前知ってるワケ?」
失言に気づいたか、金髪が両手を上げて首を振った。
「サキさんは有名だからね。凄腕の槍使いだって。だから色々教えて欲しいんだよ。なんなら報酬も出すからさ」
「他をあたりな。こっちにはツレがいるんでね」
悪・即・斬! 並みに即座に斬り捨てると、サキが隣にいる俺を見る。そこでようやく俺の存在に気づいたふたりが、俺の目を見た瞬間、うっと怯んだ。どいつもこいつも酷くねえか?
「いやいや、ないわ~。この人ないわ~」
ロン毛があからさまに馬鹿にした戸部語で言う。金髪も同じく、俺を見てクスクスと笑っている。あれだ、プークスクス、みたいな笑いだ。いつものことだ。ここはさらりと受け流してさっさと行こう。時間の無駄だし。
と思った瞬間、風が走った。
「あんたら……なにあたしのツレをバカにしてんの? 殺すよ?」
サキが槍を抜いていた。穂先は一番近いロン毛に向いている。さすがに早すぎて俺の目にも動きが見えなかった。徐々に人外と化してるだろこいつ。
ロン毛はびっくりしすぎたのか、「べ、っべー……」とか言っちゃってるし。
「このっ!」
ややあって、金髪が唐突に抜剣し、サキの槍へ刃を向けようとする。やっぱりこいつらエセ戸部と葉山もいいところだ。人間としてなっちゃいない。女性からの罵倒は素直に受け取っとけ。それが理不尽であれ急所を突かれることがあってもな。叩かれる男は強くなるぞ。ソースは雪ノ下から日々罵倒を受けている俺。悲しくなってきたな……。
さて、依頼主への暴挙を俺が許すはずも無く、即座に抜剣した俺は金髪の片手剣を弾き、その隙を付いて背後へ回る。俺の姿が消えたように見えた奴の動揺を突いて、後ろから顔面を鷲づかみにして首筋に刃を当てた。そのまま引いたところで圏内である以上意味は無い。この状況の方が恐怖を与えられる。
「……テメエら」
地獄の門が開いた。一切の希望を捨てさせる、そんな声だ。
おっと、これは誰の声だ? こんな怖い声知らないんだけど。
「俺のサキになにしてんだ? マジで殺すぞ?」
俺だった。なにこれ、俺こんな声出せるの? 自分でもびっくりなんだけど。
金髪がうわ言のように、謝ろうとするが顔面への力を強くして黙らせる。
「ヒィッ!」
「誰がしゃべって良いつった? 五秒で去れ。でなきゃ次は殺す。圏外で必ず殺す」
手と短剣を外すと、男たちは脱皮のごとく走り去っていった。まったく、逃げるくらいなら最初からやらなきゃいいのに。
ほっと息をついて短剣を鞘へ修めると周囲の唖然とした視線が集まっているのを感じた。
「あー、サキ、とりあえずさっさと行こうぜ」
声を掛けるが返事が無い。まるで屍のようだ……って昨日もこんなことあったな。まさか街中で立ったまま寝てるの? と思いつつサキの顔を覗く。
そこには、綺麗に真っ赤に染まったリンゴがあった。
え? これ人の顔なの? 超赤いんだけど。
待て、思い出せ。俺さっき何か言ったか?
ひとまずサキの袖口を掴んで歩きながら一連のやり取りを思い出す。思い出してしまった。一個やばいこと言ってた……。
――俺のサキになにしてんだ?
これだな。うん、確実にこれだ。人を物扱いしたらそりゃあ怒るよね……。
さり気なくサキを見る。多少は顔色が戻ったようだが、俯いたままモジモジしている。まだ怒ってるか。そうだよなあ……。
「その、サキ……」
「ひゃいっ!」
俺の声に驚いたのか、短い悲鳴を上げたサキが、両手をわちゃわちゃと動かして数歩バックステップした。驚きすぎだからね。
声を掛けたものの、何と釈明してよいのやら。考えるために頭を何度か掻く。
「あー……あれだ、さっきはすまんかった。サキを物みたいに言っちまって。あれだ、言葉の綾ってやつだ。許してくれると助かる」
素直に謝罪を選択した俺の先で、サキはきょとんとする。すると、はあ、と項垂れてぷいっと顔を逸らした。
「べ、別に、大丈夫。それと、助けてくれて、ありがと」
答えたきり、枝毛のない綺麗な髪をくるくると弄り始め、視線を更に明後日の方に飛ばした。
許してくれたのか?
ならこれで一件落着とばかりに、俺はサキを促して迷宮区へ向かう道を歩み出す。直後、背後でワっと歓声が上がった気がしたが、気にしたら敗北する自信があったので無視する。
今日も元気にレベル上げをしないとな……。やだなあ。ホント働きたくないんだけど。
目を開くと、そこは普段使用している宿屋の天上ではなかった。知らない天井だ、と言いたいところだったが、生憎と見えるのは果ての無い青々とした蒼穹だけ。周囲は迷宮区から少し外れた草むら。だから俺はこう言う事にした。
「知らない空だ……」
「ん、起きた?」
にゅ、と頭上にサキの顔が現れる。あまりの近さに目をぱちくりしていると、頭の後ろが実に幸せな感触を感受していることに気づく。視線を少し上にずらせば、大きな丘がふたつ。下から見上げる胸は最高だと思います、まる。
考えるまでも無い。
「膝枕されてんのか……」
「ん、あんた覚えてないの?」
言われて考えるも、心当たりが無さすぎる。迷宮区へ向かったはずがいつの間にかサキに膝枕されている。ザ・ワールドでも食らったワケ?
「全く分からん」
はあ、とサキが呆れの含んだ息を漏らす。だが、俺を見下ろす目つきは柔らかい。
「あんた、迷宮区へ行く途中で、眠い、寝させてくれ、って言っていきなり倒れたんだよ。さすがにあたしも焦ったよ」
記憶にまったく無い。さすがに徹夜明けで戦いに行くのは間違ってたか。
「マジか、なんかすまん」
「いいよ。あんたには世話になりっぱなしだし」
この体勢は気持ち良いが、このままでいるわけにはいかない。幸い頭の鈍痛も和らいだことだし、このまま迷宮区へ入ってレベル上げしても問題ないだろう。
身体を上げようとしたところで、サキの手がそれを止める。
「まだ寝ときなよ」
「いや、もう目が覚めたから大丈夫なんだが……」
「いいから、もうちょっとだけ」
そう言われてしまうと、甘えたい気持ちが強くなってしまう。きっぱりと断るべきなのは分かっているが、こうも面と向かって優しくされると、どうしていいか分からなくなってしまう。サキと過ごしている中で、こういうことだけはやはり慣れない。ただ自分が捻くれているだけなのだろう。
後頭部に柔らかさを感じながら、ぼけーっと空を見る。気温は熱すぎず寒すぎず、ぽかぽかと眠気を誘う陽気だ。時折吹く風も頬をやんわりと撫でる程度で、目を閉じればすぐにでも眠ってしまいそうだ。周囲にはMobが発生する前兆も無く、安全地帯なのだろう。悪意ある第三者さえなければ、このまま再び眠りこけてしまいたい。
「いい天気だね……」
風になびくポニーテールを軽く押さえたサキが、遠くを見ながら言った。その視線の先には、ぽつりと寂しげに浮かんだひとつの雲。
時間がゆったりと流れるこの瞬間が、どうしてか愛おしく感じた。
以前読んだ本の一説を思い出す。
――時よ止まれ。汝はいかにも美しい。
ゲーテのファウストだったか。
心地の良い天気の下で、気負う必要の無い相手にこうしてのんびりと膝枕をされている。何者も縛るものはなく、悪意のない空間でゆったりとした時間を享受する。
平和だ。
この一瞬だけを切り取れば、過去の人生すべての中で、一番心安らいでいると思う。思わず泣きたくなるほどに。
だから俺はこう思う。
時よ止まれ。汝はいかにも美しいから。
たぶん、ファウストはもっと壮絶な体験から、その理想とする国家を夢想し、様々なことを感じた瞬間へ、万感の思いを込め、言ったのだろう。一読しかしていないから間違っているだろうが、確かに俺も言葉通りの意味を感じてしまった。
本当に止まってくれないだろうか、と。
「サキ」
「うん?」
「……ありがとな」
「……いいよ」
サキの声音を耳に響かせると、そのまま意識を沈ませていく。もうしばらくだけは、時を止まらせておきたかった。
結局、レベル上げも訓練もすることなく、ふたりして草むらでのんびりし続け、夕日を眺めてから帰路に着いた。
さすがに恥ずかしくなってサキの顔を見ることができず、彼女も彼女で似たような心情だったか、互いに無言だ。俺は約束があるといってサキと別れ、昨日と同じ食事処の奥まった席へ直行し、テーブルに突っ伏した。
なんであんなことしちまったんだ……。
一時の気の迷いだと思いたい、思いたいんだが……。
うあああああ! 死にたい! 超死にたい! 誰かさっさと俺を殺してくれえええええ! やだよお、明日サキに会うのが怖いよおお! なんて顔して会えばいいんだよ! 死ね! 死ね俺! 死んでしまええええええ!
心中で叫び、しかし、宿屋のベッドの上ではないからジタバタできず、ぬおぉぉと唸り声を上げてテーブルに額を押し付けまくる。店内は、味がそこそこだからか、人入りもそこそこだ。きっと視線は奇行を繰り返す俺に釘付けだろう。
知ったことか! いまはクライシスしたアイデンティティをどうにかしなきゃならんのだ!
ハートがブロークンだ! ルー語で悪かったなこの野郎!
そのまま床をぶち抜く勢いで踏み叩き、テーブルかち割るように頭突きをし……。
やがて、力なく倒れこんだ。
「……死にたい」
切実なつぶやきだった。
また新たなトラウマを作ってしまった。どうしよう、超憂鬱だ。
嫌だったわけではない。超よかった。超うれしかった。だからこそ、余計に恥ずかしい。俺はこんな軟派ではなかったはずなのに……!
「なにやってんだよハチ……」
ドン引きした声が聞こえた。むくっと起き上がると、そこにはあーら不思議、頬を引きつらせたキリト君がいらっしゃるじゃないか。
ハチ、か。随分昨日で仲良くなっちまったじゃねーか。半ば現実逃避を開始しようとするが、それでもあのときの光景がフラッシュバックしてのた打ち回りたくなる。
「いま危険がデンジャーだから。ブロークンがハートだから……」
「いや、意味わかんないから」
前いいか? と言ったキリトは、俺の返事を待たずに対面に座る。いい根性してるじゃないか。ぼっちの癖に。一度距離が縮まると意外と遠慮ない奴だな、こいつ。
「で、どうしたんだよ? 話なら聞くぞ?」
なんだかんだいっても人がいいのだろう、心配そうにキリトが聞いてくる。だが、間が悪い。いまの俺はトラウマの初期症状と壮絶な格闘戦を繰り広げている最中なのだ。いくらセコンドがタオルを投げようが、始まってしまった戦いはやめられない止まらないのだ。
「言えん。つーか触れるな。触れないで下さいお願いします」
「そ、そうか……」
キリトがまたしても引いてらっしゃる。すまんなキリト。戦いが終わったら、ちゃんと相手するから。
そういえばと、何気ない風を装ってキリトが口火を開く。
「朝大騒ぎだったらしいな。お前がサキさんを盛大に守ったとかなんとか――」
「やめて――! 話題あんま変わってないから! これ以上やったら俺トラウマ死するからホントマジお願いやめてくださいお願いします!」
土下座でもなんでもするからやめて下さい!
「わ、分かった。その話題は金輪際口にしないから!」
俺の必死の訴えが通じたか、キリトも無自覚な矛を収めてくれた。分かる奴で助かった。
こほん、とキリトが咳払いをする。話題を変えてくれるのね。助かるよ。
よし、と腹に力を込めたキリトが慎重に口を開く。
「今日迷宮区へ向かったんだけどさ。まあいつものことだけど。ハチ、お前サキさんに膝枕――」
「さっきから殺されてえのかテメエ! 無自覚に人のトラウマ抉ってんじゃねえよ! 表出ろこんちくしょうが!」
「す、すまん! そんなつもりじゃ! 決してそんなつもりじゃないから! だからタバスコ投げるのはやめてくれ! おい、フォークは凶器だからこっち向けんな刺そうとすんな!」
「避けんじゃねえ! その真っ黒くろすけを真っ赤に染めてやるから大人しく食らいやがれ!」
……。
五分にも渡る決死の格闘の末、ようやく落ち着いた俺とキリトは、はあはあと肩で息をしながら腰を落ち着けた。周囲はもはや静かも静か。なぜなら俺たちの言い争いに恐れをなしたか、店内はもぬけの殻になっているのだ。
よく出禁にならねえな俺たち。ごめんねNPCの店員さん。
「は、ハチ……落ち着いたか?」
「すまん。ここの代金は俺が持つわ」
「ああ、サンキュ。じゃあなんか頼もうぜ。腹減った」
「……だな」
ウインドウを操作してメニューを呼び出す。とりあえず肉が食いたい。トラウマ抉られて疲れたから精力を付けたい。
それっぽいメニューを見繕ってオーダーを依頼する。
「で、ハチ。もう聞いたか?」
キリトの言葉に一瞬身構える。右手にはフォーク、左手にはタバスコを完備しておく。キリトの額に脂汗が滲んでいた。
「い、言い方が悪かった。アルゴから明日攻略会議だって聞いてるか?」
「なに?」
慌ててメッセージを検索。アルゴから三件メッセージが来ていた。ちょうどサキと……ごにょごにょしていたときだ。
中身をざっと見ると、確かに最初の一件はキリトの言った通りのことが書いてあった。
クソ! 半日時間を無駄に……無駄ではないけど、無いんだけど、なんて言えばいいのこういうとき。国語三位の筈なのに語彙が乏し過ぎんだろ。まだトラウマから抜けきれてないのかよ。
料理が届くが、そんなことにうつつを抜かしている状況では無い。
二件目を見る。昨夜の依頼に対する回答であり、一つ目の保険だ。
「黒か……」
「なんだ? 呼んだか?」
お前じゃねえよ。なんで黒で反応しちゃうんだよ。
既に料理を頬張っていたキリトに違うと手で振って返し、三通目を開く。
途端、トラウマがフラッシュバックする。
――サキちゃんの膝枕は気持ちよかったカ? このことを知ってるのはオレッちと偶然居合わせたキー坊だけだかラ、安心しろヨ。
無言で立ち上がる。
オラ、もうキレチマッタヨ――
俺の目は、もはや宇宙起源よりもなお混沌として、黒々としているだろう。闇よりもなお昏いに違いない。いまならギガ・スレイブも放てちゃう。
右手にはフォークを四本、左手にはタバスコを二本を携え、いざ行かん。
「《鼠》め。貴様は沈めるのではなく藁のように殺してやる――!」
「またかよ! アルゴのやつ地雷踏んだのか! ていうか言ってる意味が分からない!」
危険な雄叫びを上げる俺と、必死で食い止めるキリトの戦いは、今度は十分間に渡って続けられた。
……十分後。
もうなんで出禁にならないのか分からない程に暴れ終え、キリトと俺は終戦協定を締結した。やっぱり平和は大事だと思います。ハチマン、スイスになりたい。
「ハチ、俺レベル上げより疲れた……」
「奇遇だなキリト、俺も疲れた……」
「とりあえず、飯食おうぜ。いい加減完食したいんだ」
「おう、なんかホントすまんな……」
すっかりと冷め、きっと耐久値がほとんどなくなりかけたハンバーグもどきにナイフを入れる。
キリトと適当に会話をしつつ食事を終える頃になると、ようやく踏ん切りがついた。どうせ宿に帰ってベッドに入るときにも、明日サキと会う直前にも、今日のことを思い出して無様に盛大に転げまわるのだ。
だが、それがなんだというのだ。いつだって俺はトラウマや黒歴史と共に生き続け、こうしてゲームの中でもなんとか生活できている。
そんな俺が、わりと好きなんだと思う。ただ、思うように指針が定まってくれないだけなのだと信じたい。
だから欺瞞よ、もう少し、夢を見させて欲しい。