ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
ふたりの引越しは、その日の内に行われた。目を覚ます気配のないサキの代わりに私が引越しを独断で決定し、キリトが即座に二十二層に行きログハウスを購入した。エギルの回廊結晶で、寝室からログハウスへと直接ふたりを運んだ。
ログハウスは、木造りが暖かい場所だった。窓から差し込む春の日差しは部屋にぬくもりを与え、ふたりを捕えて離さない闇を振り払うかのようだ。間取りは広く、二LDKだ。また全員が集まれそうな広さのリビングだ。きっと、楽しくなる。
ふたりを寝室へ寝かせ、全員がリビングに集まる。
「みんな、本当にありがとう。ふたりに代わり感謝します」
私はここまでしてくれた皆に深く頭を下げる。感謝してもしたりない。彼らがいなければ、もう本当にこの世の終わりだった。黙示録のごとくに天使が七の喇叭を吹いていた。
クラインが一歩足を踏み出した。
「気にすンなよユキノさん。むしろオレらのが謝りたい。ふたりを酷使してすまなかった。あのとき、間に合わなくてすまんかった……!」
クラインが頭を下げる。ぽたぽたと、床に染みが生まれる。そしてエギルもそれに続く。
「申し訳ない。大人のオレが不甲斐ない所為で、あいつらに酷な目にあわせてしまった。本当に申し訳ない」
ああ、やめてちょうだい。この家に後悔を持ち込まないで。あの家と同じ空気にしないで……。
「おい、ふたりともやめろ」
キリトが鋭く言った。クラインとエギルの顔が上がる。全員の視線がキリトへ集中する。
「なんのために引っ越してきたんだよ。もう湿っぽいのはやめようぜ。なんだろ、アレだよアレ、アレがこれしてアレして、良い感じにしようぜ!」
どこかで聞いたような台詞だ。
ああ……思い出した。
キリトの適当すぎる言葉に、アスナが噴出す。
「それハチくんのお断り常套文句だよ。やっぱハチくんの癖、キリトくんにも移ってるね」
恥ずかしそうにキリトは頭をがりがりと掻いた。その癖も彼と同じね。本当に、無駄なところばかり影響を与えるんだから、本当に彼は性質が悪い。
「しょうがないじゃないか。一層からの付き合いなんだからさ」
「オレっちが、ぼっちのキー坊に友達がほしいって言われたから紹介したんだよナ!」
アルゴがまぜっかえす。キリトは慌てて両手を前に突き出した。
「ち、ちがうぞ! そんなんじゃないからな!」
へえ、とアスナが笑う。
「キリトくん、やっぱり最初の頃から人見知りすごかったんだ」
「なんだよ、悪いかよ……」
キリトがしょんぼりとしゃがみ込むと、床にのの字を書き始めた。いつもは勇猛果敢に前線を駆け抜けているようだけれど、こうしてみると、やっぱり歳相応ね。思わず私も微笑する。
「そんなに虐めないであげて。かくいう私も彼と出会うまではひとりだったから」
「え?」
全員が驚愕。
なにかしら。私、変なことでも言ったの?
「ゆ、ユキノさんが、ぼっち……だっただと?」
クラインがあんぐりと口を開いてつぶやく。そうよ、ぼっちよ。いけないの?
「そんな馬鹿な……同士がここにいたなんて」
キリトが潤んだ目で私を見つめてくる。なんだろう、すごく切ないのだけれど。彼、結構いいところあると思ったのだけれど、本当にひとりだったのね。
アスナは相変わらずくすくすと笑っている。彼女、友達多そうだものね。羨ましいわ。
「ハー坊の現実の友達はぼっちが多いナ!」
アルゴが楽しそうに言う。あのね、楽しくないから。悲しいから。もうやめて! 私の心をまた砕きたいの!?
ぱちん、と手を鳴らす音。
「ま、昔は昔だ。いまは違う。それでいいだろう?」
私が落ち込んでいることに気づいたか、エギルが助け舟を出してくれた。とてもありがたい。ちなみに、ディアベルは隣で笑っている。腹を抱えて笑っている。あとで折檻が必要ね。フルコースを堪能して差し上げるわ。覚えておきなさい。
「ま、なンだ。これからは楽しくやるか。サキさん起きたらびっくりするだろうなあ」
クラインが快活に笑って言う。
「ひとまず鉄拳のひとつは覚悟しておくわ。勝手に引っ越してしまったんだもの」
「怒ると怖いからな……」
エギルはなにかトラウマでも思い出したように、遠い目をしていた。一体何があったんだろうか。少し気になる。
「緑龍のときだろ? リンドに死んで来いって言ってたらしいな。実はちっとだけ聞こえてたンだよなああのとき」
くつくつとクラインが笑い出す。確かに、状況によっては彼女なら言いそうな台詞だ。
なんだったかなあ、とクラインがぽつぽつと当時の状況を語る。
「ぷっ……それはトラウマになるのは分かるぞエギル」
キリトが笑いを堪えながらエギルの肩を叩く。アスナも苦笑している。
「あ、アホがいるヨ! アホがいたヨ!」
アルゴは床を転げまわって笑っている。当時の状況を考えるとそこまでは笑えないが、楽しい雰囲気を作り出すには最高だ。
ディアベルはもうしゃがみ込んで腹を押さえている。彼、意外と笑い上戸なのね。でもさっきのは許さないわよ。覚えてなさい。
「面白い話ならまだあるぞ」
キリトが実に皮肉めいた笑みを唇に刻んで話を始める。
「アルゴも覚えてるだろ。一層のとき、ハチがサキさんをしつこい奴から助けた話。それからハチがサキさんに膝枕されてたときのこと」
アルゴの転げ周りが更に速度を増す。
「も、もうやめてくれヨ! おなか、おなか痛いヨ!」
キリトはやめない。止まらない。
「あのあと、あいつと飯屋で会ってさ。うんうん唸ってたから、心配して話かけたんだよ。で、さっきの話をしたらあいつ、どうしたと思う?」
全員がキリトの話に集中する。かくいう私も気になってしまう。
にやり、とキリトがいやらしく笑った。
「あいつ、いきなりフォークとタバスコを手に俺に向かって襲い掛かったんだよ。無自覚にトラウマ抉るんじゃねえって。俺もそれに応戦して、店内大騒ぎだったぜ」
爆笑だ。
もうどっかんどっかんだ。
なにやってるんだ彼は。
「バカだ、バカがいる! あいつマジモンのバカだ!!」
クラインも遂にアルゴに加わった。アスナですら腹を抱えてひぃひぃ言っている。エギルは微笑んでいる、ように見せかけてさっと後ろを向いたかとおもうと、急に肩を震わせ始めた。
しかもだ、とキリトが続ける。もはや彼の顔は崩壊していた。完全なにやけ面だ。
「アルゴから同じようなメッセージが届いたんだろうな。藁のように殺してやる! とか意味不明なこと言い出して、また俺と大暴れ。よく出禁にならなかったよなあ俺たち」
「どこの狂信者の神父様だよ! 台詞微妙にちげえし! しかも銃剣じゃなくてフォークにタバスコって、アホ過ぎる……!!」
クラインが喘ぐように言う。もう彼の息は絶え絶えだ。
そ、そういえば……とアスナもネタを出す。あの人、本当にトラウマ製造機なのね。
「一層のボス戦だったかな。取り巻きを倒してたときに聞こえちゃったの。貴様らに笑みなど似合わない……ってキメ顔で言ってるハチくんを……。私、笑いを堪えるのに必死で必死で――!」
ああ、と私は頭を抱える。
あの人、どれだけバカなのだろう。なんで惚れたのかしら。気の迷い? 錯乱してたのかしら?
それにしても――
「も、もうやめて……わ、わたし、死んじゃうから……!」
かくいう私もお腹が痛くなるほど笑っていた。転げまわってはいないけれど。
リビングは笑いで溢れていた。多幸感が私たちの周りを子どものように駆け回っていた。
うるさかっただろう。騒がしかっただろう。なのに、寝室からふたりが起きる様子などない。それどころかドア越しにふたりの安堵の寝息すら聞こえてきそうな、ふんわりとした優しい空気が流れていた。
あの、誰もが音をたてず、息を殺し、なにもかもが凍てついていた部屋とは違う。
もっと早くこうしていればよかった。
二ヶ月近くの月日を費やし、私たちはようやくひとつ目の正解を引いたのだろう。
◇◆◇
引越しから一週間が経った。ハチマンはあれから驚くほど暴れることがなくなり、悪夢にうなされることもなくなった。時折サキの名を呼ぶことはあれど、サキの模造品となった私が駆け寄ると、いかばかりかの悲しみを瞳に蓄えながらも眠りに付く。
サキはというと、今までの分を取り返すように眠り続けている。胸を上下させて、規則的な寝息と共に、やはりハチマンの名を時折小さく呟いていた。きっと何もかもに疲れていたのだろう。せめて、もう少しはゆっくりと眠らせていてあげたい。
そんな日々を毎日繰り返していたある日のことだ。
「ユキノちゃん。こんなの作ってもらったヨ」
アルゴがあるものを持ってログハウスにやって来た。私はそれを見て、この世界は本当に何でもできるのだと驚いた。
「これは……車椅子ね」
私の声に、アルゴがえっへん、と胸をそった。うぅ、私より胸がある……。
「随分苦労したんだゾ。あっちこっちのNPCとか職人プレイヤーとかに頼んで、ついさっきようやく出来上がったんだヨ」
ハチマンが好んで着ていたコートと同じ、深い臙脂色の車椅子を私は優しく撫でる。これなら、外の空気を吸わせてあげられる。
「ありがとう、アルゴさん」
「ハー坊とサキちゃんのためサ。これくらいなんともないヨ」
ぴょん、と跳ねたアルゴが胸の前で両の手をやわく握って見せる。
そのさまは鼠というよりは猫のようで……。
ね、猫?
ちょっと、ここにカメラないの? いますぐアルゴさんを写真に収めたいのだけれど。なんで私のストレージに記録結晶が無いの? ディアベルもなんで持ってないのよ。ああ、せめてこの目に刻んでおかないと。だからお願いだからそのままの姿でいてちょうだい。たった一時間、いいえ、二時間ほどでいいわ。それと撫でてもいいかしら。もふもふしたくてしょうがないわ。
「ユキノちゃん……顔が怖いヨ……」
知らずうちに、アルゴを凝視していた。待って。分かってるわ。いまの私は冷静じゃない。でも仕方ないの。
「アルゴさん、ひとつお願いがあるの」
「な、なんだイ?」
アルゴが猫ポーズで固まったまま顔をひきつらせて答える。
「記録結晶を持っていないかしら? 良い値で結構よ。それから、またそのポーズをしてくれないかしら。ぜひ写真や映像に残しておきたいの」
「なんか愛玩動物の気分がわかった気がするヨ……」
そう言いつつ、アルゴは記録結晶をストレージから出し、私に渡してくれた。
「ありがとう。では、さあ、やってちょうだい」
「真顔で言われるとやりずらいなア……」
それじゃ失礼して、と一度咳払いしたアルゴがキュートな満面笑顔で猫ポーズ。
「よろしくにゃん♪」
ぐふっ!
私は胸を押さえる。いまなら死んでも構わない気がしてきたわ。ああ、ハチマンくん。あなたが戸塚くんへ向けた好意が少しわかった気がするわ。彼女は天使だわ。猫天使よ。アルネコエルよ。語呂が悪いわね。
「ああ、いいわ。とても素敵よ」
うっとりとしながらアルゴの姿を撮りまくる。撮りまくる。撮りまくる。
一時間ほどだろうか。存分に写真と映像を撮った私は、ひとしきりアルゴを愛でててようやく満足した。アルゴはというと、いまは床が友達だといわんばかりに疲労困憊の様子だ。非常に申し訳ない……。
「貸し一にしとくヨ。いつか存分に返してもらうからネ」
アルゴが恨めしそうに言う。そして、まるで取立て屋のように、にやりと笑った。
「ええ、分かったわ。だから毎週お願いしていいかしら。毎日でもいいのだけれど」
「ま、またアレをやるのかヨ……」
私の科白に、アルゴは再び床とお友達になる。私はそれを肯定と受け取った。アルゴさん、なんていい人なんでしょう。いえ、良い猫かしら?
「ありがとう、またお願いするわ」
そう言って、私は床に寝転んだアルゴの頭を優しく撫でた。びくっとしたアルゴが可愛い。この子、本当に猫みたいね。
今日はこのぐらいにして立ち上がる。
さあ、本題に戻るとしよう。ハチマンを外に連れ出す準備をしないと。
皆と相談した結果、ハチマンを外へ連れ出すのは、彼が目を覚まして落ち着いてからにすることとなった。いまの彼なら、きっと大丈夫だと皆口々に言っていた。以前ならば考えられないくらい、皆は明るくなった。場や空気というものはそれほどに重要なのだろう。
車椅子が届けられてから二日後、その機会が訪れた。
私はいつものように髪をシュシュで纏めた模造サキとなり、ハチマンの脇に座っていた。丁度攻略の休暇日であったディアベルも傍にいる。
そんな折、彼がふと目を覚ましたのだ。視線は相変わらず宙を彷徨ったままだが、その口から慟哭を吐き出すことはない。ただサキを探すように瞳を動かしている。
私はハチマンの手を優しく取り、なるべく声を作って言葉を注いだ。
「ハチマン。おはよう。大丈夫?」
ハチマンは声に反応したように瞳を私へと移し、瞳を少しだけ揺らした。
ああ、と声なく唇だけで反応する。
ようやくだ。ここまで来るのに二ヶ月以上掛かった。それでも、彼が少しだけ現実に戻ってきた。闇の中から手を伸ばした。その事実が嬉しくて涙が零れそうだった。
「外に出てみない? 景色が綺麗だよ」
ハチマンの瞳が窓へ向く。記憶を辿っているのだろうか。何かを思い出したように、僅かだがその唇が笑みを作った。
ああ、と再び声無き反応。
私は思わずディアベルと顔を見合わせた。彼もまた驚いたように、でも嬉しそうに微笑んだ。すぐさま車椅子を取りに行き、ハチマンの脇へと寄せる。
「じゃあ、車椅子があるから外にでよ? きっと風が気持ちいいよ」
そう言って、私はディアベルと共にハチマンの身体を慎重に車椅子へ乗せる。彼は一切抵抗をしなかった。以前では考えられない反応だった。
「それじゃ、行くよ」
そっと車椅子を押して外へ向かう。ディアベルは私の一歩後ろを歩いてくれる。
やがて、ようやくハチマンが外気に触れた。一面の緑が視界に飛び込み、一陣の風が私たちの身体をやんわりと撫でる。鮮やかな色彩を見せるフィールドを眺めながら、ゆっくりと歩を進める。
何もかもが暖かく、柔らかい雰囲気で私たちを包んでくれる。ここには幸いしかない。絶望などないよと言ってくれているようだ。自然と私も笑みが生まれる。ちらりと背後を見ると、ディアベルもどこか楽しそうだった。
いつだったか、ハチマンとサキのふたりに再会した場所にたどり着く。少し苦いけれど、嬉しい出来事のきっかけとなった、彼と彼女との邂逅。
脳裏にふたりと出会ってからの思い出が蘇る。サキと話せたこと。ハチマンと仲直りできたこと。事件に巻き込まれ、それでも彼が助けてくれたこと。ふたりの仲をなんとか取り成そうと必死になったこと。ふたりの仲間との何度も行った食事会。そしてディアベルとの出会い。たった一度ふたりで食事を共にしただけだけれど、心に染みる彼の真摯さが、素直さが、愚直さが、私を一瞬で捉えたあの夢のひと時。思い出していまでも恥ずかしくなる、公衆での私の行動。
よいことばかりじゃなかったけれど、蓋を開ければいつだって宝石のように輝く思い出たちが、私の胸を熱く叩く。
ふと、彼の身体がぴくりと震えた。
ぎょっとしてハチマンの顔を覗き込む。
彼は泣いていた。声はなく、唇には笑みすら浮かべて、ただひたすらに涙を流していた。
彼の唇が動く。懸命に、まるで赤子が初めて自分の足で立つかのように。
「あ……り、が……と。……ゆ、き……の……」
ああ、ああ、ああ、ああ、ああ……。
その場に崩れる。彼の前で涙など見せてはならないのに。泣いてしまう。心の底から噴水のようにあふれ出る。ディアベルが私の肩に手を添えてくれる。彼の体温が肩越しに伝わり、泣けとばかりに心を震わせる。
やっぱりバレていたのね。そうよね、あなたがサキさんを間違えるわけないもの。でも、そんなことはどうでもいい。
ただ、嬉しかった。
彼が言葉を発した。それはとてもつたなく、耳を澄ませなければ聞こえないほどの小さな声だったけれど。確かに彼は言葉を発した。意味のある、とても感情を乗せた声を届けてくれた。
それだけで、私は心の底から喜んだ。
サキ。
ねえ、サキ。
あなたの愛が、ようやくハチマンへ届いたわよ。
だからお願い。
あなたも、夢から覚めて現実に戻ってきて。
――
――――
――――――――――――――――
「ユキノちゃん! ユキノちゃん! サキちゃんが……サキちゃんが!」
はっと、私は現実に戻る。
声のした方向に顔を向ける。
アルゴが駆け寄ってくる。その表情には先ほどまでの緩さは欠片もない。まるで、いつかの日を再現するかのように。
幸せの空気が崩れ落ちる。ようやく張れた薄氷が、気まぐれに投げられた石によって崩壊するように。封じた闇が、その鎌首をもたげるように。
知らず、声が掠れる。
「落ち着いて、どう、したの?」
私たちの前で荒い息を吐き出したアルゴが、瞳を盛大に揺らして、言った。
「今度はサキちゃんが……サキちゃんが……! ハチマンみたいになっちゃった――」
……。
――神よ。
――ああ神よ。
涙の色が変わる。歓喜のそれから、再び奈落へと突き落とされる絶望の色へと豹変する。
――聞こえていますか?
――聞こえていますか?
悪戯に希望を持たせ、あと少し、あと少しと、未来へと歩む人の道の先に。まるで嘲笑うように穴を掘り、まんまと人はそれに嵌る。人は、希望の山を登ったあとほど、絶望の海に沈むほうがはるかに痛い。
神など信じていない。信仰などなかった。それでも、人はいつも困難を前に縋るように神へと祈りを捧げる。寄る辺無きこの世に、最後に頼れるのは神しかいないからだ。
だからこそ、いまこのとき……。
――私は、あなたを、
――絶対に許さない……。
◇◆◇
私たちは、心へ激震を走らせる衝撃に、一体何度耐えればよいのだろう。いくど幸せを崩されれば満足されるのだろう。
このとき、私はひとつの真理にたどり着いた気がした。あまりにも馬鹿馬鹿しく、誰も信じてはくれないような、下らない与太話。
そも、この世界が地獄なのだ。罪人を焼く煉獄であり、裁かれる地獄なのだ。
だって、そうではないか。ここが地獄ではなければ、一体なんだというのだ。これが試練だと、神が与えた試練だと? そんな横暴な神などいらない。こんなふざけた運命などいらない。これはただの虐待だ。
私にはもう、人々の背から伸びた糸をたくみに操る忌まわしき神が、高笑いを上げている姿が目に浮かぶ。気まぐれに幸福の光を与え、すぐさま罠を張ってそれに嵌るのを今か今かと眺めている、憎らしい存在――
意識を取りこぼしそうになりながら、私は必死に思考を紡ぐ。それがなんであっても、思考がある限りは意識を掴んでいられる。
アルゴの訴えを受け、私はハチマンをディアベルとアルゴに任せ、すぐさまログハウスに戻った。ログハウスには既にエギルとアスナが駆けつけていた。
寝室には、再びぽっかりと穴が空いていた気がした。門が生まれていた気がした。地獄の門がまた開いたのだと思った。
……。
どこ、どこなのハチマン!
ハチマンハチマンハチマンハチマン!
あたしを置いていかないで!
ハチマンどこなの、どこにいったの!?
お願いだからあたしの傍にいて……!
それだけでいいから……。
それ以外はもう望まないから……!
ハチマン、ハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマンハチマン!!
ああ、いや、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
あなたがいない世界なんて嫌だ!
こんな世界、無くなってしまえええええええええええええええええええええええええええええええ!!
……呪いだ。呪詛だ。おぞましいまでに世を恨む声が、あのサキの口から止まることのない濁流となって流れ出してゆく。
暴れるサキをアスナが必死で抱きしめる。エギルが拳を震わせながら、サキに訴えかけている。ふたりとも泣きそうに顔を歪めて、それでも空気だけは壊すまいと、崩れそうな顔を笑顔にしてサキへ言葉の雨を降らせる。
「大丈夫。ハチくんはいるよ」「問題ない。ちょっと散歩に行っただけだ、すぐ帰ってくる」「ハチくん、サキさんのお陰で良くなったよ」「そうだ、また話せる。話せるんだぞ」「だから大丈夫、大丈夫だよサキさん」「なにも心配することはないぞ。ほら、働きたくねえって言いながらすぐ帰ってくるさ!」「この前、キリトくんからハチくんの面白い話を訊いたよ。きっとサキさんも聞いたら笑っちゃうよ」「おう、オレたちも爆笑したんだ。楽しいぞ。きっと楽しくなる」
サキは訊いていない。もう何も世を感じたくないというかのように、耳を塞ぎ、頭を左右に大きく振って、そして、ただただ慟哭する。
私は、握った拳を額に強く押し付ける。
回れよ頭。策を紡げ。冴えたやり方を創りなさい。
頭脳明晰なんでしょう。だったら解決策のひとつでもさっさと作りなさい。できないの? 彼ならやったでしょう? それが奇策であり正当派でなかったとしても、どんな難題だって片付けたでしょう?
雪ノ下雪乃、あなたはそれをやらなければならないのよ……!
……できるわけないでしょ。そんなポンポン奇策なんて生まれるわけないじゃない。私は彼じゃない。私は彼女でもない。私は私なのだから。
なら、もういい。
私は私らしく、本来の雪ノ下雪乃のままに動く。
かつかつと足音を鳴らして部屋に入る。昔のように、世界の中心軸を体現するかのように背筋をぴんと伸ばして。アスナとエギルが私に気づく。私の表情を見て、ふたりの顔に僅かな恐れ。
「ふたりとも、どきなさい」
静かに言った。それだけで、ふたりが何か言い知れない力学でも働いたかのように、さっとサキの下から離れた。
拘束を逃れた暴れるサキの前に、私は立つ。
そして、そのままの勢いで彼女の頬に思い切り右で平手打ちをした。
衝撃に首を右に振ったサキが、目を剥いて私を見た。
そうよ、私を見なさい。私だけを見なさい。いま、あなたを現実へ無理やりにでも連れ戻す私を見なさい!
「ふざけないでちょうだいよ。なにが世界なんて無くなれよ。私たちまでそれに巻き込まないでくれるかしら? 迷惑だわ。心底イラつくわ。なに、あなた? そんなに悲劇のヒロインが好きなの? 似合わないわよ。あなた、ハチマンがいないと何もできないの? そんな情けない女なの?」
場が凍る。絶対零度が生まれたように、アスナが、エギルが、空気が、寝室が、ログハウスが、そして、サキすら動きを止める。
「ふざけないで。ふざけないでちょうだい! かつて彼を好いた私が、アルゴさんが! あなたみたいなこんな下らない女にあの人を任せられると思う? 思うわけないでしょうが! いいからさっさと現実を見なさい!」
もう一度、今度は左で頬を打つ。
「あなたしかいないのよ! 彼の瞳にはあなたしか映ってないのよ! だったら、しゃんとしなさい! あなたは私たちよりずっと素敵な女性なのだから、彼の心を射止めたとても素敵な女の子なのだから、彼に相応しい振る舞いをなさい! 川崎沙希! 駄々を捏ねてないでさっさとも戻ってきなさい!!」
更にもう一度、全力を込めた右を振りかぶる。
が、
「……言いたい放題いってくれるね、雪ノ下」
サキがその手を左手で掴んでいた。
視線が合う。サキの瞳は、ちゃんと私の姿を捉えていた。しっかりとした意識を持って、私を見つめていた。
しばらく見つめ合っていた。やがて、サキがまなじりを下げて、言った。
「でも、ありがと……」
思わずサキを抱きしめた。やや遅れて、サキが私を抱きしめ返す。
「叩いてしまってごめんなさい。酷いことを言ってごめんなさい。もう、私には冴えた方法なんて出てこなくて、私らしいやり方しかできなかったの……」
「昔のあんたを思い出したよ。だから、あたしも昔のあたしを思い出した。一発叩いてやらなきゃって。気づいたらあんたが目の前にいたよ。さすがに三発目は嫌だったからね、受け止めさせてもらったけど」
「あと二回くらい叩きたかったわ」
「勘弁してよ。でも、随分心配かけたみたいだし、しょうがないか」
「冗談よ。本気にしないで」
「あんた、自分が冗談を言う奴じゃないって知ってるでしょ?」
「私が変わったこと、知ってるでしょう? あなたも変わったことを私は知っているわ」
「ん、そうだね……そうだったね」
どちらともなく身体を離す。サキが、あの薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべた。彼を捕えて離さない、見る者を魅了する魅力的な微笑を。
「ありがと。ちゃんと正気に戻ったよ」
ああ、よかった。
安堵のまま私はその場に膝をつく。慌てたアスナが私に寄り添い、身体を支えてくれる。
サキの視線がエギルとアスナへ向けられる。
「随分と心配かけたね。ありがとう。あんたたちの声は、ちゃんと聞こえていたよ。ありがとう、ありがとう……」
サキが深々と頭を下げる。エギルも、アスナも、涙を浮かべながらも、必死に笑みを作って答えた。
「なに、問題ない。みんなあんたらが好きでやったんだ。戻ってきてくれてよかった」
「大丈夫だよ。ようやく、サキさんに恩返しができた気がするよ。おかえりなさい、サキさん」
空気が戻る。暖かな春の陽気が舞い降りてくる。そして、門が閉じる。役目を終えたとばかりに、絶望ばかりを撒き散らした地獄の門が閉じる。
ノックの音。
返事を返すと、そっとドアを開けたディアベルが部屋の中を覗いていた。目が合った私は、ひとつ頷くと、彼はすべてを悟ったように爽やかに微笑んだ。
がちゃりとドアが開く。ディアベルが入ってきて、サキに声をかける。
「やあ、おかえり。サキさん」
「ただいま、でいいのかな。あんたにも迷惑かけたね。ごめん、それとありがとう」
ディアベルが首を振る。
「いいさ。君たちには恩がたくさんあるからね。それを返していっただけだよ。それに、親友だろう?」
くすくすとサキが笑う。
「親友か。いい響きだね」
そこで、ようやくアルゴが入ってきた。ハチマンを車椅子に乗せて、ゆっくりと歩を進めて部屋へと入る。いまだ視点が定まっていない彼だったが、それでも顔はサキへと向いている。
ああ、とサキが口許を押さえた。彼女の泣きぼくろに一筋の涙が落ちる。
いまなら分かる。彼女が流す涙が、切なさから歓喜の輝きへ変化したことを。
「ハチマン……」
サキがベッドから降りる。足をふらつかせながら、ゆっくりと車椅子に座すハチマンの下へと向かう。そして、その美しい相貌を喜びに崩して、まるで慈母のように彼の手を胸に抱いた。
「ああ、ハチマン……あたしだよ。サキだよ……」
ハチマンの唇が動く。ようやく、サキのことを認識できたように。彼の世界に、サキの姿が現れたように。
「……さ、き……あ、……い、し……て……る――」
「う…あぁ、あ、あたしも、あたしもだよ。あんたを、心の底から愛しているよ」
嗚咽しながらサキが泣く。悲しみでも、悔恨でも、慟哭でもなく。ただ幸福をめいいっぱい胸に取り込んで、そして吐き出した幸せの音色が部屋に響く。
己を壊してまで愛した男性が、いま彼女の名を呼んでいる。
絶望の淵から舞い戻って、ようやくふたりは現実で再会した。