ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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かくして役者は揃い、最終劇の幕が開く 2

 放心状態の真っ只中、唯一動いたのはディアベルだった。彼の発破により立ち上がった攻略組は、七十六層へと足を踏み入れ、街へ向かい門のアクティベートを行った。みな疲れていた。体力的にも精神的にも参っていた。だからその場ですぐに解散となり、俺とサキもすぐさま二十二層へ戻りベッドに潜り込んで眠った。すべてが夢であれば良いと願いながら。

 

 だが現実は残酷だった。血盟騎士団は団長と副団長補佐を失い、多くのギルドが主力を失った。マンダトリーは姿をくらまし、またいつどこで誰になっているのか疑心暗鬼となり、さらには洗脳を怖れて攻略組の空気は悲壮感と恐怖に満ち溢れていた。それでも攻略組の矜持を見せろと、あのリンドが必死に訴えかけ、みな恐れを握り潰してひたすらに塔を駆け上がっていった。

 

 そして遂に、俺たちは九十層へ到達した。

 

 ソードアート・オンラインに囚われてから約二年。カレンダーは十一月を示していた。

 

 そこは、神の領域だった。

 

 まさしく天界。

 

 周囲は神々しい金色の光に溢れ、床は全面翡翠色に輝いていて、太古ヨーロッパ文明を彷彿とさせる石造りの建造物が立ち並んでいた。空はたびたび色を変え、七色に瞬いている。街に住まうNPCはすべて半透明の色彩豊かな翼を生やした天使達であり、人の影はどこにも見当たらなかった。

 

 第九十層主街区《ティマイオス》――これが俺たちが到達した、茅場の言う凶悪なモンスター軍が住まう始まりの階層の街だった。

 

 

 

 昼も過ぎ、太陽が徐々に傾きかけた頃合。次第に影が伸びていき、空に金色が混じり始めてきた午後三時。

 

 俺とアスナが、各々の得物握り締めて対峙している。

 

 俺の手に握られているのは黄金色に輝く一振りの短剣と一本のナイフ。八十九層のフロアボスのLAボーナスによって得たこの武器の銘は、

 

《二人は一緒》

 

 一風変わった武器名だ。

 

 神の武器とも言えるべき性能を誇るこの武器の特徴は、まさしく名前の通り。ナイフを投擲し着弾しようがしまいが、すぐさま手元に戻ってくることだ。これで俺のナイフによるお財布事情と再装備の手間がなくなり、投擲を連打できる超性能を与えられることとなった。

 

 アスナが持つ武器もまた一新されている。青と黄色が瞬く細身の剣は《メテオリック・シャワー》。彼女のスキルに合った珠玉の一振りだ。

 

 互いに相手を殺さんばかりの殺気を込めて睨みつけている。

 

 場所は第一層、修練場。もはや馴染みとなった対人戦闘訓練だ。両者の間に立っているのはバンダナにヒゲ面のクライン。奴が片腕を上げ、振り下ろすと同時に叫ぶ。

 

「初め!」

 

 先に動いたのはアスナだ。細剣をやや高めに構え、俺へ向けて突きを放つ。その速度はもはや仲間たちの中でも最速を誇る。それを俺は経験と勘を頼りに捌くが、すぐさま二段三段四段と、凄まじい速度で突きを繰り出される。すべてを完璧に受け流すことはできず、腕に細剣が掠るがクリーンヒットではない。

 

 俺はアスナの攻撃の隙を捉え、しゃがみ込んで足払いを仕掛ける。アスナが後退したタイミングで戦闘の流れを変えるべく距離を取る。アスナが口許に微笑。くそ、これを狙ってやがったか!

 

 アスナが細剣を構えると同時、ソードスキルを発動するエフェクトが煌く。やべえ、これあれじゃん。空飛ぶ魔法少女のやつじゃん! 別名メテオリック・プリンセス。本人に言ったら殺されるあだ名だ。

 

 スパークル・メテオラが発動。

 

 アスナが文字通り閃光となって光速の突進突きを放つ。条件反射でサイドに身を投げて避けるも、背後でアスナが反転する音が届く。即座にインビジブルを発動! 数瞬の動揺の隙間をついて俺はすぐさま疾走を開始。アスナが軌道を変えて直角に空へ上昇。まるで空飛ぶ流星のように鋭角軌道を取りながらアスナが俺の姿を探す。

 

 スパークル・メテオラの終了まで残り九秒。

 

 俺は息を潜めてやり過ごそうとするが、アスナも最前線で戦い続ける猛者のひとり。一瞬の緩みの気配を読み取られ、姿が見えないはずの俺の元へ急降下!

 

 今度こそ、俺が笑う。

 

 それを待っていた。場所が分からなきゃ空から探すしかねえよな?

 

 フローズン・ファウストを起動。

 

 もはや熟練度MAXとなったことで最大二十メートルまで広がった領域が、即座にアスナの全身の動きを時の縛鎖に捕える。アスナの瞳に動揺。すぐさま軌道を変えようとするも、その隙を逃さず俺はインビジブルを解除。

 

 インビジブル・アサルトを発動。二度の瞬間移動による斬撃でもって、宙を舞うアスナの身体を真っ二つにする。このスキルとて、簡易版スパークル・メテオラみたいなもんだ。ちょっとした距離なら宙すら斬る。

 

 腹部と背中にひとつずつ斬撃エフェクトを刻まれたアスナが地面に降り立つ。俺も地面に足をつけ、マフラーをなびかせて力なく息を吐いた。

 

「終了!」

 

 クラインの声で、試合終了が告げられた。

 

 しばしの沈黙。

 

「あーもう! 悔しい悔しい悔しい悔しい! ぜ~ったいに勝てると思ったのに!」

 

 アスナが地面に両手両膝を付いて、幼子のように喚き散らす。俺は数十秒の攻防で疲れ果てたから、勝ち誇る気力なんぞない。早くサキのお胸の中で眠りたい。あいつ、最近俺に対して羞恥心を吹っ飛ばしたのか、ログハウスに戻るとやたら胸を触らそうとしてくるからハチマン困っちゃう。何度揉みしだこうと思ったか分からん。

 

「ハチくんのフローズン・ファウスト卑怯! ぜ~ったい卑怯技だよ!」

 

 泣きそうになりながらアスナが罵倒してくる。いや、そんなこと俺に言わないでくれ。美少女に罵倒されるなんて、昔の雪ノ下を思い出して泣くぞ。思い返すとやっぱあれ地味に痛かったんだからな。文句なら茅場に言ってくれ。

 

「アスナの奴よりはこっちのがマシだろ。あれ勘で避けたようなもんだぞ」

 

 俺の言葉に、アスナが涙目になりながら犬のようにう~っと唸る。なにそれ超可愛い。お持ち帰りしたい。でもサキがいるからアスナはキリトに任せる。サキは美人だけど可愛いし、何より身体つきがエロい。超エロい。サキの誘惑に一体何度理性ちゃんがノックアウト寸前まで追い込まれたことか……。

 

 これからも頑張れ理性ちゃん! ハチマンはいつだって君を応援してるよ! でも男だから本当は欲望くんを応援したい……。だれか分かってくれねえかなあ、この複雑な男心。俺の考えが面倒なだけですね……。知ってたよ。

 

 なんて、下らないことを考えながらサキの下へ戻る。薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべたサキが、俺の腕に抱きつく。むぎゅっとした柔らかい感触が腕に広がる。ちょっと、明らかに胸押し付けてるよね!? 公衆の面前だからやめてね!

 

 俺の思考が表情に出ていたのか、サキが少し目を細め、耳打ちする。

 

「あんたが抱いてくれるまでやめない」

 

 どうしよう。俺の彼女えっちくなっちゃったよ……。

 

 ふぇぇぇ、耐えられないよぉぉ。

 

 下らないことを考えている間に、次の試合が始まっている。

 

 今度はキリトとクラインだ。

 

 恐ろしい量の剣戟が修練場に鳴り響く。あの二刀流による大量斬撃をクラインがすべて受け流している。隙を見つけては下がって納刀し、ある時はそのままの体勢かと思いきや鞘を駆使した連撃に、ある時は螺旋回転をしながら、またある時は前転しながらと、様々な体勢から居合い抜き放つ。というかほぼ飛天御剣流を正確に模倣してやがる。さすがのキリトも変幻自在なクラインの攻撃に苦労している様子だ。すげえ、あいつ冗談抜きで抜刀斎になっちゃったよ。

 

ふと、サキの身体が強張ったような気がした。ちらりとサキの横顔を見ると、相変わらず微笑んでふたりの試合を見ていた。ただ、ほんのかすかに何かが瞳に過ぎっているように思えた。

 

 きっとサキは不安になっているのだ。明日から本格的九十層フィールドへの攻略へ乗り出すことになっている。誰も彼もがどこかで不安を感じていて、それを噛み砕き、飲み下して、それでも消すことができないから、こうして普段を装っていないと崩れ落ちてしまいそうになる。

 

 でも、仲間がいることは幸いだ。

 

 信頼すべき仲間がいつだって隣にいるから、俺たちはなんとかここまでやってこれている。今日の夜も、いつものように俺たちの家で食事会だ。ここにはいないユキノにアルゴ、エギルもやって来る。きっと楽しくなる。

 

 俺はサキに耳に口を近づける。

 

「夜、少し話すか」

 

 サキの視線がちらりと俺に向けられる。瞳が揺れて、こくんと頷いた。頭を俺の肩に乗せて来る。俺はそれに何も言わず、彼女のポニーテールを優しく梳いた。

 

 夕方まで続いた戦闘訓練を終え、俺たちは二十二層のログハウスへ向かった。

 

 玄関前にはユキノたちが俺たちを待っていた。今日は、全員が思い思いの食材を持ち寄っての鍋パーティだ。俺はとりあえず長靴を入れようと思ったのだが、当然のごとくサキにバレて怒られた。だって、闇鍋っていったら長靴が定番でしょ? と目で訴えかけたんだが、いつかのようにメンチを切られて即座に土下座した。やだ、俺の土下座すごく安い……。

 

 鍋はとりあえず、キリトが持ってきたラグーラビットと、エギルが仕入れた高級カニの二種類となった。おいキリト、とりあえず涎を拭け。さっきから駄々漏れじゃねえか。どんだけ食い意地張ってんだよ。アスナがそのさまを見て嘆いてるぞ。やっぱキリトの器にだけ長靴仕込んでやろうかな。いまかいまかと頬張った瞬間、ゴムの感触と味がして絶望に染まるキリトの表情を見てみたい。

 

 そっとストレージを呼び出したところで、俺の腕がサキによって掴まれる。恐る恐るサキを見ると、無表情で俺を見つめていた。サキって心底怒ると表情消えるんだよね。料理関係の冗談だけは決して許してくれないのだ。反省したからその表情やめて! マジで怖いから!

 

 やがて準備を終え、あとはいつものように音頭を取るだけ。俺は気づかれないようにステルスヒッキーを発動。もうあれやりたくない。なんでいっつも俺がやってんだよ。柄じゃねえんだよ。いいからディアベルとかキリトとかクラインあたりがやれよ。

 

 だというのに、なぜみんな俺を見る。杯を掲げたまま俺を射殺すように見てやがる。なんで存在バレんだよ。ステルスヒッキーだぞ? 巷じゃ完全ステルス迷彩で有名なんだぞ? メタマテリアルもびっくりの、アメリカ国防総省だってきっと喉から手が出るほど欲しがる逸材を、なぜにこいつらは即看破しやがるんだ。

 

 仲間だからだよねー。ハチマン知ってた。

 

 ひとつ咳払い。生憎言葉なんぞ思い浮かんでないから適当だ。

 

「とりあえず、明日から九十層フィールド攻略の開始だ。まあ、あれだ、いつものように生きて帰ろうぜ。あんま長くなるとキリトが俺に向かって剣を抜くだろうから、これくらいにしとくわ。んじゃ乾杯」

 

 全員が杯を合わせる、と同時にキリトがラグーラビットへ向かって瞬時に手を伸ばす。こいつ、肉ばっか食いやがる。なにひとり大食い選手権してるのこいつ。ますます食い意地に磨きがかかってやがる。

 

「アスナ、こいつが夫で食費大丈夫なのか」

 

 なんとなしに訊いた俺だったが、突如アスナの表情が虚ろになった。あれ、訊いちゃまずかった?

 

「……うち、火の車になりそう」

 

 キリト以外の全員が、アスナの返答に言葉を失う。

 

 おいおい、大丈夫かよこいつら。うちなんて俺はトマトがなければ文句は言わないし、サキだって安い食材で美味い料理を作るから、食費なんぞ大して掛かって無いぞ。キリトの野郎、さては高級食材を買い漁ってやがるな。

 

 空気の違和感に気づいたか、キリトがラグーラビットを口からはみ出した状態で顔を上げる。ぺろりと肉を飲み込んでから口を開く。

 

「どうした? みんな変な顔で俺を見て」

 

 やはりこういうときは大人の出番だろう。エギルが一言。

 

「お前、明日から食材買うの禁止だ。すべてアスナさんに任せるんだ」

 

「え? なんで?」

 

 キリトが疑問顔。おい、こいつ財布事情知らねえのかよ。ストレージ一緒なんだろ。

 

 クラインが友人のアホ面に苦悶の表情を滲ませる。

 

「金ねえンだよ。夫なら散財すんじゃなくて稼いで来い」

 

「え? マジかアスナ!?」

 

 いまさらの疑問に、アスナがゆっくりと首を縦に振る。キリトの表情に悲壮感が漂い、そして一気に項垂れた。

 

「やっぱ週に二回ラグーラビットはまずかったか……。あれ美味いんだけどなあ……。なあアスナ、やっぱ我慢しなきゃダメか?」

 

 あんな高級食材週二回も食ってんのかよ。どこのブルジョワ貴族だよ。

 

 アスナが息を吐く。とても長い長いため息だ。

 

「金輪際うちでは高級食材は使用しません!」

 

 アスナの宣言に、キリトが胸を切り裂かれたように椅子から崩れ落ちる。おい、そこまでショックってどんだけ高価な料理食いまくってたんだよ。アスナもアスナだろ。一個年上なんだから叱ってやれよ。やっぱあれか。好きだとそうなっちゃうのかなあ。うちは俺が適当でサキが優秀でよかった。なぜか金ばっか貯まってくから、いつかログハウスのお返しをしたいと思ってるところだ。

 

 さておき、いまだショックから立ち直れていないキリトは放っておいて、俺も飯だ飯とばかりにラグーラビットの鍋へ箸を伸ばす。実のところ、あの肉ここに来てから一回しか食べていない。以前、偶然見つけて反射的にナイフを投げたら奇跡的に倒せたのだ。あれ以来になるのだから、俺も内心ワクワクだ、と鍋を見た瞬間唖然。

 

「おい、なんでラグーラビットの肉がもう殆どねえんだよ」

 

 俺の恨み節に全員が鍋へ注目。そして全員の顔に驚愕が走る。鍋にあったのは、一塊だけ浮かんだラグーラビットの肉。その他の野菜諸々には何一つ手がついていない。おい、これどうなっちゃってんの? 持ってきた肉の九割以上食いやがったぞこいつ。

 

「た、確かに殆ど残ってねえぞ!?」クラインの悲痛な叫び。

 

「カニは全然あるな。まあ、食べにくいしな」エギルも悲しそうにしている。理由がちょっと違う気がするぞ……。

 

「私、ラグーラビットって食べたことないのよ」ユキノの表情には珍しく嘆きがあった。

 

「なにひとつ擁護できないよキリト……」ディアベルまさかの白旗宣言。こいつが放り出すって相当だぞ。

 

「まあ、キー坊だしなア。これはお仕置きだナ!」なぜかアルゴだけが楽しそうに笑っている。

 

「アスナ、あとで駄目男のしつけ方を教えてあげるよ。いつも弟にやってたから、効果は保障するよ」サキがさらっと怖いことを言う。なんだよしつけ方って。俺もしつけられちゃうの? やだ、なにそれ怖い。

 

 キリトくん、とアスナが静かに呼ぶ。表情は無。まじで無。キャンパスに何も塗ってない真っ白なままみたいな顔してる。アスナみたいな美少女がやると超怖い。いますぐ逃げ出したいまである。

 

 顔を上げたキリトがアスナの顔を見る。恐怖に顔を引きつらせたかと思うと、脱兎の勢いで逃げようとし――

 

「なっはっハ~! キー坊の考えなんてお姉さんお見通しだゾ~!」

 

 アルゴに横合いからタックルをぶちかまされ、ふたりして床に転がる。ちょっと、家のリビングで暴れないで! サキの片眉が引きつってるから!

 

 ぬらり、と身体をゆらすようにアスナが立ち上がる。違う。あまりの怒気に空気が揺らいでるのだ。こつこつと、まるで死刑囚が十三階段を昇る音のように靴底を鳴らしながら、アスナがキリトの下へ近づいていく。

 

 必死の形相で逃げ出そうとするキリトであったが、アルゴがそれを許さない。にゃっはは~と超楽しそうに笑いながらキリトの胴を両手両足で鷲づかみにしている。

 

 というか、いつの間にかクラインすら立ち上がって刀の鍔に指を掛けてる。ちょっと刀身見えちゃってるからね? 本気なのクラインさん!?

 

 おい、お前ら飯ごときに大げさすぎるだろ。大人げねえなあ。もちっと落ち着けよ。とか思いつつ、俺も気づけば《二人は一緒》を両手に持ってた。あれ、俺夢遊病? おかしいな、記憶にないよ。

 

 俺の動きに同調したサキも、リビングだというのにストレージから武器を取り出している。紅色の美しいその槍を右に持ってサキも立ち上がる。おい、それ《ゲイボルグ》じゃねえか。こいつも本気かよ。てか、だからなんでこいつはどんどんランサーに近づいてるんだよ。仕舞いには兄貴って呼んじまうぞ!

 

 そこで立ち上がったのはディアベルだ。さすがだ。この殺気渦巻くリビングで皆を抑えるかのように……あれ? こいつも剣握ってね? なんでこいつもキリトを殺す勢いで睨んでるんだよ。

 

 エギルも不適な笑みを浮かべつつ斧を取り出している。大人なんだから飯くらいでそんな顔するなよ。

 

 ユキノがゆっくりと、まるで女王が君臨するように立ち上がり、リビングを絶対零度の空間に創りかえる。そして、凍てついた吐息と共に命じた。

 

「みんな、やってしまいなさい」

 

 全員がキリトに殺到した。

 

 ……。

 

 結末は、まあ、キリトは八つ裂きになった……。

 

 とりあえず庭に吊るしたキリトは放っておいて、残り全員で食事会を再開する。ラグーラビットの最後の肉は、みながユキノに譲った。さすがに初だというなら食べて欲しい。

 

 ユキノはそれを大切に口へと運び、後に一言。

 

「至高の一品ね……生きてきた甲斐があったわ」

 

 現実では令嬢であり、高級料理を食べてきたあのユキノですら、恍惚とした表情を浮かべているのだ。いかにキリトが贅沢三昧していたか分かるだろう。あの野郎……まだあと三発はオクトアサルトをぶち込んでやりたい。

 

 サキは既に溜飲を下げたのか、黙々と野菜を食べている。かと思いきや、鍋の横になぜか置かれている小皿に手を伸ばす。

 

 ……おい、まて、なんでプチトマト持ってんだよ。ちらりと俺を見るな。食べないぞ! 絶対に食べないからな!

 

「ハチマン、これ食べる?」

 

「いらん。トマトだけは絶対にいらん!」

 

 サキが一瞬思案顔。すぐに、にへら、と笑って俺を見る。嫌な予感がする。過去の膨大なサキとの経験則から、こういうときのサキは俺の予想の数段上を行く。

 

「じゃあ、これなら食べる?」

 

 そう言って、サキが自分の唇にプチトマトを挟み、顔を俺に向かって突き出した。

 

 え? それ、もう、あ~んどころの話じゃないよね?

 

 口移しじゃねえか。何考えてんの俺の彼女!?

 

 全員が会話をしつつもさり気なくこちらを見ている。アスナとかもうガン見してる。ユキノは笑ってるけどプチトマトを探している。おい、お前もやる気かよ。ディアベルの顔が固まってんぞ。クラインは悔しそうにしつつも、にやにやと笑っている。妻子持ちのエギルは平然としていた。おい、大人ならどうにかしろ。

 

 ちなみにアルゴはというと、「なんか何かを殴りたい気分になってきたヨ。キー坊をサンドバックにしに行ってくるネ☆」と言って飛び出していった。直後、キリトのうめき声が聞こえてきた。そろそろキリトが可哀相になってきた。

 

「んーんーっ!」

 

 早くー、とサキが催促してくる。周りの目があるんだからそういうことやめてよね!

 

 俺は食わん、とぷいっと顔を背けてやると、サキが悲しそうな声を上げる。そろり、とサキを見ると、目じりに涙が滲んでいた。ちょ、これで泣くの!? さすがに予想外すぎるぞ!

 

 こつこつ、とテーブルを指で叩く音が聞こえた。ちらりと見ると、クラインが顎をくいっとサキへ向ける。

 

 ――おいクライン、公衆の面前でこれをやれと!?

 

 ――男ならかましてみせろや!

 

 ――お前ならできんのか!?

 

 ――彼女いねえンだよ、察しろよ!

 

 目と目で語り合う。やだ、俺たち以心伝心!

 

 とか言ってる場合じゃない。そろそろサキがマジ泣きしそうだ。瞳はうるみに潤んで眉がハの字になっている。もう泣く寸前だ。

 

 しかたねえなあ。

 

 覚悟を決めてサキの両肩に手を置く。キスでもするように顔を近づけ、トマトに唇を触れさせた。くっそ、超恥ずかしい! アスナさん、お願いだからそんなガン見しないで!

 

 そのままプチトマトを奪おうとした寸前、サキに頭を掴まれた。あれ? おかしくね? 俺の想像してたのより、もっとすごいことが起ころうとしている気がするんだけど?

 

「んぐっ!」

 

 呻いた。こいつ、プチトマトを押し込みながら舌まで入れやがった。なんなのこの子。可愛すぎてお持ち帰りしたくなっちゃう! 俺の嫁だった! もう最高!

 

 たっぷり一分、口内をサキの舌に蹂躙されて、ようやく唇を離された。俺の顔はもう茹ダコ状態だ。サキも、ぽわーっと気持ち良さそうな乙女の顔をしている。

 

 アスナはキャーキャー言ってる。エギルは、悔し泣きしているクラインをなだめていた。ユキノは早速自分もとばかりにプチトマトに手を伸ばそうとしているが、ディアベルが必死にそれを止めている。

 

 サキがぽつりと呟く。

 

「もっかいしたい……」

 

 おい。

 

 サキがプチトマトを再び唇に挟んで俺を見つめる。熱っぽい視線が男の欲求を刺激してやまない。やばい、理性ちゃんが押されてる……!

 

 サキが俺の胸に手を置いて近づいてくる。というかマジで誰か止めてください!

 

「や~満足したヨ~。キー坊って殴りがいあるよネ」

 

 唐突に扉を開いてアルゴが楽しそうに言った。おい、そろそろ誰かキリトを下ろしてやれ。というか誰か俺を助けろ!

 

 誰か、誰かいないかと視線をきょろきょろさせると、アルゴと目が合った。アルゴはひとつ頷き、こう言った。

 

「もっかいキー坊殴りたくなってきたヨ。またサンドバックにしてくるネ♪」

 

 スキップしながら家を出るアルゴ。外から聞こえるキリトの断末魔。

 

 哀れすぎるぞキリト……。そしてアスナ、お前キリトの嫁ならそろそろ助けてやれよ。

 

 逃げるように思考を紡いでいる間にもサキが近づいてくる。距離はあと五ミリばかりか。

 

 ぐぬぬ、もう致し方あるまい。

 

 俺も男だ、やってやる!

 

 今度はこっちから攻撃してやるとばかりにプチトマトを奪いに掛かる。サキがひょいっとそれをかわし、俺の胸に巨乳を押し付けてきやがった。張りのある柔らかな感触にこの上ない幸せを感じる。ちょ、それ反則でしょ! おい審判しっかりしろ! って審判なんぞいねえよ!

 

 虚をつかれて固まる俺に、サキが襲い掛かる。いや、襲い掛かるって戦闘じゃねえよ。なにやってんだよ俺たち。プチトマトの争奪戦でもやってんのか。

 

 思考に逃げてる間にまたプチトマトを押し込まれる。再び口腔を犯されて俺は思考がぶっ飛ぶ。もう、このままでいいかな~なんて思った頃には、さすがにサキが恥ずかしくなったようで、顔を離していた。

 

 そんな丁度いいタイミングで上機嫌なアルゴが帰ってきた。るんるん、と鼻歌をうたって席に着くと、凄まじい発言を繰り出す。

 

「ボディーを入れたときの呻き声が最高だったヨ! アーちゃんもやるといいヨ!」

 

 おい、アルゴがなんか変な性癖に目覚めようとしてるぞ。だれか止めろ。

 

 さしものアスナも顔を青くしてキリト救出へ向かう。遅すぎる……。

 

 こんな風に、しっちゃかめっちゃかになりながらも時は過ぎていく。食事も終わり、良い時間になって全員が解散した。次々に挨拶をして帰っていく仲間たちを見送り、俺とサキはそのまま寝室へ向かう。

 

 九十層に来てからというものの、ちょっとサキの様子がおかしい。昼間も感じたが、さっきのあれは看過できない。嫌じゃないんだけど、恥ずかしがり屋のサキらしくない行動だ。絶対なにかある。

 

 無言でベッドに隣同士で腰掛ける。

 

 とはいえ、一体なんて訊いたら良いのやら。

 

 おまえ、欲求不満なの? とか口が裂けても言えない。元凶がまさに俺なのだから絶対言えん。そも、そういうのとは種類が違う気がする。

 

 頭をがりがりと掻く。分からないものは分からない。黙っていて何もかも悟れる関係なんて、たぶんこの世には無い。いくら付き合っていようが心を通わせようが、すべてがすべて分かるわけじゃない。幾ばくかの言葉はどうしたって必要だ。

 

 サキと眼が合う。相変わらず頬を染め、潤んだ瞳を俺に注いでいて。そのまま俺の手に触れようとするが、先に口火を開く。

 

「どした? なにか考えてるのか?」

 

 サキの指が止まる。瞳が左右に揺れる。震え出した手を胸に抱いて、サキが言った。

 

「怖い」

 

 一言。ただ一言そう言った。

 

「なにがだ?」

 

 俺の問いにサキがまなじりを下げる。いまにも泣きそうなくらい、目じりに涙を蓄えて。

 

「茅場の言う、強い敵がいるっていう九十層まで来ちゃった。ここまで来ちゃった。もしかしたらあたしもハチマンも死んじゃうかもしれない。ハチマンだけ死んじゃって、あたしだけ生き残っちゃうことだってあるかもしれない。だから怖い。怖くて、不安で、どうしようもなく……」

 

 

 

 ――あなたが欲しい。

 

 

 

 何も言えない俺にサキが訴える。

 

「だって、きっと後悔する! ここは現実じゃない、でもいまのあたしたちにとっては現実なの! 身体も、心も、なにもかも全部がいまここにある! だから、あなたを愛した証が、あなたがあたしを愛した証が、どうしても欲しい。実感として、記憶として、経験として、ぜんぶぜんぶ欲しいの……!」

 

 涙ながらにサキが俺の胸を叩く。何度も何度も、力なく俺を叩く。そして、俺を見上げた。

 

「ねえ……これはあたしのわがままかなぁ……?」

 

 違う。

 

 ただ俺が怖れていただけだ。俺はきっとどこか疑っていたのだ。いつの日だったか、ユキノに語ったように。仮想世界にある俺と、現実の俺は違うのではないかと。同様に、サキもまた違うサキなのではないかと。

 

 そんなこと、決してあるはずないのに。

 

 だから躊躇した。ここで溺れて、現実を見て愕然とするくらいならば、いっそ理性の怪物にでもなってしまえば傷つくことなんてないのだと。必死に俺は俺を守って、結論がこれだ。

 

 サキを泣かせている。

 

 馬鹿だ。俺は本物の馬鹿だ。あのとき信じたじゃないか。サキだけは決して裏切らないと。仮想世界も現実も関係ないと。今さらなにを躊躇する必要がある。倫理を盾に理論武装をして拒む理由がどこにある。

 

 俺もサキも、もう十九歳だ。本当なら、大学生活を送っている頃だ。結局、すべては俺の恐怖が元凶なだけだ。

 

「……悪かった。そこまで思いつめてるとは思わなかった」

 

 サキを抱きしめる。なんだかもう、色々考えることがアホらしくなった。結局、理性ばかりじゃ世の中回っていかないのだから。欲求があって、初めて人は動けるのだ。

 

 腕の中でサキが身じろぐ。

 

「あんたの理性ちゃん、強すぎるよ」

 

「毎日鍛えられてたからな。そりゃ強くもなる」

 

「いまはどう?」

 

「欲望くんに負けた。完敗だな」

 

「ん、そっか……」

 

 サキを抱きながらベッドに倒れ込む。サキを横たわらせ、その上に俺が覆いかぶさる。サキはただ幸せそうに顔を緩ませて、濡れたまぶたを閉じる。

 

 ああ、きっと、今日のことは永遠に忘れないだろう。

 

 二十二層の夜空に星が流れる。月もあまりに綺麗だから、何もかもが素敵な思い出となって、心の宝箱にそっと仕舞われるはずだ。

 

 

 

 

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