ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
最後の日がやって来た。
朝の日差しが窓から差し込んで目が痛い。頭はガンガンと鳴り響いて、正直体調は最悪だ。再三に渡っていまも訊こえる、アルゴとの最後の会話を思い出すと、喉の奥から悲鳴が漏れそうだった。
吐きそうな感情を何とか飲み下して、俺はベッドから身体を起こした。既に起きてベッドに腰掛けていたサキが俺に気づき、頬に手を添えた。
「今日が最後だね」
「ああ、もう遊びも終わりだ」
顔を近づけたサキが囁くように言う。
「キスして」
求められるままに口付けをする。
「もっと長く」
再度重ね合わせる。互いに互いの頭を抱えて、不幸なんて吹き飛べばいいとばかりに、長い、長い口付けを交わす。
名残惜しくも時間がなくて、顔を離した俺の額にサキが自分のそれを当てた。
「大丈夫。みんなで帰ろう」
「ああ、そうだな」
ふたりでベッドから降りて身支度をする。いつもの戦いに赴く装備をし、武器の状態も確認する。なにひとつ問題ない。今日の戦いですべてが決する。
サキが手を差し出す。俺も手を伸ばして絡ませ、ふたりで家を出た。転移門までの道をゆっくりと歩く。
道の最中、キリトとアスナが並んで歩いているところに遭遇した。キリトはバツの悪そうな顔をしてひとつ頬を掻くと、まっすぐと俺を見た。
「昨日は悪かった。感情的になっちゃってさ……」
「気にすんな。誰だってあんなの訊けばそうなる」
「なんとかなりそうなのか?」
怯えるようなキリトの問いに、俺は頭を振った。
「分からん……俺にとっちゃアルゴがいなくなった時点で詰んだようなもんだ」
「そうか、そうだな……」
俺とキリトの間の空気が重くなる。誰だって、近しい者が亡くなれば悲しむ。悲嘆にくれて泣き叫びたくなる。それでも、無情にも世界は回っているから、生者は前に歩き続けなければならない。なにより、再三に渡って己が問うのだ。今日この日を迎えるために、ここまで走り続けたのだと。いまさら退くわけにはいかない。
「いくか」
どちらともなく呟く。
サキもアスナも、何言わずに着いてきてくれる。
二十二層の転移門にたどり着き、一層へ向かう。今回攻略組は、一層に集って全員で百層へ向かうことになっている。
《はじまりの街》に着くと、すでに仲間たちは集まっていた。クラインが無言で俺に頷いてくる。近寄ってきたエギルが、そっと俺の肩を叩いた。ディアベルもユキノも、もう何も言うまいと俺を眺めている。
次々と攻略組が転移されてくる。
ただ、その中にアルゴの姿がないことだけが無性につらかった。あるべき存在がいなくなっただけで、世界はするりとその容貌を変える。一層からの仲だった彼女の死を、俺は背負う必要がある。すべての責任が俺にあるからだ。あんなこと依頼しなければよかったと、何度も過去の自分を責めた。いっそそれをマンダトリーへの怒りに変換できればよかった。だというのに、勝手に回ってしまう思考はいつだって原因を辿ってしまい、それをすれば結局たどり着くのは俺のエゴだ。
背中に暖かい温もりと柔らかい感触が広がる。腕を回したサキが俺を抱きしめていた。
「つらいなら言って。すべて吹き飛ばしてあげるから」
俺は蒼穹を仰ぐ。この遥か先に、すべての元凶のひとりであるマンダトリーがいる。奴を倒すまでは、泣き言ひとつ言えない。だから俺は首を左右に振った。
「いまさらつらいなんて言ってらんねえよ」
サキが俺の頬に自分のそれを寄せた。人の体温を感じているだけで、もうしばらくは立っていられそうだった。
攻略組全員が集まる。
ディアベルが先頭に立って、全員を鼓舞して士気を高める。俺はただサキに抱きしめられながらそれを訊き、言いようの無い感情を潰すように、拳を強く握った。
ディアベルの掛け声と共に、攻略組の面々が百層へ転送していく。俺とサキも、手を繋いでそれに続いた。
青白い転送の光と共に、俺たちは遂に第百層《紅玉宮》にやって来た。それも、宮殿の外ではなく中へと直接転送されていた。
あたりを見渡す。壁一面は名の示す通り紅一色で、床は磨きぬかれた大理石が敷き詰められている。恐らくは一階のロビーのような場所なのか、視線の先には巨大な階段があり、その両脇から一階を見渡せるように欄干で仕切られた廊下がコの字型に伸びていた。一体どういう原理か、無数にある窓から差し込む光が室内を明るい紅に照らしている。
そして、階段の最上部に奴がいた。
憎らしいほど白々しい純白の髪。海を掬ったような群青色の瞳は、悪魔のような光を湛えて怪しく揺れている。恐ろしく整った中性的な顔はには微笑が浮かび、神のように俺たちを睥睨している。服装は馬鹿馬鹿しいほど似合っていない尼僧。首から引っさげた十字架が神の権威を失墜させているように思えた。
攻略組の集団の中、俺が一歩足を踏み出し前へと進める。サキが、キリトが、アスナが、クラインが、ディアベルがそれに続く。
「なんて呼んだらいいんだ? 神サマさんよ」
最大限の皮肉を込めた俺の問いに、奴は楽しそうに微笑んだ。
「マンダトリーでいいですよ。今日はこっちの姿の方がいい気がしたんでアバターをこれにしただけです。中身は何も変わっていませんよ」
アポストルような気持ち悪い話し方ではなく、マンダトリーの口調で奴はそう言った。
そうか、と俺は呟く。
「じゃあ、いまからテメエをボコるから覚悟しろ」
俺は《二人は一緒》を抜き放つ。全員がそれぞれに武器を構え、マンダトリーを睨んだ。
そんな中でもマンダトリーは相変わらずの微笑だ。ゆっくりと、じれったいくらい遅い歩みで階段を下りながら俺たちに声を投げる。
「なにか勘違いされているようですが、ここでのボスは私ではありませんよ?」
奴の言葉に俺が眉を吊り上げる。
「テメエがアインクラッドの神なんだろ。神を殺すのは大抵人だって決まってんだろ」
「それはそれ、これはこれ、という奴です」
マンダトリーが微笑む。奴の顔を一分一秒でも眺めているのが苛立つ。さっさとその面貌に短剣を叩きつけたくて仕方が無い。
「正直言って、ここまであなた方が来れたのは驚嘆に値します。なにせ、私が想定していた最後のボスは、九十九層の《主神オーディン》ですから。あれも北欧神話では最高位の神ですよ? さすがに私がそれに勝るとは思っていませんよ。神の自覚もないですしね」
初めて、マンダトリーが声を上げて笑った。楽しみが増えて嬉しくなった子どものように。
「だから、これはボス戦ではなく、ただのクエストです。最後にシステム管理者からあなたたちへ与える最後の試練」
マンダトリーが階段を下り切る。ゆっくりと歩を進めながら、指をぱちんと鳴らした。
そのとき、宙に何かが現れ、ゆっくりと俺たちの上部に降りてくる。その姿を見て、俺は泣きそうになった。
「アルゴ……!」
黄金色に輝く鳥篭の中に、アルゴが意識を失った状態で無理やり立たされているように閉じ込められていた。
「システム管理者となった私が無闇にプレイヤーを殺すわけないでしょう?」
マンダトリーが俺に向けて微笑む。
「ただ、演出を盛り上げるために少し身柄をお借りしただけです。ちゃんとフレンドリストには名前が残っていたでしょう? 黒鉄宮とメッセージについては私の権限で死亡扱いにさせてらいました。それもこれも、すべてはただこのときのためです」
悪びれる様子もなくマンダトリーが続ける。
「最後の試練を突破できれば、彼女はあなたたちへ返します」
「交換条件。そう言いたいのか?」
首を振ったマンダトリーが応える。
「いいえ。報酬です。たったひとりを除き、あなたたちはこの試練を突破すれば現実に帰還できます。そして、それを突破するのはあまりに容易です。だからご安心を。これはここまで来たあなたたちに対する私から贈る唯一の誠意と思って下さい」
「その試練とやらはなんだ?」
マンダトリーの表情が変わる。いままで見たことが無いような、満面の笑みで俺たちを見据えて声高に言った。
「一対一の対決をして下さい。私が指名した二人が互いを賭けて殺し合いをして下さい」
「あンだと!?」
いままで黙っていたクラインが声をあげた。
「そりゃどういうことだ? 味方同士で殺しあえってのか!?」
いえいえ、とマンダトリが何度も頭を左右に振る。
「ルールは単純明快です。私が指名した二人が一対一で戦う。勝者には死を、敗者には生を与えられます」
場に動揺の波が生まれた。誰もマンダトリーの言葉をすぐに嚥下できずに戸惑っているのだろう。だが、俺は正確に理解していた。
「勝ったらそいつのHPはゼロになる。負けたらHPは一になる。つまり互いを生かすために戦う。そういうことか?」
すばらしい、とマンダトリーが手を叩く。
「その通りです。さすがハチマンくん。理解が早くて助かります」
「ならさっさと指名しろ。すぐに終わらせて俺たちは現実に帰る」
おやおや、とマンダトリーが困ったように微笑む。
「もう少し場を盛り上げたいのですが、これもまた乙なものでしょう。では、フィナーレと行きましょう!」
マンダトリーが再び指を鳴らす。途端、この場に集った者達が青白い光に包まれた。転移の光だ。気づけば、俺はロビーの真ん中に立っていた。すぐ先には、サキの姿がある。周囲を見る。その他攻略組全員が、欄干に縋りつくように俺たちを二階から見下ろしていた。
ああ、そういうことか……。
俺とサキの間に立ったマンダトリーが厳かに告げる。
「ハチマンくん、サキさん、あなたたちが私の指名です。以前言いましたよねハチマンくん。あなたこそ、この演目の主演に相応しいと。そして、その妻となった彼女もまた、主演女優に相応しい」
サキが動揺しているように俺を見る。俺は何も言わず、サキにだけ分かるように頷いて見せた。それだけでサキの不安が吹き飛んだか、愛の眼差しで俺を見つめてくる。
マンダトリの身体が宙に浮く。まるで、特等席で終劇を見守る観客のように、俺たちを見下ろして言った。
「さあ、折角のフィナーレです。五分の時間を与えます。五分後に開始しましょう」
そして、と続ける。
「あなたが欲したアイテムはここにあります。アインクラッドにひとつしかないアイテムはここにあります」
マンダトリーの手の中にあったのは、俺とアルゴが死ぬ物狂いで欲していたアイテム。
蘇生アイテムだった。
マンダトリーはすべて知っていた。知っていて俺たちを踊らせ、最後の最後でアルゴからそのアイテムを奪った。俺を絶望の底へ突き落とすために。
「さあ、せめてそれまでの間、盛大に場を盛り上げて下さい!」
俺の視界でカウントが始まる。サキが俺を見る。俺もサキを見る。万策尽きたとばかりに俺は首を振った。
二階から怒声が飛び交う。
「おい! ふざけんな! ふざけんなよ! オレを出せ! こいつらにやらせんな! なんでいっつもこいつらに押し付けンだよ! いいからオレを出させろ!」
クラインだ。まったく、最後までうるさい奴だ。少しは静かに観覧してくれ。だけど痛いくらいお前の想いは伝わったよ。ありがとう。
「ハチ! おいハチ! ぜんぶこれだったのか! これを読んでたのか! ふざけるなよ! なんでこんな残酷なことひとりで抱えてたんだよ!」
キリトが泣いて叫ぶ。悪いな。お前らに降りかかる可能性を少しでも無くしたかったんだ。親友だからな。悪いな、キリト。
「ハチくん! サキさん! 嫌だよ! ふたりがこんな目に合うなんて、私は嫌だよ! なんでこんな酷いことするの! どうして……どうして!」
アスナも叫ぶ。しょうがねえだろ。システム管理者が作ったルールには従わなきゃならねえんだから。物語の主人公じゃあるまいし、そうそうルールなんか覆せるかよ。でもお前の優しさは嬉しいよ、アスナ。
「ハチマン! サキさん! 君たち結婚式を挙げたばかりじゃないか! どうしてこんなことになるんだ! マンダトリー! いいからルールを変えてくれ! こんな結末は許せない!」
ディアベルが怒声を上げる。まったく、最後まで真っ白けっけな奴だ。そういや、殴り忘れてたな。もうそれもできないかもしれねえから、ユキノと仲良くやってくれ。ユキノを泣かせたら物理法則捻じ曲げても殴りにいくからな。あいつを頼むぞ、ディアベル。
次々と攻略組が声を投げてくる。こんな結末は嫌だと。こいつらが殺しあうのは見たくないと。みんなが声を張り上げてマンダトリーへ罵声を浴びせる。
おいおい、そろそろ勘弁してくれ。サキとの最後の時間だ。ちと黙っててくれ。
俺はマンダトリーを見上げる。
「あいつらの声、届かないようにしてくれ。サキと話したい。最後くらいいいだろ?」
マンダトリーが鷹揚に頷く。
「もちろんです。主人公とヒロインの最後の逢瀬です。邪魔はさせません」
途端、二階からの声が途絶える。静寂が場を支配し、俺とサキだけの世界になる。
サキが俺に近づいてくる。俺もサキに近づく。互いの距離がゼロになって、強く、強く抱きしめあった。
「これまた盛大な演目だね。あんたが隠してたのって、これだったんだ」
「あいつの性格考えりゃこうなるだろ。俺が主演とか言ってたしな。こうなると踏んで蘇生アイテムを探してたんだが、失敗しちまったわ」
「もう、お別れなの?」
「ここじゃルールは絶対だからな。システム的に規定された以上、もう覆せねえよ。切り札は……無い」
サキが身体を離してつま先立ちになる。
「じゃあ、最後にキスを」
「そうだな。最後だな……」
サキとの距離が近づく。これまでで一番長くて、濃厚な口付けをサキとする。誰に見られても構いやしない。どうせ最後なのだからと、貪るようにサキを求めた。
やがて、時間が来る。俺もサキも涙を流し、互いに距離を取って得物を構えた。
俺は皮肉にも《二人は一緒》を。
サキは真紅の槍《ゲイボルグ》を。
愛する者へと向け、互いの命を守るために戦いの準備をする。
「サキ。悪いがこれだけは負けるわけにはいかなくてな。勝たせてもらうぞ」
「ハチマン。生憎だけど、あんたを殺す勇気なんてあたしにはなくてね。あたしが勝つよ」
遂にカウントがゼロになる。
「さあ、フィナーレの始まりです!」
マンダトリーの宣言と共に、最後の戦いが始まる。
カウントがゼロになった瞬間、ハチマンの姿が消えた。速度でもなく、虚をついたわけでもなく、単純に姿が消えた。
インビジブル――彼を認識する存在から彼に関する視覚、聴覚の一切を排除する隠形の技。
しかし、サキの表情に驚愕は無い。彼女もまた、彼と長年の間刃を交え続けてきたからこそ、動揺など微塵も出さずただ槍を構えて立っている。
すぐに戦闘が動いた。サキの背後に突如現れたハチマンが、金色の短剣を首狩り一閃。だが、読んでいたサキが反転しつつ槍の柄で受け、これを横に受け流す。空いた胴に石鎚を滑り込ませるも、ハチマンがこれをナイフで受け止める。反動を受けて横に流れた彼の身体へ向け、サキが渾身の突きを放つ。これをハチマンは反射神経全開で避ける。すぐさま槍を戻したサキが連続で突きを放つ。紅の驟雨となった突きの連打を、ハチマンが短剣とナイフですべてを捌ききる。
ハチマンが一歩足を踏み出す。槍は、間合いこそ長いが内側に入れば入るほど死角が大きくなる。だから今度はサキが槍を短く持ちながら後退を始める。
金色の短剣とナイフが空間を切り裂くほどの鋭さで無数の斬閃を生み出す。サキも槍を回しこれをすべて受け流す。
一進一退の攻防。
SAO至上最高の戦いに、状況の残酷さを知りながらも、みな見惚れた。これほどの戦いは未だかつてなかったと思うほどに。
槍による超高速の足払い。ハチマンは跳躍ではなく後退を選択。突如、サキが全力で後ろに飛んだ。
時の領域が広がる。
フローズン・ファウスト――半径二十メートル圏内に存在するあらゆるものの速度を〇.四倍まで落とし、自身の速度と跳躍力を二.五倍にまであげる、絶対領域。
サキが必死の形相で後退。領域から逃れるための全力疾走だ。
フローズン・ファウストの効果時間は三十秒。それを凌ぐための戦略的撤退だった。だが、ハチマンがそれを許すはずがない。即座に疾走を開始し、すぐさま足が止まる。
領域外にいるサキが、真紅の槍の石鎚を地面に突きたてている。直後、総数二十四本にもなる真紅の槍がサキの周囲に具現した。
エインヘリャル――ストレージに存在する槍の数だけ、使用者が装備している槍を具現化し自在に操る妙技。
槍の大群が空気を裂きながら次々と射出される。すぐさま時の鎖に縛られるも、あまりにも数は膨大。ハチマンの額に汗が光る。
ハチマンの周囲三百六十度に展開された槍が、中心にいる彼へと目掛けて次々と殺到。逃げ場もなく、ハチマンの表情には決死の覚悟が現れる。
金色の斬閃が無数の球を描いた。宙を舞いながら、ありとあらゆる角度から襲い掛かる槍をハチマンがすべて弾いているのだ。直撃は免れても、槍はハチマンの身体を掠める。僅かにだがHPが減っていく。それでも動きを止めることなく短剣とナイフを振り回し、身体を回転し続ける。
絶対領域が消える。同時、槍の速度が急速に上がる。ハチマンの表情には焦燥。しかし、サキの額にも皺が寄り、膨大な汗が滲む。二十四本すべてを操ることに全神経を集中しており、もはや限界が来ていた。
三百六十度を支配していた槍の領域に、僅かな隙が生まれる。その間隙を逃すことなく、ハチマンは即座に撤退を選択。四本の槍が彼を追うが、残りの槍が霧散する。
一本目を上半身の捻りを加えた逆袈裟で払う。
二本目をナイフで横薙ぎに弾く。
三本目を翻したナイフで斬り落す。
四本目を短剣が下から天井へと弾き飛ばした。
エインヘリャルの効力が消える。
ハチマンが息を整える間もなく疾走を開始。
膝をついたサキが立ち上がる。槍を持つ手は震えている。エインヘリャルにより精神力を消耗したからだ。
百メートル近くに開いた距離を、僅か二秒で踏破したハチマンがサキへと肉薄。
再び短剣と槍による剣舞が始まる。
お互いに疲労困憊。
槍がハチマンの身体をかすめ、短剣がサキの腕を斬る。幾重にも重なる攻防に、ふたりの疲労が滲んでいる。
ふたりのHPバーは遂にイエローを突破し、レッドへと割り込もうとしている。勝負も後半戦になっていた。
誰もが声を失い二人の戦いに見入っていた。それでも、涙だけは滂沱と流し、この時間が永遠に続けばいいと願った。
槍に弾き飛ばされ、ハチマンの身体が宙に浮く。降りた途端、サキが下段、中段、上段と流れるような三連突きを放つ。ハチマンはそれを捌くも、最後の上段に短剣が浮き上がる。
サキが前にした右手を逆手に握りかえる。ハチマンの表情に再び氷の焦燥。
サキが全体重と遠心力を乗せた槍を全身全霊で振り下ろす。ハチマンは即座に下ろした短剣とナイフを交差させてこれを受け止める。
凄まじい衝撃音。
それでも攻撃は終わらない。流れるように反転したサキが二度目の振り下ろし。動くことのできないハチマンはこれを受ける以外にない。
再度の金属音がロビー内に澄んだ音を響かせる。
ハチマンの身体が衝撃によって後退。直後跳躍を加えて距離を離そうとするも、サキが高速前身。突如サキが槍を床に突き刺すと、棒高跳びの要領で高く飛翔する。ハチマンが咄嗟に短剣とナイフを十字に構える。直後、サキの渾身の一撃が宙からハチマンへ向かって振り下ろされる。
落雷に等しい衝撃が火花を散らす。
筋力値が遥かに劣るハチマンの膝が地面に落ちる。すぐさま受け流そうとするも、サキが遠心力を利用してハチマンの後方へ飛ぶ。宙を舞いながら槍を振り回し、ハチマンの背へ穂先を向ける。即座に意図を悟ったハチマンがすぐさま前転。紙一重の差で槍を避ける。
僅かに生まれた距離を縮めるように、サキが渾身の力を込めた突進突きをハチマンの頭部へ向けて放つ。これをハチマンが絶妙なタイミングで短剣を使って受け、逆U字を描くように槍を地面に落す。
柄の上に短剣を走らせ、致命であるサキの首筋へ短剣を滑り込ませる。身体をそらしたサキの首筋に、僅かだが傷のエフェクトが走る。サキのHPが遂にレッドへ突入。同時、サキの身体から青白い光が揺らぎ始めた。
神々の怒り――HPが三割を切ったときに発動。全ステータスが三割上昇する、まさに神の怒りの名に相応しいスキル。
反転したハチマンが即座にソードスキルを発動。
オクトアサルト――瞬時に移動し、その間にいるすべてに八本の斬撃を見舞う、SAOでも最速のソードスキルであり、ハチマンが最も好む技。
ハチマンの姿が消える。サキの背後にハチマンがマフラーを揺らして立っていた。
すべてがこれで終わった――はずだった。
顔だけで振り返ったハチマンに極大の衝撃。
誰もが一度も捌くことのできなかった《暗殺者》最上位ソードスキルを、サキがすべて捌ききったのだ。
ヴァルキュリア――右翼左翼を描くように繰り出される左右へ向けた各五連撃、最後に斬り上げからの斬り落としの全十二連撃である《戦乙女》上位スキル。
これをもって、あの死神の鎌による死の嵐を捌ききった。
まさに神業。
互いに技後硬直により動けない。
先に動いたのはハチマン。直後、サキが動く。
いよいよ、最後の幕が閉じる。
まったく、何やってんだろうな。
サキと相手を賭けた殺し合いなんざ、やりたかねえってのに。サキとの戦いが勝手に染み付いているから、いまもこうしてサキへ最後の一撃を向けようとしている。
サキも槍を携えて俺に向かってくる。
互いにさっきから泣いている。涙を流しながらも、それを振り切って。相手を生かすため、勝利を掴むために必死になって戦っている。
馬鹿げた話だ。
下らない物語だ。
あまりに悲劇だ。
それでも動かなければならないなら、俺はサキを倒してサキを生かす。
ナイフを投げる。サキは避けずに横腹に受ける。表情に微塵の動揺も見つけられない。やっぱ弾かないか。隙できちゃうもんな。即座に戻ってきたナイフを投げようとして、やめる。やっぱり最後は格好よく短剣で決めたい。
サキとの距離はもう五メートルを切った。もうソードスキルは必要ない。使う気力なんてない。あとはお互いに激突するだけだ。
もう、疲れたしな。
色々頑張った。
ここらでいいだろ。
あとはサキに勝って、サキを現実に戻して、これで俺の仕事は完了だ。
本当にここまで長かった。
二年半だぜ?
まったく、サキには報酬を貰いたいくらいだぜ。
でも、まあいいか。
付き合ってくれたし、結婚だってしてくれたし、俺にサキの全部を捧げてもらったし。
結構満足だ。
生きてきて良かった。
サキがいてくれて嬉しかった。
さあ、サキ。
すべてを終わらせよう――。
そして、二人が交差する。
決定打は無い。互いに武器を弾いただけ。
即座に俺は反転し、一歩を踏み出す。
だが、サキの方が遥かに速かった。そして、武器の不利をこれほど痛感したことは無かった。
俺の胸に、サキの槍が突き刺さっていた。
急速にHPバーが削られていく。
――止まれ……。
止まらない。
――止まれよ!
止まらない。
――頼むから止まってくれ! お願いだから……!
俺の願いもむなしく、HPバーが一ドットを残して止まる。
――おい、頼むよ。こんなの嘘だろ。嘘だと言ってくれ!
サキが薄紅色の睡蓮の微笑みを浮かべる。
サキのHPバーが瞬く間に減っていく。恐ろしいほどの速度で削られていき……。
遂に、ゼロになった。
「サキ! サキ! 待て、待ってくれ! 逝くな! 俺を残して逝かないでくれ!」
倒れたサキの身体に、俺は必死になってすがりつく。サキは力なく俺の頬に手を当て、末期の言葉を口にする。
嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
「ハチマン、愛してるよ」
この世すべてを引き裂く俺の慟哭が、アインクラッドに響き渡った。