ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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番外
こうしてアルゴは動き出す


 第一層フロアボス部屋。

 

 悪魔の演説が行われていた。そこでは新規もベータテスターもなく、ただプレイヤーと悪意のハチマンという対立構造だけがあった。

 

 私はそれをフロアボス部屋の外から訊いていた。初のボス戦ということもあって、心配になって駆けつけた私の前で、ボスはひとりの犠牲者の上で倒された。その後、ハチマンが危惧したとおりベータテスターが槍玉に上げられた。

 

 私はそれをただ眺めていることしかできなかった。私も所詮はベータテスターだ。いまさら何を言ってもベータテスター排斥の流れになった現状を変えることができない。それが、いかに自分たちの首を絞めることになったとしても、表立って言えるほど私も強くはない。

 

 そんな中、否と立ち上がったのがハチマンだ。ありとあらゆる悪意をかき集めて発した言葉は、用意にプレイヤー達の心を掴んだ。生み出したのはひとつの憎悪だ。ベータテスターとの遺恨は吹き飛び、ただひとりのプレイヤーに対する怒りのみが生まれた。

 

 すべてがハチマンの手の平で転がされていた。ベータテスターにとってはまさに九死に一生を得た瞬間だった。ただひとつ、当の本人の目があまりに濁り、いまにも倒れそうなほど憔悴していることを除けば。

 

「じゃあな。もし俺に文句があるなら追って来い。ただし、そのときは決死の覚悟を抱いて来い」

 

 ハチマンがLAボーナスで獲得したであろう漆黒のコートを身に纏い、二層への扉を開いて足を進める。誰も動かない。動けない。あのサキですら呆然としたままだ。

 

 だから、私が動いた。

 

 この結末で、私たちはハチマンによって守られた。

 

 なら、ハチマンは一体だれが守る……?

 

 ボスフロアを俊敏に特化した足で踏破する。《隠蔽》を駆使していたからだろう、誰も私の姿には気づかない。開けられた扉に滑り込むように入って、螺旋階段をただひたすらに駆け上がる。

 

 光の見える方へと進んでいくと、ようやく第二層の姿が目に飛び込んできた。急角度の断崖絶壁の中腹に設けられた入口を抜ける。絶景が視界いっぱいに広がるが、そんなことは無視して周囲を見渡す。ハチマンの姿が無い。

 

 嫌な予感がして探す。

 

 岩肌の山には、ごつごつと大きい岩が群れとなって転がっている。その影のどこかにきっといるはずだと信じて私は探す。

 

 たっぷり五分かけて、ようやく目的の人物を探しだした。まさに目を凝らして探さないと分からないような、コの字型に囲まれた岩の影に、ハチマンは膝を抱えて座っていた。

 

「随分はしゃいだみたいだナ」

 

「……アルゴか」

 

 岩に立つ私を見上げてハチマンが呟くように言った。私は岩から降りて彼の前に立つ。

 

「迷惑掛けたナ。まさかあんな行動に出るとは思わなかったヨ」

 

「俺は意外性ナンバーワンの男なんだよ。誰も予想しないことをするのが生きがいでな……」

 

「どこの忍者だヨ」

 

 フードを脱いで私は膝を着く。ハチマンと目線の高さが合う。彼の目には、どこか怯えの光が孕んでいるように見えた。

 

 そっと、慈しむようにハチマンの頬に手を添えた。彼は拒絶しなかった。

 

「そんな顔するくらいなら、やらなきゃいいのにナ。あれはただの気まぐれかイ?」

 

「気まぐれであんなことやるほど人間腐っちゃいない……つもりだ」

 

「そうだナ」

 

 泣きそうなハチマンの表情を見ているのが堪らなく辛くなって、私は彼の身体を抱きしめた。きっと慌てふためくと思ったのに、彼はされるがまま私の胸の中にいる。

 

「現実でもこんなことばっかしてきたのカ?」

 

「まあ、そうかもしれん」

 

「それは、疲れるナ」

 

 ぐっとハチマンの身体に力が入ったかと思うと、私の背に彼の腕が伸びた。

 

「疲れたカ?」

 

「割とな」

 

「泣きたいカ?」

 

「珍しく優しいじゃねえか」

 

「頑張った男の子にはご褒美が必要かと思ってナ」

 

「……そうか」

 

 誰もいない二層の中で、ふたり抱き合う。決して涙を流そうとしないハチマンの頭を、私はゆっくりと撫でた。

 

「頑張る理由、聞いてもいい?」

 

 気づけば、いつもの片言が取れていた。きっと悪意のすべてを晒したであろう彼に対し、フードを被って見せるのは理不尽な気がしたからかもしれない。

 

「サキを現実に戻すためだ」

 

「結局他人のため?」

 

 胸の中でハチマンが首を振る。そうじゃないと、全力を振り絞るように。

 

「結局は俺のエゴだ」

 

「どういうこと?」

 

 ハチマンの言葉が止まる。喘ぐように息をして、私の背に回っていた腕を解いて、自分自身の胸を鷲づかみにする。そうでもしないと、壊れてしまうとでも言うように。

 

 やがて、搾り出すようにして、ハチマンが言った。

 

「俺は、現実に帰る理由がない。だから、帰りたいと願ったあいつに理由を預けた。そうすれば、帰る理由が俺の中に見つかるかもしれないと思ったんだ」

 

 今度は私が目を剥いた。

 

 ああ、なんて人だ……。

 

 ハチマンは、たぶん高校生だろう。私と同じか、きっとひとつ上。多感な時期に教室という牢獄に閉じ込められた子どもの世界は、きっとどこの社会よりもある意味過酷だ。あれほど弱肉強食という言葉が似合う世界もないだろう。その中で、あんな方法を取るような彼があるべき立ち位置など、簡単に想像がつく。

 

「現実は辛かった?」

 

「逃げ出すくらいには、面倒だったな」

 

「帰る理由がほしい?」

 

「いつまでも現実逃避できるほど腐りたくはないんだよ」

 

 私はハチマンの身体を離す。彼は涙ひとつ流さず、相変わらず腐った瞳で私を見つめていた。

 

「なら、理由をあげるよ」

 

「……なんだよ」

 

「私と現実で会おう。私はそれを理由にこれから頑張るよ。だから、ハチマンもそれを理由に前に進まない?」

 

 ハチマンの目が更に濁っていく。

 

「どうせお前もああなる。あんな風に冷たい眼で、あるいは、あんな痛々しい笑みで俺を見ることになるんだ。そんなの、もうまっぴらだ」

 

 何を言っているか分からない。それでも、いまの言葉が彼の本音であり、彼の心を最も抉った出来事であることはわかった。だから、ここで引けば彼の心は更に滅多刺しにされる。人の心は、いとも容易く壊れる。なら、じっくりと寄り添って治していけば良い。

 

「ならないよ。私はハチマンの傍を離れない。ずっと傍にいるよ」

 

「得することねえぞ。害ばっかだ」

 

 吐き捨てるようにハチマンが言った。たぶん、現実的に考えればそうなのだろう。ベータテスターへ向けられた悪意をひとり一心に背負った彼の隣にいることは、普通に考えるよりずっと過酷だ。

 

 でも、そんな理由すら捨て置いてでも彼の隣にいる価値は、いまの私にはある。

 

「得ならあるよ。だって、あなたのことが好きになったから」

 

「は?」

 

 ハチマンが目を丸くする。そして、今度は憎悪にも似た腐った瞳で私を見据える。

 

「冗談も休み休みにしろ。俺はその手の冗談が腹の底から嫌いだ」

 

 どうにも、ハチマンは人の好意というものに恐怖を覚えているらしい。なら、徹底的に分からせてあげればいい。どれだけ私があなたを好きなのかと。

 

 ハチマンの両頬に手を添えて、私はゆっくりと顔を近づける。

 

「嫌なら逃げて? 嫌じゃないなら受け入れてよ」

 

 ハチマンの瞳に懊悩が走る。だから、考えられるだけの間を置くように、じれったいほどの速度で顔を近づける。

 

「嘘じゃないのか? からかったりしてないのか?」

 

 捲し立てるようにハチマンが言う。私はまぶたを落として言った。

 

「私の唇は嘘や冗談であげるほど安くない」

 

 やがて、唇が重なった。途中で目を開くと、ハチマンが目を剥いて涙を流していた。見ているだけで胸を掻き毟りたくなるような、切なく光る涙だった。私はそれを舌の先で掬って、再び唇を合わせる。ハチマンは拒絶しなかった。ただ、涙を滂沱と流していた。

 

 顔を離して私は訊く。

 

「嫌だった?」

 

「分かんねえ」

 

「私は嬉しかったよ」

 

 言いながら、私はハチマンを抱きしめる。彼が私の背を掴んで、おいおいと泣き始めた。今度は嗚咽すら零しながら、世を恨むように泣き出した。

 

「いいよ。私はここにいる。ずっと傍にいる」

 

「もう、疲れちまった……」

 

「大丈夫。疲れたら私の胸で泣いていいよ」

 

「……それなら、もう少しだけ、頑張れるかもな」

 

 私は空を仰ぐ。悠久にも続くアインクラッドの果てを見上げながら、私は告げる。

 

「ねえ、ふたりで色んなことしようよ。ここのことなら、誰よりも詳しく知ってるんだよ」

 

 ハチマンが笑った。

 

「ゲームの中でゲームするってか。なかなか乙なもんだな」

 

 んーん、と私は首を左右に振って、囁くように言う。

 

「私たち、男と女だよ?」

 

 ハチマンがばっと私の唇から顔を離す。表情には僅かな怪訝と、頬に赤らみがあった。

 

「こいつ……なに言っちゃってんの?」

 

「そこはほら、アレがコレしてああなって、やっちゃうんだよ!」

 

「なにこいつは俺の言い訳パクってんだろうな。しかも何だよ、やっちゃうって。ちょっとワクワクしちゃうじゃねえか」

 

「こういうときは、男と女がドロドロと絡み合うのが常識なんだよ。昼ドラで見た!」

 

「良い子が決して見ちゃいけない番組を参考にするな」

 

 ハチマンが顔を覆って嘆く。これだから最近の若い奴らは、などとぶつぶつと呟き始める。

 

 元気になったかな、と思ってもう少しだけ続けてみる。

 

「倫理解除コードっていうのがあってね、それをするとあら不思議。ここでもできちゃうんだよ!」

 

「具体的なやり方なんていつ訊いたんですかねえ? てかマジかよ……茅場の野郎、エロ魔人じゃねえか」

 

「そうそう、ふたりでエロエロになろう!」

 

「最悪な高校生だな。退学もんじゃねえか」

 

 そろそろ冗談もいいだろう。私はまたハチマンを抱きしめる。

 

「ね、もしハチマンが求めるならいいよ。なんだってしてあげる。だから、なんでもいいから希望を持とうよ」

 

「俺に得がありすぎるな……」

 

「これが惚れた弱みってやつだよ」

 

 身体を離して、ハチマンと見詰め合う。彼は、困ったように頬を掻いて、しばらくして真面目な表情で私を見つめた。

 

「アルゴ……俺は」

 

 その唇を私は指で押さえた。いまは先に続く言葉を訊くのが怖い。

 

「返事はまた今度にして欲しいな。さっきのは、ちょっと私もフライング気味だったし。ちゃんとした形で告白するから、そのときに返事をして」

 

「……分かった」

 

 それと、と私は続ける。

 

「サキちゃんには何も言わないでいっちゃうの?」

 

 ハチマンの顔が今度こそ大きく歪んだ。

 

「きっと心配してるよ? サキちゃんは良い子だよ?」

 

「分かってる。分かってるんだ……」

 

 いやいやと、駄々を捏ねる子どものようにハチマンが頭を振って、両手で抱えた。

 

「いまはあいつの顔を見るのが怖い。あいつも、またあんな風に俺を見るんじゃねえかと思うと、恐ろしくてたまらねえ。俺はぼっちだ。ぼっちは強くなきゃならねえ。それなのに、ここに来てからというものの、俺は強くあることができてねえ。どうすりゃいいんだ」

 

 きっと、このゲームに囚われて初めて、ハチマンは弱音ばかりを零している。それが私である事実に、少し心が躍った。こんなにも信頼を寄せてくれているのだと思うと、愛しさが溢れた。でも、そんなことは露にも出さないように注意して、私は声を掛ける。

 

「勇気が出ない?」

 

「そうだな、そうかもしれん」

 

「なら勇気をあげるよ」

 

 なにを、と顔を上げたハチマンに思い切り口づけする。舌まで入れて、念入りに私の存在をねじ込む。ハチマンは瞠目していたけれど、決して逃げることもなく、私を受け入れてくれた。それが嬉しくて、ただただ彼の口内を舌でかき回した。ずっとこんな時間が続けばいいと願いながら――

 

「あんたら、なにやってんの?」

 

 声を掛けられて、その幸せも終わった。すぐに振り返って見上げると、岩の上にサキが私たちを見下ろしていた。陽光の影になって表情は見えないが、声はどこか冷たかった。

 

 サキが岩から降りる。表情がそこでようやく姿を現し、瞳が悲しみに揺れていることを知った。

 

 私は慌てる。ふたりの仲を切り裂いてしまったようで、そんなことになれば余計にハチマンが苦しむから、なんとかしなければならないと、無駄に頭を回転させて、言った。

 

「えっと、さっきの演説で惚れたからハー坊を襲ってたんだヨ!」

 

 直球にも程があった。私は実は馬鹿なんじゃないかとその場で項垂れたくなった。サキが呆れたようにため息する。

 

「そう、それはいいんだけど……」

 

 一言で斬って捨てられて、私は今度こそ本当に項垂れた。そこはもう少し動揺してほしかったよ……。

 

 サキが一歩足を踏み出す。途端、ハチマンが怖い幽霊でも見たように、身体をすくませた。その姿を見たサキの表情に、再び悲しみが生まれた。それも一瞬のことで、すぐさま微笑みを浮かべてもう一歩踏み出し、膝を落として彼の目線に合わせる。

 

「あんた、いつもあんなことやってたんだね。ようやく、分かったよ」

 

「なにを……」

 

 ハチマンが掠れた声を出す。

 

「ずっと、あんたを見てた。あんたに助けられたあの日から、あんたにちゃんとお礼を言いたくて、ずっと見てた。文化祭のときも、修学旅行のあとも、あんたがどんどん小さくなっていくような気がして、何があったんだって、なんであんなに言いたい放題言われなきゃならなかったんだって、ずっと思ってた。それが今日、ようやく分かった」

 

 それは、現実で関係を持っていたからこそ出る言葉だった。私には決して知り得ない、現実での彼の姿。だからこそ、私は悔しくなって拳を握った。知らない私は、そんな言葉を掛けてあげられないから。

 

「あんた、ずっと頑張ってたんだね。ひとりで、周りから白い目で見られても、言い訳ひとつしないで、ずっと頑張ってきたんだね。偉かったね。辛かったね。あんなやり方しかできなくて、それでもなんとかしなきゃって、ずっと頑張ってたんだね。気づいてやれなくて、ごめんね」

 

 たぶん、ハチマンへ投げる言葉の正解はこれだ。私が絶対に辿りつけない先にある言葉がこれだ。悔しくて、本当にただ悔しくて、それでも、ハチマンがこれで自分を取り戻せるならばと、歯を食いしばるようにしてふたりを見守ることしかできない。

 

 サキが続ける。慈愛の篭った微笑みのまま、ハチマンをじっと見つめて。

 

「ハチマン。だけど、もうこんなことはやめて。あんたが傷つくとあたしも痛い。あんたが辛いと、わたしも辛い。でも、あんたが笑うと、私も楽しいんだ。だから、あんたにはずっと、笑っていて欲しい……」

 

 これは最後通告だ。ここで何かをしないと、私は決定的に何かを失う。サキにハチマンを取られてしまう。彼の心を掴まれてしまう。それは嫌だ。だってこの恋もう、全身を熱く滾らせるほどに強くなってしまったのだから。いまさら取り上げられたら、向ける先なんてないし、冷ます方法だって知らない。

 

 だからこれが唯一のチャンスだ。

 

「ハチマン」

 

 サキの言葉の隙を縫うように、私は声を投げた。ふたりが私を見る。サキの表情は微笑のままだ。

 

 私はサキに笑ってから、ハチマンを見る。彼は瞳を震わせて私を見ていた。

 

 短く息を吸う。

 

「私がずっと隣にいるよ。つらいときも、苦しいときも、楽しいときも、嬉しいときも、ずっと私が傍にいる。そしたら、少しは楽にならない?」

 

 先に言われちゃったね、とサキが苦笑した。どうやら最後の最後で正解を引き当てたらしい。私はハチマンの様子を伺う。彼は、困ったように笑って言った。

 

「そうか、それもそうだな……」

 

 ハチマンの中で、一体私はどれだけの存在になったんだろう。サキを凌駕したんだろうか。それとも同じくらいの存在になれただろうか。

 

 人の内面はゲームのステータス画面みたいに見ることができないから、いま彼がなにを考えているか、知る術を私は持たない。

 

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