ソードアート・オンライン Youth in Aincrad 作:ユーカリの木
第一層のボス攻略から四ヶ月が経った。最前線は三十層を超え、いまや三十三層に達している。
あれから、私はサキと一緒にハチマンの傍に寄り添い続けた。だから私の評価はガタ落ちしたと思いきや、存外そうでもないらしい。なにせ、SAO初の情報屋でもあり、その確度も高く、なによりディアベルがあの後すべてを話したお陰で、私は悪意を向けられることがなかった。だというのに、いまだにハチマンへ投げられる憎悪は変わり無い。彼が道を歩けばこそこそと嫌味を言い、自称自警団と名乗る連中が追い回す。大きくなった民意の波は、理不尽に彼を追い詰めていく。
あまりにも耐えがたかったから、私はすぐさま真実を記して翌日の新聞に載せてやろうと何度も画策したのだけれど、ハチマンがそれを止め続けた。
曰く、ここですべてを告げればまたベータテスターへ憎悪が向けられる。そうすると攻略が遅れる。サキを現実に帰すのが遅くなる。それだけは駄目だ。
そう言われてしまえば、言い返す言葉も無い。
サキはあくまで自然体でハチマンと向き合うことにしたらしく、普段通りに彼と接している。それが羨ましくて、気持ちばかりがはやる私とは格の違いを見せ付けられているようで、心の奥底に焦りが積もっていった。
そんなある日、三十三層主街区《ラーヴィン》の複雑に絡み合う路地裏にある喫茶店で、私とディアベルはハチマンを待っていた。そわそわとしている私をよそに、ディアベルは店内のインテリアをのんびりと眺めている。
そんな時間をたっぷり十分は過ごしていただろうか、ようやく店内にからんからんと来客を告げる鐘の音が響いた。ぴょんと立ち上がって来客を見ると、そこには待ち望んでいたハチマンの姿があった。
「よう、ディアベル、アルゴ。今日も殺されに来たのか?」
あんまりな挨拶の仕方に私もディアベルも苦笑する。一層のときの科白をもじったのだろう。
「久しぶりだね、ハチマン。無事でなによりだよ」
「ハチマン、待ってたよ」
私は、ハチマンの前で《鼠》のアルゴをするのをやめた。私はもう、彼に恋する乙女だから、鼠なんてそんな動物になる必要はない。頬のペイントも取った。だからだろうか、以前より男が私に言い寄ることが多くなってきた。彼以外の男などどうでもいい。
すぐにでも抱きつきたくなる欲望をなんとか抑えて、ハチマンが座ると同時に私も腰を下ろす。
「とりあえず注文しようか。美味しい甘味処なんだ」
ディアベルに促され、私とハチマンがウインドウを開いてメニューを眺める。何気なく見ていた一覧の中に、一際目を引くメニューがあった。メニューの名と、その添付された写真データに私の目は釘付けになった。
――ラブラブ☆カップルのトキメキジュース
なんと甘美な響きだろうか。大きなグラスに注がれたソーダ風の飲み物に、淵に挿されたオレンジ。なにより、グラスに刺さったふたつのストローが心の敏感な部分を刺激してならない。飲みたい。是非ハチマンとふたりで飲みたい。ディアベルが横にいるけれど、きっと笑って許してくれるはずだ。一層では色々やらかしたけれど、結構いい男なんだから。
でも、絶対にハチマンが嫌いなメニューだ。
だけど、私は飲みたい。ふたりでちゅーちゅーとストローで甘美な蜜をすすりたい。
ならば、ちょっと責め方を変えてみよう。
「ハー坊ハー坊」
いつもと違う呼び方に違和感を覚えたか、ハチマンの視線が私に飛ぶ。その表情には警戒。それを解かんと、私は瞳をしっとりと潤ませ、上目遣いに彼を見て言う。
「これ、頼んでいい?」
ウインドウを滑らせて、ある一点を指差す。ハチマンの顔が引きつった。
「あざといな……。なんだ、この脳内お花畑でハッピーな女子が好みそうなメニューは……。リア充め、許せん」とかなんとかどこか憎しみの混じった小さな声で言っている。脳内会話がだだ漏れだ。
つまり、私はあざとくて脳内お花畑でハッピーな女子ということか。なんだそれ。泣きたくなってきたよ……。
ともあれ、湧き上がった欲求を抑えるには、少しばかり私には我慢が足りない。だからひたすら押すだけだ。にっこりキュートな笑顔を作って再度押してみる。
「ハチマン、飲もうよ!」
「断る!」
即決で斬り捨てられた。心が形を持っていたら、その場で砕け散るほどの衝撃だった。思わず項垂れる。わざとじゃなくて本当に泣きそうだ。
それを見ていたか、ハチマンが慌てたように言葉を出す。
「いや、あれだ、ほれ、恥ずかしいだろ? な?」
「私は恥ずかしくないもん」
「もんって……いやな、俺が恥ずかしいんだよ」
「私は恥ずかしくないもん」
「こいつ、俺の話を訊いてねえ……」
私は身を乗り出して、ハチマンを上目遣いに見る。彼がこくんと喉を鳴らした。
「私のこと、嫌いになっちゃった?」
この一言がダメ押しだったらしい。降参したように両手をあげたハチマンは、無言でメニューの注文ボタンを押した。にやり、と笑いたくなったが、ここは我慢だ。もう少しお淑やかにしておこう。と思ったのだが、バレていたらしい。
「にやついてるのバレてるからな」
「なっはっは~」
乾いた笑いでごまかす。ハチマンは長いため息を吐いてソファーに寄りかかった。ディアベルは相変わらずニコニコしながら私たちを眺めつつメニューを選んでいた。
「無理強いしたのは謝るよ。ごめんね、ハチマン」
「気にすんな。慣れてる」
憮然とした様子で言いながらも、ハチマンの頬はどこか緩んでいるように思えた。
全員の注文を終えたところで、ディアベルがぽんと両手を叩く。
「じゃあ、本題に入ろうか」
今日の議題はホーリィについての議題だ。第一層で暗躍していた人物の情報共有が、今回の集まりの目的だった。
話を進めるも、結局私もディアベルも然したる情報は無く、ホーリィに関する情報はまったく集まらない。最後の期待を込めてハチマンを見るも、彼は胸を張ってこう言った。
「ないな。まったく無い。というか、情報のアルゴ、組織力のディアベルで見つけられなかったら、どっちもない俺に分かるわけないだろうが」
まるで、自分がぼっちなんだから情報が集まるわけないだろうといわんばかりの科白。胸が痛くなる言葉だった。
私は、テーブルに置かれたハチマンの手に自分の手を重ねる。彼は一瞬びくっと手を動かしたが、私の手がそれを逃がさない。指の間に絡めてしっかりと握る。
「ハチマンには私がいるよ。サキちゃんだっている。だからそんな悲しいこと言わないでよ」
ハチマンが顔を背ける。
「う……まあ、あれだ。言葉の綾だ。ちゃんと感謝してる」
恥ずかしそうに、けれど、頬を染めてハチマンが言った。なんだか嬉しくなって、もう片方の手も重ねた。
そんな中、ディアベルが妙に悲しそうな顔をしていた。
「なぜオレがナチュラルに抜かれてるんだろう」
私とハチマンがディアベルを見て同時に言う。
「おいイケメン、空気読めよ」
「ひどいな君たち!?」
そんなことをやっていると、ようやくNPCの店員が現れ、注文の品がテーブルに広げられる。私の前にはチョコレートケーキ、ハチマンの前にはピーナッツケーキだ。ディアベルは……どうでもいいよ。
そして、期待を込めて見つめた先には、私とハチマンの間に置かれた一際大きなグラス。写真データ通りかと思いきや、ストローだけがくるりと洒落て曲がり、ハート型を描いている。なんて素敵な! これでハチマンのハートもがっちりだよ!
なんて訳もなく、ハチマンはそれを見て顔面を盛大に引きつらせていた。うん、分かってた。そういう反応すると思ったよ。
さあアルゴ。ここは余裕の微笑みでハチマンをリードするんだ。なあに、簡単じゃないか。飲もうと一言声を掛けるだけじゃないか。行け、アルゴ。女の意地を見せるんだ!
「は、ハチマン……の、飲もっか?」
なぜどもるの私……。
急に恥ずかしくなって、かっと顔が熱くなる。それでもふたりで飲みたいのは本当だから、そろっとハチマンを見上げる。
「ぐ、わ、分かった……」
ふたりで緊張しながらストローに口をつける。そのままちゅーっと二人して中身を吸い込む。口の中に爽やかな酸味と炭酸のしゅわしゅわとした感触が広がる。美味しい。目線を上げれば、愛しい人が同じものを飲んでいる。本当に、心の底から幸せだ。
「んっ……」
思わず吐息が漏れる。どういう訳か、ハチマンの頬が赤みを増す。
私もハチマンも言葉を発さない。ただちゅーちゅーと同じジュースを飲んでいる。美味しくて、恥ずかしくて、でも嬉しくて幸せな味がする。
ディアベルはひとりチーズケーキ祭りをしていた。どうでもいいよ。
「ん、ん……っ」
幸せが口と喉を通って体内に入り、私の敏感な部分に触れているようで、自分でも思ってもみないような艶のある声が出てしまう。これ以上飲んでいたら本当にどうにかなってしまいそうで、私は慌ててストローから口を離した。同時に、ハチマンもストローから離れる。
互いに顔を見合う。湯気が出そうなほど顔を赤くしたハチマンがあまりにも可愛いから、自然と身体を乗り出してしまう。そっと彼の頬に手を添える。びくっとした彼の唇がジュースで少し濡れている。そう、ちょっとそれを拭うだけだ。だって手元にティッシュがないんだからしょうがないじゃないか。そう言い訳をして唇を重ねようとして――
「はい、ストップ」
ディアベルに思いっきり止められた。
なんだよ、と睨みつけてやると、若干身体を引いたディアベルが困ったように笑った。
「それ以上やると、ハチマン死にそうだよ?」
そんな馬鹿な、と思いながらハチマンを見て、絶句。本当に死にかけていた。真っ赤な顔のまま、ソファーの上でぐったりとしながら天井を仰いでいた。
私は慌てて声を掛ける。
「は、ハチマン?」
「あ、アルゴ……公衆の面前でそういうのやめてくれ。恥ずかしくて死ぬ」
きょとん、と私は首を傾げる。つまりは、
「誰もいなければいいの?」
「そういうことじゃねえよ」
やっぱ駄目か……。やっぱりハチマンはガードが硬い。一体彼は何と戦ってそんな結界を身に付けたんだろう。是非とも教えてもらいたい。
しばらく天井を見ていたハチマンが、ピーナッツケーキに手を伸ばす。私もチョコレートケーキを食べようとして、途端、彼の頭がテーブルに落ちた。続いて食器が転がる金属音。彼が突然意識を失ったように、テーブルに伏したのだ。私は慌ててテーブル越しに彼の名を叫ぶ。
「ハチマン? ハチマン!」
ディアベルも声を掛けながらハチマンの身体を揺する。彼は起きない。
背筋に氷柱でも刺さったように、私の身体が一瞬にして強張った。
なんで? どうして?
そればかりが頭の中で回っていて、ハチマンの名を呼びながら私は泣きそうになった。
やがて、ハチマンが額を押さえて起き上がる。その顔は、アバターだというのに病人のように青白く見えた。そこに滲んでいた疲労に、私はすぐさま理由が思い至る。
――サキちゃんのために寝る間も惜しんで動いている。
きっとろくに寝てもいないのだろう。なにせ、ハチマンから来るメッセージの時間で、酷いときには夜中の三時に来ていたこともある。起きて時間を見たときにはびっくりしたものだ。間違いなく、彼はそれを毎日続けている。罪悪感と共にそれを飲み下し、理由を見つけるために必死になって動いている。
なら、私にできることはなんだろう。私はハチマンに何をしてあげられるだろう。
「あー、大丈夫だ。なんかぼけっとしてたらしい」
ハチマンが疲れたように言う。ディアベルがそんな彼に水を差し出した。
「そんな風に見えなかったよ。疲れているんじゃないか? 最近無理してるんだろう?」
無理どころの話じゃない。社畜もびっくりの労働をしているに違いないのだから。私は胸に手を当てて息を吸い込む。失敗してもいい。拒否されても構わない。心配なんだから、これくらいしてもいいんだと自身を騙すように何度も心の中で唱えて、口を開く。
「ハチマン、うちに来ない?」
「は?」
呆けた声でハチマンが答えた。
「だから、うちに来て」
「おい、疑問系から若干命令形に変わったぞ? なに? 強制なの?」
「うん、強制。うちに来てよ。そして休んで」
「別に俺は疲れてなんて――」
その先を言わせるつもりはない。引っ張ってでも連れて行く。
「疲れてるでしょ? 精根尽き果ててるでしょ? うちに来てよ。お願いだから。心配なんだよ」
「おい、こう見えても俺の夢は専業主夫だぞ。んな疲れるまで働くかっつーの」
あくまで平然を装うハチマンの手を握る。彼はすぐに振りほどこうとするも、力が出ないのか殆ど動きもしなかった。
「こんなザマで疲れてないって言える?」
ハチマンが黙る。それをいいことに、私は畳み掛ける。
「お願い。心配なの。どうしようもなく心配なの。それが理由じゃ、ダメ?」
これは、善意の弾丸だ。ハチマンにとっては迷惑なだけかもしれない。私のエゴを満たすためだけかもしれない。だけど、このまま彼の手を離したら、きっと遠いところへ行ってしまう。
ハチマンが私の手をやんわりと握り返してきた。
「悪い。少し甘えさせてもらうわ」
「うん、そうしてくれると私も嬉しい」
一度手を離して、私は席を離れる。ハチマンの隣に寄り添うようにして、彼の手を再び握った。彼がディアベルを見る。
「ディアベル、悪いがサキに伝言頼む。用事があって寄れそうにねえって」
「ああ、分かった。ゆっくりするといいよ」
ディアベルが頷く。私はそれを見届けると、ハチマンの身体を支えるようにして足を踏み出した。小さな声でハチマンが言う。
「アルゴ……悪い」
「いいよ。ハチマンの為なら、私はなんだってするから」
主街区《ラーヴィン》の宿の一室に、私が間借りしている部屋はある。中央に置かれたベッドに、私はハチマンを横たわらせた。彼は店内で言葉を発して以来、口を開くことはなかった。相当疲れていたのだろう、横になった途端、規則的な寝息が私の耳に届いてきた。
ベッドの脇に座って、ハチマンの髪を撫でる。
「なんでそんなに働くかなあ」
ひとりぼやく。ハチマンは、はっきり言って面倒で複雑な性格と思考体系をしている。だから内面を読み取ろうとしても分からないし、表層から感じ取ることもできない。でも、唯一分かるのは、サキを大事に思っていることだ。彼女のためならば、彼は疲れを無理やり捨ててでも働いてしまう。それが恋なのか別の感情なのかは分からない。だけど、それが私にとってはどうしても悔しくて、醜い嫉妬で胸が焦げそうだ。
「我ながら最低だなあ」
天井を仰いで、ぽつりと言う。
恋は素敵なものだという言葉を訊いたことがある。そんなことを言う連中にいまの私の心を見せてあげたい。どれだけ嫉妬に狂っているか、どれほどおぞましい感情を押し殺しているか分かるはずだ。恋なんて、こんなにも醜くて汚らしい。
だけど、それを向けるべき相手があのサキだから。美人で素敵で可愛くて、思わず甘えたくなってしまう包容力を持つ彼女だから、負けても仕方ないかと諦観にも似た気持ちも生まれてしまう。
黙ってはいられないかな。
一度嘆息して、私はメッセージウインドウを開いた。サキに対し、ハチマンが倒れたから自分の宿で休ませている旨を伝えておく。返信はすぐに来た。
――すぐ行く。
まったく、サキもハチマンのこととなると、普段見せている気だるさがいとも簡単に吹き飛ぶ。どうせ五分以内に来るだろうな、なんて思っていると、僅か二分後に玄関のドアをノックする音が響いた。
「アルゴ、あたし。サキだよ」
「ん、すぐ開けるヨ。でもハチマンが寝てるから、静かにネ」
ドアを開くと、肩で息をしたサキが部屋着姿で立っていた。もう、取るものとりあえず駆けつけてきたといった様子だ。背後で眠っているハチマンの姿を見て、サキがほっとしたように壁に身体を預けて、ずるずると床に腰を落とした。
「安心していいヨ。放って置いたらまたどこか行きそうだったから、無理やり連れてきたヨ」
私が差し出した手をサキが弱々しく掴む。
「ありがとう。迷惑掛けたね」
「なんカ、夫を助けられた妻の科白みたいだネ」
「そういう冗談を訊けるほど余裕はないよ。でも、大事になる前にあいつを助けてくれてありがとう」
私の手に縋るように両手で掴んだサキが、頭を下げて感謝を捧げた。さっきまでの嫉妬が簡単に消えてしまうくらい、本当に素敵な女の人だ。
ぽん、とサキの肩を叩く。親指でくいっと奥の空き部屋を指差すと、彼女はすぐに悟ったかひとつ頷いた。私はサキを連れて空き部屋に入り、静かに扉を閉める。
本当に何もおいて無い、四畳程度の小さな部屋だ。椅子も無いから床にじかに座ると、サキも私の前で腰を落とした。
「なにか話でもあるのかい?」
私は無言で頷く。これからするのは、いまの中途半端な関係を崩す儀式だ。一種の決意表明でもあり、彼女と争う覚悟を決めるための言葉だ。
私は大きく息を吸った。
「サキちゃん。私はハチマンが好きだよ」
サキが穏やかに微笑む。
「知ってるよ。一層で言ってたじゃない」
「いいの? このままだと私、ハチマンを取っちゃうよ?」
平静だったサキの瞳が、左右に揺れた。
「それは……あたしが決めることじゃないよ。ハチマンが自分の心で決めることだよ」
「もう一度訊くけど、本当にいいの? 私、これでもかってくらい積極的になるよ? もしこれでハチマンが私のことを好きになったら、もうサキちゃんと今みたいにコンビを組めなくなるかもしれないよ? 本当にただの依頼人と請負人、それだけの関係になっちゃうよ? それでもいい?」
サキの表情が強張る。身体のネジが緩んだように、彼女の身体がゆらゆらと揺れる。きっと、未来予想図を想像して震えているのだと思う。
腕を抱いたサキが、搾り出すようにして、言った。
「それは……嫌だね……」
「私はクリスマスに告白する。そう決めてる。サキちゃんはどうする?」
困ったようにサキが眉を下げる。
「私は、自分の感情もよく分かってないんだよ。恋なんて、したことないから」
まったく、ハチマンと同じくらい、サキも面倒な性格をしている。お腹の底から這い出てくる深いため息を吐いて、私は彼女に問う。
「ハチマンを取られるのは嫌?」
「嫌……かな」
「ハチマンの隣にずっといたい?」
「できれば、そうありたいかな」
「例えば、サキちゃんの前で私とハチマンがすっごく濃厚なキスをしてたら、どう思う?」
「それは、あまり想像したくないかな……」
私は、にんまりと笑って見せる。
「サキちゃん、それって恋となにが違うの?」
「どうなんだろう?」
思わずずっこけそうになる。この女は、どうして変なところで鈍感なんだ。いや、いいんだよ? そんなことで悩んでいる間に私はハチマンを取っちゃうから。でも、それはきっとダメだ。サキとは、正々堂々真正面からぶつかる必要がある。だって、彼が一番に信頼を寄せているのは、彼女なのだから。
「サキちゃん、それはもう恋だよ。もうなんか面倒だから恋にして。さっさと恋しちゃって。あたしはハチマンに恋してる。はい、復唱!」
え? え? え? とサキが首を左右に傾げる。可愛い。でも生半可な態度は許さない。
「あたしはハチマンに恋してる。はい、復唱!」
私の声に、サキの背筋がぴんと伸びる。
「あ、あたしは、ハチマンに……こ、恋してます」
「ワーオ、じゃあ私たちはこれでライバルだね」
とりあえずとばかりに、私は胸の前でぱちぱちぱちーと拍手をしておく。対してサキは額を抱えて力が抜けたように項垂れている。
「なんだろう、すごい騙された感があるんだけど……」
「まあ、いいじゃん! これで晴れて私もハチマンに積極的になれるよ!」
「あんたは一層のボス戦後から積極的じゃないか……」
そうだったっけ、とうそぶいてみせると、サキが呆れてものも言えないように首を振った。
「あんた、なにかとつけてハチマンに抱きつくし、腕を抱えるし、見ててハラハラしてたんだからね」
「そういうサキちゃんは何もしなかったね。この臆病者め!」
「あんたね……」
もう何も言いたく無いとばかりに、サキは片手で頭を抱えた。偏頭痛持ちだろうか。大変だ。頭痛の原因はきっと私だから、少しは申し訳なく感じる。
「まあ、お互い気持ちも確認できたし、これからは正々堂々戦おう!」
私がサキちゃんに拳を突き出す。彼女はそれを見て苦笑すると、同じく手を握って私の拳に優しく触れた。
「なんだかね、あんたの思惑通りに進んでる気がするよ」
「当然だよ。ハチマンを手に入れるためなら私はなんでもするから」
そう言って、私はとびっきりの笑顔でサキに向けた。
翌朝、長い眠りについていたハチマンが目を覚ました。彼はまぶたを開いた瞬間、なぜか「知らない天井だ」と呟いた。昨日見ているはずなんだけどなあ、と思いながら、私はその姿をすぐ傍で観察している。昨日サキが帰った後、情報屋の仕事を終えた私は、ベッドを彼に占領されているならいっそ一緒に寝てしまえとばかりに、布団の中にもぐり込んだのだ。
ハチマンはまだ私に気づかない。ぼけーっと天井を仰いでこちらに寝返りを打つ。ばっちし私と目が合った。途端、彼の身体がバネみたいに大きく弾んだ。
「うおっ! おまっ、なんでいるんだ!?」
んーと背を伸ばしながら私も起きる。
「なんでとは酷いなあ。昨日ハチマンをここに連れてきたのは私なのに」
はっとしたようにハチマンが目を見開き、やがて、身体のあちこちを触り始めた。
「俺、何もされてないよな……」
「まるで酒に呑まれて男にホテルに連れ込まれた翌日の女みたいな科白だね」
「具体的すぎる比喩はやめてね」
げっそりとした表情でハチマンが言い、私はころころと笑う。
「寝込みを襲うほど変態じゃないから安心していいよ」
「寝込みじゃなきゃ襲うような奴の科白だな」
にやり、と私は笑う。
「それはもう、当然」
ハチマンの表情が固まる。天敵を前にした小動物のような怯えた顔だった。その様を見ているのはとても面白いが、納得はいかない。この男、私に好かれているという自覚がないんじゃないだろうか。とりあえず、釈明だけはしておこう。でないとこの男、本当に私に変態の烙印を押しかねない。
「冗談だよ」
「本当か?」
「冗談だよ」
「それはどっちの意味だ……」
「冗談だよ」
「話が通じませんね……」
下らないやりとりが楽しくて、思わず噴出す。ハチマンも面倒そうな顔をしながらも、口許には笑みがあった。頭をガシガシと掻いた彼が、そっぽを向いてぽつりと呟く。
「まあ、あんがとな」
おお、と思わず口を開く。ハチマンがお礼を口にすることなど滅多にないのだ。つまり、レアものだ。早速気分がよくなった私は、思わず無茶振りをしてしまう。
「ハチマン、明日デート行こう!」
「え? 明日? 明日はちょっと、アレがコレでほら、暇じゃないし」
「ハチマン、明日デート行こう!」
「その手が何度も通じると勘違いしてねえかこいつ……」
まあ、助けてくれた礼もあるか、とハチマンがひとりごちて、仕方が無いといった風にため息した。
「分かった。じゃあ任せる」
ぶっきらぼうな言葉に、わたしはにんまりと口角を吊り上げる。
「いいの? あんなことやこんなことをするデートプランにするぞ?」
ぎょっとしたハチマンが私を見て両手を前に突き出す。
「待て! 分かった。俺も計画を練ろう! 俺は基本的に遊びに行くときはワクワクしながら綿密な計画を立てるタイプだ!」
「それはひとりのときだろ?」
「なんでこいつは俺の生態を把握してるんですかね? ハチマン検定何級だよ」
「いま一級に挑戦中だな」
「あるのかハチマン検定。ホント誰得だよ……」
私はひとつ笑って、ごちゃごちゃとぼやいているハチマンの腕を伸ばした手で掴んで無理やり引っ張る。あわよくば、このままベッドに引きずりこんでしまいたい。
「ちょ、おま、なんなの? 昼間は襲わないんじゃなかったの?」
驚いたハチマンが逆に腕を引いてその場で踏ん張った。互いに俊敏特化な所為か、男と女だというのに力が拮抗しあう。
「襲わないけど、イチャつきたい」
「なぜ俺はお前とイチャつかなきゃならないんだ」
「訂正、添い寝したい」
「ほとんど同じ意味だからね、それ」
ぐぬぬ、と力を込めるが、ハチマンの身体はなかなか動かない。互いに全力を出しているからか、額に汗が滲んでいる。致し方ない、ここは裏技を使おう。
眉を下げて瞳を潤ませ、ちょっと上目遣いにハチマンの顔を覗く。
「私と、添い寝したくないの?」
「あざとい」
一撃で撃沈した。力を失った私の拘束からハチマンが逃れる。彼はふーふーと自分の腕に息を吹きかけていた。
どうしてだろう。ティーン向け女性雑誌には、こうすれば男はイチコロだと書いてあったというのに、なぜ利かないのだろう。あれか、女の魅力が足りないのか。
落ち込む私にハチマンが恐る恐るといった声で話しかけてきた。
「お前、キャラに合ってねえだろ。お前はなんつーか、もっと自然体な方がいいんじゃねーの? あれだ、一般男子の視点からの一般論だ」
当然ぼっちの俺には当てはまらん、と胸を張ってハチマンが言う。それ自慢するところか、と突っ込みたくなるのを無理やり飲み下した。いまかなり良いヒントを貰った気がする。
「つまり、いつも通りに行けばハチマンは落ちる、そういうことカ?」
「お前、ホント俺の話を訊かないよな」
とりあえずハチマンのぼやきは無視する。
ふむ。今までの話を統合すると、どうやら私の責め方は間違っていたらしい。つまるところ、キャピキャピしたりあざとい演出は、ハチマンにとっては逆効果ということだ。なんだこの男、超めんどくさい。
「つまり、乙女っぽい女子は苦手と、そういうことだナ?」
「ああ、もうそれでいいよ」
ハチマンが諦めきった声で言う。確かに、多少無理して乙女ぶっていた感はあるから、男らしい言葉遣いの方が私にとってははっきり言って楽だ。こちらがいいというなら、多少お姉さんぶるのもありだろう。
「なら呼び方はハー坊とハチマン、どっちがいいんダ?」
「やけに今日は責めるなお前。もうハチマンにしてくれ。坊やって歳じゃねえし」
「よし、決まりだナ。なら私の一人称はどっちがいいんダ?」
「昔に戻せ。どうにも慣れん」
「つまり、昔のオレっちが好みのタイプ、そういうことだナ?」
「もうなんでもいいです……」
遂にハチマンが項垂れた。つまるところ、これで私は本来の私のまま戦うことができるわけだ。いいことだ。何事も自然体が一番だ。
私はそのままベッドに寝転んで毛布を被る。ハチマンをちらりと見ながら、蠱惑的な微笑みを湛えて布団をめくってみせた。
「一緒に寝るカ?」
「結局そうなるのかよ」
「そうじゃなくて、冗談抜きでまだ眠いんだヨ。遅くまで情報屋稼業で忙しかったからナ、殆ど寝てないんダ。できれば抱き枕としていてくれると結構助かるんだヨ」
自然に欠伸をしながら私は言った。すべて事実なのだから、嘘は無い。多少、というか大半は欲求が混じっているのだけれど、それをハチマンが見抜けるかどうかは、さて、いかがなものか。
「何もしないか?」
「乙女かヨ。乙女はオレっちの方だゾ」
「まあ、今のお前なら何もしなさそうだし、俺もまだ寝たりんし……いいか」
観念したのか、素直になったのか、はたまた新たに生まれた疲労と眠気に負けてしまったのか、ハチマンも欠伸をしながらもぞもぞと布団の中に入ってくる。やはり羞恥はあるのか、私に背を向けた状態だ。
さすがにすぐに手を出すのも悪いから、私は天井を仰いでぼけっとする。たっぷり五分ほどそうやっていると、隣からシーツの擦れる音が聞こえる。寝付けないのだろうか、ハチマンはさっきからなにやらもそもそと忙しい。ふむ、まさか……。
「ハチマン、いくらオネーサンと添い寝してるからって、ひとり発情して自家発電シてるんじゃないだろうナ?」
「してねえよ。それにここじゃできねえからな?」
「そうカ、ナラ、オネーサンからひとつプレゼントしてあげよう」
ハチマンの背中に私は身体を押し付ける。それなりの大きさの胸が、彼の背に押されムギュッと楕円になる。彼が思いっきり背を逸らした。そのままベッドから逃げようとするが、そうは問屋が卸さない。左腕でハチマンの胸をがっちし掴み、左足で彼の足を絡め取る。びくっと浮き上がった間を利用して右腕を即座に滑り込ませ、そのまま両手でハチマンの上半身をぎゅっと抱いた。我ながら惚れ惚れとする早業だ。
「なにやってんだお前」
「抱き枕にするっていったロ? このまま寝させてくれヨ」
ぴとっとハチマンの肩に頬をくっつける。これはなかなか、抱き心地が良い。本当に眠れそうだ。
「俺はどうすりゃいいんだよ」
「そのまま寝ろヨ。オネーサンの抱き枕だゾ。天国見させてあげてるんだから感謝して寝ろヨ」
「いきなり横暴になりやがったなこいつ……」
「これがハチマンの好みダロ?」
あざといよりはいいけどな、とハチマンが小さく言った。方向性はやはり合っているらしい。
くわっと欠伸が零れる。そろそろ本格的に眠くなってきた。身体の前面に広がる男性の逞しさと温もりに抱かれて、意識がまどろんでいく。
「じゃ、オレっちは寝るヨ。抱き枕くんヨロシク……」
「はあ……おやすみ」