ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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いつだってアルゴは心配している 2

「ワーオ」

 

 目を覚まして出した最初の言葉がそれだ。寝たのはたぶん、朝の六時頃だったと思う。問題は起きた時間だ。

 

 いまの時刻は朝の五時。一時間巻き戻ったのかと思いきや、日付を見るとどうも一日おかしい。つまり、ほぼ丸一日寝ていたわけだ。決して捕えて離さなかったハチマンと共に。

 

「起きたかアルゴ。いいから俺を解放してくれ……」

 

 二十三時間も抱き枕にされていたハチマンが呻いた。私は慌てて彼を離す。のっそりと起き上がった彼は、全身の凝りを解すように首やら肩やらを回し始める。

 

「もしかして、随分前に起きてたのカ?」

 

 私の問いに、ハチマンが一度天井を仰いで「なんだったかなあ」と呟いたかと思うと、こう答えた。

 

「いま起きたところだ」

 

「デートに遅れて来た彼女に対する彼氏の科白みたいだナ」

 

「いやに具体的だな……」

 

 つまりだ、なかなか起きない私を気遣って、起きながらもずっと抱き枕に徹し続けてくれていたわけだ。これはなかなか、胸がキュンとする。身体の奥底から熱いものが込み上げる。好きが溢れるとは、たぶんこういうことなのだろう。

 

 思わず抱きつきたくなったけど、あざといと一蹴されそうだから止めておく。それよりウインドウを開いてメッセージのチェックが必要だ。今日一日の時間を捻出するために、一昨日から仕事仲間に諸々の依頼をしていたのだ。まさか丸一日も寝ることになるとは思ってもみなかったから、状況がどうなっているか見るのが少し恐ろしい。

 

 ウインドウを開き、大量に受信していたメッセージを確認していく。これも手馴れたもので、最初の頃こそ頭が痛くなるような分量であっても、最近では特に頭痛も感じない。慣れとは恐ろしいものだ。すべてのメッセージに目を通し終え、特別問題が起きていないことを知る。

 

 気になるのは軍の動きだ。どうにもはたから見ても少し活発気味らしい。仲間にもう少し深く探るよう依頼を投げておく。

 

 そこまで約三十分。わき目も振らずウインドウと睨めっこをしていた私は、まだハチマンが部屋にいることに気が付いた。てっきり隙をついて逃げると思っていたのだが……。

 

「まだいたのかハチマン?」

 

「帰っていいなら帰りたいんだが」

 

 その答えの意味を察し、私はにんまりと笑う。

 

「つまり、オネーサンとのデートが楽しみで逃げられないと、そういうことカ?」

 

「ああ、そうそう、世界一可愛いよ」

 

 ものすごい適当で平坦な声が返って来た。まるでいつも妹に言っているような科白だ。

 

「ハチマン、そういう言葉はもっと情感たっぷり込めて言わないと意味がないゾ?」

 

「裏の意味を読み取ってくれ」

 

「好き好き大好き超愛してるアルゴ?」

 

「お前、行間を読めないタイプだな」

 

 長くため息したハチマンが頭をガリガリと掻く。

 

「で、どこ行くんだ?」

 

「オレっちに決めさせていいのか?」

 

「まあ、あれだ。迷惑掛けたしな。色々と、礼とか、ほれ、そんなんだ」

 

 そっぽを向きながらハチマンが言う。少し照れているのか、頬がほんのりと朱に染まっていた。思わず笑いそうになって、必死になってそれを堪えた。

 

「それじゃ、とりあえず着替えたいんだけど、外出てもらって良いカ? すぐ終わるヨ」

 

 あいよ、とだけ言ってハチマンが部屋を出る。ひとりになって、急に部屋に静寂が戻って来る。部屋で過ごすのはいつだってひとりだったから、こういう空気を感じると、やっぱり少し寂しくなる。

 

 あまり待たせても悪いから、ウインドウから適当な服を引っ張り出して装備をして、やっぱり指が止まる。デートなのに服が適当とはこれいかに。自分の姿を客観視すると、いつものフードにいつものインナー。そしていつものダボったいパンツ姿だ。これはなかなか、色気がなさ過ぎる。

 

 でも、あまりに女女した服装にすると今度はハチマンが嫌がりそうだ。悩ましい。悩ましいが、ここはいつものスタイルで行こう。今のままでも十分意識させられているようだし、あまり急激に責めると今度は逃げていってしまいそうだ。ジャストな感覚が掴めるまでは、のんびり行こう。

 

 ひとまず服装は変えずに部屋を出ると、部屋のまん前の廊下に背を預けたハチマンが待っていた。

 

 じっと私の姿を下から上まで眺めたハチマンが一言。

 

「ん、いつもの格好だな」

 

「お洒落した方がよかったカ?」

 

「気合入れられても困る。俺はこれくらいしか服持ってねえしな」

 

 深い臙脂のコートに紺のマフラー、黒のインナーに同色のボトム。全くもっていつも通りのハチマンだ。なら隣にいる私もいつも通りがきっといい。

 

「それじゃあ、行こうカ」

 

 手を引こうと思って、やっぱりやめて先導するように前を歩く。数歩後ろをついてくるハチマンを肩越しに見て、にんまりと笑いながら宿を出る。

 

 《ラーヴィン》の街路に出てると、朝早いからか人の気配はまばらだ。見受けられるのは、朝早くから攻略する面々くらいか。それを眺めていると、ハチマンが声を投げて来た。

 

「で、どこいくんだ?」

 

 私は振り返って後ろ向きに歩く。

 

「朝ゴハンまだダロ? まずはゴハン食べようカ」

 

「おう、それは賛成だ」

 

「この前の喫茶店に行こうゼ。あそこ朝食メニューもイけるんダヨ」

 

「ま、俺は着いていくから好きにしてくれ」

 

 ハチマンを連れて路地裏に入る。何度か角を曲がって、一昨日訪れた喫茶店に入る。NPCの店は二十四時間営業だから、こういうときは非常に便利だ。来客を告げる鐘を訊きながら、奥まった席へ向かう。ハチマンと対面で座って、さっそくとばかりにメニューウインドウを開く。どうしても目線があのジュースに向かってしまうが、昨日から自然体で行くと決めた以上、普段通りの振る舞いを心がける。まあ、いつものコーヒーとBLTサンドのセットでいいかと適当に注文をしておく。彼は既に注文を終えていたか、頬杖を付いて窓の外を眺めていた。

 

「サキちゃんが心配してたゾ」

 

「ん、ああ……」

 

 ハチマンがちらりと私を見るが、すぐに視線を外へ飛ばした。朝日に照らされた彼の横顔には、迷いと罪悪感めいたものが滲んでいるように見えた。

 

「だろうな……」

 

「まだ、あのことは話せてないのカ?」

 

 瞑目したハチマンが静かに頷いた。私もほっと息を吐く。

 

「そんなことでハチマンを嫌うほどサキちゃんは狭量じゃないゾ? もう話してもいいんじゃないカ?」

 

「分かってるよ」

 

「タイミングが掴めないカ」

 

「ま、そんなとこだ」

 

「相変わらず面倒な性格ダナ」

 

「いいだろうが、こういう俺が案外好きなんだよ」

 

「そうダナ……」

 

 出した話題が悪かったか、湿っぽい雰囲気になる。会話の継ぎ穂を探そうにも取っ掛かりが無くて、私もなんとなく窓の外を見る。人通りのない路地裏を見ても、特に面白いものはない。一分程度沈黙を積もらせていると、ハチマンが口を開いた。

 

「なあ、アルゴ」

 

「なんだイ?」

 

「理由を人に預けるのは、人としてどうなんだろうな」

 

 ハチマンの視線は窓へ向いたままだったけど、その声は真剣さを固めて塗りこんだように、硬かった。

 

「別にいいダロ。それくらいのことで悩んでたら、人類の大半は悩みに潰されるゾ」

 

「それは嫌な世界だな」

 

「ハチマンは妙なところで潔癖だからナ。動く理由が自分の中に無いのは卑怯だって思うんダロ?」

 

「まあな」

 

「まあ、オレっちはいつも好奇心で動いてるし、情報屋もその延長ダ。でもそんなプレイヤーばかりじゃナイ。なにかしら、誰かしらに理由を預けて戦っているプレイヤーだってイル。ひとりだけで理由を抱えて戦えるほど、人は強くないダロ」

 

 ハチマンの目が細まり、唇が震えた。

 

「ぼっちは強くなきゃなんねえんだよ。誰も助けてくれないから、ひとりで何でもやんなきゃならなねえ。そうやって俺は生きてきた。いまさら変えられねえよ」

 

「いつも思うんだけどナ、ハチマンのどこがぼっちなんだ? いまハチマンの前にいるのは誰ダ? まさか、イマジナリーフレンドとか言わないヨナ?」

 

 ハチマンの視線が私に向く。その瞳はどこか驚愕したようで、瞳孔が開いていた。

 

「自覚ないのカ? ハチマンの周りには、サキちゃんがいるし、オレっちもいる。キー坊やアーちゃん、ディアベルもイル。それだけ友人を持ってぼっちを自称するのはどうなんダ?」

 

 何も言わず、ハチマンは私を見つめている。

 

「あまりオレっちを悲しくさせないでくれよ。そうぼっちぼっち言われると、友人にさえ見られてないと思って泣きたくナル」

 

「悪い……そんなつもりじゃない」

 

「分かってル。一種の自己防衛みたいなものダロ? 他人に期待しなければ裏切られることはナイ。他人を好きにならなければ、失望することもナイ。そうやってがっちがち壁を作って固めたのがいまのハチマン、違うカ?」

 

「まるで見てきたかのように言うんだな」

 

「見てれば分かるヨ。サキちゃんだって、似たようなこと思ってるんじゃないカ?」

 

 途端、ハチマンの表情に苦悶が生まれ、掻き毟るように胸を掴んだ。

 

「別に否定はしないヨ。ハチマンの生き方だからナ。ただ、そこにオレっちがいないのは、少し寂しいだけダヨ」

 

「そんなつもりはない、と思う」

 

 私は笑う。たぶん、これ以上ないくらい泣きそうな顔で。

 

「ハチマンはいつも自分ひとりで完結してル。だから自己犠牲を自己犠牲と思わないし、一層でやったみたいなことが平気で出来ル。だから傍にいる私は悲しイ。少しは信用してくれヨ。裏切らないって言ったダロ?」

 

 ハチマンが頭を落とした。前髪が垂れ下がり、表情がよく見えない。言いすぎてしまっただろうかと思って、少し慌てる。

 

「ごめん、ちょっと変なこと言っちゃったナ。折角のデートだし、楽しく行こウ」

 

 無理やり声音を上げて、元気付けるように言う。ハチマンはただ、おう、とだけ返して来た。

 

 失敗した。ハチマンは、内面に土足で入られることをたぶん嫌っている。それをいま、私は無理やりやってしまった。失敗だ。最悪だ。

 

 NPCが注文を届けに来る。テーブルに広げられたのは、ふたりの温度より遥かに落差のある、暖かい食事だった。

 

 

 

 重い沈黙のまま食事を終え、私たちは店を出た。入るときはあんなに楽しかったのに、出るときはこんなにも気分が重たい。私がハチマンへ踏み込みすぎた所為だ。彼はなんでもない風を装っているが、いつもより目の濁りが深くなっている気がする。きっと傷つけた。間違ったことを言ったつもりはない。彼だって、自覚はしている。だけど、入ってはいけない領域に足を入れる理由にはならない。

 

 後ろを歩くハチマンに振り返る。

 

「ハチマン、ごめんナ」

 

「気にすんな。ただ……小町とのことを思い出した」

 

「妹さんのことカ?」

 

 マフラーに顔を埋めてハチマンが頷く。その瞳は遠いどこかを見ているようで、少し虚ろだった。

 

「ここに来る前、あいつと喧嘩した。あんまりしつこく訊いてくるもんだから、キレちまってな。結局、仲直りできずそのままだ」

 

「心残りのひとつカ?」

 

「そうだな……というか、まだ俺死んでないからね?」

 

「すぐにでも死にそうな生活送ってる奴が言う言葉カヨ」

 

「まったく、働きたくねえ」

 

 いつもの口癖も、いまのハチマンが言えば説得力は皆無だ。夢は専業主夫、口癖は働きたくねえ。その実体は、寝る間も惜しんでサキのために動き回るSAOきっての働き者。まったく、どこの戦隊ヒーローだ。

 

「で、次はどこいくんだ?」

 

「ちょっと行きたいところがあるんダヨ。最前線に潜り続けてると、たまにゆっくりしたくなってナ。丁度良いところを知ってるンダ」

 

「なら転移門だな」

 

 ひとつ頷いて、少し歩幅を小さくする。なんとなく、ハチマンの隣に並びたくなった。それなのに、やっぱり彼も同じく足を緩めるから、距離は永遠と縮まらない。まったく、面倒な男だ。

 

 ふと、背後の足音が止まった。私も足を止めて背後に向けていた注意を前方へ投げると、見知った顔がこちらに歩いてくる姿があった。

 

「サキちゃん……」

 

 私たちに気づいたサキが、曖昧な表情で笑った。近づこうか離れようか、そんな葛藤を瞳に宿らせて、結局歩み寄ることを選択したように歩を進める。

 

 私の前で止まったサキが柔らかく微笑む。

 

「おはよ。それに、ハチマンも、元気そうで良かったよ」

 

 背後にいるハチマンが、詰まった声で返答する。

 

「お、おう……心配かけたな」

 

 サキがゆっくりと頭を振る。

 

「あんたが無事ならいいよ。ただ、無理はやめてくれると私は嬉しい」

 

「善処するわ」

 

「政治家みたいな言い方するね、あんた」

 

「俺が政治家になったら働き方改革で働かなくていい日本を作る」

 

「日本が崩壊するね……。あんたには投票するのはやめておくよ」

 

 なんだか、熟年夫婦みたいなやり取りをされて、私はひとり取り残される。やっぱり、サキには適わないんじゃないかという負の感情が刺激されて、大きくなっていく。

 

 だけど、サキは素敵な女性だから、すぐに察して口を開く。

 

「じゃ、あたしは行くよ。今日は最前線にでも潜ってくるよ」

 

「ひとりで大丈夫か?」

 

「あんたに鍛えられたんだから、大丈夫だよ。どうせアスナとも会うだろうしね。何かあったら連絡するから」

 

 ひらひらと手を振ってサキが歩き出す。その背中に私は思わず声をかけた。

 

「サキちゃん!」

 

 顔だけで振り返ったサキが私を見る。

 

「うん?」

 

「あの、オレっち……」

 

 言いたいことはあった。だけど、それを言語化しようとすると、なにを言ったらいいのか分からなくなってしまう。もごもごと口だけを動かして、それに付随するはずの声が何も出てこない。喉に蓋でもされてしまったように、言葉が全然出てこない。

 

 サキが優しく微笑む。

 

「いいよ。ハチマンをよろしくね」

 

 このとき、サキは何を悟ったのだろう。なにを想ったのだろう。私自身、言葉にできなかった感情の波濤を、彼女は一体なんと感じたのだろう。

 

 サキが行く。私はその後ろ姿を呆然と眺めている。ハチマンは何も言わなかった。ただ、私の隣に立っていた。

 

 私は間違えたのだろうか。決定的に、壊滅的に、何かとんでもないことをしてしまったのではないか。

 

 ハチマンはサキのために動く。その中で、理由を探している。サキはハチマンを大切に思っている。そのふたりの間で、私は異分子だ。がっちりと噛み合ったこのコンビを破壊する、まるで病魔にも似た存在。

 

 私はハチマンが好きだ。そして、サキも好きだ。だからこそ、いま私が立っている場所は本当にここで良いのか。言いようのない不安が足から忍び寄ってきて、私を絡め取ったように、身体が動かない。

 

 行くか、とハチマンが言った。声音はいつもと変わらずやる気の感じられないそれ。でも、その中に少しだけ寂しさがあった。切なさがあった。それを生み出したのが私だと思うと、泣きたくてしょうがない。

 

 アルゴ、と再び声を掛けられる。緩みそうになった涙腺にぐっと力を入れて、普段の表情でハチマンを見る。彼は微塵も覇気の無いいつもの表情で私を見ていた。

 

 ひとつ頷いて見せて、私は歩く。一歩後ろをハチマンが着いてくる。これがいまの私たちの距離感だ。これを縮めれば縮めるほど、大切なものをひとつひとつ取りこぼしていく。

 

 大人になることは、失うことだと訊いたことがある。

 

 もしかしたら、恋も同じなのだろうか。

 

 大切なものを無くしていって、それでも欲しいと手を伸ばして掴まざるを得ない、そんな強迫観念染みた思いが恋なのだろうか。

 

 なんて、おぞましい……。

 

 考え事をしている内に転移門までたどり着き、転移先を告げる。もはや馴染み深くなった光と共に、視界が薄くなっていく。

 

 転移が終わると、そこには長閑で緑溢れる光景が広がっていた。第二十二層主街区《コラルの村》だ。田舎を彷彿とさせる木造りの民家が立ち並ぶこの村を眺めつつ、私たちはのんびりと南へ歩を進める。人影は無い。ただ、時折NPCがいるくらいで、静かで、自然の音だけが耳朶を打つ。

 

「ここが来たかったところか?」

 

 一歩後ろからハチマンが口を開いた。私は振り向かずに蒼穹を仰いで答える。

 

「平和なとこダロ? たまにはこういうとこに来たくてナ」

 

「まあ、毎日生きるか死ぬかの瀬戸際を歩いてりゃそんな気分にもなるわな」

 

 多様な色に溢れた道を歩く。どこを見ても色が綺麗だから、渦巻く汚い心が洗濯されていくようで、心が躍った。

 

 いままでの嫌な気分を吹き飛ばすように、私は大きく伸びをして深呼吸した。体内に入る綺麗な空気に心まで洗浄されて澄み切っていくようだ。

 

「今度、もう一度来ないカ? ランチバスケットを持って」

 

「船着場でドタマぶち抜かれる奴の科白に似てるな……」

 

 私はくすくすと笑う。

 

「生憎オレっちの生まれは日本でネ。東欧じゃないよ」

 

「知ってるのかよ……」

 

 隣を歩きたくなって、私は歩みを遅くする。ハチマンは風景を見ていて気づいていないのか、速度を落さず歩いているから、私はそっと彼の隣に寄る。

 

「なあ、ハチマン。なにかして欲しいことはあるカ?」

 

 視線を外に飛ばしたままハチマンが即答する。

 

「ねえな。される理由もねえし」

 

「まあまあ、オネーサンからの優しさだと思って言ってごらんヨ」

 

 ふむ、とハチマンが空を仰いで思案顔をする。何か思いついたように前を向いて、私がいないことに気づいたか、隣を見てぎょっとして飛び退いた。

 

「え、なに? いつの間にそこにいたの? 瞬間移動できるのお前?」

 

「フフフ、オレっちはまだあと二回は変身できるゾ?」

 

「お前何人だよ……」

 

「冗談はともかく、決まったカ?」

 

 ハチマンの足が止まる。私も二歩歩いて振り返る。一陣の風が吹く。彼のマフラーが風にたなびく。草原が波立つ。

 

 ハチマンが緊張するように僅かに唇を開く。その動きに、私の心臓が跳ねる。いつもと気配が違う彼の姿に、自然と胸が痛くなる。鼓動は狂ったように脈打ち、全身に血液を送り込んだように身体が熱くなる。

 

 短く息を吸ったハチマンが、遂に言った。

 

 

 

「マッ缶が飲みたい」

 

 

 

 がくん、と私は頭を落す。え、なに、マッ缶?

 

 告白かと思ったじゃないか。

 

「あの甘ったるいやつカ?」

 

 切実な表情でハチマンが言う。

 

「マッ缶欠乏症なんだ。そろそろ飲まないと俺は死ぬ。禁断症状で死ぬ。だから飲みたい。作ってくれ!」

 

 最後の方は私に詰め寄って両肩を抑えてぶんぶんと振る始末だ。どんだけ飲みたいんだ、そのマッ缶を……。

 

「料理スキル取らないとなあ……。まあ、気が向いたらやってみるヨ」

 

 と言いつつも、私は頭の中でいらないスキルが無いか検索を開始する。とりあえず、適当に候補を挙げてすぐさまスキルスロットを弄る。気づけばニヤニヤしながら料理スキルを習得していた。やだ、恋って恐ろしい。

 

 そんな私の様子など露知らず、ハチマンがぼけっと景色を眺めて立っていた。おいおい、もう少し私を見てくれたっていいじゃないか。なんだか悔しくなってコートの裾を引っ張るも、彼は気づいた様子もただ前を見ていた。

 

 訝しんで私もハチマンの視線の先を見ると、ひとりの女性が歩いてきている姿があった。

 

 ハチマンを見る。彼の表情には明らかに見て取れる恐怖、そして後悔。

 

 視線を戻す。女性が立ち止まり、何か考え込むように顎に手をやったかと思うと、早足でこちらにやって来る。

 

「どうしタ? ハチマン?」

 

 声を掛けても反応がない。僅かだが、ハチマンの指が震えていた。もう一度彼の顔を見て、前方の女性を見る。女性はどんどん近づいてくる。ハチマンの異常もそれに比例して大きくなっていく。

 

 やがて、女性が私たちの前で立ち止まる。切らした息を整えるように肩を上下させて、それでも凛とした瞳はハチマンへ注がれている。

 

 一瞬、私は作り物の彫刻か人形が意思を持って動いたのだと思った。それほどまでに、綺麗な女性だった。私と比べるのすらおこがましいほど、美しい女性だった。

 

 ややあって、女性が言った。

 

「比企谷くん……久しぶりね」

 

 ハチマンが震えた声で返す。

 

「雪ノ下……」

 

 雪ノ下という女性は、ハチマンを知らない名で呼んだ。きっと、現実での彼の苗字だろう。つまり、彼女は現実での知り合いということだ。サキと同じ、私の知らない彼を知っている人物。

 

 雪ノ下が私に視線を向けた。サキにも通じる、淡い微笑だった。

 

「あなたは……?」

 

「私はアルゴ」

 

 短く答える。このまま言葉を続ければ、なにを言ってしまうか分からなかったから。雪ノ下ははっとしたようにまぶたを広げる。

 

「あなたが情報屋のアルゴさんね。私は、ユキノよ。よろしくね」

 

 ユキノが私からハチマンへ身体を向ける。

 

「比企谷くん……いえ、ここではハチマンくんだったわね。噂は聞いているわ」

 

「……そうか」

 

 ハチマンの声のトーンがどんどん落ちていく。まるで奈落の底へ転がっていくかのように。

 

 ユキノが目を伏せる。何かを堪えるように、苦しんでいるように胸を掴んで、それからまたハチマンへ視線を戻す。彼の顔が強張っていく。

 

「あなたに、言いたいことがあったの。今日会えたのは偶然だけど。それでも、きっと私があなたに告げるべき日が来たということなのだと思うから」

 

「な、にを……」

 

 掠れたハチマンの声は、私には悲鳴のように訊こえた。もう何も訊きたくないんだという、幼子が必死に耳を塞いで泣き叫ぶ声に訊こえた。

 

 ユキノという子にこれ以上喋らせてはいけない。本能で分かっていたのに、そこには現実での繋がりと仮想現実だけでの繋がりという壁があって、私は前に踏み出すことを躊躇した。

 

 ユキノが言葉を続ける。きっと、ハチマンにとっては耐え難い声で。

 

「あなたに――」

 

 言葉が始まった瞬間、臙脂が動いた。ハチマンが身体を翻して走り出した。まるで、怖いものから必死に逃げる子どものように。

 

 私は動けない。ただ、呆然と彼の逃げる後ろ姿を見ているだけしかできない。彼の姿がどんどん小さくなっていく。

 

「比企谷くん! 待って! お願い!」

 

 ユキノが叫ぶ。手を伸ばしたままの姿で、彼女がその場に崩れ落ちる。

 

 ああ、これが原因の一端か。

 

 静かに泣くユキノの姿を見て、私は一層でハチマンが言っていた言葉を思い出していた。

 

 ――どうせお前もああなる。あんな風に冷たい眼で、あるいは、あんな痛々しい笑みで俺を見ることになるんだ。そんなの、もうまっぴらだ……。

 

 理由は分からない。きっと、私には計り知れない何かがあって、結果としてユキノはハチマンの心を抉った。どちらが正しくて、どちらが悪いかなど知らない。だけど、私はハチマンの隣にいると言ったから。裏切らないと心に誓っているから。いまこそ、あのとき言った言葉を実践しよう。

 

「ユキノちゃん。なにがあったか、訊いてもいい?」

 

 ユキノが立ち上がる。目じりに堪った涙を拭って私を見る。弱々しい目だった。

 

「あなたは……彼のなに?」

 

「友人。それと、私の大切な人」

 

 そう、とユキノが目を伏せた。

 

「これは、私たちのことなの。あなたに教えることは……」

 

「関係無イ。言えヨ」

 

 声に怒気を滲ませて、私はユキノを見る。私たちのこと? 現実のことだから私は関係ない?

 

 ふざけるな!

 

 そんな理由でハチマンの心を抉って、私がそれで納得すると思ったか?

 

 でも、とユキノが顔を背ける。その姿を見ているのがあまりにもイラついて、私は彼女の胸倉を掴んで声を張り上げた。

 

「言えって言ってるダロ! いまのハチマンを知ってるのカ!? 知らないダロ! どれだけ帰る理由を欲しているか、どれだけ一生懸命探しているのか分からないダロ!!」

 

 ユキノが私を見る。その表情には極大の驚愕があった。

 

「サキちゃんに全部理由を丸投げするくらい、ハチマンには現実に帰る理由が無い! それがアンタだって言うなら、私は絶対に許さない!! だから言エ! いいから早く言エ――!!」

 

 ああ、とユキノが顔を覆った。再びその場に崩れ落ち、嗚咽しながら泣き始めた。その姿を私は見下ろしている。拳を握って、いまにも殴りかかりそうになるのを理性で何とか押さえつけている。

 

 ユキノの嗚咽が収まる。私を見上げる。私はただ、無表情で彼女を見下ろす。彼女は無言で立ち上がった。弱々しい瞳を向けて、言った。

 

「分かったわ……あなたに話す」

 

 そして私は、現実でのハチマンの姿を知った。

 

 すべてを訊いた。ユキノが知り得る事実を訊いて、私はすぐさま二十二層の転移門へ向かった。

 

 ハチマンの世界は、きっとひとりと身内だけで完結している。その中にあって、ふたりの人物が加わろうとしていた。それがユキノともうひとりの女の子。たぶん、彼は期待していたんだろう。彼女らは信頼に値すると思っていたのだろう。

 

 だけど、直接的な言葉を交わさず、迂遠なやり取りばかりしている間柄で、決定的な出来事が起きてしまった。そうだ、単なるコミュニケーション不足が原因だ。それでも彼の世界にヒビを入れるには十分すぎた。

 

 だから、ハチマンは帰る理由が見つけられなくなった。

 

 いまになってなお、ぼっちを自称しているのはそれが原因か。少しでも自分の世界に他人を入れてしまえば、また同じことが起こるかもしれないから。また壊れてしまうかもしれないから。そうやって予防線を張り巡らせて、人を近づけようとしない。下手に信頼を寄せれば今度こそ自分を見失ってしまうから。

 

 この予想が合っているのだろうか。人から訊いた話と、私が感じたハチマンの人柄を照らし合わせて出したこの結論は、間違っているだろうか。

 

 どちらでもいい。いま、ハチマンをひとりにしてはおけない。

 

 転移門から三十三層の《ラーヴィン》へ飛ぶ。その足でハチマンが借りているNPCの民家へ向かう。人目を気にしなければならない彼は、普通の宿に泊まることができない。だから人目を縫うようにして誰も知らないNPC民家を住み家とした。紹介したのは私だから、場所は知っている。

 

 目的の民家に入り、ハチマンが借りている二階へ上がる。上がった息を整えて、私はドアをノックした。

 

 返事が無い。

 

 もう一度ノックする。

 

 なにも訊こえない。

 

 怖くなった。ハチマンがいなくなってしまったように思えて、ウインドウからフレンドリストを開いてハチマンの居場所を検索する。彼の居場所を示す光点はここにあった。だから、彼はいまもここにいる。

 

 これが最後だと、ノックをする。

 

 声はない。物音ひとつしない。それでも、かすかに息が訊こえた気がした。

 

 この部屋はパーティさえ組んでいれば出入りは自由だ。でも、私とハチマンはパーティを組んでいない。だから私はこの部屋の中に入れない。

 

 ウィンドウを開き、ハチマンに宛てたメッセージを送る。

 

 ――ここを開けて。

 

 ただ一言にすべての感情を乗せた。返事はない。それでも、それ以上メッセージは送らずにじっと待つ。

 

 一時間か、二時間か。時刻はもう夕方になっていた。

 

 やがて、軋む音をたてながら、古びたドアが開いた。顔を上げると、普段より数段目を濁らせたハチマンが私を見下ろしていた。

 

「まだいたのか……」

 

「入っていいカ?」

 

「……勝手にしてくれ」

 

 ドアを開けたままハチマンが部屋の中に入っていく。私は恐る恐る部屋の中に入った。室内にはベッドと小さなテーブルしか置かれていない。その中で、ハチマンがベッドにも行かず、部屋の隅に腰を落としたかと思うと、膝を抱えて頭を落とした。まるで、自分の殻に篭るように。

 

 私は慎重に言葉を選ぶ。きっと、ひとつでも間違えればハチマンがどうにかなってしまう。

 

「ごめん、ユキノちゃんから全部訊いたヨ」

 

「そうか」

 

 短い返答。沈黙を壊すように私は言葉を続ける。

 

「ハチマン、現実でもあんななんだナ。まったく、想像した通りだったヨ」

 

「だろうな」

 

「でも、ハチマンらしいナ」

 

「俺らしいってなんだよ」

 

「なんだってひとりで解決してしまうところダヨ。ひとりで抱え込んで、誰にも言わずに自滅するところダナ」

 

「褒められてるのか貶されてるのか微妙なところだな」

 

「褒めてはないヨ。けど、貶してもナイ」

 

「俺は、間違ってたか?」

 

「そうだナ。間違ってたナ。ハチマンだけじゃない、みんな間違ってタ」

 

 ハチマンが顔を上げて、じっと私を見る。でも、と私は笑って言った。

 

「間違えたっていいじゃないカ。オレっちたち、子どもなんだし、間違えたことに気づいて、前に進んでいけばいいダロ? そんな深刻に捉えるナヨ」

 

「取り返しのつかない間違いもあるだろ」

 

「そうだナ。でも、ひとつだけ確かなことはあるゾ?」

 

「なんだよ」

 

 私は笑う。これ以上ない、自分で一番の魅力的な笑顔を浮かべて言う。

 

「オレっちは絶対にハチマンを裏切らないし、離れたりしないゾ? それだけは誓って本当ダ」

 

「無茶苦茶だな……」

 

「おいおい、忘れたのカ? これでもオレっち、ハチマンが大好きなんだゾ? 恋なんて盲目なんだから、理論なんてめっちゃめちゃだゾ?」

 

 ハチマンが乾いた笑い声をあげて顔を覆った。

 

「ここでお前に寄りかかったら、俺は最低だな」

 

「そうカ? 誰だってそんなときもあるダロ? というか、是非寄りかかって来いヨ! こっちは準備万端だゾ!」

 

 さあさあ、といやらしく笑いながら私はハチマンに近づく。目の前まで来ると、さすがに彼もぎこちなく笑みを浮かべて顔から手を下ろした。

 

「なんか、アルゴといると悩んでるのがバカらしくなってくるわ」

 

「そうダロ? オレっちといると特典が多いゾ?」

 

「どっかのセールスウーマンかよ」

 

「そうダナ、ハチマン選任のセールスウーマンだ。売り物はオレっちだゾ」

 

 そう言って、ハチマンを抱きしめた。彼は震える腕を私の背に回してきた。

 

「ほラ、オネーサンの胸の中なら泣いていいゾ」

 

「そうそう泣かねえよ」

 

「そうカ、ならオネーサンの胸をたっぷり堪能するがいいサ」

 

 うりうりうり~とハチマンの顔を胸に埋めさせる。ばたばたと彼が私の背中を叩いているが、気にしない。満足するまでやると、私は手の動きを止めて彼の頭に顎を乗せた。

 

「ほら、もうぼっちじゃないゾ? 寂しくないダロ?」

 

「……そだな」

 

「サキちゃんにも話せそうカ?」

 

「いい加減、話さないとな」

 

「ユキノちゃんとも話せるカ?」

 

 ハチマンの身体が強張る。彼があまりに子どものように縮こまっているから、私は赤子をあやす様に背と頭を撫でた。

 

「そんな怖がるなヨ。オネーサンも着いて行くカラ」

 

 ハチマンが私の背を掴む。自分から胸に顔を埋めてきたハチマンが、くぐもった声で言う。

 

「お前には情けねえとこばっか見せてるな」

 

「未来の妻相手なら大したことないじゃないカ」

 

 ハチマンが笑った。

 

「決定事項かよ」

 

「でも、正直惚れたダロ?」

 

「どうだろうな」

 

「オレっちはハチマンの情けないとこ見ても変わらないゾ。むしろ可愛いと思うくらいダ。惚れた弱みだナ」

 

「……アルゴ」

 

 ハチマンが腕を解いて顔を上げた。私と見詰め合う。距離は殆どなくて、吐息さえ触れそうな距離。彼の瞳が波立つ。色々な感情がない交ぜになって、混乱しているような色だった。

 

 だから私は、そっとその唇を塞いだ。

 

 すぐに離すと、ハチマンが顔を真っ赤にして私を見つめていた。

 

「答えはクリスマスの時に訊くヨ。まだ半年以上あるカラ、オレっちとしては、ゆっくり考えてくれると嬉しいナ」

 

「随分間を持たせるな……」

 

「どうせハチマンのことだから、ここまでされたらオレっちに責任取らないと~とか思うんダロ?」

 

 図星を刺されたようにハチマンが呻く。それも悪くない。とても良いんだけれど、きっと彼が良くない。きっと、今日のことをいつまでも引きずってしまう。そんな結末を私は求めていない。

 

「それはそれで嬉しいケド、ちゃんと考えて答えは出して欲しいヨ」

 

 ぽんぽん、と私は頭を叩く。ハチマンは恥ずかしそうにマフラーに顔を埋めた。

 

「今日も添い寝するカ?」

 

「間を持たせる癖に妙に積極的だなこいつ」

 

「それはそれ、これはこれって奴だヨ」

 

 私の言葉に苦笑したハチマンが、首を振った。

 

「いい。今日はひとりで考えるわ」

 

「何かあったら必ず呼んでくれヨ? つらいとか、苦しいとか、寂しいとか、些細なことでもいいからナ?」

 

「SAO一の情報屋の癖に、サービスいいなお前」

 

「ハチマン限定のアフターフォローって奴サ。特別サービスだから受けとくが吉だゾ」

 

 ひとつ笑って、私は立ち上がる。さあ、そろそろひとりにしても大丈夫だろう。

 

「じゃあ、オレっちは帰るよ。本当に、何かあったら呼んでくれよナ?」

 

「分かった。そんときゃ呼ぶわ」

 

 返事を受け取って満足した私は、名残惜しくも部屋を出た。

 

 そして時の流れは早いもので、諜報屋の仕事に忙殺されている内に二日が経った。

 

 朝の日課のメッセージ確認を行っていた私の視界に、とんでもない内容が飛び込んできた。その送り主はハチマンだっだ。その内容を見て、私は思わず声を上げた。

 

「サキちゃんが帰って来ない……?」

 

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