ソードアート・オンライン Youth in Aincrad   作:ユーカリの木

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アルゴは必死になって比企谷八幡に呼びかける 2

 マッ缶が完成したのは、あれから二日経ってのことだった。あの甘ったるく喉に絡みつくようなコーヒーのように、私はサキと色々な話をした。その殆どがハチマンのことで、彼がいかにバカでアホで、どれだけ優しくて格好いいか、ガールズトークで盛り上がった。彼女には何度も謝った。彼女は首を振るだけで、私を断罪しようとなど欠片も言わなかった。それを喜べばいいのか、悲しめばいいのかは分からないけれど、やっとできたこれを使って、きっと彼に会えることだけを考えればいいのだと思う。

 

 キリトがハチマンを、人気のない二十二層の広場へ呼び出すメッセージを投げる。まさかとは思ったが、返信は即座に来た。やはり、彼もマッ缶が絡むと単純になるらしい。

 

 私たちはすぐに広場へ向かった。ハチマンが来るのを待つように、私とサキはじっと息を潜ませて草むらの陰に隠れた。キリトが広場で彼を待っている。

 

 やがて、ハチマンが現れた。頭から外套を被り、首元に巻いたマフラーでフードのようにしている。見え隠れするのは馴染み深い臙脂のコート。殆ど裏稼業の人間のような容貌をした彼が、キリトの姿を見るや否や、外套を剥ぎ取って足早に近づいてくる。

 

「マッ缶はどこだ? というかどこで手に入れた? すぐにくれ。言い値でいい」

 

 ハチマンにしては珍しいほどの勢いで捲し立てる。キリトが両手を掲げて笑う。

 

「まあ、とりあえず一本どうだ?」

 

 キリトがマッ缶を差し出す。ハチマンはそれを御神体でも扱うように、恭しい動作で受け取ると、まるで祈るようにそれを額に押し当てた。

 

「おお、マッ缶様がついに俺の手に……ありがたやありがたや……」

 

 その姿を見て、私はサキへ耳打ちする。

 

「あれの何がハチマンをあそこまで惹き付けるんダ……?」

 

「さあね。とりあえず崇めるほど好きなんじゃない?」

 

 意気揚々とハチマンがマッ缶を一口。これ以上の至福はないというように、彼が恍惚を浮かべた。当人の眼が腐っていることと格好も相まってか、絵面的にかなり怪しい。不審者そのものだ。でも、こんな男に惚れたのだから仕方がない。

 

 私は、ハチマンが生み出した隙をついて背後に回る。サキがゆっくりと立ち上がる。

 

「で、これはどこで売ってたんだ? 探してもなかったんだが……」

 

 ハチマンの問いにキリトがにやり、と笑う。親指を後ろに指して言った。

 

「あそこにいる人が全力で作った。製作期間は僅か二日。神業だよな」

 

 ハチマンの視線がキリトの背後へ向かい、固まる。サキがぎこちない笑みを浮かべて立っている。即座に彼が反転しようとしたところで、私が背後から思い切り彼の身体を抱きしめた。

 

「逃げるナ!」

 

「おまっ! アルゴか!? キリト……嵌めやがったな?」

 

 ははは、とキリトが苦笑い。

 

「提案はアスナだぞ。文句ならアスナに言ってくれ」

 

「あいつ、意外と下衆いこと考えるな。というか、引っかかる俺も俺か……」

 

 ハチマンがマッ缶を握り締めたまま苦笑する。私は全力でハチマンを羽交い絞めにする。

 

「逃げるなヨ。折角舞台を用意してやったんダ。絶対に逃がさないからナ!」

 

 サキが近づいてくる。泣きそうな顔をしてハチマンに歩み寄る。彼の身体が震える。恐怖よ吹き飛べとばかりに私は胸を押し付ける。

 

 ハチマン、とサキが柔らかい声で呼んだ。彼は反応しない。顔を俯かせて何も訊きたくないというように、片手で外套を目深に被ろうとする。それを私が無理やり引っぺがす。

 

「訊いてくれヨ! ちゃんと向き合エ! もう、逃げる必要なんてないんだからナ!」

 

「……なんだよ、これ以上責められる趣味はないぞ。俺意外とブロークンハートなんだからな。アイデンティティクライシス中だぞ」

 

 軽口言えるくらい余裕があるのかよ。そう思って顔だけを向いたハチマンを見上げる。彼の目は、もう言葉に表せないくらい真っ黒だった。希望の光なんてないほどに、森の深い夜よりもなお暗かった。

 

 息を呑む。

 

「いいから訊いてあげてヨ。絶対に訊いて後悔しないカラ!」

 

 ハチマンが項垂れる。逃げる気力もないのか、私の身体にもたれかかった。

 

 サキがハチマンの前に立ち止まる。投げ捨てられたように落とされた彼の両手を掴んで、胸に抱きしめた。

 

「ごめん、ごめんね。あんな酷いこと言ってごめんね。もっと早く、ちゃんと話し合っていればよかったね」

 

「……なにをだよ。もう言いたいこと、あのとき言っただろ」

 

 サキが首を左右に振る。

 

「違う、違うんだよ。言葉が足りなかった。ううん、言えなかった。きっとあんたを縛るって勝手に思って、あたしが弱かったから言えなかった」

 

「何が言いたいんだよ……」

 

 ハチマンの声音が怯えに波立つ。サキが短く息を吸った。

 

「好きだよ、ハチマン」

 

 ハチマンが顔を上げた。後ろから抱きしめている私には、彼の表情は分からない。けれど、サキの言葉が彼の心のどこかに触れた。それだけは分かった。

 

「大好きだよ、ハチマン。あんたの重荷になりたくなくて、あんたがアルゴに惹かれているのが分かってたから、きっとあたしは邪魔だと思って、あんなことしちゃった。もっと、ちゃんと、話せればよかったのにね」

 

 サキがハチマンの手を離す。だらりと落ちた彼の手が、何かを探すように彷徨った。私はその手を掴んで、また抱きしめる。

 

「訊いてもいい? あんたは、どうしたい?」

 

 ハチマンは答えない。ただ、彷徨う指が必要なものを見つけたように何かを掴んだ。私の手だった。

 

「さすがに、少し疲れたな……」

 

「休みたい?」

 

「かもしれねえ」

 

「あたしは、あんたの近くにいてもいい?」

 

「……真っ暗だった」

 

 うん、とサキが頷く。私は左腕でハチマンの身体を抱きしめ、右で彼の手を握ったまま独白を訊く。

 

「サキに拒絶されたとき、何も見えなくなった。俺がやってきたこと全部が間違いだと思った。もう人と関わるのは駄目だと思った。結局、現実もここも俺は何も変わっちゃいない。何をやろうがどう正そうが、元の木阿弥。どうやったってあんな顔を見せられるなら、俺がいる意味はなんだ?」

 

 ハチマンの言葉が静かに響く。

 

「ひとりでいられるだけの強さがある頃ならよかった。孤高を気取れるだけの気力があればよかった。でもいまは、それがない。もうひとりぼっちはこりごりだ。もう寂しいのは嫌だ。なのに誰に寄りかかることもできないなら、俺が消えるしかないだろ。そう、思った」

 

 もう限界だというように、ハチマンの身体が崩れ落ちた。甘ったるいコーヒーが入った瓶が、中身を零しながら地面に転がる。腰を落とした彼の身体を私が必死になって抱く。

 

「やることが欲しかった。理由が必要だった。サキのために必要だと思って用意してたバックアップ用の情報屋から、雪ノ下のことを訊いた。俺はまたそれに飛びついた。俺はひとりだから、最短路で解決する方法しかなかった。たぶん、あれは失敗だ。雪ノ下を助けるかわりに誰かを捨てた。でも、どうでもよかった。誰も俺を必要としないなら、俺だって誰も必要としない。そうやってまた自己完結してれば何も考えずに済むと思った」

 

 ハチマンが、私の手を握る力を強める。

 

「でも、会いたい人がいた。わがままを通してでも会いたい人がいた。でも、そいつまでサキみたいになっちまうかと思うと、怖くてやっぱり会う勇気もなかった」

 

 サキが問う。

 

「それはだれ?」

 

 ハチマンの顔が動く。彼が、背後から抱きしめる私を見て、不恰好に笑った。

 

「アルゴに会いたかった」

 

 ハチマンの濁った目から一筋、涙が流れた。押し流されるように、彼の瞳の濁りが徐々に取れていく。

 

「疑えなかったこいつの言葉の結末を知りたかった」

 

「知りたいカ?」

 

 私の言葉に、ハチマンが頷いた。

 

「もう、それしか縋るもんがねえ」

 

 胸郭が破裂したと思った。

 

 人は程々を知らない。感情の針が左右に振り切れれば、間を取れずに極端に走る。ハチマンを揺らした数々の出来事は、普段冷静な彼をここまで負の感情へと舵取りした。

 

「ハチマンを追い詰めたのは、オレっちだぞ?」

 

「もとを辿れば全部俺の責だ」

 

「まだ好きって言っていいカ?」

 

「嫌いって言われると死にたくなる」

 

「じゃあ、クリスマスには早いけど言うヨ」

 

 身体を離した私は、ハチマンの前に回って膝を付く。目線が合う。彼の表情は無だった。それでも、いまだ濁って混沌とした瞳には、僅かな希望があった。

 

 私は告げる。

 

「好きだゾ、ハチマン」

 

「……おう」

 

「愛してるゾ、ハチマン」

 

「……おう」

 

「オットセイみたいな返事はやめろヨ。好きか愛してるかのどっちかにしろヨ」

 

「実質一択じゃねえか」

 

「だってハチマンもオレっちのこと好きダロ?」

 

「まあな」

 

「じゃあいいじゃないカ」

 

「そんなもんか」

 

「そんなもんだヨ。ハチマンは難しく考えすぎだゾ。もっと単純でいいんだヨ」

 

 あれだけ悩んでいてどの口が言うのだろう。それでも、いまはこの言葉が、きっといい。

 

「これで晴れて恋人同士だゾ。もう絶対に離さないからナ」

 

 私はハチマンの身体を抱きしめる。闇夜を行く旅人のように彷徨っていた彼の手が、私の背中に回って掴んだ。

 

「サキ……すまん」

 

「いいよ。それがあんたの選んで道で、あたしの選択の結末だから」

 

 でも、とサキが続けた。

 

「あんたの友達には、なれるかなあ?」

 

 ハチマンが小さく笑った。

 

「ああ、そうだな。友達か。そいつは、いいな」

 

 サキの雰囲気が柔らかくなる。

 

「それじゃあ、あたしは行くよ。キリト、行こうか」

 

 サキがキリトに声をかける。私はその間、ずっとハチマンを抱きしめていた。ふたりの足音が遠ざかる。風が草葉を揺らす。

 

 ここには誰もいない。世界にふたりきり。そんな感覚を覚えた。

 

「なあ、ハチマン」

 

「ん?」

 

「キスしてくれヨ」

 

「……お前はいつもいきなり剛速球投げてくるな」

 

「恋人同士だゾ。いーだロ」

 

 とりあえず、とハチマンが身体を離す。どこか虚ろの目は、それでも私を見つめて離さない。ただ、頭がゆらゆらと揺りかごみたいに左右に動いていた。

 

「真面目にひとつ言っていいか?」

 

「なんダ?」

 

「超眠い」

 

「ハ?」

 

 あっけに取られて見たハチマンのまぶたが、確かに何度も落ちそうになっている。

 

「あれから寝てねえんだよ。正直、いまにも落ちそうだ……」

 

「抱き枕してやろうカ?」

 

「今日はお願いするわ」

 

 じゃあ、と私は立ち上がってハチマンを引き上げる。のっそりと立ち上がった彼が、私に身体を預けてきた。

 

「恋人記念ダ。アルゴフルコースを堪能させてやるヨ」

 

「頼むから寝させてね? 超眠いんだわ」

 

 最後までしまらないなあ、と思いながらも、この先のことを考えるとうれしくてはしゃぎたくて仕方がない。

 

 間違いだらけだった恋は、いま、正しい道を歩んでいるのだろうか。それはきっと誰にも分からないし、いま知り得ることでもない。膨大な未来を歩んで、振り返ったときに正否が分かるのだろう。後悔先に立たずというように、いまの選択は、遥か先から遡ってみないと正しかったのか、間違っていたのか判断できない。

 

 ならばいまは歩こう。隣に大好きな人がいてくれるのだから。

 

 

 

 

 


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